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テレビでは目がうつろ…「カジサック」元祖芸人YouTuberが順風満帆とは言えないワケ
テレビでは目がうつろ…「カジサック」元祖芸人YouTuberが順風満帆とは言えないワケ 「キングコング」の梶原雄太(写真:Pasya/アフロ)    6月27日放送の「アメトーーク!」(テレビ朝日系)の「激動の同期芸人」企画で、お笑いコンビ「キングコング」が久々に地上波に登場した。2人とも現在は活動の場をテレビ以外に置いているが、なかでも梶原雄太(43)の“やる気のなさ”が物議を醸したようだ。 「番組を見た視聴者からは、『死んだ魚の目になってた』『YouTubeを逃げ道にしないで』など、覇気のない梶原に対する失望の声がSNSに多く寄せられていました。本人も『軸足はYouTube』と言ってはばからないように、今はYouTubeが本業という意識なのでしょう。番組では、梶原に対しウーマンラッシュアワーの村本大輔が『テレビはあくまでYouTubeに集客するための宣伝』と突っ込んでいましたが、まさに言い得て妙だと思います」(週刊誌の芸能担当記者)  さらに梶原は「アメトーーク!」放送後に公開された、コンビのYouTubeチャンネルでは「(今の自分には)ハングリー精神がない」「(テレビで頑張る)モチベーションがない」と吐露した。西野も「テレビとYouTubeの架け橋になるって言ってはりましたけど、もうテレビ側の橋げたが崩れてもうた」と厳しい一言。ファンも「“言い訳芸”とか言ってるけどプロ精神がないだけ」「要するに腕がないってことだよね」「プライドの高さを見せられてるようで笑えん」「(テレビが)自分のフィールドじゃないから頑張らないってどうなの?」と、梶原の「アメトーーク!」出演時の姿を批判するコメントが多く寄せられた。 梶原雄太(写真:Pasya/アフロ)   「YouTube御殿」を建設中  活動の場をYouTubeに移して久しい梶原。チャンネル登録者数は245万人にまで成長させたが、もう地上波には出ないということなのか。 「今ではそれぞれのフィールドで活躍しているキングコングですが、芸歴2年あまりでM-1ファイナリストに進出するなど、華々しい経歴を持つ“エリート芸人”です。しかし、実力不足を自覚していた梶原は徐々に追い詰められ、2003年についに失踪騒動を起こし、休養生活に突入しました。本気で引退を考えるほどの精神状態だったといいます。数カ月間の休養を経て復帰、多くの冠番組を持つ人気芸人として活躍を見せる一方で、相方の西野は06年に“ひな壇に出ない”宣言をし、絵本作家や実業家として活動するようになりました。そして、12年に同世代の芸人たちと出演していたバラエティー『はねるのトびら』が終了、一気にテレビへの露出が減少していったのです。自身もインタビューで、ひな壇で爪痕を残せず、需要がなくなっていったと認めていました」(同)  梶原に転機が訪れたのは17年。あるイベントで人気YouTuberと共演した際、観客の反応を目の当たりにして、本格的に芸人とYouTuberの“二刀流”を目指すことを決意し、18年にYouTuber・カジサックとしてデビューした。1年以内に登録者数100万達成できなかったら芸人引退と宣言し、背水の陣で挑んだのが功を奏したのか、1年を待たずに100万を達成。「芸人YouTuber」の先駆けとなった。 「旬の芸人やYouTuber、業界人など豪華なゲストを迎えたコラボ動画と、ヨメサック(梶原の妻)と5人の子どもたちを前面に出したコンテンツを軸にして、人気チャンネルへと上り詰めました。週刊誌などでは“YouTubeでの収入は億超え”と報じられました。最近では、ついに一軒家を建てるべく土地を購入したと発表。子どもが増えて手狭になったと理由を述べていましたが、自宅に配信スタジオなどを作るのでしょう。辻希美が建てた3億円ともいわれる豪邸は、3階建てでダンススタジオや衣装部屋、撮影部屋などを備えたガチガチのYouTuber仕様でした。カジサックも豪邸建設を機に、これまで以上にYouTubeに注力していくのではないでしょうか」(民放バラエティー制作スタッフ) 梶原雄太(写真:Pasya/アフロ)   後輩芸人からもバカにされ…  こうしたなか、気になる動きもある。先日、YouTuber転身に当たって全面的にバックアップした吉本興業に対しても不満を述べたことが話題となったのだ。今年5月、本人同士で了解した芸人コラボ動画に対し事務所がNGを突き付けたと怒りのままにXにポスト。「なんで俺はこの会社にいるんだ?? なんじゃこれ」とつづった。吉本とは“和解済み”として「会社辞めたいから言ったわけじゃなくて」とも書いていたが、こうした事態が重なると、退所となる可能性もありそうだ。 「先日、週刊誌の『つまらないと思う芸人YouTuber』アンケートで、カジサックは4位にランクインしていました。また、この前の『FNS27時間テレビ』ではチョコレートプラネットの松尾が『キングコングで面白いと思った事1度もない』と発言し、他の芸人も『アイツが笑ってるとぶん殴りたくなる』と追随するなど、後輩芸人たちから堂々とバカにされてイジられる存在になっていました。ここにカジサックの“かげり”を見た視聴者も少なかったはず。YouTue界でもお笑い界でも、世代交代は確実に進んでいます。YouTuber芸人としてこのままずっとトップを走り続けるのは難しいでしょう。テレビ軽視の姿勢を貫くのもいいですが、いざというときに戻れる環境をつくっておくべきだと思いますね」(同) 「プライドが高すぎる」という声も  芸能ジャーナリストの平田昇二氏は、梶原についてこう述べる。 「梶原さんは芸人YouTuberの勝ち組として知られていますが、大成功を収めたことで、かえってファン以外からもより注目される存在になり、何げない発言でも『調子に乗っている』『プライドが高すぎる』などの印象も与えているのかもしれません。所属事務所に対して最近、不満を吐露した件に関しても、本人にも言い分はあるんでしょうけど、『一般企業で担当者がOKと言っても、会社の方針でNGにされるなんてよくあること』『だったら辞めればいいのに』といった否定的な意見がSNS上では散見されました。テレビがまだ元気だった時代に若くして頭角を現し、最前線で活躍していた梶原さんにとって、今のテレビにあまり魅力を感じないのかもしれません。しかし、テレビに逆風が吹きつつある今だからこそ、テレビでの活躍がYouTubeの活動においてもプラスに働くこともあるのはないでしょうか」  梶原はテレビから完全に消えてしまうのか……。行く末を見守りたい。 (雛里美和)
愛子さまはスケートにバスケとテニス、佳子さまのダンスから悠仁さまのバドミントンまで 皇室のスポーツは何のため?
愛子さまはスケートにバスケとテニス、佳子さまのダンスから悠仁さまのバドミントンまで 皇室のスポーツは何のため? 天皇誕生日の一般参賀で、集まった人びとにお手振りをする天皇ご一家と、秋篠宮ご夫妻と佳子さま=2024年2月23日、宮殿東艇、JMPA    パリ五輪が始まった。オリンピックは、普段なじみのない競技にも関心が高まる機会でもある。皇室のスポーツと言えば「テニス」の印象が強そうだが、ほかにゴルフやスケート、バドミントンといった五輪の競技種目としておなじみのものからダンスまで、さまざまな運動をたしなんできた。 *   *   *  皇族がたしなむスポーツと言えば、「テニス」の印象が強いが、昭和天皇が好んでいたのが「ゴルフ」だった。  1917年の朝日新聞には、当時16歳の皇太子だった昭和天皇が、神奈川・箱根の宮ノ下御用邸(現・富士屋ホテル別館菊華荘)から仙石原のゴルフコースへ向かい、ご学友とコースデビューを果たして「御機嫌麗しく御帰邸」した、とある。  昭和天皇の弟の秩父宮、高松宮もゴルフを始め、静岡県の沼津御用邸や都内の新宿御苑、赤坂御所にコースをつくって練習するようになった。  同じ記事では、ゴルフの指南役だった西園寺八郎・宮内庁式部官は、3人の殿下が将来、欧米を訪問して各国の王族と交際するにあたって適した遊戯だとして、「心胆を落ち着け物に動じない精神を涵養(かんよう)する点においてもふさわしい」と述べている。 来日したエドワード英皇太子と「ゴルフ対決」を楽しんだ皇太子時代の昭和天皇=1922年、東京・駒沢    1921年に訪欧した際には、往復の軍艦の甲板で熱心に「デッキゴルフ」に興じている様子が報じられた。  朝日新聞によると、翌年には来日した英国のエドワード皇太子と東京・駒沢のコースでゴルフ対決。この日に向けて特訓に励んだ昭和天皇だったが、「たった1点差で摂政宮の負け」となったようだ。  昭和天皇とともに、妃の香淳皇后(良子東宮妃)もゴルフがお好きだったようだ。  当時の報道によれば、新婚旅行で訪れた福島県ではおふたりでゴルフを楽しみ、香淳皇后が懐妊した際は毎週の習慣になっていたテニスとゴルフをお休みしたという。     【こちらも話題】 祝・愛子さま学習院大学ご卒業 小1で二重跳び、中2で遠泳とスーパーアクティブな学校生活を振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/217424   セーラーデザインのテニス服で運動を楽しむ東久邇良子女王(香淳皇后)。この時は、皇太子時代の昭和天皇と婚約中=1922年   セーラーデザインのドレスでテニス  そして皇室のスポーツといえば、やはり「テニス」だろう。  上皇ご夫妻が、長野・軽井沢のテニスコートで「運命の出会い」をしたのは有名だが、天皇家では明治時代からテニスを楽しんでいたようだ。  日本テニス協会のウェブサイトによると、1876年に横浜の外国人居留区から伝わったテニスは、男女の社交の場として日本人の間に急速に広まった。1886(明治19)年には、東京高等師範学校(現・筑波大)に「ローンテニス部」が誕生し、まもなく軟式(ソフトテニス)が全国に広がったという。  1905年の朝日新聞には、皇室でも親王や内親王がテニスで運動する様子が、翌06年には皇太子嘉仁親王(大正天皇)の妃だった節子妃(貞明皇后)の近況として、女官を相手に散歩やテニスで運動する様子が伝えられている。  1922年には、昭和天皇と婚約中だった東久邇良子女王(香淳皇后)も、セーラーデザインのドレスでテニスをする写真が残っている。  上皇さまと美智子さまは、3人のお子さまとともに、よくテニスコートでご一家の時間を過ごされていた。なかでも秋篠宮さまは、学習院中等科でテニス部に所属。12歳以下の男子シングルスの部で3度優勝しているほどだ。 1987年の訪米時にブッシュ米副大統領(左端)、シュルツ国務長官(右端)とのテニスの試合を前に歓談する皇太子時代の上皇さま。変則混合ダブルスのゲームで上皇さまは、女子プロテニスのパム・シュライバー選手(右)と組んだ=1987年、ワシントンD.C.郊外の米副大統領公邸   「まだボールは見えます」と愛子さま  天皇ご一家にとっても、テニスは大切な時間のようだ。皇太子時代から貴重なプライベートの時間に全力で楽しみ、日常の疲れを癒やす場になっている。  長年、ご一家のテニスのお相手を務めていた元プロテニス選手の佐藤直子さんは、かつて記者がインタビューをした際に、こう明かしていた。  陛下と雅子さま、佐藤さんが練習しているコートに、天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが合流。夕方になってボールが見えにくくなっても、「まだボールは見えます」とニコニコしながら元気にプレイしていたという。     【こちらも話題】 【祝ご卒業】意外にもパワフルな愛子さま 体力は「まさに無尽蔵!」と元プロテニス選手 「そろそろ水分補給を」と気遣う天皇陛下 https://dot.asahi.com/articles/-/217360      実は陛下は皇太子時代、テニス界のレジェンドであるロジャー・フェデラー選手と試合をしたことがある。  2006年10月、野村一成・東宮大夫(当時)は定例会見で、テニスの国際大会のために来日していたフェデラー選手を赤坂御用地に招待し、ダブルスを楽しんだと明かした。  陛下は昨年5月の春の園遊会で、国民栄誉賞を授賞した車椅子テニスの国枝慎吾選手と懇談した際に、 「ちょっとテニスをするんですけれど、フェデラーさんに見ていただいたことがあって」  と振り返っている。   愛子さま、佳子さまもスケートを 長野県の奥志賀高原で愛子さまを抱っこしながらスキーを楽しむ皇太子時代の天皇陛下と見守る雅子さま=2005年2月、宮内庁提供    運動が好きな天皇ご一家。ウィンタースポーツも例外ではない。  天皇陛下は、幼い頃から上皇ご夫妻とゲレンデに立ち、英国留学中も休暇を利用して、フランス・アルプスなどへスキー旅行に出かけている。  リヒテンシュタインの皇太子とは何度か一緒に滑り、スキーを通じて交流を深めたようで、「最高の大使だ。有能、知的で、責任感が強く、若くして経験も積んでいる」とベタ誉めされている。  愛子さまも小さな頃から、ご両親とスキーに親しんできた。  東宮時代のご一家は、長野・奥志賀高原で春スキーなどを楽しみ、宮内庁も愛子さまの写真や動画をご成長の記録として公開している。     【こちらも話題】 天皇陛下の英国晩餐会「席札」アップ、愛子さまのタケノコ堀り…宮内庁“攻め”のインスタの評判 https://dot.asahi.com/articles/-/226629   カルガリー・オリンピックの銅メダリスト、黒岩彰さんに誘われ、東京・高輪の品川プリンスホテル・アイスアリーナでスケートを楽しむ浩宮(天皇陛下)さまと礼宮(秋篠宮)さま=1988年、東京・高輪    また、スケートも身近なスポーツだ。  1924年の朝日新聞では、秩父宮さまと高松宮さまが栃木・日光の金谷ホテルのスケート場で仲睦まじく1日スケートをした様子が伝えられている。  天皇陛下と秋篠宮さまも、小さな頃からスピードスケートの元五輪選手である長久保文雄さんと妻の初枝さんの指導のもと、スケートを練習していた。  1988年には、東京・高輪の品川プリンスホテルのスケート場で、元五輪メダリストの黒岩彰さんとスケートを楽しむこともあった。  愛子さまも小さな頃、長久保夫妻の指導を受けている。愛子さまは、雅子さまやお友だちと明治神宮外苑のアイススケート場や江戸川区の公営アイススケート場を訪れている。  秋篠宮家の次女佳子さまも、初等科2年生から習い始めたフィギュアスケートに熱中し、初等科時代は明治神宮外苑のアイススケート場で開催された年齢別の地方大会で2度優勝した。 明治神宮外苑のアイススケート場で開催されたフィギュアスケート競技大会で演技する秋篠宮家の次女、佳子さま=2004年、都内   愛子さまはバスケ、佳子さまはダンス  ほかにも、愛子さまは初等科高学年のときにバスケットボール部に入部。コーチを務めた人物によれば、お住まいだった東宮御所の職員と練習をするほど楽しんでいたという。  パリ五輪からは、ダンススポーツであるブレイキン(ブレイクダンス)が競技種目に採用されたが、ダンスといえば佳子さまだろう。佳子さまは高等科からダンスに熱中し、大学時代はダンススクールにも通っていた。スクール主催の発表会では、ヒップホップからジャズまで幅広いダンスを披露している。  そして、秋篠宮家の長男、悠仁さまが高校の部活動に選んだのがバドミントン。悠仁さまは上級生やコーチのアドバイスを受けながら、熱心に練習しているという。    海外の王室との関係づくりなども見すえて考えられていた、皇室とスポーツ。これからも人と人とをつなぎ、純粋に楽しく心身をリフレッシュさせるものとして、スポーツは大切な存在であり続けることだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 社会人の愛子さまと18歳の成年を迎える悠仁さま 天皇家と秋篠宮家はどんな「夏休み」を過ごしてきた? https://dot.asahi.com/articles/-/228622  
酒販店とともに開拓した客へ震災直後に届けた水 キリンビール・堀口英樹社長
酒販店とともに開拓した客へ震災直後に届けた水 キリンビール・堀口英樹社長 「キタ」の街を歩くとよく同僚といった店、行き詰まると先輩に連れていかれた店は、ほぼなくなっている。たまにみつけると、何となくうれしい(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年7月29日号では、前号に引き続きキリンビール・堀口英樹社長が登場し、「源流」である大阪きっての飲食街「キタ」などを訪れた。 *  *  *  1985年4月に入社して10年、大阪の営業部門にいた。大阪支店で、清涼飲料の販売促進担当を4年、東大阪支店で、家庭用の「街の酒屋さん」の担当を2年、そして支店が改称した支社で、関西随一の激戦地「キタ」の飲食店へ酒類を卸す業務用酒販店の担当を4年。  三者三様の苦労はあったが、「営業は人間関係がすべて」という点は、共通していた。  最後に「キタ」で業務用酒販店を6社、担当したときだ。毎月、「料飲店一斉活動」と呼ぶ仕事があった。所属していた支社の営業第2部のメンバーが2人1組で、「キタ」や心斎橋・道頓堀などの「ミナミ」で他社のビールが入っている店を攻略に回る。営業第2部は、腕利きの営業マンを集めた部署だ。  この日は酒販店訪問を早めに切り上げ、大阪市の御堂筋沿いにあった支社へ戻る。相棒の名前を告げられ、回る店のリストを渡されると、各組8店へ午後6時から始めた。店へいくと、1人ずつビール1本とつまみ1品を注文し、帰るときに名刺を渡して挨拶する。8店目を出るのは、午後10時ごろになる。  訪ねた店には、名前を憶えてもらうように、日を置かずに再訪する。でも、全部がうまくいくわけではない。他社との納入比率をひっくり返すのは難しいが、業界で「差し込み」と呼ぶ実績ゼロのところへ入り込むことは、たまにある。それを含めて、年間に部で百数十店は成果があった。  人間関係が広がるうれしさだけでなく、先輩や同僚とのチームプレーは、普段は個々に動く職だけに別の手応えがある。8店回れば、飲むビールは8本。けっこうしんどいが、終わってみんなで中華料理店に集まり、「ご苦労さん会」をやった。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 独身寮時代に、この武庫川沿いで走った。寮から約1キロ、河川敷沿いに7キロほど。だから、浄水場があることは知っていた。豪州で始めたマラソンも、いずれ再開する(撮影/狩野喜彦)   わずか2年で異動に「何かまずかったか」その心配消す抜擢へ  5月末、「キタ」の街を、連載の企画で一緒に訪ねた。昼食どきで、ネオンの灯が連なる日暮れ後とは光景が違う。でも、堀口英樹さんがビジネスパーソンとしての『源流』とする「人間関係を鍛えられた街」だ。一歩、踏み入れれば、30年ほど前の「一斉活動」が甦る。  営業第2部への異動は、突然だった。東大阪支店で枚方市の「街の酒屋さん」を約200店受け持ち、失敗もあったが、店主の家族に可愛がられて泊まり込んだ店も少なくない。食い込めた、との手応えはあった。一方、普通は在職2年での交代は短い。「何かまずかったのか」と心配したが、違う。少数のえり抜き部隊への、抜擢だ。  支社があった御堂筋沿いへもいった。イチョウ並木の緑が、鮮やかだ。大阪へ赴任したときも、そうだった。ビルは姿を変え、他社が使っているので入らないが、前に立てば様々なことが浮かぶ。「キタ」で受け持った業務用酒販店に、関西で最大だった「名畑」があった。『源流Again』で、社長の名畑豊さんに会う。大阪にいた当時は専務で、世代も近く、よく飲食やゴルフのお供をした。  このころ、前号で触れた「YOUを第一に考え、次にWE。