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天皇陛下と皇后雅子さま、首相を乗せる「政府専用機」 仏料理メニューに「急な」運航依頼も…元機長がインドで「驚いた」出来事とは?
天皇陛下と皇后雅子さま、首相を乗せる「政府専用機」 仏料理メニューに「急な」運航依頼も…元機長がインドで「驚いた」出来事とは?   「政府専用機」で英国へ向けて出発する天皇陛下と皇后雅子さま=2024年6月22日、東京・羽田空港    天皇、皇后両陛下は6月末、国賓として招かれた英国を「政府専用機」で訪れた。「空飛ぶ官邸」として首相の外遊に使われ、「VIP専用」のイメージがある航空機だが、通常の民間機とはどんな違いがあるのか。食事のメニューから“特殊事情”まで、政府専用機のパイロットらに聞いてみた。 *   *   *  6月22日午後6時(現地時間)ごろ、天皇、皇后両陛下を乗せた政府専用機が、英国・ロンドン郊外のスタンステッド空港に到着。タラップからゆっくりと降りたおふたりは、出迎えたチャールズ国王の側近らと握手を交わした。  おふたりが乗っていた航空機は、ボーイング社の「B777-300ER」。全日空や日本航空の国際線などで使われている機体で、全長は約73メートル、約150人が搭乗可能だ。  しかし、全日空や日本航空のマークはなく、日の丸の国旗が掲げられている。この航空機が、防衛省が管理し、航空自衛隊の特別航空輸送隊が運用している「政府専用機」だ。    政府専用機は、内閣総理大臣や各省庁の大臣、天皇陛下や皇族らが、公務のために海外を訪問する際に使われる航空機だ。 両陛下も搭乗する政府専用機は、ボーイング社の「B777-300ER」。全長およそ74mの機体には150人が搭乗可能で、値段は1機約370億円(写真提供・防衛省航空自衛隊)    航空自衛隊によると、皇室では天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻、皇嗣ご夫妻以外の皇族が使ったことはほとんどなく、1999年にモロッコのハッサン2世の葬儀のために高円宮憲仁さまが搭乗されたときだけだという。    30年ほど前までは民間機をチャーターしていたが、緊急時などの対応が難しいため、政府は1993年から2機の特別輸送機を政府専用機として導入した。  故障などのトラブルに備えて、2機が同時に飛ぶのが原則だ。最近では、2021年に菅義偉首相(当時)がG7サミットのために英国へ向かおうとした際、羽田空港で機内の照明に不具合が見つかり、予備機に乗り換えている。   両陛下も搭乗する政府専用機の内部。「秘書官区画」は総理大臣の秘書官らが控えるスペースで、シートはベッドにもなるという(写真提供・防衛省航空自衛隊)   食事のメニューは?  政府専用機は通常、北海道にある航空自衛隊の千歳基地(千歳市)に置かれている。  航空幕僚監部で、政府専用機などの運航を調整・支援する運用支援・情報部運用支援課に所属する永野雄三さん(48)は、政府専用機の機長経験もある。永野さんによると、パイロットはもちろん、機内サービスを担当する客室乗務員もすべて、北海道・千歳基地の特別航空輸送隊に所属している航空自衛官だ。  パイロットは、輸送機のパイロット経験者を基準に選ばれる。そして異動が決まると、民間航空会社で数カ月の研修を受けて、機長や副操縦士の資格を取得することになるという。    機内で天皇陛下に出される食事は、栃木県の御料牧場から運ばれたもの――そんな噂がささやかれたこともあったが、食事は民間機と同じケータリングサービスを利用している。  VIPの食事は民間機のファーストクラスと同程度のもので、日本料理やフランス料理などが一品ずつ、皿に盛り付けされて提供される。VIP以外の搭乗者の食事は、民間機のビジネスクラスと同程度のメニューだという。    機内には、総理や天皇や皇族が使う部屋や会議室、事務作業室があり、旧型機では同行記者の取材に答える記者会見のスペースなどもあった。機内の詳しい情報はセキュリティ確保のために一部をのぞき、非公開とされている。   政府専用機の内部にある「随行員区画」。ビジネスクラス使用で21席ある。天皇、皇后の海外訪問では、首相・外相経験者が首席随員を務めることが多いという(写真提供・防衛省航空自衛隊)   政府専用機の「依頼」は突然に  政府専用機は民間機と異なり、定期的な運航のスケジュールはない。内閣官房や宮内庁から防衛省が「依頼」を受け、運航の予定が定まっていくのが基本だ。  たとえば皇室メンバーの海外訪問は、数年前から調整が始まり、相手国から「招待状」が届く。ある程度の予定は見えているが、正式決定されて「依頼」が来るのは日程の直前になることも多い。  天皇、皇后両陛下の英国訪問は6月22日からだったが、政府の閣議決定を経て、正式に訪英が決まった6月4日以降に「依頼」が届くことになったという。   エリザベス英女王の国葬への参列を終え、政府専用機で英国を出発する天皇陛下と皇后雅子さま。王室の国葬や戴冠式の際には、世界各国から賓客の航空機が空港に集中する=2022年9月19日、ロンドン、スタンステッド空港    そして、海外の王族の葬儀など、「依頼」が突然やってくることもある。  2022年の英国・エリザベス女王の葬儀に天皇、皇后両陛下が参列された際、政府専用機の副操縦士として携わった機長の市橋正樹(42)さんは、 「先輩からは、どこの国の王族の容態が良くないといったニュースが流れたら急な弔問運航の依頼が来る可能性が高いので準備するように、と教えられました」  と話す。 両陛下も搭乗する政府専用機内部に設けられた報道関係者用の「一般区画」。民間機のプレミアムエコノミー仕様で85席あり、無線通信も利用可能(写真提供・防衛省航空自衛隊)   世界各国の航空機が集結した英女王の葬儀  定期的な運航はないが、要人を乗せているだけに到着時間の「厳守」が求められる。  英国に向かった両陛下を乗せた政府専用機が、ロンドン郊外のスタンステッド空港に到着した際、空港には英国の王室関係者が出迎えた。  市橋さんが話す。 「気象条件が悪かろうが、出発が遅れようが、安全かつ『定時』に到着しなければいけません。到着後のセレモニーの準備をして待っている相手国の関係者を待たせるわけにはいきませんし、早く着いても『もう着いたのか』と相手国をバタバタさせてしまいます」    両陛下が参列したエリザベス女王の葬儀には各国の要人500人が、秋篠宮ご夫妻が出席したチャールズ国王の戴冠式では2200人が、世界中から英国に集まった。  市橋さんは、当時の空港の様子をこう振り返る。 「世界各国から一斉に、王族や国賓の乗った航空機が集結するわけです。