上野公園に立つ西郷隆盛像
上野公園に立つ西郷隆盛像
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 お彼岸の最中でもあるが、本日9月24日は西郷隆盛の命日にあたる。平成30年の大河ドラマにもなったので、多くの人が西郷をご存知とは思うが、簡単に紹介しておこう。江戸時代の末期、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、幕府と新政府軍が争った戊辰戦争では新政府軍の司令官として働き、維新後、参画していた明治政府から退き、政府に不満を持つ士族による反乱、西南戦争の指揮官として戦ったが敗戦、そして自刃して果てた(享年49)。

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●西郷隆盛と日本の歴史

 西郷隆盛の生き方、死生観については、著名な先生たちが様々語られているのでここでは触れないが、ひとつ言えるのはそれだけ人となりを語るのが難しく、また人望が厚かった人ということだ。江戸城の無血開城は、新政府側の窓口が西郷でなければ、たぶん成立しなかった出来事だろうと思うし、西南戦争がなければ、もしかしたら全国の士族はもっと力を誇示して、あれほど早く軍隊の整備はできなかったかもしれない。江戸時代から明治時代への転換期に西郷が果たした役目が、どれほど重要だったのは歴史を見れば明らかだ。

●国父に疎まれ藩政から外される

 西郷は、薩摩藩士時代に2度離島での隠遁生活を余儀なくされている。藩主・島津斉彬の時代には藩政に大いにかかわっていたが、斉彬の急逝とともに立場も弱くなり、入水未遂の後、奄美大島へ、一度は復帰するも再び徳之島、その後沖永良部島へと流された。この時藩の国父と言われた島津久光に疎まれていたことで、30~34歳の半分以上は無聊をかこつこととなった。

●壮年期は奄美で隠遁生活

 西郷が隠遁した奄美群島の歴史は、薩摩と琉球そしてアメリカによる占領期までを含めれば過酷で厳しい抑圧された時代が長く続いた。中でも薩摩藩はサトウキビ栽培と銅採掘を厳しく管理したが、薩摩藩の財政の逼迫とともに取りたては一層厳しくなり、島民たちは自らの食物すら事欠くほどの搾取にあったという。この採掘された銅の船積みのため薩摩藩の人間が島に常駐するのだが、この役に隠遁中の西郷隆盛が当てられた。この時、島の銅山を管理していた家の娘を西郷は島妻として迎えている。

●奄美諸島は西郷の記録で溢れて

 この銅山のある場所の現在の地名は「龍郷(たつごう)」という。地名の由来は、銅山を管理していたのが龍氏、この地で妻帯し子をもうけた西郷の名前と合わせたという説もあるようだ。西郷が奄美群島に暮らしていたのは併せて2年半ほどであるが、各島ではとても大事にされていた。流刑扱いで赴いた沖永良部島では牢での生活を強いられたが、あまりにひどい状況を見かねた島民たちが牢を改築したり食べ物を差し入れたりしたらしい。この牢内で西郷の座右の銘「敬天愛人」(天をうやまい人を愛すること)を得たという。現在も「西郷南洲記念館」として当時の様子が再現されている。奄美の各島には、西郷にちなんだ名所がいくつも残されている。お土産のお菓子に「さいごう豆」や島妻の名前「愛加那」というものもあった。

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