自分=Iはその後だ」という人間関係の基本を、鍛えられた。  名畑さんは、キリンビールの銘柄名を描いたネクタイ姿で現れた。「キタ」の担当になる1年前に発売した「一番搾り」のキャンペーン品。まだ持っていてくれたことに「ありがたい」と思う。ただ、初めて会ったときのことは「覚えていない」と言われ、ちょっと残念な気がした。でも、「真面目な堅い方がこられたな」との印象を加えてくれて、ほっとする。  1962年1月に埼玉県川口市で生まれ、小学校2年生になるときに父・操さんが買った神奈川県藤沢市の家へ転居した。父はラジオ局の技術部に勤務、母・朱生さんは専業主婦。弟と4人家族だった。地元の中学校で放送部へ入り、父の影響か、音楽が好きだった。県立湘南高校と慶応大学商学部を通じて、ハンドボールに打ち込む。 営業にやりがいも書き続けた外国志望3度の海外を経験へ  大学時代に友だちと欧州へ旅行して「将来は国際的な仕事をしたい」と思い始める。就活でキリンビールが「次は国際化」と打ち出しているのを知って、「日本のビールを海外で売る草分けになれればいいな」と思って入社した。以来、どれだけ営業にやりがいを感じても、やりたい仕事の申告書に「海外で仕事をしたい」と書き続ける。結局、米国留学と豪・米のグループ会社勤務で、海外へ3度いった。 「キタ」の担当になる5カ月前の90年11月に結婚した。神戸市育ちの女性で、大学時代の関西出身の友人に紹介され、1年ほど付き合った後だ。それまでいた独身寮があった兵庫県西宮市も、『源流Again』で訪ねた。JR甲子園口駅の近くで、家族寮に模様替えした後に売却され、マンションの建設が始まっていた。周囲をみると、住んでいたころのように空き地はなく、すっかり住宅地になった。  大阪で10年目の95年1月、阪神・淡路大震災に遭遇した。独身寮を出て住んでいた阪神電車の甲子園駅近くの家は無事だったが、周囲は倒壊し、高速道路が崩れ落ちた場所も近い。 がれきの間を走り水を届けた店が再開思わず目が潤む  直後から、自宅から2キロの独身寮時代に走っていた武庫川沿いで、浄水場が飲料水を無料で提供していた。毎日、支社へいって会社が用意したポリタンクをいくつも営業車に乗せて帰り、浄水場で水を詰め、阪神のがれきの間を走った。酒販店とともに開拓した取引店へ、水を届け続ける。本当に喜ばれた。  やがて被災した店が営業を再開できたときは、思わず目が潤む。いまの時代は「理」がどんどん強くなっているが、「情」の大切さを痛感した日々。大阪はその点でも、社会人人生で大きな存在だ。「第2の故郷」とも思っている。  子どものころ、父によく「誰かに一つ、二つやってもらいたかったら、相手に10のことをしなさい」と言われた。いま、その通りだな、と思う。欲しい、欲しいではなく、誰かに何かをしてあげてこそ、互いに価値を共有できる。人が相手だけでなく、社会に対しても同じだ。もちろん、妻にもそうだ。  営業で「午前さま」続きで、妻が大好きなミュージカルやコンサートへ一緒にいく機会は、なかなかなかった。彼女には相手をしてもらえる親族や友人が地元にいただろうが、ずっと、心残りだ。メルボルンへも、米ケンタッキー州へも単身赴任。2022年1月にキリンビール社長に就任した後も、多忙は変わらない。 『源流Again』の前日も広島から京都へいき、得意先と会って回る。『Again』の後も、京都で取引先と会った。毎週、こんな日程だ。  でも、「妻にいつか穴埋めしたい」との思いは、『源流』からの流れとともに続く。何しろ妻は「YOUを第一に」のなかでも、第一の存在だからだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年7月29日号
松坂大輔のスライダーに「キャー!」西武時代のG.G.佐藤 セカンドキャリアでは5度目の“戦力外通告”も
松坂大輔のスライダーに「キャー!」西武時代のG.G.佐藤 セカンドキャリアでは5度目の“戦力外通告”も 現役時代は「G.G.佐藤」の名で活躍した佐藤隆彦さん(撮影・平尾類)   「G.G.佐藤」として日本のプロ野球、西武などで活躍し、北京五輪にも出場した佐藤隆彦さん(45)。2008年オールスターのファン投票では1位の票数を獲得するなど、実力と人気を兼ね備えた選手だったが、36歳で引退し、父親が社長を務める大手の地盤調査会社に入社。野球とはまったく関係のない世界で一営業マンから出発し、2021年からは副社長を務めるまでに。それも昨年8月いっぱいで退社した。副社長のイスを捨ててでも会社を辞めた理由は何だったのだろうか。【前編】では無名のアマチュア時代、野球人生での転機、その後のセカンドキャリアなどについて語ってもらった。 ――まずは野球人生について。振り返ると、法政大の時は補欠だったんですよね。  そうです。大学時代は公式戦で1本しか本塁打を打っていません。高校時代の桐蔭学園(横浜市)でも、主将でしたけど本塁打は3本だけ。無名中の無名でした。学生時代を知る人は僕がプロ野球選手になるなんてだれも想像していない(笑)。 シュワルツェネッガーのポスターを ――無名のアマチュア選手が覚醒する転機は何だったのでしょうか。  大学時代に肉体改造で体を大きくしたのが分岐点でしたね。体重を30キロ増やして100キロを超えました。当時監督だった山中正竹さんが選手の考えを否定せず、個性を大事にする指導方針だったので救われました。筋肉をどうしたら大きくできるのか情報が入ってこない時代だったので、武蔵小杉(川崎市)のTSUTAYAでボディービルの雑誌を買って、筋肉ムキムキのアーノルド・シュワルツェネッガーのポスターを部屋中に貼りまくりました。目からの刺激ですね(笑)。 【あわせて読みたい】 佐々木朗希、登板のメド立たず1カ月… このままメジャー挑戦なら「日本球界とケンカ別れ」の危惧 https://dot.asahi.com/articles/-/227801?page=1 ――生活スタイルや野球への意識は変わりましたか。  飯を3時間おきに食べなければいけないので、夜中に目覚ましをかけて起きて、卵2個とプロテインを食べる生活を繰り返していました。今でこそ大谷翔平選手がやっていますけど、26年前は筋トレをガンガンする選手がいなかった。「やめたほうがいいよ」と多くの人に言われましたが、人が望む姿でなく、自分が望む姿になろうと。人生のスイッチが入りましたね。まだイチローさんが米国でプレーする前だったので、野手で日本人初のメジャーリーガーになるのが目標でした。 ――肉体改造の成果はいかがでしたか。  打撃練習で打球がピンポン球のように果てしなく飛んでいくようになりました。メチャメチャ楽しかったです。でも試合では打てないんですよ、まだ技術がないので。 法政大学時代(本人提供)   捕手の経験ないのに即決 ――大学卒業後は米大リーグ・フィリーズの1A(マイナー)に入団されました。どのような経緯でそうなったのでしょうか。  信じてくれる人が近くにいてくれたことが大きかったです。父が「おまえは絶対プロ野球選手になれる。この世に生まれた最高傑作だから」ってずっと言ってくれて。大学でドラフトの指名がなかった時に母が「父さん、あなたウソつきね」って言ったら、「ふざけるな、今から(プロ野球選手に)なるから一筆書け。『佐藤隆彦がプロ野球選手になった際は、毎晩あなたのことを三つ指立ててお迎えいたします』と」って反論して(笑)。  父の期待に応えたいし、ウソつきにしたくないからあきらめたくなかった。その時に、新聞の「フィリーズが多摩川のグラウンドでプロテストをやる」という小さい切り抜きを見つけて。大学の“補欠軍団”で受けました。300人ぐらい参加して、僕が1人だけ合格して。捕手をすることが入団の条件だったので、経験がないけど「やる」と。即決でしたね。 【こちらもおすすめ】 吉田正尚でも苦戦中 メジャー代理人のシビアな本音「日本人でほしいのは投手だけ。野手はいらない」 https://dot.asahi.com/articles/-/227057?page=1 ――英語は大丈夫でしたか。  英語はどうにかなりました。米国へ行く前に、日本で英会話学校に3日間通ったんですけどね。飛行機でキャビンアテンダントに「ビーフorフィッシュ?」って聞かれて「イエス!」を連発していました(笑)。こんな語学力で米国に行っても、相手の話す英語が分かってくる。何とかなりますよ。 ――フィリーズのマイナーでは3年プレーしました。  実戦がいかに大事かを痛感しましたね。大学の公式戦は多くて年間20試合。僕は補欠なのでほとんど出られない。でも米国では年間100試合以上あり、300~400打席立てる。練習より試合の1打席ですよ。打席に立ち続ければ技術が身についてくる。ダメだったら振り落とされる厳しい世界だけど、1年間プレーした時に日本のプロ野球なら通用する手ごたえはありました。法政大からプロに入団した選手と比べて自分も十分にできるなと。 フィリーズ1Aでの練習の様子(本人提供)   一塁になったら涌井の牽制が速くて「怖くて無理」 ――日本に戻り、プロ野球の西武に入団しました。  米国で3年間プレーして、ヤクルトと西武の入団テストを受けました。西武は捕手が足りなかったみたいで、「捕手ができるなら絶対取る」と言われて。入団したけど、春季キャンプの3日目ですかね。松坂(大輔)の球が捕れなくて。高速スライダーが消えるんですよ。「キャー!」って。「もうそのボール投げないでくれ」って言いました(笑)。 西武時代の同僚だった松坂大輔さん(2003年) ――その後どうなったのですか。 「捕手は無理です」って当時の伊東勤監督に言ったら、「捕手で獲得したのに捕手詐欺か」って(笑)。その後は三塁を守ったんですけど外国人打者の打球が怖くて、一塁になったら涌井(秀章)の牽制が速くて「怖くて無理です」って伝えて。外野に落ち着きました(笑)。 西武時代に同僚だった現・中日の涌井秀章さん(2005年) 【こちらも間れています】 動くなら「3球団」か ヌートバー苦戦続けば「NPB入り」の可能性高まる? 早期来日でメリットも https://dot.asahi.com/articles/-/228935?page=1 ――その後も野球では波瀾万丈でしたが、セカンドキャリアで過ごしたサラリーマン生活はいかがでしたか。  父に恩返ししたいという思いで入社しましたが、モチベーションで苦しんだ部分は正直ありました。プロ野球で経験した刺激を社会に出ると味わえない。もちろん仕事には全力で打ち込んでいましたが、物足りなさは感じていました。自分は夢中になったことに情熱を注げる性格であることは分かっているので、新たな世界に挑戦したいと思いました。 佐藤隆彦さん(撮影・平尾類)   会社を辞めることに妻は「ウソでしょ?」 ――社員からステップアップして副社長となり、お父さんの後を継いで社長になると思っていました。退社を決断した理由を教えてください。  会社を継ごうという使命感はありました。実際にどういう会社にしたいか、将来の方向性を巡って父とぶつかって。「会社を辞めて外の世界を見ろ」と言われ、5度目の“戦力外通告”を受けました(笑)。ただ、自分の中で迷いはあったんですよね。「一回きりの人生これでいいのか」「今の仕事は本当にやりたいことなのか」と少し前から自問自答していて。本気でやらないと1000人いるグループの従業員にも失礼じゃないですか。人生を懸けてやらないと成功しない。相談した人たち全員に「絶対に辞めるな、もったいない」と言われました。  確かに売り上げ180億円、営業所などが20カ所以上ある会社で副社長というのはありがたい立場です。でも、自分が納得する人生を送りたくて。妻は「ウソでしょ?」と驚いていましたが、「あなたは必ずやると言ったことをやり遂げる男なので、信じてついていきます」と言ってくれました。父とは連絡を取ってないですね。関係は良くないです。時が来れば……って感じですかね。   ――独立して10カ月が過ぎました。現在はどのような活動をしていらっしゃいますか。  講演、野球指導、タレント業を中心に忙しくさせてもらっています。自分ひとりでやっているので、組織に守られているわけではない。プロ野球選手に戻った感じです。「(前の会社は)父親の会社だからできたんでしょ」と言われるのも悔しいじゃないですか。野球が終わった後に輝けないのは嫌ですし、人生のピークは常に未来です。今後は起業家として勝負したいので、宅建業の資格を取って不動産業をやっています。やりたいことはたくさんあります。М&A(企業の合併・買収)に興味がありますし、野球選手のセカンドキャリアを支援する活動もしたいですね。 (平尾類) 【後編】<G.G.佐藤を救った野村、星野両監督の言葉とは 北京五輪の悪夢のエラーから16年 「野球界の大仁田厚を目指す」>に続く  
“妻は人生においてのギフト” 夫が本当にやりたい仕事をできるように妻が経営をバトンタッチ
“妻は人生においてのギフト” 夫が本当にやりたい仕事をできるように妻が経営をバトンタッチ 倉邉雅朗さん(右)、倉邉今日子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年7月29日号では、美容師の倉邉雅朗さんと美容師でアイリストの倉邉今日子さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 妻が23歳、夫が25歳のときに結婚。長女(26)、次女(23)は独立、三女(20)、犬と暮らす。 【出会いは?】最初に勤めた美容院の先輩と後輩。 【結婚までの道のりは?】出会いから3カ月後に交際開始。4年間の交際の後、独立を見据えた夫から妻にプロポーズ。 【家事や家計の分担は?】家事の分担はしておらず、できるほうがやる。お財布、家計は一緒。 夫 倉邉雅朗[52]warp DiVA 美容師 くらべ・まさお◆1971年、新潟県生まれ。窪田理容美容専門学校卒業。都内2店舗で美容師を経験後、99年にwarp hairオープン。2006年に(株)ドリームワープ設立。11年、warp DiVA(東京都練馬区)をオープン。18年、代表を妻に譲り、美容師に専念  若い頃は、早く独立したい、店を大きくしたいという願望がありました。28歳で最初の店舗をオープンさせ、その後2店舗目を出し、39歳で現在のトータルビューティーサロンwarp DiVAをオープンしました。  経営者兼美容師として走り続けてきたけれども、47歳になる前に「自分の本当にやりたいことって、経営ではなく美容師なんだ」と気づいたんです。自分はあくまでも職人なのに、経営をしているとそれに追われて、大好きな美容師の仕事に専念できない。大変なジレンマでした。妻に相談したところ「じゃあ、代わります」と。夫婦の関係って、自然に変わる時があると思うのですが、それが自分の人生では代表を降りて美容師に専念することになった時だったと思っています。  人生の中で今が一番楽しくて充実しています。妻は、自分の人生においてのギフトだと思っています。3人の娘を立派に育てあげてくれて感謝しています。これからも最高のパートナーでいてください。 倉邉雅朗さん(右)、倉邉今日子さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   妻 倉邉今日子[50]warp DiVA代表 美容師、アイリスト くらべ・きょうこ◆1973年、新潟県生まれ。東京総合美容専門学校卒業。子ども専用美容院などを含む4店舗で美容師として勤務後、訪問美容師を10年間経験。2011年、warp DiVAのオープンに参加。18年から代表を務める  夫の第一印象は「怖い先輩」でした。当時勤めていた美容院では、夫のチームともう一つのチームがあって、私は夫ではない方のチームにいたんです。夫のチームは体育会系で、営業が終わってからも練習漬けで、その後も反省会を兼ねた飲みが日常。そういうのは耐えられないと思っていたからです。それなのに不思議なのは、スタッフは他にもいるのに私の髪をいつも夫がカットしてくれていたこと。無意識に惹かれ合う部分はあったのかもしれませんね。  生活している時は平等で同じ目線ですが「先輩と後輩」からスタートしているので仕事面においては、その関係性が抜けきらなかった部分はあったように思います。でも、代表を代わったことで、仕事でも力関係のバランスがより自然になったような気がします。  夫とは食べたいもの、行きたい場所、ものに対する考え方や感じ方が一緒です。だから無理なく生きてこられました。これからも一緒に、毎日楽しく生きていきましょう! (構成・三島恵美子) ※AERA 2024年7月29日号
堀井学衆院議員に「かつら代金も裏金」疑惑が浮上 香典配った疑いで特捜部の事情聴取受けた元秘書が証言
堀井学衆院議員に「かつら代金も裏金」疑惑が浮上 香典配った疑いで特捜部の事情聴取受けた元秘書が証言 堀井学衆院議員    自民党の堀井学衆院議員(比例北海道)の議員会館や北海道の事務所などが7月18日、東京地検特捜部に家宅捜索された。選挙区内の有権者に秘書らを通じて香典を配った公職選挙法違反の疑いだ。堀井氏は政治資金パーティー収入を裏金化していた安倍派議員の一人で、特捜部の捜査で香典代も裏金から捻出した疑いが出てきているという。  堀井氏を一躍有名にしたのはオリンピックでの活躍だ。スピードスケート選手として1994年、リレハンメルオリンピックに出場、500mで銅メダルを獲得した。96年には1000mの世界記録も樹立。98年の長野、2002年のソルトレークのオリンピックにも出場した。  競技生活引退後の2007年、やはりオリンピックで銅メダルを獲得した元スピードスケート選手で参院議員の橋本聖子・自民党北海道連会長(当時)から口説かれて政界に進出。北海道議選に出馬して、当選した。2012年には衆院北海道9区から、鳩山由紀夫元首相の対抗馬として出馬。鳩山氏は直前に立候補をとりやめ、堀井氏が後継候補に圧勝した。そこから当選4回。外務大臣政務官、内閣府副大臣などを歴任している。 銅メダリストで連続当選も「カネの問題で人気凋落」 「銅メダリストで、連続当選と地元では人気抜群だった。だが、年を重ねるごとに人気凋落だったね。政治とカネの問題ですよ。堀井氏はカネにがめついのです」  と打ち明けるのは堀井氏の後援会幹部だ。  2023年3月、堀井氏が支部長を務める自民党支部の事務所から120万円を横領したとして、堀井氏の元秘書が業務上横領容疑で逮捕され、その後、懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受けた。 「それ以外にも東京の議員会館の秘書が、『事務所経費だと騙されて地元の秘書に600万円近く横領された』と嘆いていたことがあった。カネの管理ができず、支援者にも『ちょっと寄付を』『今月、足りないのです』などと堀井氏や妻が頭を下げていたこともあった」(前出の後援会幹部) 長野冬季五輪に出場した際の堀井氏    昨年発覚した安倍派の裏金事件で、堀井氏は2018年から4年間で総額2196万円の裏金をつくっていた。このため堀井氏は政治資金収支報告書を訂正している。  堀井氏が代表を務める自民党北海道第9選挙区支部の2022年分の政治資金収支報告書を見ると、支出欄に「横領」として、日付不明で1490万円あまりの金額が支出されたと書かれ、逮捕された元秘書の実名が記されている。これだけでも、政治資金のずさんな扱いぶりがよくわかる。  堀井氏は、裏金事件にからみ、特捜部の事情聴取を複数回受けたとみられる。秘書、元秘書、会計責任者は10回を超すほどに及んだという。 「堀井氏の名前の香典持参は当たり前だった」  堀井氏の元秘書、Aさんに話を聞くことができた。 「昨年末は12月28日の仕事納め直前まで都内のホテルに呼ばれました。年明けは4日からですよ。いや、本当に厳しくやられました。年明けの事情聴取では、すでに裏金の金額がほぼ確定して、安倍派からの還流の経緯もわかっていた。