スタンステッド空港やヒースロー空港などには膨大な数の航空機が着陸してくるため、万が一の事態が決して起こらないよう身構えましたし、慎重な操縦が求められました」   訪問中だったインドから夜中、極秘裏に出発し、ウクライナのキーウ中央駅に到着した岸田文雄首相ら。政府専用機に乗り込んでいた航空自衛隊の職員も「総理は戻らない。そのまま帰ってくれ」と告げられ驚いたという(写真提供・内閣広報室)    さらに現在は、ロシアによるウクライナ侵攻のためにロシアの上空が飛行できなくなっている。欧州にはアラスカ方面へ迂回する必要があり、通常より2時間ほど余計に時間がかかっていることが、現場を悩ませているという。   「岸田総理は戻って来なかった」  公式行事などの日程はしっかり決まっていても、思いもしなかったことは起こる。  2023年3月21日、岸田首相がウクライナを電撃訪問し、首都キーウでゼレンスキー大統領との首脳会談が実現した。  この直前、岸田首相は19日から22日の日程でインドを訪問。政府専用機には、前出の永野さんも乗り込んでいた。  そして、インドで予定されていた岸田首相の日程が終わったが、岸田首相がなかなか戻って来ない。実はそのとき、極秘にチャーターした民間のビジネスジェット機でウクライナへ向かっていたのだった。 「我々も当然、電撃訪問は知らされておらず、『総理は戻らない。そのまま帰ってくれ』と言われて。私の任務のなかで、総理不在で運航をしたのは初めてでした」    そして「VIP専用」というイメージがある政府専用機には、在外日本人を救援する役割も担っている。  2013年1月にアルジェリアで起きた日本人の拘束事件では日本人7人と9人の遺体を、16年7月にバングラデシュ・ダッカであったテロ事件では7人の遺体とその家族などを運んでいる。 「たとえば今ならイスラエルですが、常に世界情勢を見て、海外にいる邦人を救うために待機をしています。そうした部分も知っていただけたらうれしいですね」  と市橋さんは話す。   フィリピンに向かう政府専用機内で地図を見ながら歓談する天皇、皇后両陛下(現・上皇ご夫妻)=2016年1月   皇室の運航では「お茶会」が  平成の天皇陛下(上皇さま)と美智子さま(上皇后さま)が政府専用機でフィリピンを訪問してから1カ月ほど経った2016年2月24日、機長や客室乗務員、運航計画を立てる職員ら約100人が、皇居での「お茶会」に招かれた。そして両陛下から、ねぎらいの言葉をかけられたという。  平成の時代に皇室に仕えた人物によると、裏方も含めた多くの人たちの力で「訪問」が成り立っていることに感謝を伝えたいとの両陛下のお気持ちだったという。  コロナ禍もあって、令和に入ってからは「お茶会」はないが、「宮内庁を通じて感謝の言葉が伝えられました」(市橋さん)。    政府専用機が飛ぶ機会は、コロナ禍では年数回まで減っていたが、昨年度は14回まで増えた。さらに今後、活躍の機会は広がっていきそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   
〈2024年上半期ランキング エンタメ編3位〉『虎に翼』好演のミステリアス女優「平岩紙」 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活
〈2024年上半期ランキング エンタメ編3位〉『虎に翼』好演のミステリアス女優「平岩紙」 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活 「虎に翼」での演技が話題を呼んでいる平岩紙    早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。エンタメ関係の記事の3位は「『虎に翼』好演のミステリアス女優「平岩紙」 夫は有名ミュージシャンで一児の母も謎多き私生活」でした(この記事は6月19日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)で、ヒロイン佐田寅子(伊藤沙莉)の大学時代のクラスメート・大庭梅子役を演じる平岩紙(44)。弁護士の夫と3人の子どもを持つ一番年上の同級生という役どころで、落ち着いた物腰ながら、おちゃめな面もある梅子を平岩は存在感たっぷりに演じている。舞台が戦後に移り、物語からはフェードアウトしているが(6月17日時点)、先日の新キャスト発表で、梅子のしゅうとめ役として鷲尾真知子の登場が明かされると、「梅子さん再登場あるんだ!」とSNSではファンが色めき立った。   「学校におにぎりを毎日のように作ってきてくれるなど、みんなのお姉さん的存在だった梅子さんは結婚後、すぐに長男を出産したものの、夫同様に傲慢(ごうまん)な人間に育ってしまい悔いていることを第18話(4月24日放送)で明かしました。『夫と離婚するために、私は法を学んでいる』と話し、次男・三男の親権がほしいと寅子に打ち明けると、涙した視聴者も多く、SNSでも『たった15分でボロ泣きした』など感動の声が多く上がっていました。同時に『平岩紙氏に母心を語らせると説得力がハンパない』と平岩さんの演技力をほめたたえるコメントも多かったですね。司法試験当日に夫から離婚届を突き付けられ、結局試験を受けることができずに彼女の話は終わったんですが、その後どうなったのか、どんな形で再登場するのか、視聴者の間では推理合戦が始まっています」(テレビ情報誌の編集者) きめ細かな肌の白さは女性誌でも取り上げられるほど   芸名「紙」の由来は肌の白さ  朝ドラで注目を集める平岩だが、同じく4月にスタートした山下智久主演のドラマ「ブルーモーメント」(フジテレビ系)でも主要キャストのひとりで山下の上司役を演じている。第7話(6月5日放送)では、土砂崩れから晴原(山下)を救おうとして身代わりとなり、翌週に彼女が亡くなったことが明かされると、SNSでは視聴者から悲しみの声が多く上がった。 「平岩さんといえば、物語の脇を固める名バイプレーヤーとして数々の作品で存在感を発揮しています。俳優になろうと思ったのは、三者面談を翌日に控えた高校3年生のときだったそう。ふと役者をやってみようかなと思い、母親に相談したところと背中を押してくれたそうです。高校卒業後は俳優を養成する専門学校へ。そこでは、周りの目を気にせずどんな役でもできるようになるため、恥をさらすという授業が多かったそうですが、それを結構楽しめたと取材で話していました。もともとは極度の恥ずかしがり屋で人前に出るのが苦手だったといい、『卒業して間を空けたら二度と芝居なんてできないと思い、恥ずかしさに慣れているうちに俳優の仕事を始めようと考えました』と意外な事実をインタビューで明かしていたこともあります」(同)  その後、劇団「大人計画」のオーディションを受けることになった平岩。なんと、遊園地の景品でもらったヒョウのかぶりものとサングラス姿で、ホルンを吹いたというから驚きだ。