ところが、徳田は逆の発想をした。「医療砂漠」と呼ばれる空白地帯だからこそ、患者が集まると確信していた。いざ、病院を開いてみると……。開院初日に公立病院から祝いの花束を持って駆けつけた看護師(73)は、こう語る。

「日が暮れて病院に行くと、電灯が煌々とついて、患者さんでごった返していました。待合室に入れない患者さんが狭い廊下に50人以上溢れていた。うわぁ、これはいかん、と白衣を借りて患者さんをさばきました。徳田先生は救急患者も断らなかったから、夜中も救急車のサイレンが鳴りっぱなし。野戦病院みたいでしたよ」

 大都市圏にも医療砂漠は点在していた。背景には、医療の制度的支柱「自由開業医制」が横たわる。医師は、施設基準を満たせばどこでも病院を開設でき、診療科も自由に標榜できる。70年代には「医療計画」のしくみも発足しておらず、医師が好きなところに病院をオープンできた。

 一方で、高度経済成長を追い風に都市に人口が集中する。都市計画は後手に回り、大規模な団地や宅地が近郊へ無秩序に拡大した。新興住宅地はインフラ整備が遅れ、なかなか病院が建たない。つまり都市への人口集中と自由な病院開設のギャップが、医療砂漠を産み落としていたのである。

 その弊害は生死を分ける救急医療を直撃した。首都圏でも夜間や休日は救急患者の受け入れ先が見つからず、医療過疎地と同様の惨状を呈する。アサヒグラフ72年6月2日号の「救急病院の素顔」は、23区内で2年間に亡くなった交通事故被害者の追跡データ(東京消防庁)をもとにこう記す。

「千二百人の死亡者のうち、最初に収容された病院から六時間以内にその病状の治療に適した病院に適切に送られたのはわずかに三十七例三.三%しかなかった。しかもその半数近くは小病院から小病院への転送だった。開頭、開腹などの手術が行われたのは、中小病院では死亡者の一二%、総合病院では四二%と顕著な差をみせている」

●「全部、受けよう」ナースやスタッフを鼓舞

 大阪大学医学部を卒業し、麻酔医として立った徳田は、「患者さんが苦しんでいるのに、なんで救急車を断る。全部、受けよう。朝まで状態を診て、他に移してもええんや」とナースやスタッフを鼓舞して救急患者を受け入れる。75年に医療法人徳洲会を設立し、大阪府大東市に野崎病院(現野崎徳洲会病院)を開院した。「徳洲」とは徳田の故郷、奄美群島の「徳之島」を指す。

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