特捜部には携帯電話を押収され、ばっちり解析されていました。LINEで堀井氏とどういうやりとりをしていたのか、問題部分をピックアップして説明を求められました。それが、特捜部が立件しようとしている香典の扱いについての公職選挙法違反でした」  とAさんは振り返る。  公職選挙法では、議員本人が葬儀に参列する際には、香典の持参が許されている。だが、堀井氏は自身では参列せず、秘書を代理に行かせて香典を渡していたとして公職選挙法違反に問われている。  Aさんによると、特捜部は22年3月の葬儀などについて特定していたという。 「裏金の事情聴取の中で、LINEなどのメッセージを見られて、すっかり裏金が香典に使われていることがバレている感じでした。堀井氏はLINEで『今日は東京だから』というメッセージとともに秘書に香典の金額を『1でいい』『この人は3万円だ』などと具体的な指示をしていました。秘書が代わりに堀井氏の名前が入った香典袋を持参するのが、当選1期のときから当たり前になっていたそうです。みんな罪の意識はなかった」 リレハンメル五輪では銅メダルを獲得した    香典代を裏金から出していた疑惑について、前出の後援会幹部もこんな証言をする。 「堀井氏は香典で3万円とか5万円と、わりと高額で包んでくることがありました。最初はポケットマネーかと思い、秘書に確認すると、事務所の経費だという。おまけに、堀井氏は参列していない。秘書に大丈夫かと聞くと『堀井氏の指示なので仕方ない』というばかり。裏金事件に続き、また今回の事件となって、元秘書らは『裏金があったので高額の香典が出せた』と言い、からくりがわかった」  堀井氏の裏金の使途については、サウナの利用料やスーツ代に使ったという報道もあるが、Aさんは裏金の使途について、こんな話をした。 「特捜部から、裏金でかつらを買っていないかと聞かれました。堀井氏がかつらの代金に使っていたこともバレちゃったようです」 かつらを着用し「二頭流」を自称  スピードスケート選手時代はスキンヘッドがトレードマークのようだった堀井氏だが、現在はかつらを着用して活動している。かつらを着けるようになったのは21年の衆院選で小選挙区で初めて敗れ、比例復活した後の22年ころから。そのころ始めたブログでは、「二頭流代議士」と称している。 〈今だからこそ明かす、26年間の我が闘争「ハゲ・コンプレックス」〉  というタイトルの22年3月20日付のブログでは、 〈私のコンプレックス…それは、ズバリ言いますと、“髪の毛”です。〉  として、スキンヘッドでの苦労やストレスについて綴っている。 〈カツラを手にしてからの「心の動き」〉  という22年5月13日付のブログでは、かつらを着けて人前に出るまでの葛藤を綴り、 〈「よくぞ、この精神状態を乗り切って、夢を実現した!」と、自分ながらに思います。〉  と記している。 堀井氏の地元事務所に家宅捜索に入る東京地検の係官ら 「裏金事件は決着していない」  元秘書Aさんが言う。 「堀井氏のかつらは完全オーダーメードで、3、4カ月かかって堀井氏の手元に届きました。最初、プロの人に試着してもらうと、とてもフィットしていい感じで喜んでいました。今では2つか3つのかつらを持っているはずです。値段は50万円とか60万円、いやもっと高かったかもしれないです」  裏金でかつらの購入をしていた疑惑について、堀井氏の事務所に質問をしたが、期日までに回答はなかった。  堀井氏と同様に、有権者に香典などを提供していたとして立件されたのは、菅原一秀元経済産業相の例がある。菅原氏は2018年から19年にかけて選挙区内で香典や祝儀など総額約80万円を違法に寄付していたとして公職選挙法違反の疑いがもたれ、議員辞職した。その後、同法違反の罪で略式起訴され、東京簡裁が罰金40万円、公民権停止3年の略式命令を出した。  堀井氏についても、特捜部は略式起訴を検討していると報じられている。  安倍派の裏金事件のきっかけとなる告発をした神戸学院大学の上脇博之教授はこう話す。 「堀井氏が選挙区内の政治活動に裏金を使っていたとニュースになっています。政治活動なら、なぜ表のカネを使わないのか。何かやましいことに使うから、裏金が必要だったのでしょう。かつらまでも裏金となれば、個人的なものであきれるばかりです。裏金事件後、私は、堀井氏の裏金について刑事告発をしました。安倍派からのキックバックを過少申告した政治資金収支報告書を提出していた政治資金規正法違反(虚偽記載)などです。裏金事件は決着したという世論の流れがありますが、堀井氏をみてもまったくそうではありません」 (AERA dot.編集部・今西憲之)
コンビニやファミレスで相次ぐ「脱24時間営業」 働き手不足の時代、厳しい学生アルバイトの確保
コンビニやファミレスで相次ぐ「脱24時間営業」 働き手不足の時代、厳しい学生アルバイトの確保 (写真:Getty Images)    日本の働き手不足が危険水域に達している。地方だけでなく、都心の生活インフラにも影響が出始めている。もはや「働き手」欠乏症ともいえる状況に瀕している。特効薬はあるのだろうか。AERA 2024年7月29日号より。 *  *  *  10月から24時間営業をやめる予定という首都圏の50代のコンビニオーナーに話を聞いた。アルバイトの採用が難しくなる中、勤務経験の長い社員待遇の店員の離職を防ぐのが狙いだという。 「24時間営業で得られる利益を失っても、社員の働き方を見直し、働き手を安定的に確保することを優先させたほうが、結果的に長く経営を持続できると判断しました」(オーナー)  特に厳しいのは、週末や夜勤の担い手になる学生アルバイトの確保。そもそも応募に来る学生が少ない。面接に来ても「土日は休みたい」と勤務条件を逆提示される。採用してもすぐにやめてしまう。 「人と接するのが苦手というか……。レジなどでお客様からちょっと強めに何か言われると、すぐにやめてしまいます。コロナ禍で中学時代をマスクで過ごした子たちが、高校に入ってアルバイトで接客しようとしてもかなり厳しい気がします」(同)  店舗で雇用している4人の社員は20~30代。10月以降は午前5時~午後11時の営業にシフトする。 「この営業時間であれば社員が夜勤に入らなくて済みます。社員にはコンビニで働きながら、結婚も子育てもできる、と思ってもらいたい。それには1日8時間を超える時間外労働を減らして有給休暇もとれる態勢にしたい、と思ったのが時短営業に踏み切る理由です」(同)  数時間の勤務に入ってもらうスポットワーカーの募集も試みたが、人材の当たりはずれの幅が大きく、当日数時間前にキャンセルする人もいるなど、安心して任せるにはほど遠いのを実感した。チェーン本部も表向きは時短営業には柔軟に応じる姿勢を見せるが、本音では24時間営業を続けさせたい意向がにじむという。「24時間営業をやめるとこれだけ利益が減ります」と本部が提示したデータには、時短分の人件費削減が反映されていなかった。「このデータはおかしい」と指摘すると、バツが悪そうに引っ込めた。時短営業を思いとどまらせるため、作為的なデータを提示したとしか受け取れなかった、とオーナーは憤慨する。 (写真:Getty Images)   「呆れてしまい、まだこんなことするんですか、と少し声を荒らげてしまいました」 「年中無休」「24時間営業」で家族を縛るコンビニ経営は時代錯誤だとオーナーは訴える。 「コンビニのフランチャイズシステムは家族経営で支えられてきました。この仕組みができたのは専業主婦が当たり前だった昭和の時代で、オーナーの妻の労働力は無償提供を前提にしています。オーナー夫婦のいずれかは他の仕事に就くべきです。そのほうが家計も潤います」 人手不足倒産が増加  コンビニオーナーの高齢化も進む。近隣店舗の60歳を過ぎたオーナーが深夜勤務中に脳出血で倒れた。同じことが、いつどこのコンビニ店舗で起きてもおかしくはない、とオーナーは考えている。  日常の便利さを支えるだけでなく、災害時の「指定公共機関」でもあるコンビニはもはや社会に不可欠な公共財だ。一方で、「年中無休」「24時間営業」の経営スタイルは構造的な働き手不足の時代に持続可能なビジネスモデルといえるのか。  コンビニ経営に詳しい武蔵大学の土屋直樹教授は24時間営業をしない店舗が増えている背景には、働き手不足と採算性の問題があると指摘する。 「コンビニの業務は複雑化していますが、最低賃金ぎりぎりの時給で、接客のストレスもあるコンビニの仕事は敬遠されがちです。オーナーにとっては時短営業で人件費を圧縮し、利益率の低い時間帯は店を閉めることが経営効率アップにつながります」  日本では今、ほとんどの産業で働き手不足が顕在化しつつある。帝国データバンクが5月に発表した、24年度の業績見通しに関する調査では、業績の下振れ要因として「人手不足の深刻化」を挙げる企業の割合がトップ。実際、従業員の退職や採用難、人件費高騰などを原因とする「人手不足倒産」は23年度が過去最多の313件と前年度から倍増。24年上半期(1~6月)も182件発生し、過去最多を大幅に上回るペースで推移している。  今回アエラが実施したアンケートでも、さまざまな職場から悲鳴のような声が寄せられた。中でも看過できないのは、公的機関で働く人たちが機能不全寸前だと訴える現実だ。 (写真:Getty Images)   「小学校の現場で教職員の人数が必要最低限しかいない」と嘆くのは東京都の男性教諭(43)。複数の職員が超過勤務で切り盛りしているが、「仕事を何とかこなすだけの無機質な職場になってしまう」と胸を痛める。「仕事の量に対して絶対的に人数が足りない」と訴える埼玉県の公務員の男性(45)は現場対応から管理職の業務まで一人で当たっているという。愛知県の保育士の女性(51)は「人手不足で職場がギスギスしている」と感じ、そのしわ寄せで子どもの命にかかわる保育事故が起きないかと懸念を深めている。栃木県の相談業務の女性(52)も「働いているみんなに余裕がなく、休みが取りづらい」と吐露。互いに面談し、つらさを吐き出し合うことで何とか業務を維持しているという。  一方、コロナ禍で大きな打撃を受けた飲食業界では、人口減少や働き手不足などを見据えた変化も起きている。 ファミレスも22時閉店  週末の午後9時。東京・渋谷の道玄坂はすれ違う人の肩と肩が触れ合うほどの混雑だった。この坂沿いにある全国チェーンのファミリーレストランに入店しようとすると、店員がちょうど入り口に「CLOSE」の立て札を掲示するところだった。ラストオーダーは午後9時だが、ドリンクコーナーのみの利用なら、と何とか入店させてもらった。  午後10時の閉店10分前から店内にBGMが流れる。音量が徐々に上がるが、席を立つ客はまばら。座席の半分の40人ぐらいはまだ店内にいる。閉店5分前で、まだドリンクコーナーで飲み物をおかわりする人もいた。変化が起きたのは閉店2分前。「閉店の時間がまいりました」というアナウンスとともに、ドビュッシーの「月の光」が流れる。すると、席を立つ客が相次ぎ、あっという間にレジ前に行列ができた。ただ、ほとんどがキャッシュレスで支払うこともあり、レジはスムーズに進み、10分後には店内に一人も客は残っていなかった。閉店の1時間前にオーダーストップした厨房では、店員が片づけをほぼ終えた様子で談笑していた。 AERA 2024年7月29日号より    ファミリーレストランと言えば、かつては24時間営業の代名詞のような存在だった。それで思わず、出口付近にいた大学生の男女のグループに「ファミレスが午後10時に閉店するのって早いと思いませんか?」と尋ねてみた。1人は「渋谷にしては早いかな」と反応したが、他のメンバーからは「でも居酒屋じゃないから」「ファミレスだから仕方がない」といった意見が続いた。驚いた。それでつい、50代の筆者はこのファミリーレストランがもともと24時間営業だったことを伝え、「かつてのファミレスは終電に乗り遅れた時に始発までドリンクバーで粘れるところ、というイメージだった」とこぼすと、一斉に「えーそれ知らなかった」「ファミレスにそれ(24時間営業)を求めていなかった」と逆に驚かれてしまった。  ライフスタイルや価値観の変化とともに、企業のサービスに対する消費者の意識も着実に変化している。 消費者ニーズとも合致  リクルートワークスが22年に20~60代を対象に実施した「企業のサービス」に対する考え方の調査結果が興味深い。料理の味が十分おいしい前提で、飲食店の具体的なサービス内容の事例を挙げ、それによって次回の来店をやめることにつながるかを問う調査だ。  その結果、「飲み水やお茶、飲み物はセルフサービス」で90.3%、「配膳はロボットやベルトコンベアなどのシステム」で85.3%、「注文はオンライン」で75.3%、「店員の『おもてなし』はなし(気遣いなし、愛想なし)」で53.4%が、それぞれ「来店をやめることにつながらない」や「気にならない」「むしろそのシステムの方が良い」と肯定的な回答をした。  また、コンビニの営業時間について「24時間営業である必要があると思いますか」との質問に、「必要ない」が7割近くに上った。24時間営業が必要ではないと回答した人が希望する開店時間の1位は「午前6時」(36.2%)。午前5~7時で全体の8割強を占めた。希望する閉店時間の1位は「24時」(33.6%)で、22~24時が全体の8割近くだった。  コンビニやファミレスの「脱24時間営業」の動きは、働き手のみならず、消費者のニーズや意識とも合致している可能性がある。構造的な働き手不足と、企業サービスの過剰感や公的機関の過重負担をどう捉え、持続可能な形にバランスを図っていくか。これからの日本社会を考える上で不可避の課題の一つといえそうだ。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月29日号より抜粋  
思いがけず不倫の当事者になってしまった50歳女性に、鴻上尚史が「やり過ごさない方がいい」と伝えた真意
思いがけず不倫の当事者になってしまった50歳女性に、鴻上尚史が「やり過ごさない方がいい」と伝えた真意   鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・小山幸佑)  思いがけず不倫の当事者になってしまった50歳女性。マッチングサイトで知り合った相手が既婚者で、罪悪感と恋愛心の間で心が敏感になり、些細なことでもストレスに感じてしまうという。そんな女性に、鴻上尚史が贈った「やり過ごさないほうがいい」というアドバイスの真意とは。 *  *  * 【相談225】  マッチングサイトで出会った相手が既婚者でした。人の不幸を待ち望むような立場の自分がつらいです。不適切な関係から始まった間柄はうまくいくのでしょうか(50歳 女性 自分の気持ちがわからない)  昨年、思いがけず不倫の当事者になってしまいました。マッチングサイトで知り合った相手が既婚者だったのです。仮面夫婦で家庭内別居状態なので、私と知り合う前から離婚の意思はあったとのこと。大変ショックでしたが、お互い問題を意識しながら理解を深めてきました。最近、奥様に「離婚したい」と言ったとのことです。奥様の反応は、「離婚するつもりはない」。その後2カ月近く、特に変化なく今に至ります。いろんな考えが頭に浮かびます。離婚の意思表示はしてくれたので、あとは冷静に待つだけとも言えますが、とにかくつらいのです。電話がこない、既読がつかない、なんでもストレスの原因になります。彼の言動に一喜一憂し、猜疑心や嫉妬、いつ状況が変わるか分からない不安から、物事に対して悲観的になり、もう振り回されたくない、という気持ちも。彼や奥様に対して意地悪な感情が浮かんでしまい、私の場合、不倫をしていると性格が悪くなってしまうようです。食欲もなく、時々手が震え、寂しさは、自分の時間を大切に生きようとする気力を奪ってしまうようです。既に夫婦の関係は破綻していたとは言え、ひとさまの不幸を待ち望むような立場であり、自分で自分が嫌になります。仮に離婚したとしても、不適切な関係から始まった間柄は、うまくいくのでしょうか? このように、頭の中がぐちゃぐちゃの日々を、どうやり過ごせばよいのでしょうか?     【こちらも話題】 あなたの「お悩み」に、鴻上さんがお答えします! 「鴻上尚史のほがらか人生相談」 https://dot.asahi.com/articles/-/226355   本連載の書籍化第5弾!『鴻上尚史のおっとどっこいほがらか人生相談』(朝日新聞出版) 【鴻上さんの答え】  自分の気持ちがわからないさん。大変ですね。名前が長いので「気持ちさん」にしますね。  さて、気持ちさん。マッチングサイトで出会ったんですね。  僕は、日本人がマッチングアプリで出会うようになって、良かったと思っています。  それまで、日本人の出会いのほとんどは「職場」「友人」「学校」の三つしかありませんでした。職場を通じて知り合うか、友達の紹介を通じて知り合うか、学校関係を通じて知り合うかしかなかったのです。  僕はNHKBSで「cool japan」という番組をやっているのですが、10年近く前、外国人と日本人に「どうやってパートナーと出会いましたか?」というアンケートを取りました。その当時、日本人は見事に前述した三つだけでした。  一方、外国人は「銀行の窓口に並んでいて」とか「公園のベンチで」とか「飲み屋で」とか、さまざまな出会いがありました。  これは、僕がいつも言っている「日本人は自分の『世間』の人の紹介がないと出会えない。知らない人、つまり『社会』の人は、出会いの対象とは考えていない」という分かりやすい事例です。  「世間」というのは、自分が知っている人の世界ですね。  その反対語が「社会」で、自分が知らない人の世界です。  マッチングアプリによって、「日本人も、『世間』の人の紹介ではない人と出会い、交際を始める」ということが起こり始めたのです。  これは、日本人の人間関係を根本的に変えていく大きな変化だと僕は思っています。  当然、大きな変化ですから、初期はいろいろとゴタゴタします。今、人類がスマホやAIとどうつきあったらいいか分からず、ゴタゴタしているのと同じことですね。 「世間」の人から誰かを紹介されることの利点は、「その時点で、人物保証がある」ということです。  誰も、「金遣いが荒くて、すぐに暴力をふるう」なんて人を、友達に紹介はしないでしょう。  紹介する方も、一応、責任を感じて、自分が分かる範囲で、「紹介する人物はまともかどうか」を確認するでしょう。   ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(gettyimages)    結果、「職場」「友人」「学校」関係で紹介される人は、ある程度の信用があるということになります。  ですが、マッチングアプリで出会う相手は、そんな「誰かの保証」はありません。自分で判断するしかないのです。  もうひとつ、「世間」の人の紹介だと、「紹介してくれた人を責める」ということができます。「いい人がいるって言ったのに、あの人は、借金もあったし妻子もいたし盗癖もあった」なんて責められるのです。  人を責めるということは、最終的には自分の責任ではないと思えるということです。「自己責任」なんて言葉から遠い世界で私達は生きていたんですね。  でもマッチングアプリの場合は違います。「この人はいい人」と思って交際を始めた時に、「じつは、すぐに殴る人」だと分かっても、責める相手は自分しかいません。自分で選んだのだから、自分で責任を取るしかないのです。 「世間」で生きていた私達は、長い間、誰かの紹介でしか人と会わなかったのです。  こう書くと、「マッチングアプリは日本人には不向き」じゃないかと思う人もいるでしょう。マッチングアプリは、昔なら「どこの馬の骨とも分からん奴」と出会うシステムですからね。僕も、今までの日本人には不向きだと思っています。  