これはウケ狙いではなく、自分を覆って目を隠せば審査員の視線を意識しなくて済み、緊張感が多少緩和されると思ってのことだったという(「マイナビ転職」2020年3月20日配信)。結果、見事合格したのだが、のちに劇団主宰の松尾スズキ氏は彼女の採用理由について「ちゃんと恥ずかしさを持っていたから」と話したという。 「実は平岩さんの『紙』という名前の名づけ親も松尾スズキさんです。平岩さんの肌が紙のように白かったことに由来しているそうです。平岩さんは数々のドラマや映画、舞台に出演してきましたが、お茶の間の認知度が上がったのは12年から出演したファブリーズのCMではないでしょうか。夫役の松岡修造さんと3人の息子たちとのコミカルなやりとりで妻&母親役を好演していました。ドラマ出演作品は『木更津キャッツアイ』『とと姉ちゃん』『これは経費で落ちません!』など、正直何をあげればよいかわからないほど、多くの作品で印象的な役柄を演じています。業界内では、彼女の出演する作品は“当たり”が多いともいわれています」(民放ドラマ制作スタッフ) ミステリアスな雰囲気が魅力の平岩紙   40代になってからは「鏡を見ない」  一方、プライベートでは2020年にロックバンド・フジファブリックの山内総一郎と結婚。出会いのきっかけは松尾スズキが作・演出を手掛けた番組『松尾スズキアワー「恋は、アナタのおそば」』(NHK・2016年)だったという。平岩は「純粋なものと共鳴できる綺麗な方だと思っております」と山内についてコメントし、一方の山内は「世代や生まれ育った場所も近く、同じ表現者としてとても尊敬しています」とそれぞれコメントしていた。また、出産時期や性別については発表していないが、2023年6月3日、第1子出産が報じられており、平岩は1児の母でもある。  現在、44歳の平岩だが、彼女の芸名の由来となった透き通るような美肌は女性誌でも注目されている。「美的GRAND」(2024春号)のインタビューによれば、プライベートでは眉を描く程度で、ほぼノーメイク。日焼け止めもほとんど使ってこなかったほど、美容には無頓着というから驚きだ。「肌を気にしすぎないことが私にはいいのかもしれないと気づきまして、40代になると、鏡を見る時間がグッと減りました(笑)」と同誌で本音を明かしていた。ただ、舞台でバックヌードになることもあるため、体を引き締めようと始めたキックボクシングは8年も続けているという。 【こちらも話題】 朝ドラ「虎に翼」好調のヒミツは寅子の「はて?」 キャッチ―すぎる決めゼリフの威力とは https://dot.asahi.com/articles/-/219392 秘めた意志を感じさせる  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は平岩の魅力についてこう分析する。 「確かな演技力に支えられた存在感があり、おとなしい雰囲気の中に潜む芯の強さ、秘めた意志の輝きを感じさせる演技には目を見はります。『大人計画』出身なので芝居の基礎はもちろん、表現力も折り紙付き。個人的には清原果耶主演のドラマ『透明なゆりかご』で演じた、糖尿病を患い両目の視力を失いながらも妊娠を継続する妊婦の役が印象に残っています。また、『恋はつづくよどこまでも』『心の傷を癒すということ』など医療ドラマへの出演が目立つことから、主張しすぎないその透明感が医療の現場に似合うのかもしれません。プライベートが謎めいているところもイマジネーションをかき立てられ、興味をひかれます。年齢も含め、良い時間の重ねかたをしていると思うので、このまま俳優として息の長い活躍を続けてほしいですね」  唯一無二の存在感を放ち、人々を魅了している平岩。梅子さんの再登場とともに、平岩の今後の出演作品にも注目したい。 (高梨歩) 【こちらも話題】 「全裸監督」だけじゃない! 朝ドラ「虎に翼」で話題の憑依型女優「森田望智」とは何者なのか? https://dot.asahi.com/articles/-/221301
「私の目の黒いうちに娘たちを死なせてほしい」 道長の容赦ない圧力による「平安貴族の無常」
「私の目の黒いうちに娘たちを死なせてほしい」 道長の容赦ない圧力による「平安貴族の無常」 栄花物語図屏風(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12182?locale=ja)  優雅な人生を想像しがちな平安時代の貴族たち。しかし、そこには貴族間の格差や権力争いがあり、女性たちも例外ではなかった。平安文学研究者・山本淳子氏の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集し、その悲哀を紹介する。 *  *  * 女主人と女房の境目 「私の目の黒いうちに娘たちを死なせてほしい、そう神仏に祈ればよかった」。重病の床でこう述懐した人物がいる。父が死ねば、娘たちは人の家に女房(侍女/にょうぼう)として雇われるだろう。それが我慢ならないというのだ。この人物とは、『栄華物語』(巻八)の記す藤原伊周(これちか)だ。かつては関白(かんぱく)の息子として、二十一歳の若さで内大臣(ないだいじん)にまでなった。しかし、父の死後、叔父の道長に権力の座を奪われてからは、彼の生涯は転落の一途だった。長徳二(九九六)年、つまらない諍いで自ら「長徳(ちょうとく)の政変」を引き起こし、大宰府に流されたのが二十三歳の時。翌年都に召還されはしたが、政界への復帰はならぬまま、三十七歳の春、持病が悪化して死の床に就いた。彼は、遺してゆく子どもたち、なかでもまだ十代の二人の娘の行く末を案じた。女御(にょうご)にも、后(きさき)にもと思って育て上げた娘たち。だが自分が死んでしまえば、先は見えている。伊周は娘たち、息子、そして北の方を枕もとに坐らせて言った。「今の世では、ご立派な帝の娘御や太政(だいじょう)大臣の娘まで、皆宮仕えに出るようだ。うちの娘たちを何としてでも女房に欲しいという所は多いだろうな。だがそれは他でもない、私にとって末代までの恥だ」。結局、彼の死後、事態は予想したとおりとなった。下の娘に声がかかり、藤原道長の娘・彰子(しょうし)に仕えることになったのだ。后候補の姫君から、一介の雇われ人へ。 「あはれなる世の中は、寝るが中の夢に劣らぬさまなり」。無念としか言いようのない運命を、『栄華物語』は夢も同じ儚さと憐れむ。 『源氏物語』「蜻蛉(かげろう)」巻には、この伊周の次女によく似た女房が複数登場する。明石中宮(あかしのちゅうぐう)の長女・女一の宮(おんないちのみや)付きの女房「小宰相(こさいしょう)の君(きみ)」、また同じ女一の宮に新参女房としてやってきた「宮の君」だ。小宰相の君は、「宰相」という女房名であるからには、公卿(くぎょう)の一員・宰相(参議)を身内に持つのだろう。居住まいが美しく、琴や文などの教養も抜きんでて、育ちの良さを推測させる。「なぜ宮仕えなどに出たのだろう」と、薫(かおる)も首をかしげる。