現在、アメリカ帰りと聞けば、読者は「神の手」を持つカリスマ医師を連想するかもしれない。が、そのころ、アメリカ帰りの多くは「白い巨塔」の前で茫然と立ち尽くしていた。

 大学病院は、いわゆる「医局講座制」というピラミッド構造で成り立っている。これは明治時代中期、帝国大学(現東京大学)がドイツを真似て取り入れたシステムだ。大学病院では診療科ごとに教授が頂点に立ち、助教授(現准教授)、講師、助手(現助教)を従え「医局」を束ねる。診療と教育の組織が一体化し、どちらも医局単位で行われた。

●年中無休、24時間診療「アメリカなら当然」

 その結果、閉鎖的で家父長主義的な医局ができあがる。教授の胸三寸で配下の医師の勤務先や序列が決まり、忠誠心が試される。医局は、医師を派遣する市中病院への影響力を強め、不満があれば引き揚げる。医局間の交流はなく、利権と結びついて権力闘争が展開される……。

 そんな医局を飛び出してアメリカで修業した医師は、帰国しても力量にふさわしいポストを与えられなかった。

 ある内分泌内科医(80)は、大学を卒業後、ロードアイランド州の病院で内科レジデント(泊まり込み医師)を務めた。心筋梗塞から糖尿病、食中毒とあらゆる患者を診て、月に15日の当直をこなす。地獄の2年間を終え、指導医の推薦で名門大学の病院に移る。臨床的医学者のトップクラスにランクされた。

 名声が日本にも届き、出身大学の教授から「就職口の世話をする」と声がかかり、帰国した。ところが、である。

「ボスは僕の顔を見るなり、『外来の尿検査をやれ。嫌なら辞めろ』と言いました。だまし討ちにあったようなものです。『おまえは臨床の腕はいいかもしれんが、医局への貢献度が低い。なかなか入れない大学院もボイコットして米国に行った。けしからん』と、理屈も何もあったもんじゃない」

 と、内分泌内科医はふり返る。彼は1年間、尿検査を担当した後、慢性病の研究センターに転じた。たまたま大学の同期が徳洲会の病院に勤めていて、臨床指導をしたのが縁で徳田と会う。

「日本の医療を変革したい。手伝ってほしい。古い世代には任せられない」と徳田は口説く。何度も足を運び、三顧の礼で迎えた。

 内分泌内科医は「医師の仕事のやり方、臨床教育のデタラメさを変えましょう」と徳洲会に入った。

 総じてアメリカで腕を磨いた医師は、向上心が旺盛で厳しい環境にも耐えている。何よりもタフだった。

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