ですが、マッチングアプリは、好むと好まざるとにかかわらず、事実として、これからますます広がっていくと思います。それは、「世間」というものが中途半端に壊れて、「職場」や「友人」「学校」のつながりが薄くなってきているからです。  つまりは、出会いのためには、マッチングアプリを使う比重が重くなっていくということです。  ですから、マッチングアプリを使う時は、今までの「世間」の人に紹介されたやり方は通じないということを確認する必要があるのです。  気持ちさん。長々と、マッチングアプリのことについて書いてきたのは、気持ちさんの文章を読んで、今までの「世間」の人に紹介された相手と同じ交際感覚なんじゃないかと感じられたからです。     【こちらも話題】 仕事が好きなため、家事育児で余裕がないストレスから些細なことでイライラしてしまう39歳女性に、鴻上尚史が「母親として、幸せでいるべき」と伝えた真意 https://dot.asahi.com/articles/-/224280      マッチングアプリで出会った人は、誰の「信用保証」もないので、自分で判断しなければいけません。この人は信用できるかどうか、自分自身の冷静な目で判断する必要があるのです。  性善説とか性悪説とかではなく、冷静に事実を見るのです。 「仮面夫婦で家庭内別居状態なので、私と知り合う前から離婚の意思はあった」と、気持ちさんはさらりと書きますが、僕は少々疑います。不倫している男で「離婚の意思はない」という人はほとんどいないだろうと思っているからです。だって、「離婚の意思はない」と言った時点で、相手が去っていく可能性が高いでしょう。「夫婦関係がうまくいってない」「妻とは何年もセックスしていない」「家に自分の居場所がない」なんてことを間違いなく言うはずです。  そういう時に、マッチングアプリの恋愛は、「本当のことを言っているのかどうか」を、冷静に判断する力が求められているのです。 「世間」の人の紹介なら、周りから確認できます。「あの人、奥さんのこと、なんか言ってた?」とか「普段から正直な人?」なんて、確かめられます。  海外旅行には友達二人で行く方が、一人で行くより、だまされる確率が高いと僕は思っています。二人だと、「一緒に食事しよう」と誘われても「どうする?」「どうしよっか?」とお互いに判断を預けてしまい、ぼったくりの店にだまされる、なんてことが起こるのです。  一人だと、自分で判断するしかないのです。「すっごい美味しいお店だよ」と言われても、「微笑んでいる目の奥が全然笑ってない」とか「どこか冷たい印象がある」「なんか嘘くさい」と見極めるしかないのです。  そして、何度かだまされたとしても、自分一人の場合は、学習して「あ、これはこの前と同じパターンだ」と分かります。でも、二人だと結局、友達に判断を預け、友達もこっちに判断を預け、だまされても何も学習しないまま、同じ過ちを繰り返すのです。     【こちらも話題】 農家に嫁ぎ、代々伝わる年中行事を続けることに疑問を持つ48歳女性に、鴻上尚史が「伝統は、変わってもいい」と伝えた真意 https://dot.asahi.com/articles/-/225495    気持ちさん。冷静に聞いて下さいね。「最近、奥様に『離婚したい』と言った」のに、「奥様の反応は、『離婚するつもりはない』」で、「その後2カ月近く、特に変化なく今に至ります」というのは、僕には、男性は本当の意味では離婚するつもりはないと感じられます。  そもそも、本当に「離婚したい」と言ったかどうかも、僕は疑います。本当に離婚したいのなら、「離婚したい」と言った時点で行動を起こすはずです。自分には今、好きな人がいる、だから離婚してほしい、裁判になってもかまわない、とにかく離婚したい。  そういうアクションが何も起こらないということは、男性は、残念ですが、現状をだらだらと続けたいだけだと思えてしまうのです。  気持ちさん。「頭の中がぐちゃぐちゃの日々を、どうやり過ごせばよいのでしょうか」と書かれていますが、「やり過ご」さない方がいいと僕は思います。  提案としては、今の相手と、関係をはっきりさせることです。例えば、「三カ月以内に離婚の手続きを始めて欲しい。そうでないのなら、別れる」と宣言することです。  それで相手が動くかどうか見極めます。  それで動いてくれればとても幸福ですが、「分かった」と言いながら、三カ月をすぎてもダラダラと現状維持が続くなら、すっぱりと別れることをお勧めします。  ショックを受けましたか。でもね、気持ちさん。心配しなくていいと思います。  気持ちさんには、マッチングアプリがあります。今の人と出会ったように、マッチングアプリでまた出会えます。  これは本気で言っています。「世間」の人の紹介でつきあいだした時は、別れようと思った時、紹介してくれた人の顔が浮かんだりします。「申し訳ない」とか「報告しないと」とか思って、憂鬱になります。  でも、マッチングアプリは違います。自分の責任で自分の判断で相手も選んだのです。  だから、やめても問題はないのです。  気持ちさん。「頭の中がぐちゃぐちゃの日々」をはっきりさせるために、行動を起こしませんか。それが僕のアドバイスです。 【鴻上さんへの相談、募集中!】あらゆる人間関係、組織のなかで、相談者の身に起きている困ったこと、身動きのとれない境遇、逃げ出したい状況など、すべての悩める事態に鴻上尚史さんが答えます。ぜひ、あなたの悩みをこちらからご投稿ください。 ※投稿に当たっては、注意事項を必ずお読みください。
ジャニーズ妻の“治外法権”と言われた「瀬戸朝香」 夫・井ノ原快彦を支える“おしどり夫婦”の現在地
ジャニーズ妻の“治外法権”と言われた「瀬戸朝香」 夫・井ノ原快彦を支える“おしどり夫婦”の現在地 ドレス姿がまぶしい瀬戸朝香(写真:KCS/アフロ)    7月2日、都内で行われた将棋の藤井聡太七冠の棋王就位式に、俳優の瀬戸朝香(47)が登場したことが話題となった。2人は同じ愛知県瀬戸市出身とあり、「ついに瀬戸の2大スターが顔を合わせた!」と世間が盛り上がると同時に、「瀬戸朝香」という芸名にも注目が集まった。  瀬戸は藤井棋王との対面を待ちわびていたようで、祝辞の中でこう語った。 「藤井棋王に本日初めてお会いすることができて、私は本当にこの日を待ち望んでおり(略)よく地元に帰ったりするんですけれども、そこらへんを歩いていれば『藤井棋王に会えるのかな』なんて思いながら、お買い物したり食事したりしていたんです」  これに対し、藤井棋王も「瀬戸市出身でよかったと、改めて感じております」と返した。  この日、瀬戸はシックなノースリーブのセットアップ姿で登壇。SNSなどでは「相変わらず美しい。全盛期の頃から時が止まったように若々しい」「久々に見たけど、落ち着いた話し方と気取らないキャラクターが昔からすてき」といった賛辞が相次いだ  一方で、瀬戸市広報大使も務める瀬戸に対し、「瀬戸出身だから瀬戸朝香って芸名なのかな?」「出身地と名字が同じなのは偶然?」と芸名に興味を示す人も目立った。瀬戸の芸名について、エンタメ誌の編集者が次のように説明する。 「中学時代に地元でスカウトされ、芸能界入りした瀬戸さんですが、当時のマネジャーが芸名の名字に悩んだ末に『瀬戸市からとって瀬戸朝香で』と言ったという話は有名です。以前、テレビ番組でこのエピソードを明かした瀬戸さんは、『ふざけんなって思って。地元の名前を軽く付けたなと、やってくれちゃったなと思って。瀬戸市は大好きなんですけど“瀬戸朝香で~す”なんて軽く言えないって思った』とぶっちゃけて笑いを誘っていました」 ベビーカーのイベントに出席した瀬戸朝香(2014年)   ジャニーズ妻としては異例のママタレ化  芸名に不満を抱えつつもデビューした瀬戸は、1994年放送の月9ドラマ「君といた夏」(フジテレビ系)のヒロインに抜擢され、大ブレーク。  稲垣吾郎とダブル主演を務めた連続ドラマ「東京大学物語」(テレビ朝日系)や草なぎ剛と同じくダブル主演を務めた「成田離婚」(フジテレビ系)をはじめ、数々の作品で好演し、俳優としての実力を発揮した。  また、プライベートでは95年放送の主演ドラマ「終らない夏」(日本テレビ系)で共演したV6(当時)の井ノ原快彦と交際し、2007年に結婚を発表。この時の異例の対応について、前出の編集者はこう振り返る。 「旧ジャニーズ事務所のタレントの妻といえば、夫がアイドルという特性上、夫婦共演はタブー。家庭や子どもをネタにするママタレ活動も“ほぼNG”の状態が長らく続きました。こうしたなか、瀬戸さんは結婚会見に井ノ原さんとそろって登場。さらに、10年と13年に出産してからは、ベビーカーのイメージキャラクターを務めたり、子育てについてメディアで語ったりと、唯一“治外法権”のような存在でした」  そんな瀬戸は近年、21年12月に放送された「ドクターX~外科医・大門未知子~」(テレビ朝日系)の第8話にゲスト出演し、「約3年ぶりの女優業復帰」が話題になった。そして、22年5月末に30年間所属した芸能事務所を退社すると、同社と業務提携しつつ、フリーとして活動を開始した。 瀬戸朝香(写真:ロイター/アフロ)   デビュー時は「4000校」の中から発掘された  それから約半年後、23年1月放送のバラエティー番組「行列のできる相談所 3時間SP」(日本テレビ系)に出演すると、放送数日前のブログで「今年は、昨年よりも活動の場を広げていきたいと 思っていますのでお知らせが 沢山できるよう頑張ります」と宣言。しかし、その後は目立った芸能活動は見られない。その理由を前出の編集者が語る。 「瀬戸さんが活動の場を広げると宣言した直後、旧ジャニーズ事務所の性加害問題が社会問題となり、夫の井ノ原さんを取り巻く状況が激変しました。昨年12月、井ノ原さんは旧ジャニーズ事務所の後継会社・STARTO ENTERTAINMENTの幹部に就任し、現在も俳優兼経営者として奮闘しています。そうしためまぐるしい変化もあって、今の瀬戸さんは自分のことよりも『家族を支えることを優先したい』と考えているのではないでしょうか」  最近は自身の姿をインスタグラムに投稿しているほか、数年前に立ち上げたアクセサリーブランドのディレクター業も務めている様子の瀬戸だが、芸能評論家の三杉武氏はこう話す。 「瀬戸さんといえば、前所属事務所が4000校ほどの中学・高校を対象にかわいい子を調査するなかで、瀬戸市で評判だった14歳の瀬戸さんに辿りついたという逸話が有名です。また、井ノ原さんとの結婚に関しては、交際中に1度は破局するも、約5年後に偶然再会し、復縁してゴールインを果たすというドラマチックな展開も話題になりました。近年は育児に加えて、井ノ原さんが大変な状況ということもあってか、芸能活動はセーブ気味ですが、今後ドラマや映画などでのさらなる活躍も期待したいですね」  前述の棋王就位式では「女優の瀬戸朝香です」とあいさつ。瀬戸が再び俳優として活躍する姿を待ち望むファンは少なくないはずだ。 (小林保子)
筋ジストロフィー、末期がん、ALS…パートナーが難病でも「結婚」に踏み切った3組の夫婦から考える“幸せのカタチ”
筋ジストロフィー、末期がん、ALS…パートナーが難病でも「結婚」に踏み切った3組の夫婦から考える“幸せのカタチ” 6月1日に行われた、誠樹さんと美智子さんの結婚式の様子(写真:誠樹さん提供)  日本人の生涯未婚率が増加の一途をたどるなか、「結婚に興味がない」「事実婚でよい」と、婚姻制度への疑問を持つ人たちは増えている。一方で、パートナーが難病を患っていたり余命宣告を受けたりと、大きな困難を前にしても、あえて籍を入れることを選ぶカップルもいる。病と向き合う3組の夫婦の姿から、結婚することの意義を考えてみる。 *  *  *  初めて出会った時は、互いが運命の人だなんて夢にも思わなかった。  電動車椅子サッカークラブ「横浜クラッカーズ」の監督を務める平野誠樹(もとき)さん(44)は約5年前、車椅子サッカーの体験会と講演を頼まれ、地域の看護学校を訪れた。  学生たちに質問はないかたずねた時、一人の女性が手を挙げた。「平野さんって休みの日は何をしてるんですか?」。車椅子サッカーのことでも、誠樹さんが3歳の時に発症した遺伝性の難病・筋ジストロフィーによる障害のことでもなく、自分という人間そのものに興味を持ってくれている。面白い人だなと思った。  2021年、誠樹さんは奇跡的にその女性と再会を果たす。看護学校を卒業し、訪問看護師となった彼女は、偶然にも誠樹さんの担当となったのだ。相変わらず、自分のことを障害者ではなく一人の人間としてまっすぐに見てくれる彼女に、恋をした。  今は妻となったその女性、美智子さん(40)は誠樹さんとの出会いを「いわゆる“ビビッと来た”というやつです(笑)」と振り返る。だが、誠樹さんが全身の筋肉が徐々に壊れていく進行性の病を患っていることは、不安材料にならなかったのだろうか。 「好きになった人がたまたま筋ジストロフィーだったというだけ。人は誰でもいつか死ぬわけで、看護師という仕事柄、突然亡くなる人もいっぱい見てきました。強がりに聞えるかもしれないけれど、『誠樹はいつ死んじゃうんだろう…』みたいなおびえはないです」 取材の日に二人が着ていたおそろいのTシャツは、入籍して1年の記念日となる5月1日に誠樹さんが用意したもの。「“うちの嫁”って言いたいんですよね。こんなに素敵な人と結婚できたんです、自慢の妻ですってアピールしたい」(誠樹さん)(撮影/大谷百合絵)  今年6月1日、二人は互いの家族や親友を招き、ささやかな結婚式を挙げた。籍を入れた理由について尋ねると、こう返ってきた。 「結婚って、自分がこの人のことをどれだけ好きか、大事にしているかを端的に周りに伝える手段だなと。それに、どっちかが死んだ後も残る、『この人と一緒に生きた証』がほしいという思いもありました」(美智子さん) 「いつでも別れられる気楽さは捨てて、身を挺(てい)してでもミチのことを守りたいっていう覚悟ができたんです。障害がある俺が『身を挺してでも』なんて、面白いでしょう? でも、ミチは強そうに見えてすごく繊細だから、精神面では自分が支えるポジションにいたい」(誠樹さん) ■  ■ 20代でステージ4の乳がんと宣告され…  平野夫妻が病気を障壁と思わずに結婚を決めた一方で、パートナーの病が結婚のきっかけとなった夫婦もいる。  愛知県在住の黒岩雅さん(28)は2年前、左胸のしこりに気づいて病院に行き、乳がんと診断された。腫瘍の大きさは8センチ、しかも肺やリンパ節に転移しているステージ4の末期がんだった。雅さんは不安に押しつぶされそうになりながら、付き合いはじめて約1年半の恋人・大誠さん(26)にLINEをした。  連絡を受けて、会社からタクシーで病院に駆けつけた大誠さんは、当時の心境をこう振り返る。 「『あと2、3年仕事を頑張ってお互い収入が安定したら結婚しようね』『子どもが産まれたらどんな名前にしようか』なんて二人で話していた明るい未来が、全部遠くなっていくような感覚でした。病院に着くと、妻は『もう治んないんだって』と……。こらえきれず、ロビーで抱き合って泣きました」  一方の雅さんは大誠さんを待つ間、病状のほかにも大きな不安にさいなまれていた。 雅さんと大誠さん(写真:雅さん提供) 「彼を私につなぎ留めておくことは本当に正しいんだろうかって何度も考えていました。でも彼の顔を見た時、どうしよう、私から別れを告げるなんてできない……という気持ちが大きくなってしまって」  だが、病院内の喫茶店で大誠さんに告げられたのは、『結婚してください』という予想外の言葉だった。大誠さんは、突如プロポーズに踏み切った理由をこう話す。 「結婚式でよく『病める時も健やかなる時も』って言いますけど、たまたま『病める時』が早く来ただけ。近くにいればいるほど、彼女のしんどい姿を見るのはつらいとは思いますが、彼女がつらい時にそばにいられないほうがつらいので」 自分が死ぬより「怖いこと」  互いの両親は「二人が決めたことなら」と結婚を祝福してくれた。大誠さんは父親から、「(雅さんの病気が分かって)逃げるような奴じゃなくてよかった」と背中を押してもらい、プロポーズの1週間後に籍を入れた。  雅さんは主治医から「5年間生きることを目標に頑張ろう」と言われており、3週間に一度の抗がん剤治療に励んでいる。投与後1週間は、何人もの人が覆いかぶさってくるようなだるさと吐き気で、ベッドとトイレを行き来するのがやっと、という激しい副作用に見舞われる。  そんな苦しい治療を続ける裏側には、“恐怖”があるという。 「自分が死ぬことが怖いというより、彼を一人置いていけないという気持ちが強くて。家族になったということは、最後まで添い遂げる責任が伴うと思っているので、いつか訪れるお別れは、なるべく遠くの未来であってほしいと願っています」  そんな雅さんの不安を、大誠さんは優しく受け止める。 「妻は寂しがり屋なので、もし僕が先に死んだら大変だと思うんです。妻にそんな悲しみを味わわせるよりは、僕が引き受けるほうがいいかなと」 雅さんと大誠さん(写真:雅さん提供)  非情な現実に立ち向かう二人だが、その姿に悲壮感はなく、むしろ新婚の喜びに満ちあふれている。 「妻の優しさに日々癒やされるし、妻と食べるごはんは、一人で食べるごはんよりもびっくりするくらいおいしい。この子がいるだけで人生バラ色なんです」と、雅さんの肩にそっと手を置く大誠さん。雅さんは、「私も幸せですね。家族になった責任感すらいとおしい」と、にっこりほほえみ返した。 ■  ■ 表情と眼球しか動かない“元妻”と再婚  最後に紹介する、妻の難病を機に再婚を果たした夫婦の姿からは、“男女の愛”という枠に収まりきらない結婚の奥深さが垣間見える。  YouTubeチャンネル「M’s channel」で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患うなつみさん(49)との日常を発信している翔さん(49)は、今年3月、LIVE配信でなつみさんとの結婚を報告した。  二人はもともと夫婦として暮らしていたが、なつみさんの実家とのトラブルが原因で5年ほど前に離婚。しかし3年前、なつみさんは、神経障害によって筋肉が徐々に機能しなくなるALSの診断を受けた。実家との折り合いが悪かったなつみさんは元夫の翔さんを頼り、翔さんも「俺がいなかったらなつみは一人になっちゃう」と心配し、今後の介護を引き受けることにした。  ALS患者の平均余命は、発症から3~5年と言われている。なつみさんの症状は、当初は足先の踏ん張りがきかずつまづきやすいといったものだったが、次第に車椅子が必要になり、寝たきりになり……と、筋肉の衰えは進んでいった。現在は表情と眼球しか動かせず、人工呼吸器をつけたことで声も出ない状態だ。体は動かなくても意識や思考ははっきりしているため、視線の動きで文字を入力できる「意思伝達装置」でコミュニケーションをとっている。 面会に来た翔さんにリップクリームを塗ってもらうなつみさん(写真:YouTubeチャンネル「M’s channel」の動画から) 「尽くしているとは思っていません」  そんななつみさんを、翔さんは今年2月まで自宅で介護してきた。だが翔さんは、「この3年間、介護に疲れたりつらくなったりしたことは1日たりともない」という。 「自分の中でなつみを病人扱いしてこなかったからかな。これまで通りくだらない話ばかりして、二人で笑って過ごしてきたんですよ。なつみは一緒にいるのが当たり前の存在。介護によって自分の時間が削られたことを、犠牲になっているとか尽くしているとは思っていません。彼女は時々『もういいんだよ』って言うんですけど、『その話はやめよう』と打ち切ります」  翔さんがなつみさんとの再婚を決めたきっかけは、なつみさんが人工呼吸器をつけるにあたり、主治医から施設介護への移行を勧められたことだった。たんの吸引など24時間態勢のケアが必要になることを踏まえた提案だったが、翔さんはこれまで通り在宅介護を続けるつもりだった。しかし、要介護者の介護方針を決める「キーパーソン」は原則、実の家族が担うため、「内縁の夫」である翔さんの訴えは、病院側になかなか聞き入れられなかった。 「なつみも自宅で過ごしたいと願っているのに、このままだと実家の家族の意見が採用されて、施設介護が決まってしまう……」。そう危惧した翔さんは、なつみさんと法的に“家族”となることで、二人の希望をかなえることにした。 「M’s channel」の動画には、婚姻届を手にした翔さんに「俺と結婚する?」と尋ねられ、眉をハの字にゆがめた泣き顔で「うん」とまばたきをするなつみさんの姿が映っている。 翔さんに婚姻届けを差し出され、泣き笑いの表情を浮かべるなつみさん(写真:YouTubeチャンネル「M’s channel」の動画から) 記者が病室で見た、なつみさんの今  最終的に二人は、たんがつまって窒息に陥るなど在宅介護のリスクを鑑みて、施設介護に切り替えることを決めた。だが翔さんは、籍を入れたことに意義を感じているという。 「世の中には、妻がALSになったことで逃げちゃう夫もいるらしくて、この状況で結婚することでなつみが安心できたならよかったなと。まあ俺としては、結婚前も後も、家族として最後まで責任を持つ覚悟は変わらないんですけどね」  記者は7月上旬、なつみさんに会うために病室を訪れた。そこには、約束の時間より40分遅刻してきた翔さんに「遅かった」と不満を訴え、「さみしい」と顔をくしゃくしゃにして涙を流すなつみさんの姿があった。  翔さんは取材の最後、静かにこう口にした。 「なつみ、前は感情を表に出すタイプじゃなかったんです。ずっと自分を隠していたんでしょうね。でもこの先、どんな彼女になろうが、最後まで一緒に過ごすつもりです。なつみがこの病気になってよかったとは思わないけど、おかげで、『お互いが好き』という段階からもっと進んだ、『お互いがお互いの一部』になって果たす結婚もあるんだなと気づかされました」  取材した3組の夫婦に、「事実婚を選ぶカップルをどう思うか?」と尋ねたところ、一様に理解を示していた。家族のあり方もパートナーシップも多様化する現代、幸せの形は人それぞれ。だが、病と向き合いながらも籍を入れた夫婦たちの満ち足りた表情は、結婚というものが今なお、「誰かとともに生きる覚悟」として価値を持つことを物語っているように思う。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