おそらくセレブ階級からの転落を経て女房となったこと、想像に難くない。いっぽう「宮の君」は、父が光源氏の異母弟の式部卿宮(しきぶきょうのみや)で、かつては薫や東宮との縁談もあった。ところが父が亡くなり、継母とのそりが合わずつまらない男と結婚させられるところを、見かねた明石中宮が声をかけ、娘の女房として雇い入れたのだ。彼女自身のせいではないが、薫は非難の目を向ける。「かくはかなき世の衰へを見るには、水の底に身を沈めても、もどかしからぬわざにこそ(ここまでおちぶれるくらいなら、水の底に身を沈めても人から非難はされまいものを)」。女房への零落は自殺にも値することだというのである。冒頭の伊周の、娘を死なせたいとまで言った価値観は、当時の貴族においては特別なものではなかったのだ。  それにもかかわらず、というか、いやむしろそれゆえにというか、姫君がおちぶれて女房となる例は、伊周の言葉にもあったとおり実際に多かった。父が亡くなったり家が傾いたりすると、足元を見られ出仕を持ちかけられるのだ。雇ったのは、多くが藤原道長とその娘たちである。出自の高貴な人物を雇うことで、自分の家の格の高さを誇示する。それが道長の方法だった。おそらくは伊周の頭にも、最初から道長の顔が浮かんでいたに違いない。彼が雇い入れて自家や娘たちの女房としたのは、伊周の次女のほか、例えば故太政大臣・藤原為光(ためみつ)の四女と五女、道長の長兄で故関白・藤原道隆(みちたか)の娘、また次兄で故関白・藤原道兼(みちかね)の娘などだった。うち為光の四女は花山(かざん)法皇(九六八~一〇〇八)の愛妃でさえあったのに、法皇の死後、道長家に雇われ、やがては道長の寵愛を受けるようになった。妹の五女は道長の娘・妍子(けんし)の女房として雇われたが、やはりやがて道長の妾(めかけ)となり、彼の子を妊娠した。姉妹とも父と夫を亡くし、庇護者を失ったゆえの出仕だった。だが道兼の娘は、生まれる前に父を亡くしてはいたものの、母親は右大臣・藤原顕光(あきみつ)と再婚していたし、兄もすでに壮年の参議であり、生活に困っている訳ではまったくなかった。『小右記』によれば、彼女の母は娘のために「婚活」しており、公卿クラスのセレブに縁づかせたいと胸を膨らませていたようである。それが、破れた。道長一族に目をつけられれば、断るすべがなかったのだ。『栄華物語』(巻十四)は、道長の妻・倫子(りんし)から「三女の威子(いし)の女房に」との文が来たとき、姫君も母も女房も、皆が大声で泣いたと記す。そこへ兄の兼隆(かねたか)がやってきて、自分も涙を流しながら「嫌だなどと言えば、私が困ることになる」と、承諾の返事をしてしまう。継父も、道長に次ぐ権力者でありながら、何の手も打ってくれなかった。「尼になりたい」とまで本人が思い乱れても、無駄であった。彼女は結局、娘が生まれた時のためにと亡父が用意してくれていた極上の調度の数々を持参し、彼女付きの女房十人、童女二人、下仕えと共に出仕した。  彼女の例に照らせば、道長家以外ならどんな姫君も、女房に転落することがありえた。雅びやかな姫たちさえもが、見えない崖っぷちの上を歩いていた。そんな貴族社会の無常は、現代社会が抱く不安と、そう変わらないのではないだろうか。
「光る君へ」でもわかる平安時代のアニマル事情 「愛玩動物」ではなかったのは犬?それとも猫?
「光る君へ」でもわかる平安時代のアニマル事情 「愛玩動物」ではなかったのは犬?それとも猫? 牛車を引くために飼育された牛。牛使いは大人でも童(子ども)の身なりをしていたため、「牛飼童(うしかいわらわ)」とも呼ばれ、左右に付き添って歩く者は「車福(くるまぞい)」と呼ばれた  大河ドラマ「光る君へ」にこれまでに登場した動物で、印象深いのは猫だ。黒木華演じる藤原道長の嫡妻・源倫子の愛猫は、まひろも参加した姫君たちのサロンにも顔を出し、愛くるしい姿が話題になった。  平安時代の貴族たちは、こんなふうに猫をかわいがっていたのだろうか。『源氏物語もの こと ひと事典』(砂崎良・著)から紹介したい。 ***  平安貴族は、松虫や鈴虫を集めさせて籠で飼ったり自分の庭に放したりしていた。雁(かり)や烏(からす)、鹿も、声と姿が観賞の対象。鶏も、朝を告げる鳥として恋人たちに恨まれ、また闘鶏(とうけい)に使用された。  飼育していたものには牛、馬、鷹(たか)、鵜(う)、雀、猫がいる。  牛は、最も一般的な乗り物・牛車(ぎっしゃ)を引く動物で、飼料や替え牛の手配は男性貴族の日常業務だった。乳も、酪(らく)や酥(そ)として食用にされたが、限定的だった。馬は、より手軽な交通手段として乗られたほか縁起物でもあり、しばしば贈答された。 鷹は、引き出物や家禽として大事にされた。源氏物語では光源氏が明石君を大堰(おおい)に訪ねた際、別荘・桂の院で小型の鷹を用いた小鷹狩りが行われる  鷹と鵜は、漁猟に使う重要な家禽(かきん)。鷹狩りと鵜飼いは、スポーツや見ものとして愛されただけでなく、天皇の行幸に付き物の象徴的行為でもあった。鷹を飼いならして野に放ち、鳥やウサギなどを捕まえる鷹狩は、日本のみならず世界各地で発達した。 猫は、遅くとも弥生時代には日本に到来していた。住みついた先々で特定のグループ内での交配を繰り返し、外見的特徴の固定化が起きていたようだ  猫は当時から愛玩動物で、なかでも中国から輸入されたばかりの唐猫は、ゴージャスなペットとして特に人気だったが、現代では猫と並ぶ人気のペットである犬は、愛玩の対象としてではなく番犬・猟犬として飼われた。排泄物を食らい死骸(穢=けがれ)を持ち込むワイルドな生き物だった。  夏の風物詩としては蛍を愛でた。蛍を集めた明かりで女性の美貌を見るくだりは、うつほ物語や源氏物語でも特に雅な場面だ。6月30日に配信した記事=【「光る君へ」本日26話】格差社会を生きた「光る君」ご一家の「お受験」事情=で紹介した夕霧の進学も、「蛍雪の功」に例えられている。  小鳥は女性や子どもが愛玩したらしく、枕草子には「心ときめきするもの。雀の子飼ひ」とあり、源氏物語でも少女期の紫上が「雀の子が逃げた」と泣いている。ただ、どれほど真剣に飼われたかはわかっていない。  日本にいない象、虎、豹(ひょう)、平安貴族の生活には縁遠い熊、狼は、文献で知る猛獣だった。同様に、実態より和歌などで知られていた生き物には鶴や山鳥、羊、蚕(かいこ)がいる。狐は、仏教の経典に出てくる野干(やかん=ジャッカル)と同一視され、下級の魔物と見なされた。梟(ふくろう)も不吉な鳥だった。  肉の食用は、殺生を戒める仏教の影響で忌避されがちだったが、それでも鮎(あゆ)、鮒(ふな)などの川魚、鳩、雲雀(ひばり)などの鳥が食されていた。中でも雉(きじ)はご馳走で、また鷹狩りにおいてはシンボリックな獲物であり、枝につけて贈る作法があったという。 (構成 生活・文化編集部 橋田真琴/イラスト 鈴木衣津子)
