AERA5月22日号の大特集は「転職のリアル」。空前の人手不足もあって、転職はかつてよりもぐっと身近なものになってきた。転職の数だけ、人生ドラマがある。本誌で紹介しきれなかった、人生の転機を乗り越えてきた「達人」のインタビューをご紹介したい。
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広報コンサルタントの左近充ひとみさん(57)は、短大卒業後、3年間アメリカに留学してメディアプランニングを学び、24歳の時に帰国しました。帰国したのは5月で就活シーズンも終わっていましたし、当時は男女雇用機会均等法施行前だったこともあり、多くの企業で門前払いに。ようやく7月に知り合いのすすめで外資系のPR代理店に入社できました。
31歳で結婚、翌年出産。社長が時短勤務で働ける制度をつくってくれ、私がその第一号に。ただ、子供を育てるからには「フルタイムで働いて、ベビーシッターを雇えるくらいにならないと」という思いがあったんです。勤続13年で退職し、広告代理店、コンサル会社を経て、2001年にジャガーの日本法人にPR責任者として入社しました。
途中で夫が病気で働けなくなってしまったこともあり、私にとって転職は「生きていかなきゃ」という、常に人生のハードルを乗り越えるための手段でした。実際、最初のPR代理店以降、マネジメント待遇で転職できたので、その都度、年収を上げることができました。
子育ては夫や夫の親、北海道に住む私の親などがシフトを組んでまで支えてくれたんです。それでも何かあれば、やっぱり私に連絡が来る。海外出張中、真夜中に学校からの電話でたたき起こされることも……。そんな時、ある先輩から「子どもはいつか大きくなるから」と励ましてもらったのを覚えています。今、子どもが成人して、その通りだったと実感しますね。
その後、ダイエー会長時代から付き合いのあった林文子横浜市長から誘いを受け、横浜市の特定任期付職員として、4年間、市広報部長として働きました。役所には、外資系企業から市長肝いりで入庁した自分を「何者?」と警戒する人も。そこで、御用聞きに自分から足を運ぶようにし、「この人は、話しても大丈夫な人」という信頼を勝ち得ることができました。
任期を終えた後、人生の折り返しも地点を過ぎ、子どもも成人して、これからどうしようかと考えたんです。そこで、自分で仕事を選択したい、ユニークで意義のある仕事をお手伝いしたい、と思いました。現在はパソナキャリアのサービスを通じての企業顧問や、日本広報協会の広報アドバイザーとして自治体などで講演をしています。
PRの仕事は、広告のおまけでも総務のぶら下がりでもなく、会社の評価を決める戦略的なマネジメントとしての重要な役割がある。もっと理解を深めてもらい、職業選択の一つにしてもらいたいなと思っています。(編集部・市岡ひかり)
※AERAオンライン限定記事