大阪の営業で磨いた人間関係まず「YOU」が第一 キリンビール・堀口英樹社長
大阪の営業で磨いた人間関係まず「YOU」が第一 キリンビール・堀口英樹社長 人口減の日本に比べ、アジアやアフリカには人がいっぱいいる。持続的成長には海外が重要で、いま国際化は自身で手がけている。海外出張も増えた(写真:狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年7月22日号より。 *  *  *  1991年4月、入社7年目に西日本最大拠点の大阪支社で営業第2部に所属。高級クラブからバー、スナック、居酒屋まで、酒類の流通を扱う業務用酒販店の担当になる。酒販店に自社のビールを扱ってくれる店を増やしてもらうのが任務で、受け持ったのは、大阪きっての飲食街「キタ」を中心とする関西一の激戦区の酒販店6社だ。  酒販店には多くの店を分担する営業部隊がいて、それぞれが一国一城の主。最大の酒販店には「城主」が44人もいた。「城主」たちに販売先をみつけてもらわなければ、売り上げは伸びない。でも、キリンを推してくれる人もいれば、競争他社に力を入れる人もいる。ともかく毎日いって、意思の疎通を図る。勝負は、人間関係に尽きた。  いまの時代、「自分を大事にする」と言って、相手の話をきちんと聞かない人が増えた。でも、商品やサービスを選ぶのは客で、「自分=I」が主語では成果はおぼつかない。「相手=YOU」が自分の仕事の成果を評価するのであり、このときの「YOU」は酒販店だ。取引を開拓してくれた店へ一緒にいったし、休みの日にゴルフのお供もした。要は、いい関係を築いて、可愛がられることだ。  父は東京のラジオ局の技術部に勤め、社交的というほうではなかった。一方、専業主婦だった母は人付き合いが豊富で、その血を受け継いだのだろう。人間関係は、子どものころから苦手ではない。 写真:本人提供 激戦区の攻防で毎晩「午前さま」やりがいでこなす  キリンのビールを扱ってくれる店には、自分1人でも回り、他社に奪われないように関係を固めた。激戦区の攻防で毎晩、帰宅は「午前さま」。まさに体力勝負だ。でも、最も腕利きの営業マンを集めたチームにいただけに、やりがいでこなす。  入社して大阪支店(のちの支社)で、まず清涼飲料の販売促進策を担当した。その実績を認められ、5年目に東大阪支店で枚方市を中心に家庭用酒販店、つまり「街の酒屋さん」を受け持った。その数は約200店。「街の酒屋さん」に2年間、家族のように可愛がられた。  仕事が一段落した後、夕食をご馳走になったことも、数えられないほどある。風呂にも入れてくれ、疲れて浴槽で眠ってしまい、溺れはしなかったがしばらく「うちの風呂で寝たのは、あなただけだ」と笑われ、「YOU & I=WE」の世界もできていく。ここで鍛え、さらに関西一の激戦区で磨いた人間関係の強さが、堀口英樹さんのビジネスパーソンとしての『源流』となる。  1962年1月、埼玉県川口市で生まれ、両親と弟の4人家族。川口で小学校へ入ったが、2年生で神奈川県藤沢市へ引っ越して転校。県立湘南高校で、ハンドボール部の創立メンバーになる。チーム競技は連携が第一。プレーは「YOU」を頭に置き、チームワークの「WE」で結果を出す。ハンドボールは慶応大学商学部でも、同好会で続けた。  就職は海外で仕事をしてみたいと、商社を考えた。でも、他業種の事情も知りたくて訪ね、そのなかにキリンビールがあった。国内のビール市場で約6割ものシェアを持ち、「次は国際化だ」という話を聞き、「ビールを海外で売るのもありかな」と入社を決める。  85年4月、大阪支店で清涼飲料の販促から始めた。そこから約10年、人間関係で「YOUを第一に」との『源流』が流れ出すなか、毎年の希望部署の申告では「海外」と書き続ける。  結婚するまでの約5年半、兵庫県西宮市の男性用独身寮にいた。寮は南北2棟に20人ずつ住み、4畳半の畳部屋でトイレは共同。冷暖房はなく、夏は暑くて冬は寒い。2棟の間に風呂と食堂があり、会社から帰ると食堂で誰かが飲んでいて、一杯付き合った。体を動かしたくて、出社前や休日に近くの武庫川沿いへいき、堤防沿いに7キロほどランニングをする。 「1人枠」で米国留学勉強漬けの日々も世界の多様性を知る  95年4月に東京の本社のビール事業本部へ異動し、3年後に「海外で仕事」の夢へ近づく。全社で毎年1人、米ボストンにあるマサチューセッツ工科大学へ1年間留学し、経営学修士号(MBA)を取る枠に選ばれた。98年4月、妻と小さい子ども2人を連れて渡米する。  6月から、勉強漬けだった。自宅で研究事例を1日に三つ、読まなければいけない。リポートの宿題もたくさん出て、食事と入浴と寝る以外は勉強。英語力は鍛えられたが、それよりも授業が一緒の世界からの人の、多様な発想や心理的な傾向の違いを学んだことが大きい。最初は「YOU」の側に立つことは難しかったが、徐々に壁は低くなり、よさを認め合う「WE」の世界になっていく。大阪時代の営業での経験が、重なった。  帰国後、また夢に近づいた。営業本部で営業部長代理として輸入ビールを担当する。さらに8年後の2008年1月、とうとう夢が実現する。出資先の豪メルボルンの乳製品会社の乳飲料部門へいき、マーケティング企画部長に就く。双方の技術力や素材力の相乗効果で、ヨーグルトベースの新商品を目指す。  メルボルンで、マラソンを始めた。大阪時代の独身寮でランニングはしたが、現地社員に誘われ、メルボルンマラソンのハーフ競技へ出た。マラソンは「孤独の長距離ランナー」のイメージが強く、スピードを維持して走り抜く強い意志が必要という「I」が主役。でも、1人で続けたランニングと違い、大勢のランナーと一緒だ。これも「YOU & I=WE」の世界でもあった。コロナ禍の前までに、フルマラソンへ10回以上出て、ベストタイムは3時間46分16秒。まだまだ、縮めるつもりだ。 米国のバーボンから乳飲料、清涼飲料といまは4社目の社長  次に、キリンが傘下にした米ケンタッキー州のバーボン企業のフォアローゼズ・ディスティラリーで、09年3月から4年間、社長を務めた。社員が100人ほどだから、人事から営業まですべての業務、すべての契約書をみて、会社というものの仕組みや各部門の機能が学べた。これで海外経験は3度。夢は叶ったし、満足度も高い。 「思いあれば道あり」という言葉が、好きだ。ホンダを興した本田宗一郎さんは「夢は、持ち続けなければ実現しない」と言った。思い続けていれば何かしらの道が開けるが、「まあいいか」と諦めた瞬間、可能性はゼロになる。自分の歩みを含め、若い社員に、そう話している。  2022年1月、持ち株会社キリンホールディングスの常務執行役員兼キリンビールの社長に就任。その前に、グループ企業で、岩手県で乳製品をつくっている小岩井乳業と、清涼飲料のキリンビバレッジで社長を務めた。米国のバーボン企業を合わせ、トップは4社目。すべて違う事業分野だ。  機会があれば、また海外の仕事がしたい。ただ、入社以来の夢をかなえてくれた会社へ、いまは恩返しの時期。『源流』から続く「YOU」が第一という流れの行く先は、本人にも、まだみえていない。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年7月22日号
社会人の愛子さまと18歳の成年を迎える悠仁さま 天皇家と秋篠宮家はどんな「夏休み」を過ごしてきた?
社会人の愛子さまと18歳の成年を迎える悠仁さま 天皇家と秋篠宮家はどんな「夏休み」を過ごしてきた? 17歳の誕生日を前にした秋篠宮家の長男悠仁さま=2023年8月、茨城県つくば市の農業・食品産業技術総合研究機構、宮内庁提供    皇室にも「夏休み」の時期が近づいてきた。自由気ままには動きけない皇族としての「立場」があり、皇室内にも厳密なルールがあるなかで、貴重な休暇のひとときを楽しもうとしてきた皇族方。今年はどんな夏の思い出ができるのだろうか。 *   *   * 「ご静養」は、普段忙しい天皇ご一家や皇族方が、心身を休めることができる貴重な機会だ。  宮内庁の公式インスタグラムは先日、黒い長靴を履いてタケノコ掘りに挑戦した天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、大きなスコップを手にしゃがみ込むショットを公開。自然体の姿が「かわいい」と話題を集めた。  これは今年5月、ご静養のために訪れた栃木県の御料牧場で撮影されたものだ。    皇室の各宮家が、夏をどう過ごすかはそれぞれだが、天皇家については大正期から昭和期に天皇や皇太子が滞在するためにつくられた「御用邸」で過ごすのが一般的だ。  天皇陛下と雅子さま、愛子さまは、夏は静岡県下田市の須崎御用邸か、栃木県那須町にある那須御用邸でご静養されることが多い。  しかし、御用邸の建物は古く、小さい子どもが遊べる施設も周囲には限られる。かといって、天皇家や皇太子家が自由に施設を選んで宿泊することはなかなか難しい。  そこで天皇ご夫妻は、愛子さまと御用邸に滞在しながら、夏を楽しく過ごせるように苦心されていたようだ。  愛子さまがまだ小さい頃、那須御用邸の滞在中には、「那須ステンドグラス美術館」や「那須テディベア・ミュージアム」に出かけたほか、愛子さまのお友だち家族と那須岳の南月山に登ったり、「那須どうぶつ王国」や「那須高原りんどう湖ファミリー牧場」で花火を鑑賞したりしたこともあった。  また、近くにあった「二期倶楽部」や「東急ハーヴェストクラブ那須」といったホテルで、お友だち家族との食事会や、プールで水泳の練習をすることもあった。     那須御用邸で愛犬「由莉」と過ごす天皇ご一家。由莉のバンダナは、梅干しやシソ、ゴマのおにぎりのイラストが描かれたユーモアたっぷりの柄だ=2019年8月、栃木県那須町、JMPA    休暇中の大きな楽しみといえば「食事」だが、那須御用邸近くにあるイタリアンレストラン「ジョイア・ミーア」は、天皇ご一家がよく通っていたというレストラン。  そして、「パパ」がインターネットで食事をする店をリサーチすることもあり、関係者によると、天皇陛下ご自身が調べてホテルのレストランを訪問されたこともあったという。  宮内庁関係者は当時、ご一家の様子をこう振り返っていた。 「皇太子さま(当時)も雅子さまも、普段は決められたメニューのお食事を黙って召し上がります。そのため、プライベートな休暇で外食をする機会を、ご一家で楽しみにしておられたようです。ご自分たちでレストランを調べ、メニューを眺めて、お好きな品をアラカルトで注文する。何よりの贅沢であったのではないでしょうか」   秋篠宮家は民間のホテルなどに  那須、須崎、葉山(神奈川県)の御用邸は、天皇が静養するための施設であり、本邸に宿泊できるのは天皇家のみだ。皇太子家であっても、滞在できるのは隣接する付属邸とされていた。  秋篠宮家ご一家は2008年、単独で那須御用邸に滞在したが、宿泊が許されたのは当時築82年の「供奉員宿舎」。職員用の木造の宿泊施設だった。  秋篠宮家が御用邸に滞在するのは、天皇ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)とご一緒に過ごされるときで、宿泊先は主に民間の施設だった。    しかし、御用邸などがあっても、皇族方が民間のホテルで過ごすことは珍しくない。  秋篠宮家の「定宿」として有名なのが、長野・軽井沢にある老舗「万平ホテル」。オーナーが飼っていた白いフワフワの犬は、長女の小室眞子さん、次女の佳子さま、長男の悠仁さまともよく遊んでいた。  上皇さまは東宮時代から、夏は長野県軽井沢町にある「千ケ滝プリンスホテル」でよく過ごされていた。美智子さまと結婚してからは、浩宮さま、礼宮さま、紀宮さまらとご一家で滞在されていた。平成に入ってからも、群馬県草津町での音楽祭に出席する際には、町内の「ホテルヴィレッジ」に宿泊していた。     【こちらも話題】 「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ https://dot.asahi.com/articles/-/202365     静養先の葉山御用邸近くの海岸を散策し、地元の人たちと笑顔で交流する秋篠宮ご夫妻と悠仁さま=2008年9月、神奈川県葉山町、JMPA    皇族方が利用する宿泊施設のなかには、もともと御用邸や元皇族の別荘が戦後に払い下げられて、民間の宿泊施設となったところが少なくない。  上皇さまが独身時代に避暑のために訪れていた「千ケ滝プリンスホテル」は、旧朝香宮別邸だった。  秋篠宮家が家族で泊まったことのある箱根の老舗ホテル、富士屋ホテルの「菊華荘」は、もともと宮ノ下御用邸。無類のゴルフ好きだった昭和天皇が、ゴルフデビューを果たした場所として知られている。   「こわい」と泣いた眞子さんと佳子さま  お子さまたちが小さい頃、長期休暇にはご一家で旅行に出かけるのを慣例としていたのが秋篠宮家だ。  秋篠宮さまがお子さま方のために、ひと目につきにくい場所で過ごそうとしていた面もある。 「天皇家の孫が眞子さんや佳子さまだけ、という状態が長く続いたこともあり、静養中もマスコミが追いかけていた。小さな眞子さんと佳子さまが『こわい』と怯えたため、秋篠宮さまが知り合いの研究者に相談して、大学の敷地で山登りをして過ごしたこともありました」(事情を知る関係者)    そして悠仁さまが生まれると、ご両親は日本各地に連れて行った。  悠仁さまがお茶の水女子大付属幼稚園に通っていた2012年の夏、北海道網走市の東京農大オホーツクキャンパスで講義をする秋篠宮さまに同行して、紀子さまと悠仁さまも現地を訪問。釧路市動物園やアイヌの文化や生活を伝える阿寒湖アイヌコタンの施設を回った。  やんちゃ盛りの男の子らしい、ほほ笑ましいエピソードもあった。  この施設で悠仁さまたちは、クマの神さまを主人公とする「ふんだりけったりクマ神さま」という人形劇を鑑賞。川を渡ろうとして濡れてしまったクマ神さまが、 「ちんちんたまたま濡れちゃった」  と話す場面で、悠仁さまは大笑い。劇が終わると舞台に上がり、クマ神さまやキツネの神などの人形の背中に手を入れ、自分で動かしては笑顔を見せていたという。     【こちらも話題】 【写真特集】「お姉ちゃん」を追いかける佳子さまとおっきな犬にタッチする悠仁さま 秋篠宮家の「休日」の顔とは? https://dot.asahi.com/articles/-/221294   赤坂御用地で木登りする秋篠宮家の長男、悠仁さま=2011年、宮内庁提供  悠仁さまは、中学生になってからはご両親とは別に休暇を過ごす機会が増え、秋篠宮さまから紹介された研究者と出かけることもあった。  そして悠仁さまにとって、今年は高校生として最後の夏となる。  一方、愛子さまは社会人になって初めて迎える夏休みだ。  ふたつのご家族は今年、どんな夏を過ごすのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 【写真特集】優しい表情にほっとする 天皇陛下と雅子さま、愛子さまが「休日」に見せた特別な素顔 https://dot.asahi.com/articles/-/221179    
「キングダム」のモデルになった権力者・呂不韋の史実がハンパない! 大商人が握る「始皇帝の出生」の秘密