「ラーメン店は従業員が集まらない」問題 埼玉の名店店主が目指した「カリスマではない」経営
「ラーメン店は従業員が集まらない」問題 埼玉の名店店主が目指した「カリスマではない」経営 「中華そば 葵」の塩そばは一杯900円。チャーシュー、穂先メンマ、ナルト、青ネギがのっている。麺は細めストレートの低加水の自家製麺だ(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は埼玉を代表する鶏白湯の名店「中華そば 輝羅」の店主・渋谷さんの愛する名店「中華そば 葵」をご紹介する。  京浜東北線・蕨駅東口から徒歩3分。塩ラーメンが人気の店「中華そば 葵」はある。ここを本店とし、川口・蕨エリアを中心に店舗展開していて、いまや7店舗を構える人気店である。  店主の梅原高太郎さんは1981年、埼玉県川口市に生まれる。高校を中退して20歳までバンド活動を続けていた。メンバーの脱退でこれ以上バンドを続けるのは難しいと考えていた頃、父の和夫さんが脱サラして東京・赤羽でラーメン屋を開業した。「ゆうひ屋」という店だ。2000年2月のことだった。 「中華そば 葵」埼玉県川口市芝新町2-19/営業時間11時~15時、18時~22時、ラストオーダー21時45分/不定休(筆者撮影)  梅原さんはこの店で手伝いを始めた。和夫さんが50歳を過ぎてから始めた店だったので、だんだんと体力が厳しくなり、08年から梅原さんが引き継ぐことになった。  梅原さんの兄や姉も店を手伝い、家族経営の店として続けてきたが、近くに人気店が多数出店し売り上げが落ちていく。従業員の給料もままならなくなってきた頃、和夫さんに「お前ならどこでもやっていけるから」と言われ、梅原さんは店から追い出されることになる。  自分が引き継いだお店なのに家族から追い出される形になった梅原さん。ラーメンとは決別しようと宅建の勉強をし、不動産会社の営業職に転身した。 「中華そば 葵」店主の梅原高太郎さん。高校を中退して、20歳までバンド活動を続けていた(筆者撮影) 「心機一転頑張ろうと思いましたが、中卒の自分にはなかなか厳しく、うまくいかず挫折しました。結婚をして住宅ローンもありましたし、その焦りからうつ気味になってしまったんです。ここでもう一度立ち返り、自分にできることはラーメンしかないと独立の準備を始めました」(梅原さん)  手元には貯金が200万円ほど。実家に戻るわけにもいかず、実家には相談せずに独立に向けて動きだす。だが、出店を進めていた物件の話が流れてしまい、順風満帆にはいかなかい。早く働かなくてはと焦った梅原さんは、川口でずっと空いていた場所の悪い物件に決めてしまった。  こうして14年7月「中華そば 葵」はオープンした。梅原さんが好きだったラーメン店の名前が「椿」「蛍」など漢字一文字だったことから、漢字一文字の店名にすることに決め、妻の直感で「葵」となった。 一杯へのこだわりが伝わってくる(筆者撮影)    実はこの物件はもともと「ほしの家」という塩ラーメンが人気の店があった場所だった。ここの居抜きで店を作ったため、勝手に「ほしの家」の弟子だと思われていたようで、オープン前から「塩ラーメンを期待しています」という手紙や電報が届いていた。しょうゆラーメンで勝負したかった梅原さんだったが、塩ラーメンをやらざるを得ない状況になってしまったという。  しかし、オープン日までに塩ラーメンは納得するものができず、初日はしょうゆラーメンのみの提供となった。案の定、来たお客さんからは口々に「塩ないの?」と言われ、初日は早じまいをして急いで塩ダレのブラッシュアップをした。そして翌日から塩ラーメンの提供を始めた。 「ここからしばらくは『ほしの家』の塩と比べられるジレンマと戦いました。口コミやお客さんからの声も、『ほしの家』と比較されるものばかりで、1年ぐらいはこの状況が続きました。逆に、川口には塩ラーメンの店があまりなかったので、新規のお客さまには好評でそれが励みになっていました」(梅原さん)  梅原さんはもちろん「ほしの家」の塩ラーメンも食べており、そのおいしさも知っていた。だが、自分だけのオリジナリティーを出したかったので、その味を曲げることはなかった。最終的には自分の舌を信じ切ったのである。 魚介、乾物などのスープにモンゴル岩塩とゲランド海塩を合わせた芳醇なスープがおいしい(表紙画像) ■借金をしながらでも従業員を入れて育成  最初の一年は苦しい経営だったが、翌15年秋に雑誌『ラーメンWalker』に掲載され、お客は倍ぐらいになった。ここから一日100杯の壁を越えられるようになり、塩ラーメンの名店としても知られるようになる。塩ラーメン専門店にはしなかったが、塩を売りにしていく覚悟でお客を増やしていった。  梅原さんは創業時から店舗展開をすることを視野に入れていた。自分が倒れてしまったら店がつぶれてしまう状況は避けたいと、借金をしながらでも従業員を入れて育成をしていた。10年で10店舗にまで増やそうという計画で準備をしていた。  16年には2号店「自家製麺 竜葵」を川口にオープン。ラーメンにひつまぶしを付けたセットが話題になり、一気に人気店になる。ここからは従業員が育つタイミングに合わせて店を増やしていき、18年には「濃厚鶏そば 葵」「アオイロー」(19年に立ち退きで閉店)、19年にはララガーデン川口店、21年にはイオンモール川口に「葵製麺」、新越谷ヴァリエ店、そして23年には北千住マルイ店をオープンした。今年で創業10年になるが、10店舗とは言わずとも7店舗まで店を増やすことができた。 バランスのよいメニューが並ぶ(筆者撮影)  ラーメン店は従業員が集まらないという問題があるが、「葵」はしっかり従業員が育ち、会社が成長している。それはなぜか? 「まずは社員と誠実に向き合うということです。忙しさを理由にコミュニケーションをいいかげんにせず、当たり前のことを当たり前にやることです。私はカリスマ的な社長を目指すのではなく、ひたすら社員に向き合う社長になろうと思ってやってきました。『ゆうひ屋』時代、父と比べられたのが本当に嫌だったので、あくまで現場の店長が主役になれるよう、自分はできるだけ目立たずにいます」(梅原さん)  週休2日、8時間労働、残業代全額支給など、賃金面や就労規則の面でもしっかりと制度を整えている。気持ちだけでなく制度にも誠実さは現れるのである。 経営者として、従業員育成はもちろん、店舗拡大などもしっかり戦略を練り、実行する(筆者撮影) 「葵」はドミナント戦略を取っている。川口を拠点として、その周辺エリアで店舗を拡大していくという戦略だ。セントラルキッチンからのスープや食材の配送や、アルバイトのやりくりなどを考えてもドミナント戦略は魅力だが、一番は「川口エリアと地域密着でやっていきたい」という梅原さんの思いが一番大きい。20年5月には本店があった場所を一番弟子に譲り、本店を蕨に移転した。 「埼玉はドミナント戦略のお店が多く、大宮エリアなら『狼煙』さん、上尾や川越エリアなら『よしかわ』さんというようになんとなくの縄張り感があるような気がします。うちは川口・蕨エリアですが、それぞれのエリアでそれぞれのお店が頑張っていて切磋琢磨しているのです」(梅原さん) 細めストレートの低加水の自家製麺(筆者撮影)  父・和夫さんの作った赤羽の「ゆうひ屋」は今年で24年。和夫さんは22年に亡くなったが、母・兄・姉の3人で店を続けている。梅原さんの店づくり、味作りはここで学んだもの。まだ実家とのわだかまりは解けないようだが、その恩は忘れてはいない。(ラーメンライター・井手隊長)