「キングダム」のモデルになった権力者・呂不韋の史実がハンパない! 大商人が握る「始皇帝の出生」の秘密 秦の始皇帝(写真:Universal Images Group/アフロ)    映画「キングダム 大将軍の帰還」が盛り上がりを見せている。同作では将軍の活躍を中心に描かれているが、秦の政治を語るうえで欠かせない権力者が、佐藤浩市さん演じる呂不韋(りょふい)だ。史実においては、どのような活躍をした人物なのだろうか。  映画『キングダム』シリーズの中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、「呂不韋の国際感覚が、秦王嬴政の戦争に活かされていった」と指摘する。将軍や文官たちの史実を解説した新刊『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)から、一部抜粋して解説する。 【『キングダム』の内容にかかわる史実に触れています。ネタバレにご注意ください】 *  *  * 呂不韋│仲父(ちゅうふ)として権力を握った大商人  戦国時代の韓の陽翟(ようてき)あるいは魏の濮陽の出身の大商人呂不韋が、趙の都・邯鄲(かんたん)で秦の太子安国君(孝文王)の子の子楚(しそ)と出会ったときから、まだ生まれぬ始皇帝嬴政の歴史が始まったといえる。歴史は偶然の積み重ねであれば(そもそも必然の歴史などないが)、人質して邯鄲に出されていた子楚が、安国君の二十余人の子のなかから後継となったのも、なるはずもない偶然であった。  子楚の実母は安国君の夏姫(かき)であるが、呂不韋は安国君の正夫人である華陽夫人に子がいなかったことから、商人としての才覚から千金の財を費やして画策し、子楚を安国君の嫡嗣(ちゃくし)(太子が王になったら太子となる)となる約束を取り付けた。一方、呂不韋のもとですでに身ごもっていた邯鄲の愛姫を子楚が見初めて夫人とした。愛姫は趙の豪家の女(むすめ)であり、名前は残っていない。愛姫が子楚の夫人となってから生まれたのが嬴政である。 『史記』呂不韋列伝では嬴政は呂不韋の子であり、『史記』秦始皇本紀では荘襄王子楚の子であるとして食い違う。前者は、始皇帝が秦王室の系統からはずれて東方の商人の子であるという、一種の反始皇帝伝説として理解できる。  ともかくも呂不韋と子楚と愛姫の邯鄲での偶然の出会いから嬴政、のちの始皇帝が誕生した。  呂不韋は子楚と邯鄲を脱出し、妻子は遅れて咸陽に入った。呂不韋は昭王の死、安国君(孝文王)の即位と三日後の急死を経て、荘襄王元(前二四九)年に丞相に就任し、河南洛陽(らくよう)の食邑(しょくゆう)一〇万戸を与えられ文信侯と呼ばれた。ちょうど秦が三川郡を置いたときと重なる。  秦の植民地の三川郡は、丞相(相邦)呂不韋の存在と切り離せない。呂不韋の勢力は戦国の四人の封君(ほうくん)(魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君、斉の孟嘗君)にも匹敵する。全国から人材を集め、食客三千人を集めたという。その人材の受け入れ口が、三川郡の雒陽であった。呂不韋は嫪毐(ろうあい)の乱に関わったとして相邦を罷免され、咸陽から雒陽に下ったが、そこでは諸侯、賓客、使者たちが道に列をなして集まったという。呂不韋のもとに集まった人々は、何を求めたのであろうか。秦王は呂不韋の復活を恐れた。呂不韋は最期はみずからの雒陽の領地で鴆酒(ちんしゅ)を飲んで自殺した。呂不韋の自殺によって、秦王は呂不韋が集めうる貴重な人材を失うことになる。  呂不韋は韓・魏・趙の国境を自由に越えた商人としての国際感覚を持ち、それが若き秦王嬴政の相邦(政治の最高権力者)を務めていた頃の外交と戦争に活かされていた。商人として基盤を置いていた韓・魏・趙に軍事的に進出する動きは、十代の若き秦王の意志とはとうてい考えられない。始皇四(前二四三)年、趙にいる秦の質子を趙から帰国させ、趙の太子を秦から趙に帰している。外交上の一種の断交である。  始皇五(前二四二)年に設置した占領郡の東郡は、呂不韋の故郷である濮陽の地を中心とする地域であり、呂不韋が商人として熟知していた土地であった。濮陽は黄河に面した交通上の要地であり、自立した経済力をもっていた。蒙驁将軍の魏地への侵略戦争(始皇三〜五年)を続けた結果、占領郡の東郡が置かれることになる。また濮陽は小国の衛の都であった。その君主の衛君・角を殺さずに、一族ともに野王の地に遷す政策も、呂不韋の判断であったと思われる。 《朝日新書『始皇帝の戦争と将軍たち』(鶴間和幸 著)では、羌瘣(きょうかい)、蒙武、騰(とう)、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)ら名将軍たちの、史実における活躍を詳述している》   【こちらも話題】 「キングダム」主人公のモデルになった「信」の史実 始皇帝や王翦との関係性とは? https://dot.asahi.com/articles/-/228174
「マイクラ」で子どもたちが“戦争”を学ぶ取り組みも 東大やJAXAでも活用されるマインクラフトの可能性とは
「マイクラ」で子どもたちが“戦争”を学ぶ取り組みも 東大やJAXAでも活用されるマインクラフトの可能性とは 2児のパパでもあるプロマインクラフターのタツナミシュウイチさん(写真/高野楓菜)  子どもに大人気の「マインクラフト」は、今、小中高校や塾の授業、さらには東大やJAXAなど最先端の教育現場でも活用されはじめています。その最前線で活躍しているのが、「マイクラおじさん」の愛称で親しまれるプロマインクラフター・タツナミシュウイチさんです。タツナミさんにマイクラが最先端の教育現場でどのように活用されているかを聞きました。 先進的だった立命館小学校のマイクラ授業 ――小学生に大人気のマイクラですが、学校の授業で活用されているケースもあるのでしょうか?  立命館小学校の正頭英和先生は、2017年というかなり早い段階から英語の授業でマイクラフトを使いはじめました。まだマイクラ対する理解が今ほど広がっていなかった時期なので、すごく勇気があるなと思いました。日本人は、今までのやり方を変えることを異常に怖がりますから。 ――どんな授業を展開されたのでしょうか?  子どもたちに、どうしたらマイクラを英語の授業に取り入れられるかを考えてもらい、そこで出てきたアイデアが「海外の子どもたちに、京都を知ってもらう」というものでした。子どもたちはグループに分かれて意見交換をしながら、マイクラで金閣寺などの名所仏跡を建築したそうです。英語の授業なので、グループ内での会話は英語のみ。子どもたちはそこで「これを英語でなんと言うのか知りたい」「どうやったら表現できるかを知りたい」となり、自然と英語のコミュニケーションを覚えていったといいます。  このマイクラを活用した課題解決型授業が評価され、正頭先生は2019年、世界約150カ国の中から「グローバル・ティーチャー賞」トップ10にも選ばれたそうです。 東大ではマイクラを平和教育に活用 ――タツナミさんは東京大学でマイクラを活用されているそうですね。この研究授業を受け持つことになったきっかけは何ですか?  私が大学でマイクラを使った研究をはじめたのは、明治大学や慶應義塾大学の研究所が最初でした。その後、常葉大学造形学部でマイクラを使った授業を担当することになり、学会でもマイクラの教育的価値について発表しました。  その頃、東京大学大学院の渡邉英徳教授が、3D空間で情報を可視化する「デジタルアーカイブズ・シリーズ」を制作していると知り、「これは私がマイクラでやっていることを、もっと大規模でリアルにやっている“上位互換”だ!」と感動していたんです。渡邉先生といえば、モノクロの写真にAIで色付けをしていることでも有名な方です。そんな渡邉先生にたまたまお会いする機会に恵まれ、なんと先生も私のことを知ってくれていて、意気投合し、そこから先生の研究室でマイクラの教育利用、平和利用の研究をすることになったんです。 ――渡邉先生の「デジタルアーカイブズ」は、実際の写真や映像を使っているので臨場感や没入感にあふれていますね。具体的にはどんな研究をされているのでしょうか?  2023年の夏、広島県で『Minecraftで広島の歴史を学ぼう』というワークショップをしました。原爆にまつわる展示や資料、模型を見て学ぶ調べ学習から始めて、原爆が落ちる前の広島の街並みをマイクラの世界で再現していくプログラムです。  私の祖父は軍人でしたし、妻は広島出身なので、戦争の話は聞いて知ってはいました。でも、原爆の惨禍を記録している資料を直視するのは辛すぎて目を背けたくなるんです。そこで、みんなで意見を出し合って、平和で幸せだった頃の広島の街並みを、マイクラで再現することにしました。その過程で当時の人々の暮らしに思いを寄せて、78年前にそこで生きていた人と同じ気持ちになれたら、戦争の恐ろしさや悲しみを自分ごととして学んでくれるだろうと考えたんですね。 ――マイクラを平和教育に活用する、今までにない試みですね。  原爆で壊された後の惨状を知ることももちろん大事です。けれども、焼け野原になる前の平和だった街をマイクラで再現することで、「こんなに素晴らしい街並みとそこに暮らす人たちの人生を原爆で破壊しちゃいけない。戦争したらいけない」と子どもたちに知ってもらうことも、平和教育の1つだと思うのです。今年の夏は、長崎でも同様の取り組みを行う予定です。このように毎年、マイクラで戦争を学ぶ動きが出てきたらいいなと思っています。 2023年8月におこなわれたワークショップ「教育版マインクラフトで広島の歴史を学ぼう」。マイクラを使って原爆投下前の広島ワールドを作成した(画像提供:渡邉英徳研究室) 教育版Minecraftを使い、ワールドの中で建築を行う(画像提供:渡邉英徳研究室) 原爆投下後の被害を伝える渡邉教授(画像提供:渡邉英徳研究室) 学んだことをマイクラで表現する(画像提供:渡邉英徳研究室) 最終発表をする参加者たち(画像提供:渡邉英徳研究室) JAXA×マイクラで月面基地をリアルに感じる ――タツナミさんは、JAXAのマイクラを使った宇宙開発教育『LUNACRAFT(ルナクラフト)』も手がけています。こちらはとても楽しそうな、ワクワクする取り組みですね。  私は宇宙大好き少年だったので、JAXAさんからお話があったときはまさに夢が叶ったような気分でした。子どもたちに宇宙について教えるためにマイクラを使った教育法がないか相談を受けて、「できますよ」と二つ返事したのがはじまりです。  アイデアはいろいろありましたけど、最終的に一番面白いと思ったのが月面の再現でした。そこで、2050年の月の世界に100人ほど住んでいるかもしれないと仮定して、衛星「かぐや」が取得したデータをもとに、月面ワールドを再現したのが『LUNACRAFT(ルナクラフト)』です。  現在、火星移住の計画も進んでいて、火星にロケットを送るための月面基地も必要だと言われています。2023年は、探査機のSLIM(スリム)が月面着陸に成功したホットな話題もありました。そこで、クレーターの真ん中に月面基地を造って、そこから何をするかは子どもたちに任せましょう!ということになり、JAXAさんが想定されている設計通りの月面基地をつくったのです。子どもたちに「みんな月で何をつくりたい?」って聞いたら、めちゃくちゃ楽しそうにいろんなアイデアを出して目が輝いていましたね。 マインクラフトの月面ワールド「ルナクラフト」(画像提供:JAXA) 宇宙船の中(画像提供:JAXA) 地図をもって宇宙船の外に出発(画像提供:JAXA) 農場や月面基地もある(画像提供:JAXA) ローバーに乗ってさらに遠くへ(画像提供:JAXA) 親がマイクラを教える必要はなし ――このようにマイクラがあちこちで積極的に活用されたら、子どもたちが楽しく個性や才能を発揮できそうですね。今の学校教育だけで、これからの時代を生き抜く力を育てるのは難しそうですから。  私も子どもが生まれてから、この国の教育でこの子たちは将来どうやって生きていくんだろうと考えるようになりました。今までがんばってきた先生もたくさんいるので失礼なことは言いたくないのですが、ICT教育が進んだこの数年で、ようやく戦後教育の古い考え方が変わりつつあると感じています。  ただ、そのツールの1つがマイクラというだけで、子どもに与えれば賢くなる魔法のツールではないんですね。大事なのは「マイクラで何をつくるか」であって、それは子どもの好奇心や探究心がなければ何もはじまりません。子どもの好奇心や探究心を満たすには、大人のサポートも必要になりますし、そもそもすべての子どもにマイクラをやらせる必要はないと私は思っています。 ――では、子どもがマイクラを欲しがったら親が買い与えて、必要なサポートをしてあげればよいでしょうか?  親の役割はそれでいいんですよ。子どもがやりたいことがあれば、口は出さずに金を出す(笑)。ゲームのことはわからないという人は無理して教える必要はなく、専門家に子どもを導いてもらえばいいんです。今はプログラミング教室もたくさんありますから。  私がうれしいのは、自分もそうだったように、家でひたすらモノづくりをするのが好きな子がマニアとかオタクのレッテルを貼られるだけの時代が終わったことです。それどころか、何カ月もかけてつくった作品を堂々と世界にアピールして、「Minecraftカップ」のような全国大会に応募すれば、脚光を浴びることもできる。そんな風に、才能があっても認められる機会がなかった子どもたちが輝ける場所ができて、本当にいい時代になったと思っています。 〇タツナミ シュウイチ 日本で最初のプロマインクラフター。東京大学大学院客員研究員、常葉大学客員教授、マインクラフトカップ全国大会審査員長、マイクロソフト認定教育イノベーター・FELLOW 。マインクラフト歴14年の通称「マイクラおじさん」。各メディアにプロマインクラフターとして出演し、マインクラフトの教育的効果とエデュテインメントの効果について広く発信。現在もSTREAM教育や特別支援教育を推進していくためマインクラフトをプラットフォームとして使用した教育教材の制作や活用を研究中。
「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とは?
「友達の家に遊びに行けない」小学生が急増中 都会に住む親が「行っちゃダメ」と禁止する理由とは? 小学生の遊び方も「昭和」の時代とはすっかり変わった。画像はイメージ(GettyImages)   「本当に申し訳ありませんでした。もう二度と行かせませんから」  突然、息子の友達の母親からこんな謝罪をされ、Aさんは面食らった。東京・中央区に住む50代の自営業者であるAさんは、妻と小学校3年生の息子と3人家族だ。教育熱が高く中学受験も盛んな地域だが、子どもたちの「遊び方」にも独特のルールがあることにAさんは驚いた。 「息子が小学校に入ってしばらくしてからのことです。休日に近所の公園で遊んでいたのですが、息子が友達を『ウチで遊ぼうよ』と誘ったようなのです。その流れで、いきなり7人くらいの友達を家に連れてきたことがありました。私も妻も飲み物やお菓子を出したりして、その日は何事もなく終わりました。ところが彼らは帰宅して、ご両親に『今日、友達の家に行ったよ』と報告したのでしょう。その後、大騒ぎになってしまったのです」  小学校に入学したばかりだった時期だったので、Aさんの妻の“ママ友ネットワーク”は保育園時代ものがほとんどだった。ところが遊びに来た友達の中には、別の保育園から来た子や、幼稚園から来た子も含まれていた。そのため、ネットワークに入っていない親からは「見知らぬ親子の家にお邪魔してしまった」ことが大きな騒動になったという。 「その中の1人のお母さんが、とにかく私たちにお礼を言わなきゃと思われたのでしょう。LINEやSNSをフル稼働させて、私たちのことを知っている人はいないかといろんな人に聞いてまわったようです。結局、妻のママ友に“共通の知人”がいたようで、そのママ友を通じて丁寧なメッセージをいただきました。そして、その子はその後、わが家には来なくなりました。息子が誘っても『ママに友達の家に行っては駄目だって言われている』と答える友達もいるようなので。私たちの時代とは意識が大きく違うのだなと思いました」 「もう二度と行かせませんから」  またある晩、Aさん家族が家の近くにあるファミレスで食事をしていたときのこと。近くの席で、家に遊びに来たことのある男の子も両親と食事をしていた。息子と男の子が最初に気づき、親も会釈して、家族同士の会話が始まった。 「会話をするうちに、『家に遊びに来てくれたことがあったよね』という話になりました。すると男の子のお母さんが『はっ!』という表情になり、深々と頭を下げられたんです。そして『あとで息子からお宅にお邪魔したと聞きまして、本当に申し訳ありませんでした。もう二度と行かせませんから』と丁寧に謝罪されたんです。予想もしなかった展開で、何と言っていいのか分かりませんでした」  50代のAさんが小学生だったころは、当然ながら年号は昭和だった。学校で友達と今日はどっちの家に遊びに行くかを決め、相手の家に行く時は自転車で飛びだした。低学年の時は土曜日が“半ドン”だったため、昼食を食べて友達の家に行ったり、友達が家に来たりした。そんな思い出を脳裏に浮かべ、まさに「昭和は遠くなりにけり」を痛感したという。  実際、小学生が友達の家に遊びに行くことが減った、という調査結果がある。  2019年、厚生労働省は小学校3年生を対象に「放課後に過ごす場所」を調査し、約2万4000人から回答を得た。その結果、「放課後に友達の家に行く」は01年度に生まれた子は50・6%だったが、10年度に生まれた子では29・1%に減少したという。 お菓子やジュースにも気を遣う  その背景として指摘されたのは、働く母親の増加と、それに伴う学童保育の充実だ。しかしAさんが経験したのは土日の出来事で、多くの親は休日だろう。Aさんの実感としては「友達の家に行くな」と子どもに指示する親は増えており、公園で見知らぬ母親がママ友に「家に友達を呼んでほしくないから、自分の子どもにも行くなと言っている」と話しているのを見たこともある。  もちろん、時代が変わったといえばそれまでかもしれない。昭和なら自宅でお菓子やジュースを子どもたちに出すことは何ら問題なかったが、今はそれですらトラブルに発展する可能性がある。 「遊びに来た友達のご両親がお菓子やジュースを摂ることにどんな考えを持っているかわからない。だから簡単には出せないようになってしまいました。それこそ何らかのアレルギーを持っているかもしれない。子どもの友達が遊びに来ると、身構える親は増えているのではないかと思います」(Aさん)  公立小学校で23年間教員を務めた、教育評論家の親野智可等氏はこう話す。 「子どもにとって“自分の家”は世界の全てです。ところが友達の家に行くことで、わが家の当たり前は友達の家では当たり前でないことに気づきます。言葉遣い、礼儀作法、食事、何もかも違います。子どもにとってはまさに多様性を学ぶ貴重な機会であり、彼らが友達の家に遊びに行くことは、大人が海外旅行や留学をしたりすることと同じと言えます」 教育評論家の親野智可等さん   先生の家庭訪問もできなくなった  友達の家へ遊びに行けなくなることの“デメリット”はこれに限らない。 「親に虐待されている子どものケースを考えると分かりやすいでしょう。幼い時から虐待を受けている子どもは、その状態を当たり前だと思い込んでしまいます。ところが友達の家で暴言を吐いたり暴力を振るわない親の姿を見ることで、自分の置かれている状況を客観的に、正しく把握できるようになります。その結果、担任に相談しようと考えたり、児童相談所に助けを求めようと決心したりするチャンスが増えるはずです」(親野氏)  自分の子どもが友達の家に遊びに行くのは教育上も大きな効果があるはずなのに、なぜ躊躇する親が増えてきたのか。親野氏は「ここ10年くらいの傾向だと思う」としたうえでこう語る。 「プライバシーはもちろん尊重すべきですが、いきすぎて孤立を招くのも望ましくありません。子どもばかりでなく、教師も家庭訪問ができない時代になりました。家庭訪問は子どもたちの指導に極めて有益で、学校だけでなく自宅での姿を見ることで、子どもの理解が飛躍的に深まったものです。まさに“百聞は一見にしかず”ですが、保護者も教師も、そして子どもたちも、昭和のような“濃密な人間関係”を構築することは不可能になってしまいました。今の時代でも子どもたちがもう少し気楽に友達の家に遊びに行くにはどうしたらいいのか、教師も家庭訪問のようなことを再開できないか、もう一度、社会全体で考えてみる必要があるのかもしれません」(親野氏)  多様性の時代と言われる今、子どもたちが「自分の家」しか知らないことは正しいのだろうか。一人の親としても自問してしまう。 (井荻稔)
ニューヨークに来て感じた圧倒的な「経済格差」と「理不尽さ」 日本人を“貧しく”した政府に国民はもっと怒るべきである 古賀茂明