熊野古道にも円安のあおり!? 宿泊施設は外国人でほぼ満室状態 「日本人がいて珍しい」 
熊野古道にも円安のあおり!? 宿泊施設は外国人でほぼ満室状態 「日本人がいて珍しい」    熊野古道へ向かうバス。大半は欧米人だ(JR紀伊田辺駅前)    熊野古道はオーストラリア人の古道のようだった。宿で一緒になり、古道で行き交う。宿で一緒になる人の大半はオーストラリア人なのだ。  熊野古道を歩いた。  熊野古道は、熊野三山(和歌山県新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の熊野那智大社)を詣でる道で、田辺市から海岸線を通って那智勝浦町に延びる大辺路(おおへち)、田辺市から東の山間に入っていく中辺路(なかへち)、高野山から奈良県を通って熊野本宮大社に向かう小辺路(こへち)など、いくつかのルートがある。 お客さんの大半は欧米人。オーストラリア人が特に多い  今回歩いたのは、そのなかでは一般的な中辺路ルート。滝尻王子から熊野本宮大社までの約38キロ。1泊2日コースだ。途中、民宿に泊まったが、その日の宿泊者は筆者を含めて4人。オーストラリア人ふたり、オランダ人ひとり。                         民宿の主人がこう話した。 「お客さんの大半は欧米人。オーストラリア人が特に多い。今日は日本人がひとりいて、妻と『珍しい』と話したほど。もう慣れましたよ」  英単語だけを巧みにつないで宿の設備や食事の説明をする。筆者以外は皆、ベジタリアンだった。筆者に出された夕食は鶏肉料理だったが、ほかの3人は魚料理。民宿は事前に連絡を受けていたという。  外国人と民宿をつないでいるのが、観光プロモーション団体で官民共同の一般社団法人「田辺市熊野ツーリズムビューロー」だ。外国人の予約の大半はまずここに入る。この団体は旅行会社のように部屋を確保しているわけではなく、リクエストベース。つまり海外から予約が入ると、熊野古道に沿った民宿に連絡を入れ、受け入れを確認して予約が成立する。そのとき、国籍や食事の制限などが伝えられる。   熊野古道の途中にある水垢離場。かつて熊野古道を歩く人はここで身を清めた    熊野古道は、平安時代の上皇から、庶民にいたるまで全国から参詣で訪れた。行列が切れ目なくできていたことから「蟻の熊野詣」といわれるほどのにぎわいを見せた。しかし明治以降は廃れていき、昭和30年代には歩く人も稀だったという。その後、40年代にはウォーキングが流行し、熊野古道、奥の細道、中山道といった古道の一区間を歩く人が増えたようだ。  2004年には熊野古道が世界遺産に登録される。人気は一気に高まった。05年に田辺市と2町2村が合併し、一般的な熊野古道である中辺路の大半は田辺市に含まれることになる。そこで06年に同ビューローがつくられた。  しかし同ビューローが直面したのは、伸び悩む観光客数という危機感だった。世界遺産ブームは一過性のものだったのだ。そこで外国人にターゲットを絞っていくことになる。 「倍々に増える右肩上がり」  これが実を結んでいく。田辺市の観光協会のまとめによると、世界遺産に登録された3年後の07年は1299人だった外国人宿泊客数が、19年には5万0926人まで増えている。同ビューローの担当者も、「まさに倍々に増える右肩あがりの伸びでした」という。  熊野古道沿いで「民宿ちかつゆ」を経営している木下久さん(69)はこういう。 「はじめは戸惑いました。それまで外国人を受け入れたことはほとんどなかったです。英語も話せないし、どんな料理を出したらいいのかもわからない。“ビューローさん”が開いてくれたワークショップが助かりました。そこで外国人を受け入れるノウハウを教えてもらった。うちは実験民宿のような立場でしたよ」  同ビューローによると、外国人の対応を民宿のスタッフが学ぶワークショップは60回以上開かれているという。  やってくるのはオーストラリア人やアメリカ人が多かった。前出の木下さんはこう話す。   中辺路を歩く人がスタート地点にすることが多い滝尻王子   「高野山はフランス人が多いという話しです。でも熊野古道は、アウトドア好きのオーストラリア人とアメリカ人が圧倒的」  何軒かの民宿に聞いてみても、宿泊客の7~8割はアメリカ人とオーストラリア人といった感覚だった。そのうち半分以上はオーストラリア人だという。  しかしここにきて、新たな問題が浮上している。日本人が熊野古道を歩こうと思っても、宿を確保できないのだ。筆者も中辺路の途中にある野中地区の民宿を予約しようとした。古道を歩く1週間ほど前だったが、軒並み満室。6軒目でようやく1部屋を確保できた。  ある民宿経営者は、 「外国人の予約は早い。人によっては半年前ということも珍しくないんです。でも日本人は1週間前や2週間前。そのときはもう部屋がないんです」  と指摘する。 民宿の料金も高め?  田辺市によると、中辺路に沿った民宿は、熊野本宮大社周辺を含めて、1日1900人ほどを受け入れることができるという。しかし古道歩きの場合、予約は高原、近露、野中というエリアの民宿に集中する。外国人で満室になることが多いのだ。  途中で会った数少ない日本人のWさん(56)は、日程を日帰りに変更していた。 「中辺路を歩くときはどうしても1泊2日か2泊3日の日程になる。宿をとろうとしましたが結局、ダメ。日帰り日程で、半分だけ歩くことにしました」  民宿の料金の高さも、日本人を遠ざけているという声もある。中辺路に沿った民宿の値段は、1泊2食に翌日の弁当をつけて1万5000円から1万8000円というところが多い。日本のほかの地域の民宿よりだいぶ高い。円安のなかでは外国人は気にならないのかもしれないが、日本人は……。  これもある種のオーバーツーリズムなのだろうか。 (下川裕治)  
思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの「宝冠」と、「最高峰」のピンク・ダイヤモンド
思わず目が奪われる! 天皇陛下と皇后雅子さまを迎えた96個のルビーとダイヤの「宝冠」と、「最高峰」のピンク・ダイヤモンド バッキンガム宮殿での晩餐会の日。カミラ王妃の顔の上で輝くのは、96個のルビーとダイヤモンドが輝く「バーミーズ・ルビー」の宝冠。ルビーとダイヤは王室の紋章である「チューダー・ローズ」の意匠。菊の意匠をかたどった第二ティアラを着ける皇后雅子さまとの対比も美しい=2024年6月25日、ロンドン    国賓として英国を公式訪問された天皇、皇后陛下。ロンドンのバッキンガム宮殿で開かれたチャールズ国王夫妻主催の晩餐会では、皇后雅子さまの頭上で輝く皇后の「第二ティアラ」に注目が集まった。そして英国王室のカミラ王妃も、巨大なルビーが輝くティアラでおふたりを迎えた。きらびやかで、見る人の目をくぎづけにする宝飾品には、英王室側の思いが込められていたと、英王室に詳しい多賀幹子さんは振り返る。 *  *   *  晩餐会に臨んだ皇后雅子さまの顔の上で輝いていたのは、歴代の皇后に受け継がれてきた、菊をモチーフにした皇后の「第二ティアラ」だった。  上皇后美智子さまが上皇さまとご結婚された際に香淳皇后が着けていた宝冠であり、平成の時代の1998年に美智子さまも英国とデンマークを訪問された際の晩餐会で、菊の細工が美しいこのティアラを披露している。  そして、英国王室のカミラ王妃が着用していた宝冠も、目を見張るものだった。  英国王室に詳しいジャーナリストの多賀幹子さんによると、それは96個のルビーと豪華なダイヤモンドがあしらわれた、「バーミーズ・ルビー・ティアラ」だった。    故・エリザベス女王を継いたチャールズ国王の戴冠式を経て、エリザベス女王の宝冠や宝物もカミラ王妃へと引き継がれた。  多賀さんによると、「バーミーズ・ルビー・ティアラ」はエリザベス女王が1970年代に制作させたティアラだ。  目が奪われるような「バーミーズ・ルビー」は、世界で最も美しいルビーの産出地として知られるミャンマー・モゴック産。結婚のお祝いにミャンマー(当時はビルマ)から贈られたものだ。そしてインドの王族から贈られた「ニザーム・ティアラ」から外したダイヤモンドを使い、宝冠が新たにつくられたのだという。   【こちらも話題】 闘病中のキャサリン妃に「英国民の深い愛情」 チャールズ国王「奇跡的な回復」の影にカミラ王妃 https://dot.asahi.com/articles/-/224102   カミラ王妃の額の上で輝くのは、エリザベス女王が結婚祝いでミャンマー(旧ビルマ)から贈られた96個のルビーとインドの王族から贈られたダイヤモンドで作られた「バーミーズ・ルビー・ティアラ」だ。ルビーとダイヤでチューダー・ローズの意匠が表現されている=2024年6月25日、バッキンガム宮殿    英国王室の紋章である、赤に白の花弁が重なる「チューダー・ローズ」の薔薇の意匠が、ルビーとダイヤモンドで表現されている。  英王室と英国民にとって、宝飾品への愛情は日本とは比較にならないほど深いと、多賀さんは指摘する。 「王室はもちろん、貴族もそれぞれ名称のついたティアラやネックレスなどの宝飾品を所有しており、誰が所有し、どのような歴史的な由来をもつものなのか、といった点が重要視されます」  そして英王室のメンバーがどの場面で、どのティアラやネックレス、ブローチといった宝飾品を身に着けるかが国民の関心事となっている。  カミラ王妃が今回の晩餐会で白いドレスとルビーの宝冠を選んだのは、日本の国旗をイメージしたもので、招待国への敬意だろうと見られているという。   最高峰のピンクダイヤは雅子さまへの敬意  晩餐会に先立つ歓迎式典でも、天皇陛下と雅子さまへの敬意と歓迎の姿勢がうかがえた。  式典では、君が代と童謡の「さくらさくら」が演奏され、チャールズ国王は天皇陛下と、カミラ王妃は雅子さまと同じ馬車に乗り込み、バッキンガム宮殿へ出発した。  大通り「ザ・マル」をパレードする馬車で、チャールズ国王と天皇陛下が顔を寄せて親しく話をする様子は、心温まる光景だった。  カミラ王妃はこの歓迎行事でも、特別な宝飾品を身に着けていた。  エリザベス女王は膨大な数のブローチをコレクションしていたが、カミラ王妃もさまざまなブローチを身に着けて、メッセージを伝えることで知られている。 「この歓迎式典でカミラ王妃が身に着けたのが、世界的に有名なウィリアムソンのピンク・ダイヤモンドのブローチです」  と、多賀さんは話す。     【こちらも話題】 天皇陛下の英国晩餐会「席札」アップ、愛子さまのタケノコ堀り…宮内庁“攻め”のインスタの評判 https://dot.asahi.com/articles/-/226629   歓迎式典を終えて馬車に乗る皇后雅子さまとカミラ王妃。カミラ王妃の胸には、エリザベス女王のコレクションであった23カラットの「ピンク・ダイヤモンド」のブローチ=2024年6月25日、ロンドン   「ウィリアムソン・ダイヤモンド・ブローチ」も、カミラ王妃がエリザベス女王から受け継いだコレクションのひとつだ。  中央には、1940年代にエリザベス女王の結婚祝いとして贈られた23カラットのピンク・ダイヤモンドがあしらわれている。原石は54カラットで、タンザニアのウィリアムソン鉱山から産出された、世界的に有名なピンク・ダイヤモンドだ。  黄水仙がモチーフと言われる5枚の花弁、そして茎と葉には、ホワイト・ダイヤモンドがちりばめられている。エリザベス女王は、この豪奢なブローチを重要な公務や特別な日に身に着けることで知られていた。 歓迎式典で両陛下を出迎える英国王夫妻。カミラ王妃の胸には、エリザベス女王のコレクションであった23カラットの「ピンク・ダイヤモンド」のブローチ=2024年6月25日、ロンドン   「チャールズ国王の胸のポケットチーフは淡いピンク色でしたから、ピンク・ダイヤモンドと合わせたのでしょう。歓迎式典で演奏された曲目も『さくらさくら』でしたから、ピンク・ダイヤモンドを桜に見立て、雅子さまへの親愛の証とみることができるでしょう」(多賀さん)  きらびやかな宝飾品は、多くの人の目を惹きつけるとともに、身に着ける人が込めた思いやメッセージも届けてくれるようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 英国王の晩餐会 笑顔の皇后雅子さまの頭上で輝く花とダイヤの宝冠は「初めて」の「第二ティアラ」 https://dot.asahi.com/articles/-/226295  
天皇、皇后両陛下の訪英は「未来志向」 皇室と英王室の変わらない友情、さらに固く