ニューヨークに来て感じた圧倒的な「経済格差」と「理不尽さ」 日本人を“貧しく”した政府に国民はもっと怒るべきである 古賀茂明 古賀茂明氏  筆者は、少し早い夏休みで、6月からニューヨークに来ている。  大袈裟かもしれないが、今回の旅に出ることは、筆者にとっては、清水の舞台から飛び降りるような決断だった。  なぜかと言うと、とにかく全てが「高い」からである。  ニューヨークまでは、飛行時間が短い行きの便でも東京から12時間以上かかる。エコノミークラスは体にこたえるので、ビジネスクラスを使うことにしたが、コロナ前には50万円しなかったJALやANAの便が、今では1人100万円前後かかる。  妻と2人で200万円。  少しマシなホテルに泊まると1泊5万円くらいはかかるので、Airbnbで探したら、キッチン付きでツーベッドの広い部屋が1泊1万5000円という安宿を見つけた。マンハッタンからハドソン川を隔てたジャージーシティにある。少し不便だがやむを得ない。それでも1カ月滞在すると50万円。  旅費・宿泊費だけで250万円の計算だ。  さらに、ここから先は皆さんご存じのとおり、飲食費がとにかく高い。ラーメン3000円などというニュースに慣れていたので、驚きはしないが、日本で外食するのに比べて、感覚的には全てが約3倍という感じだ。歩いていて喉が渇いたと思って水を買うと300円から500円。  最初のうちは、頭の中ですぐに円換算してしまうので、何も買う気が起こらず、食欲も失せてしまう。仕方なく、宿のキッチンでテイクアウトした惣菜に少し手を加えて夕食という日が続いた。  2018年、19年に来たときは、1ドル110円程度で、それでも高いと感じたが、今回のように絶望的な高さではなかった。わずか5年で1ドル160円にまで円の価値が落ちた日本の惨状を痛感させられる毎日である。  海外が高いと痛感しているのはもちろん私だけではない。 【こちらも話題】 安倍派の裏金問題を暴いた“名コンビ”がまた勝利 黒川元東京高検検事長の定年延長関連文書も「開示」へ 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/227530 東京・豊洲の店頭に置かれたランチメニューの看板。海鮮丼の「極」は7800円だ=24年4月 米はタワマン住まいが「標準タイプ」  今年の夏は、日本からの海外旅行客はかなり増えるが、コロナ前の水準には届かない見通しだという。しかも、欧米などへの旅行者はコロナ前に比べて大幅に減っている。円安と実質賃金低下で、海外旅行、とりわけ欧米への旅行は夢の夢という人が増えているのだ。  ニューヨークのお隣ジャージーシティを歩いていると、昼間からジョギングをしている人が多い。見ていると、彼らは30階から50階以上あるようなタワーマンションに吸い込まれて行く。この10年くらいの間にタワマンが次々に建てられたようだ。ちょうど、東京の豊洲や川崎市の武蔵小杉のようなものかもしれない。  筆者は、近くのタワマンに住む知人の部屋を訪れる機会があった。3階分はあると思われるガラス張りの吹き抜けのあるタワマンのエントランスを入ると、コンシェルジュがいて、にこやかに挨拶をしてくれる。そこでは、宅配ロッカーに入らない大きな宅配便の荷物などを預かったり、よろず相談係をしてくれたりする。  タワマンの8階には、とにかく巨大な共用スペースがあり、屋外にバーベキュースペース、プールやプレイグラウンドがあり、泳いだり、ガーデン用のソファに寝そべったりしている住民がいる。屋内には、設備の整ったスポーツジム、パーティーや大きな会議に使えるラウンジが三つほどあり、個室も含めたコワーキングスペース、プレイルーム、ビリヤードやゲーム台なども揃っている。もちろん、住人は無料で使える。1階には幼稚園やカフェもある。  知人の部屋は、120平方メートルで家賃は約80万円。リーズナブルだと言っていた。小さな子供を車で5分ほどの幼稚園に預けているが、7時半から18時までの延長保育を頼むと月謝は50万円ほど。2人目の子供が生まれたので、4カ月目からまた幼稚園に入れるそうだ。家賃と幼稚園代だけで年間2000万円以上の固定費がかかる。さらにお手伝いさんも雇うというから大変な出費だ。それでも生活できるのだから、「貧しい」日本人から見ると大したものである。 【こちらも話題】 抜け穴だらけの政治資金規正法改正の“闇” 改悪の根源は「政治部記者」と「立憲国対」の怠慢さ 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/226849 損をしている日本の労働者  現地のテレビ放送によれば、最近は、こうした公共の施設を備えたタワマンが増えていて、徐々に「標準タイプ」になりつつあるという。知人のタワマンも標準ということなのか。大規模な図書館が設けられているところも増えているそうだ。  中流の中でもやや上のクラスが住むところという感じだろうか。その多くは夫婦ともにマンハッタンで働いている人が多いようだ。  テレビの言葉では、このようなマンションに住むことを「Affordable Luxuries」と表現していた。贅沢ではあるが、お手頃あるいは手が届かないものではないというニュアンスだ。  「高い」という話ばかりしたが、それにはもちろん理由がある。  それは、日本の労働者が、世界の中で見たときにいかに虐げられ、損をしているかを端的に示す話だからだ。  円安は単なる日米金利差のせいによるものではなく、構造的な日本経済の凋落を反映したものだという指摘が最近になってようやく広く理解されるようになってきた。  それを一番痛感できるのが海外旅行に出た日本人だ。留学したり、留学を諦めたりした人たちも同じだろう。  さらに最近は、インバウンドの外国人観光客が、数千円の串焼きの肉を「安い」と言って食べ歩く姿を見たり、外国人と日本人向けに二重価格制を取る店が出てきたりということで、国内にいても、日本人は「貧乏なんだ」と思い知らされることが普通になってきた。  一方で、政府・日銀は、これだけインフレが続いて市民が生活苦に陥ってもなお円安是正には動かない。それどころか、政府日銀が、とにかく企業が値上げをすることが良いことだという雰囲気を作り、それに乗せられて、企業は一斉に値上げに動く。今までと同じものなのに、なぜか値段が上がって当たり前だということになってきた。 【こちらも話題】 大企業の利権を守るためにEV化で後れを取った日本の代償 中国に全て奪われ「産業国家」が没落する日 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/226147 「好景気」のはずなのに悪くなる市民生活  企業業績が良くなったというが、輸出企業などが円安効果で直接的に潤っている他に、今では、「値上げ」で大幅増益という企業が続出している。もちろん、原材料高や人件費増分以上に値上げするから大増益になっているわけだ。  その結果、33年ぶりの高い賃上げ率などと騒がれた春闘を経てもなお、実質賃金は26カ月連続マイナスで市民の購買力は低下を続ける。実質消費支出もマイナス基調が続き、市民が以前よりも少額しか消費できないことを示している。  史上最高の企業利益、33年ぶりの賃金上昇率、バブル後最高値更新を続ける株価、地方を含めた地価の大幅上昇という「好景気」の中で、どうして市民生活だけは悪くなるのか。多くの人々は、肌感覚でそれを理不尽だと感じるようになってきた。そして、その原因が、日本の経済の仕組みやそれを形成してきた政治の構造にあるのではないかと疑っている。  もちろん、それは自民党政権への批判につながっているのだが、この理不尽さを正してくれるのが立憲民主党なのかというと、これまた、否定的な人が多い。自民の支持率がこれほど下がっているのに立憲の支持率はそれほど上がらない現象がずっと続いているのはその証である。  立憲は、前述の「理不尽さ」を正すための政策として、分配政策に重点を置くが、そのことが逆に分配の利益を享受する取り残された人々さえ不安に陥れる効果を持つことに気づいていない。分配すれば経済が良くなると言われても、立憲や共産党のコアな支持者以外はほとんどこれを信じない。そんな安易な政策を掲げることの方が胡散臭いと思っているのだ。  だから、裏金批判をして若者支援などの分配政策ばかりを強調した蓮舫前参議院議員は都知事選で大敗した。旧民主党の幹部であった蓮舫氏を旧民主党転落のA級戦犯である野田佳彦元首相を前面に出して戦ったのも驚くべき戦略ミスだ。 【こちらも話題】 政府が大金をつぎ込んでも成功しない「人型ロボット」 知られざる「デジタル赤字」がもたらす絶望的な未来 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/225475 沈没する日本経済を救うのは誰なのか  今年に入り、一般市民の多くがNISAを使って投資を始めた。株式などに投資する層は急増している。そうした普通の人々は、立憲の議員が経済の最先端の話をする姿を見たことがない。立憲のイメージの中にAIや先端半導体の話は全く入ってこない。  私は、立憲の議員とも自民の議員ともよく話をするが、残念ながら、自民議員と最先端半導体の世界の動向について議論することはあっても立憲議員がその話題について雄弁に語る姿を見たことがない。一般人のイメージも私のそれと大差ないだろう。  政府の「貯蓄から投資へ」の掛け声は、働いて裕福になるのは難しいから投資をして裕福になろうという国民への呼びかけだと人々は理解している。老後に備えるためには、自分の力で投資して稼ぐしかないと考える層が急速に拡大しているのだ。  自民の議員たちは、彼ら彼女らに「立憲政権ができたら株が暴落する」と囁き続ける。しかし、立憲の政策を見る限り、それを打ち消すようなメッセージはない。結局、経済のためには自民しかないということになるのだ。  9月には自民の総裁選と立憲の代表選が行われる。自民には、既得権層を守る政策を止めることはできない。したがって、総裁選で誰が勝っても、日本の沈没を招いた政策の抜本的変革は期待できず、日本復活につながることはないはずだ。  だからこそ、立憲にはチャンスがある。  立憲代表選では、政策論の前に、まず、野田佳彦元首相や、(本稿を執筆後に出馬の意向を表明した)枝野幸男元官房長官などの古き民主党のA級戦犯たちが、引き続き偉そうな顔をして立候補することは絶対にあってはならない。そんなことになれば、誰も相手にしてくれなくなるのは必至だ。 【こちらも話題】 合計特殊出生率「1.20」の衝撃 人口減少で国が滅びる前に「移民受け入れ」を決断せよ 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/224832 経済政策をわかりやすく熱く議論できる若手議員が必要  ではどうするのかと言えば、これまで名前を知られていないが、経済にも詳しく、旧民主党とは縁のないバリバリの実力のある若手が名乗りをあげ、経済復興策を熱く語るような論戦を展開すればよい。  できれば、明日からでも、そういう議員がSNSなどで、新しい立憲の経済政策についてわかりやすく、専門家を交えて議論する動画などを拡散してほしい。  日本復活との関係では、例えば、1ドル160円まで進んだ円安やそれを背景とした欧米への日本人旅行客の減少は諸外国との比較の中での日本沈没のわかりやすい証拠である。  そこで、立憲が政権を取ったら、日本人が外国に行っても惨めな思いなどせず、また、留学を諦める学生も大幅に減らすようにしますという目標を掲げたらどうか。「欧米への旅行客の数」がコロナ前の水準を超えるところまで戻すというのも良い。  1ドル100円でも十分に儲けられる産業を育成するというのもわかりやすい目標だ。  そんな議論ができる若手議員がいるのか?  今は名前をあげないが、少なくとも、野田氏や枝野氏や蓮舫氏より何倍もその能力が高い人がいるのを私は知っている。日本に帰ったら、そういう議員に決起するようお願いしてみたい。
元NHKアナ「神田愛花」がブレーク後に仕事を減らしたワケ 「安らぎである家庭がイライラする場所になってしまった」
元NHKアナ「神田愛花」がブレーク後に仕事を減らしたワケ 「安らぎである家庭がイライラする場所になってしまった」 神田愛花さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  元NHKアナウンサーの神田愛花さん(44)は、ニホンモニターが発表した「2023ブレイクタレント」ランキングで1位を獲得し、今やバラエティー番組を中心に飛ぶ鳥を落とす勢いの人気タレントになった。しかし、最近ではあえて「仕事のペースを落とした」という。今まであまり語ってこなかった理想の“妻像”や、人気が出るにしたがって増えた「アンチ」との向き合い方などを、本人が赤裸々に語った。 *  *  * 【前編】<バラエティーの新女王「神田愛花」がとらわれていた“怒り”とは? 「ほかのアナウンサーへの嫉妬があった」>から続く ――7月8日にご自身初のエッセー本『王道っていう道、どこに通ってますか?』(講談社)を出版されましたが、それを読むと、「マネージャーへの『今日の私ちゃんとやれていました?』が口癖の女」とつづられています。そんなに人の目は気になるほうですか?   すごく気にします。コロナ下の自宅待機期間中にエゴサーチしていたときは、「アゴが長い」「目から下が残念」っていうコメントをけっこう真剣に受け止めちゃって……。でも、なんとかこのアゴを生かせないかと思って習得したのが、アントニオ猪木さんのモノマネです。今では(明石家)さんまさんに、「なあアントニオ猪木!」なんて振ってもらえるので、人の目を気にする性格が唯一プラスに働いた事例です。  一番こたえるコメントは、「神田愛花つまらない」。私としては思ったことを素直に言っているだけなんですけど、狙って面白いことを言おうとしているように見られているんだなって、非常にショックで。女性アナウンサーは特に、天然キャラを作っているって見られがちですよね。私は面白いことなんてできないし、周りの方にイジってもらってようやく花が咲くだけ。面白いことをしようなんて思えるほどの自信はありません。 神田愛花さん(写真は本人提供) アンチコメントをミュートしたら… ――日々世間の評価にさらされるなか、どのように精神の安定を保っていますか?  けっこう周りに相談します。こないだも、(MCを務めるバラエティー番組)「ぽかぽか」のプロデューサーさんに、「あの発言がXでこう書かれていてショックです」って伝えたら、「もうSNS見ないでください」って言われて。そういう温かい一言のおかげで、身近な人がわかっていてくれればいいか、とその瞬間は自信が湧きます。そうやって前を向いて、でもまたすぐに落ち込んで、を年中繰り返しています。  昨年1月から「ぽかぽか」が始まって、毎日テレビに出させていただくようになると、アンチの方も増えるんですよね。最初のころ、Xでネガティブなコメントを見るたびにミュートにしていたら、気づくとミュート件数が36くらいになっていて。私ってすごく弱いなと思いました。  それで、思い切ってミュートをすべて外してみたら、悪口が当初よりも減っていたんですよ。アンチの方々が飽きて番組を見なくなっただけかもしれないし、本当はSNSに影響されちゃいけないんですけど、ちょっとは自分のことが伝わったのかもってうれしくなりました。 ――昨年は、ニホンモニターが発表した「2023ブレイクタレント」ランキングで1位を獲得するなど飛躍の年になりました。  本当にラッキーで、ありがたかったです。ただ、苦悩もありまして……。  以前は、睡眠時間を減らすことでお仕事も家事も全部なんとかなっていたんです。でもそんな生活を続けていたら、40歳を過ぎて体力が落ちたせいか、へとへとになってしまって。家の中は掃除機をかけられなくてほこりだらけ、洗濯物もどんどんたまって、一番の安らぎの場であるはずの家庭がイライラする場所になっていきました。 神田愛花さん(写真は本人提供)  夫(お笑いコンビ・バナナマンの日村勇紀さん)は優しいので文句は言わないし、お願いすれば家事も手伝ってくれます。でも、私の“妻像”は、専業主婦で完ぺきに家事をこなしていた母の姿を踏襲(とうしゅう)していることもあって、逆に罪悪感が出てきてしまって。  自分が、家の中で役割を果たすことで満足感を得るタイプだと気づいたのは、少しショックでした。ずっと仕事が好きな人間で、NHK時代は転勤を嫌がる環境をつくりたくなくて結婚に興味がなかったくらいなので、思っていた自分と実際の自分の違いにびっくりしました。 家事は自分がメインで担いたい ――仕事と家庭の板挟みになるジレンマは、どう解消したのですか?  去年の秋、夫に言ったんです。「家のことがきちんとできていないことで、責任感が満たされずイライラしちゃってます。どうしたらいいでしょうか?」って。そしたら、「それは自分で考えなさい。僕はどちらでも大丈夫だから、愛花がハッピーなほうで」と言われました。  もちろん、家庭での役割は男女平等であるべきですが、物理的に家事をきっちり半分ずつやることが平等だと考える人がいる一方で、私は自分がメインで担うほうがバランスが取れて気持ちがいい。“日村愛花”としての人生も大切にするために、少し仕事のペースを落とすことにしました。  それまでは、平日昼は「ぽかぽか」の生放送、その後も1個か2個は仕事があって、休みは月に1日とれればいいほうでした。今は、「ぽかぽか」以外の仕事は週に3、4日くらいにして、受けられなかったお仕事は別の週にお願いできないか、(マネージャーに)相談してもらっています。  結果的に、うまくいってますね。おうちのことをちゃんとやることで心に余裕ができて、お仕事もより前向きに取り組めるようになりました。自分の心の健康を実感できていますし、それは表情にも出るみたいで、テレビで私の姿を見ている母からは「最近自然に楽しめているわね」ってメールが来ました。 神田愛花さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  いただけるお仕事があるうちが花である世界だとわかっているし、こういう仕事の仕方をしていたら当然私のことを追い越していく方はたくさん出てくるでしょうけど、無理に心の声にあらがって自分自身が揺らいでしまうよりはいいかなと思っています。 「ぽかぽか」はドキュメンタリー番組? ――NHKのアナウンサーとして培った経験は、今の神田さんの強みになっていますか?  私にとってNHK時代の一番の学びは、目の前の出来事に即座に反応するということ。報道であってもバラエティーであっても、その姿勢はDNAに刻み込まれている気がします。  たとえば、アメリカの大統領が来日して飛行機のタラップを下りてくるとき、中継先のアナウンサーがその様子を実況しますよね。一方で、生放送である「ぽかぽか」の現場でも、スタッフさんがステージから客席に下りる階段でコケちゃったり、いろんなハプニングが起きるわけです。それを認識したうえで無視するのか反応するのか、今現場で起きているリアルをどう生かすのか、瞬時に判断して言葉にすることは、アメリカ大統領の来日と重みはちがうかもしれないけど、本質的には同じだと思うんです。  だから私は、「ぽかぽか」はバラエティーというより、作られた世界とはちがうドキュメンタリー番組だと思って臨んでいます。そういう視点は、「アナウンサーでも、気持ちは半分ジャーナリストであれ」というNHK時代の教育がなければ持つことはなかっただろうと思います。  とはいえ、番組で変なことを言って笑われている私の姿を見て、「NHKも嫌がるだろうから、元NHKって名乗るのはやめたら?」なんて冗談を言ってくる人もいます。でも、ほかのNHKアナウンサーも私みたいにフリートークを求められたら、みんなおかしなことを言う気がしますよ? 普段の仕事内容的にバレていないだけで、面白くて変わった方はいっぱいいると、私は勝手に思っています(笑)。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) ●神田愛花(かんだ・あいか)/フリーアナウンサー。1980年生まれ、神奈川県出身。大妻中学高等学校卒。学習院大学理学部数学科を卒業後、2003年にアナウンサーとしてNHKに入局。12年に退職し、フリーに転向。現在はバラエティー番組を中心に活躍し、23年1月から始まった昼の帯番組「ぽかぽか」(フジテレビ系)にMCとしてレギュラー出演中
バラエティーの新女王「神田愛花」がとらわれていた“怒り”とは? 「ほかのアナウンサーへの嫉妬があった」
バラエティーの新女王「神田愛花」がとらわれていた“怒り”とは? 「ほかのアナウンサーへの嫉妬があった」 神田愛花さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  元NHKアナウンサーながら、その独特な視点や珍回答でバラエティー番組を席巻しているタレントの神田愛花さん(44)。7月8日にエッセー本『王道っていう道、どこに通ってますか?』(講談社)を出版した。フリー転身後も順風満帆にみえるが、実は、元NHKアナというイメージを打ち破り、一気に“バラエティー界の新女王”に上りつめるまでには、かなりの苦難と葛藤があったという。ブレークした今でも「私にバラエティーの仕事は向いていない」と断言する神田さんが見つけた、芸能界での“生き残り策”とは――。 *  *  * ――2012年にNHKをやめてフリーアナウンサーに転向した理由はなんですか?  きっかけは、東日本大震災でした。渋谷の放送センターで働いていた私の仕事は、Eテレの非常用チャンネルで、被災者のみなさんからのメッセージを伝えること。アナウンサーたちは1時間ごとに交代しながら24時間態勢で伝言を読むのですが、「○○ちゃん生きてますか、連絡ください」といった内容ばかりでした。そのとき、普通に生活していても、明日がすぽーんってなくなっちゃうこともあるんだと強く認識しました。  当時のNHKでは、帯の報道番組は視聴者や現場のみなさんの信頼を得た40代くらいのアナウンサーが担うもの、という暗黙のルールがありました。私には、安藤優子さんのような帯番組のキャスターになる目標があるのですが、そのときはまだ30歳くらい。震災を機に、明日生きているかわからないなら、このままNHKで10年頑張るより、少しでも多く仕事ができてチャンスも広がるフリーになりたいと思いはじめたんです。   「図工の成績はずっと5だった」と話す神田愛花さん直筆の自画像(©神田愛花/講談社) ――バラエティー番組で活躍する現在の姿は想像していましたか?  いえ、まったく(笑)。NHK時代は、最終的には会長になりたいと思っていたくらいNHKを愛していたので、やめてからも「元NHKアナウンサー」という肩書が自分の一番の売りだと考えていましたし、プライドでもありました。ですから、タレントのお仕事なんてできないし、するべきでもないと思っていたんです。  でも、それは勘違いでした。NHKではいろいろなお仕事をやらせてもらっていたほうでしたが、いざ外に出たら、スタッフさんも視聴者さんも私のことなんて知らない人ばかり。毎週ゲストが入れ替わるバラエティー番組のオファーはあっても、レギュラーメンバーで回す報道のお仕事なんて来るはずがないですよね。  だから、まずはいただいたお仕事は全部引き受けて、一つひとつ丁寧に取り組もう。そうやって現場のみなさんの信頼を得て、名前を知ってもらうことを積み重ねていかなきゃと思いました。 NHKっぽく演じていた過去 ――バラエティーの仕事を始めて、壁にぶつかったことは?  最初は、お仕事が全然つながりませんでした。NHKっぽさが自分の役割だと思っていたので、すごく丁寧にしゃべるようにしていたし、「イェイ!」とか「フゥー!」とか言うこともなく。ちゃんと座って、クイズもちゃんと答えて。  そんななか、私が真面目に考えたクイズの解答が周りのみなさんからすると変な答えだった、ということがたまにあって、そこがよく放送で使われることに気づくんですよ。NHKっぽく演じるよりも、本当に自分が思ったことを言うほうが、元NHKという肩書とのギャップのせいか、面白がっていただけるみたいでした。  でもそれは、共演者のみなさんが私をイジってくださり、あたかも面白い人間であるかのように仕立ててくださるからです。本来、私にバラエティーの仕事は向いていないので、今も苦手意識はありますし、もがいています。 神田愛花さん(写真は本人提供) ――連日、さまざまな番組で活躍されているのに、今でもそう感じていらっしゃるのは意外です。  自分の中でちゃんとやれていると思えるのは、コメンテーターのお仕事です。前もって扱うニュースが決まっているので、下調べをして、自分の意見を固めておく。本番では、司会の方が順番に出演者を指して、話を振ってくださるので、予定外のことはほぼ起きません。  でもバラエティー番組では事前に準備をしたところで、当日誰が何を言うのか、私の発言がどう受け止められるのかはまったくわかりません。しかも、NHK時代は自分の個性を認識してアウトプットする教育なんて受けていないので、私自身がどんな人間なのか、何を言えばいいのかもよくわからなくて……。  正直、人と比べてしんどくなってしまった時期もありました。仕事がまだ少なかったころ、たくさんテレビに出ていらっしゃるフリーアナウンサーを見ると、「なんで私には出番がないの?」という怒りが湧いて、自分自身が支配されてしまったこともあります。 ようやく気づいた、自分の役割 ――苦しい時期をどう乗り越えたのですか?  怒りの気持ちを分析してみたら、あざとさを上手に表現できたり、女性芸人さんと渡りあえたりするほかのアナウンサーへの嫉妬によるものでした。それで、自分が番組に出たとき、その方たちのしゃべり方やキャラクターをまねしてみたんですけど、全然うまくいかない。ようやく自分の力不足に気づくわけです。  彼女たちのような能力のない自分は何ができるんだろうと考えました。すると、その場で起きたことを真剣に受け止めて口にしたときに、たまにみなさんに笑ってもらえることに思い至ったんですね。  収録後、「よかったよ」って言ってくださるプロデューサーさんに、何がよかったのかと聞くと、「神田さんがそれをわかってないのがいい」って誰も論理的に説明してくださらない。マネージャーでさえ「そのままでいいんです」って。ということは、自分の役割は思ったことを素直に言葉にすることなんだ、それをやり続けるしか生き残る術はないんだと思いました。 神田愛花さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  自分なりに分析できたことで、40歳を前にようやく怒りから解放されました。今でも、自分にないものを持っている方たちをうらやましく思うことはありますが、みんなすごいなーと受け入れられるようになりました。以前のように、自分が嫉妬している人がテレビに出ているとチャンネルを変える……みたいなことはないです(笑)。 「ズレてる」なんて言われたことなかった ――神田さんはよく、物の見方が独特と評されますが、ご自身でもその認識はありますか?  ズレてるって、よく言われるんですよね。この前、(MCを務めるバラエティー番組)「ぽかぽか」のゲストに、はだしで海に入るのが苦手だっていう女優さんがいらっしゃったんですけど、私はすぐにピンときたんです。というのも、グアムに行ったときにビーチにウミウシがいっぱいいて、踏むのが気持ち悪かったことを思い出しまして。それで、「グアムでウミウシがいるビーチに行きました?」って聞いたら、「そんな限定的な理由のわけないじゃん!」って周りからツッコまれてしまって、なるほどそうかと。  でも社会人になるまでは、ズレてるなんて言われたことないんですよ? 理由を分析してみた結果、中学高校は私立だったので、同じ校風にひかれる親御さんに育てられ、同じ先生に教育を受けるうちに、似たような感覚の子たちの集まりになっていたのかなと。大学は理学部数学科で、これも文系の方から見ると変わった集団だったのかもしれません。  今でも、バラエティーに出たときに自分の思考が面白がられると、なんで通じないんだろうっていう悲しみが先に来ます。もちろん話が盛り上がってありがたいんですけど、言いたいことを言いきる前に、尺の都合で打ち切られてCMに入っちゃったり。だからこそ、思いの丈を自由に伝えられるエッセーは、書いていてすごく気持ちがよかったです(笑)。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【後編】<元NHKアナ「神田愛花」がブレーク後に仕事を減らしたワケ 「安らぎである家庭がイライラする場所になってしまった」>に続く ●神田愛花(かんだ・あいか)/フリーアナウンサー。1980年生まれ、神奈川県出身。大妻中学高等学校卒。学習院大学理学部数学科を卒業後、2003年にアナウンサーとしてNHKに入局。12年に退職し、フリーに転向。現在はバラエティー番組を中心に活躍し、23年1月から始まった昼の帯番組「ぽかぽか」(フジテレビ系)にMCとしてレギュラー出演中
皇后雅子さまは「お帽子なし」でリラックス 上皇ご夫妻への「ごあいさつルール」が緩やかになった理由
皇后雅子さまは「お帽子なし」でリラックス 上皇ご夫妻への「ごあいさつルール」が緩やかになった理由 英国公式訪問を終え、上皇ご夫妻に帰国のあいさつをするため、仙洞御所に入る天皇陛下と皇后雅子さま。雅子さまお帽子なしでリラックスした装い=2024年7月5日午後、東京都港区    国賓としての英国訪問を終えた天皇、皇后両陛下が7月5日、上皇ご夫妻へのあいさつのため、赤坂御用地にある仙洞御所を訪れた。このような「慣例」の訪問はこれまで続いてきたが、最近は訪問の回数を減らしたり、帽子のお召しを簡略したりと、皇室をめぐる状況に合わせた「変化」が起きているようだ。 *   *   *  7日5日の夕方、天皇陛下と皇后雅子さまを乗せた車が、赤坂御用地の門から出てきた。  沿道に待つ人の姿を目にとめたように車のルームライトが灯り、車内のおふたりの様子が見えやすくなった。門のそばにいた女性は、雅子さまの様子に驚いたという。 「明るい車内から、陛下も雅子さまがリラックスした、楽しげな表情で手を振ってくださいました。精神科の主治医を同行してのご訪問と報道されていましたから、お疲れがたまらないかと心配していましたが、この日は普段よりも鮮やかなリップメイク(口紅)もお似合いで、生き生きとなさっていた」  歓迎式典や馬車でのパレード、バッキンガム宮殿での晩餐会と重要な日程が続いた英国訪問。雅子さまの主治医である精神科医の大野裕医師も随行し、現地での体調の判断もふまえて予定が調整された。  即位後初めての国際親善訪問となった2023年のインドネシア訪問では、大野医師が随行しなかっただけに、万全の体制を敷いた英国訪問への意気込みがうかがえた。   これまでの「慣例」とは違って  重要な日程を終え、晴れやかな表情で仙洞御所を訪れた天皇陛下と雅子さま。  普段と違ったのは、雅子さまがお帽子をつけず、ややリラックスした服装だったことだ。  皇室の慣習に詳しい人物によると、「お相手を訪問する際には、帽子を着用なさるのが皇室の慣例」なのだという。そして雅子さまは、ご体調の波が続いていた皇太子妃時代の2013年のオランダ、15年のトンガ訪問を前にした当時の両陛下(現・上皇ご夫妻)へのあいさつで帽子をはずされたこともあったが、ごあいさつの際には基本的に帽子を着用なさっている。  しかし、この日の雅子さまは帽子をお召しではなく、装いもすこしゆったりしたものだった。   1月1日の「新年祝賀の儀」で各国の外交使節団の長から宮殿であいさつをうける天皇、皇后両陛下と出席する皇族方=2024年1月1日、皇居・宮殿、宮内庁提供    また、いつもと違っていたのは、おふたりが英国へ出発される前に、上皇ご夫妻を訪れてのごあいさつがなかったことだ。  昨年のインドネシアご訪問の際は、出発前と帰国後にそれぞれ仙洞御所を訪ねている。皇太子時代も、海外訪問の前と後が「慣例」だった。  さらに1月1日の「新年祝賀の儀」にあたって、両陛下の長女愛子さまをはじめ他の皇族方は、ごあいさつのために仙洞御所を訪れている。  しかし、両陛下のご訪問はなかった。   「新年は忙しいでしょう」というお気遣い  この「変化」について宮内庁の関係者らは、上皇ご夫妻が陛下と雅子さまを気遣ってのことだったと明かす。 「元日の天皇陛下と皇后陛下は、明け方からびっしりと祭祀や宮殿行事の予定がつまっておられる。上皇ご夫妻がおふたりを気遣い、新年のごあいさつはなし、ということになったと聞いています」  昨年12月、22歳の誕生日を迎えた愛子さまが仙洞御所を訪ねた際も、愛子さまは帽子を着用していなかった。   22歳の誕生日を迎え、上皇ご夫妻にあいさつに向かう愛子さま。帽子を着用せずリラックスした装い=2023年12月、読者の阿部満幹さん提供    天皇の侍従を経験した人物は、こう話す。 「上皇さまは90歳、上皇后美智子さまは89歳におなりで、ご体調も万全ではない。訪問客をお迎えするのにも体力を要します。慣習にこだわらず、あいさつの回数を減らすことで、双方ともにご負担を軽減できます。お帽子なしでというのも、形式にこだわらず、親しい家族として顔を見て会話を交わしたい、というお気持ちもあったのかもしれません」    皇室は皇族の数の減少と高齢化が進む一方で、公務や宮中祭祀などの負担をなかなか軽減できずにいる。そうしたなか、令和の皇室は伝統を守りながら、新しい形を模索しているようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 英国王の晩餐会 笑顔の皇后雅子さまの頭上で輝く花とダイヤの宝冠は「初めて」の「第二ティアラ」 https://dot.asahi.com/articles/-/226295  
いつまで続く?佳子さまに「沈黙」する宮内庁インスタ 背景には宮内庁のトラウマになった“言葉”
いつまで続く?佳子さまに「沈黙」する宮内庁インスタ 背景には宮内庁のトラウマになった“言葉” 上皇ご夫妻の卒寿を祝う音楽会に出席した天皇家の長女愛子さまと秋篠宮家の次女の佳子さま=2024年7月10日、皇居・東御苑の桃華楽堂    宮内庁が4月から公式インスタグラムの運用を始めて、3カ月が過ぎた。天皇、皇后両陛下の公務や、ご静養中のご一家の写真の投稿に70万近い「いいね」がつくこともあり、フォロワー数も現在178万人と順調に伸びている。しかし、皇嗣家である秋篠宮家、なかでも公務を積極的に担い、6月にはギリシャも訪問した次女の佳子さまについては、投稿がまったくない状況が続いている。 *   *   * 「皇室に対する国民の御関心の高さに、改めて身の引き締まる感じがしております」  そう答えるのは、宮内庁で広報を担当する報道室。インスタグラムの公式アカウントの順調な滑り出しに、手ごたえを感じている様子だ。そのうえで、「若年層を含め幅広い世代に関心を持ってもらえるよう、工夫をして発信をしていきたい」と意欲を見せた。   「皇室ファン」のツボを押さえた68万「いいね」  アカウントを開設する前から、宮内庁はウェブサイトで情報を発信してきた。しかし、天皇家や宮家の公務の日程、記者会見の内容を掲載する程度で、国民に対して積極的な発信ができていなかった。そのため、インスタグラムの開設についても、宮内庁を取材するジャーナリストなどからの期待値は低かった。  しかし、ふたを開けてみると「意外といっては失礼だが、SNS発信のセンスがそう悪くない」(天皇ご一家と交流のある人物)。これまでのところ積極的な投稿を続けており、世間の受け止めも好意的だ。  24時間限定で動画や画像を投稿できるストーリーズ機能も使い、天皇、皇后両陛下を間近で撮影した写真や動画を心地よい音楽とともに投稿。おふたりの英国訪問を機に、英王室の公式アカウントとの相互フォローも始めた。     5月、栃木県の御料牧場でご静養中にタケノコ堀をする愛子さま。長靴に大きなスコップを手にしゃがむ愛子さまの写真を含めた投稿は、「可愛い!」と評判に=宮内庁公式インスタグラムより    また、「皇室ファン」のツボをしっかり押さえた発信も。  5月にご静養のために訪れた栃木県の御料牧場でのご一家の写真は、訪問から1か月ほど後に公開されたが、21枚の写真のうち7枚は天皇陛下自身が撮影した貴重なショットだった。  特に、小花模様のシャツに紺のパンツ、黒いゴム長靴をはいた愛子さまが、大きなスコップを手にタケノコ掘りに挑戦し、苦戦してしゃがみ込んでしまった様子を撮影した写真は、ネット上でも「可愛い!」とコメントが寄せられ、この画像を含めた投稿には68万を超える「いいね」がついた。   「ペルーを繰り返さない」  一方、投稿されているのは天皇ご一家のものに限られ、他の皇族に関する投稿はほとんど見当たらない。  なかでも皇嗣家である秋篠宮家の公務の数は多く、次女の佳子さまは昨年11月の南米に続いて今年6月にはギリシャを公式訪問している。若い世代からの人気も高く、佳子さまが着用した服はSNSで話題になって完売になるほどで、皇族のなかでもインスタグラムとの親和性は高いと見られる。にもかかわらず、佳子さまを中心に撮影した画像、動画はまったくない。  インスタグラムでの発信の対象が天皇家に限定され、秋篠宮家の投稿がない理由について、宮内庁は、 「天皇皇后両陛下のご活動を中心に発信を行うこととしたところです。今後については、情報発信等の状況を分析するなどし、改めて検討していく予定です」  と回答するにとどまった。    公務で活躍し、人気があるにもかかわらず、佳子さまについての発信がない理由には、これまでの秋篠宮家に対するバッシングが背景にあるとの見方が根強い。  秋篠宮家をめぐっては、長女の小室眞子さんの結婚騒動があり、秋篠宮邸の改修工事や佳子さまの「ひとり暮らし」をめぐって批判も集まった。  秋篠宮家に向けられる世間の視線について、宮内庁は非常に神経を尖らせており、 「それは6月の佳子さまのギリシャ訪問でも顕著でした」  と、宮内庁の事情を知る人物は話す。       ギリシャ公式訪問を終え帰国した秋篠宮家の次女、佳子さま=2024年6月1日、羽田空港    昨年11月、南米ペルーのマチュピチュ遺跡を訪問した佳子さまは、記者から感想を問われて、こう答えた。 「この場に立って見てみると、おー、という感じがすごくします。何かこう、素敵なこう、空気を感じます」  この映像が報道されると、「表現力や語彙力が不足している」といったバッシングが広がった。前出の関係者は、こう話す。 「宮内庁はこの件がかなりトラウマになっているようで、ギリシャで同じことを繰り返すまいと、佳子さまの感想や受け答えについては同行した職員らも終始ピリピリしたムードでした」   「皇室ファン」の心をつかむような意欲的な発信を続ける宮内庁の公式インスタグラム   英王室はコメント欄を開放、宮内庁は閉鎖  インスタグラムでの情報発信は好調だが、SNSは寄せられた「コメント」をきっかけに炎上が始まりやすい。英王室の公式インスタグラムとは異なり、宮内庁のアカウントはコメントが書き込めない設定になっている。  宮内庁は取材に対し、 「コメントについては、皇室の方々に関する内容も含まれ得ると考えており、誰もが閲覧できるコメント欄の場ではなく、宮内庁ウェブサイトを通じて行っていただくこととした」  と答えた。  しかし、SNSに詳しいジャーナリストは、宮内庁の公式アカウントでの「炎上」は起こりづらいのではないかと見る。 「インスタグラムには、X(旧ツイッター)の『リポスト』やフェイスブックの『シェア』のようにワンタップで投稿をシェアする機能がないため、炎上しづらいツールです。コメント機能さえオフにしておけば、『いいね』の数が皇室の方々によって差がつくくらいでは」    SNSは「炎上」が怖いもの。宮内庁は、天皇陛下や皇族方への批判が書き込まれることを警戒していると見られるが、否定的なコメントがあるのは、人気が高く、注目されている証しでもある。秋篠宮ご一家や高円宮妃の久子さま、SNSで留学記が再注目された三笠宮家の彬子さまなど、存在感と人気のある宮家の皇族方についての積極的な発信も期待したいところだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇陛下の英国晩餐会「席札」アップ、愛子さまのタケノコ堀り…宮内庁“攻め”のインスタの評判 https://dot.asahi.com/articles/-/226629  

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