天皇、皇后両陛下の訪英は「未来志向」 皇室と英王室の変わらない友情、さらに固く ウェストミンスター寺院を訪問した天皇、皇后両陛下。内部を見学し、「無名戦士の墓」に供花した    チャールズ国王の招待で、国賓としてイギリスに訪問した天皇、皇后両陛下。今回の訪英によって、英王室との新たな交流が始まった。AERA 2024年7月8日号より。 *  *  *  両陛下は英国に到着すると、チャールズ国王が用意したベントレーでロンドン市内のホテルに向かった。翌23日は天皇陛下がジャパン・ハウス・ロンドンの視察に向かった。サンパウロ、ロサンゼルスに次いで18年にオープンした日本文化発信の拠点で、筆者も訪ねたことがあるが、清潔かつデザインも斬新で、異国にいて日本人であることが誇らしく感じられる施設だった。  天皇陛下は館長の説明を聞きながら輪島塗の銘品などを見て回られた。日本の外務省の施設でもあるので、ホテルに戻った陛下は、かつて外務省に勤務されていた雅子さまに、見聞きしたことをお話しされたのではないだろうか。24日には、天皇陛下は、世界最大の可動式防潮施設「テムズバリア」を視察。水問題をライフワークとする天皇陛下は、ヘルメットをかぶって水門を実際に歩き、担当者に多くの質問をされたという。 戦争の傷を癒やすため  25日、両陛下はホテルまでお迎えに来たウィリアム皇太子と一緒に、バッキンガム宮殿近くのホース・ガーズ・パレードに到着した。ロイヤルパビリオンと呼ばれるテント内は、白菊と赤いバラで紅白の彩りに整えられ、チャールズ国王の胸のチーフは淡いピンク色で、カミラ王妃のブローチは桜のデザインだった。歓迎式典では、近衛連隊音楽隊が「君が代」を演奏。続いて「さくらさくら」が流れ、最高位の敬意を示す41発の礼砲が放たれた。  こまやかな思いやりと、熱烈な歓迎ムードに包まれる中、天皇陛下はチャールズ国王と、雅子さまはカミラ王妃とそれぞれ馬車に乗って、観衆で埋まるザ・マルという大通りをバッキンガム宮殿までパレードした。チャールズ国王と天皇陛下は常に笑顔で談笑し、仲の良さを感じさせる時間だった。 訪日時のチャールズ皇太子とダイアナ妃    英国に出発する前、天皇陛下は皇居で記者会見し、こう語っていた。 「(先の大戦で日英も戦火を交えた歴史は)誠に残念なこと。過去の歴史に対する理解を深め、平和を愛する心を育んでいくことが大切ではないか。(現在、英国と良い協力関係にあることは)戦争の傷を癒やすために両国の人々が地道に積み重ねた努力があったことを忘れることはできません」 英国へおかえりなさい  1998年、上皇ご夫妻が訪英した時、筆者は沿道で取材していたが、第2次世界大戦時に旧日本軍の捕虜となった元英兵らが赤い手袋を空に突き上げて抗議していた。今回、同様の事態がなかったことは、上皇ご夫妻はじめ、多くの人の平和を願う気持ちがあったからこそだろう。  夜はバッキンガム宮殿で晩餐会が開かれた。ガーター勲章を授与された天皇陛下は国王の隣に、菊のティアラが美しい雅子さまはカミラ王妃とウィリアム皇太子の間に座った。  国王のスピーチは「わが英国へ、おかえりなさい」から始まるあたたかいものだった。特に過去の戦争に触れることはなく、ジブリやポケモン、ハローキティなどにも触れるなどユーモアたっぷり。時折笑いの起きる楽しさで、皇室と英王室の変わらない友情をたたえた。  一方、天皇陛下はスピーチで今回の招待に感謝するとともに、「日英両国には友好関係が損なわれた悲しむべき時期があった」と過去の戦争に触れ、「祖父、父の思いを継いでいきたい」と語った。  両陛下ともに留学経験のあるオックスフォード大学への再訪も叶い、日英の友情はさらに固く結ばれたようだ。これからも様々な分野で互いに協力して歩むことを誓った未来志向の訪英だったのではないだろうか。(ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERA 2024年7月8日号より抜粋  
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち【2024年最新版】
新紙幣で沸く津田塾、北里大に続くか 創設者名が付けられた大学たち【2024年最新版】 新紙幣の見本。5千円札に津田塾大創立者の津田梅子、1千円札に北里大と縁が深い北里柴三郎の肖像が描かれている    いよいよ7月3日に新しい1千円札、5千円札、1万円札が誕生する。このうち、5千円札に津田塾大創立者の津田梅子、1千円札に北里大と縁が深い北里柴三郎の肖像が描かれている。  5千円札の津田梅子は1871(明治4)年、岩倉使節団とともに満6歳でアメリカに渡り、長いあいだ、現地で教育を受ける。帰国後は華族女学校、女子高等師範学校などで教授をつとめたあと、1900(明治33)年、女子英学塾(後の津田塾大学)を創立して、女子の高等教育の発展に尽力した。  いま、津田塾大は大いに盛り上がっている。  大学同窓会が「津田梅子新5000円札記念プロジェクト2024」を立ちあげ、今秋、シンポジウムを行う予定だ。その趣意がなかなかいい。 「21世紀は多様性・共生の社会と言われ、ジェンダーレスの時代に入っています。そういう状況の中で2024年新5000円札に津田梅子の肖像が選ばれたことは、歴史的意義があると言っても過言ではないでしょう。これを機にいま改めて、津田梅子の教育理念、近代日本社会の中で津田梅子の果たした役割を検証し、女子大学の存在意義、グローバル的視点を持った女性の活躍の現状と未来について考えます」(大学同窓会ウェブサイト)   女子大にアゲンストの風が吹いているなか、津田塾大は存在感を示そうとしている。  1千円札に登場する北里柴三郎は1853(嘉永6)年生まれで、東京医学校(現在の東京大医学部)出身。破傷風菌の純粋培養に成功し、破傷風菌毒素に対する血清療法を確立、その後にはペスト菌も発見するなど、医学界に多大な功績を残した。1914(大正3)年に北里研究所を設立し、1962(昭和37)年、「北里を学祖と仰ぎ」北里大が開学する。  北里大は新1千円札に関する情報を発信しておらず、イベントの予定もないが、新紙幣が決定した5年前には喜びを隠さなかった。 「学校法人北里研究所・北里大学として、大変、名誉な事であり、また、この機会に学祖北里柴三郎の経歴と業績についての概略を述べさせていただき、国民の皆様に身近に感じていただければと思います。(略)北里柴三郎が現在の一万円札の肖像になっている福澤諭吉先生を恩師と仰ぎ、また、現在の千円札の肖像になっている野口英世を育てており、何かのご縁と感じます。(略)学校法人 北里研究所 理事長 小林弘祐 北里大学 学長 伊藤智夫」(大学ウェブサイト。2019年4月9日※学長は当時)  津田塾大、北里大は起源となる教育、研究機関の創設者の名が、大学名につけられた。創立者に対する最大の敬意が払われている。  大学名に創設者の名が付されている大学は他にもある。ここにいくつか紹介しよう(カッコ内は大学開学年、所在地)。  大妻女子大(1949年、東京)の起源は、明治時代までさかのぼる。1908(明治41)年、大妻コタカが24歳のときに開いた裁縫、手芸の私塾だ。その後、大正時代になって大妻技芸伝習所を設置する。  椙山女学園大(1949年、愛知)は、1905(明治38)年、椙山正弌(すぎやま・まさかず)、いま夫妻が開校した名古屋裁縫女学校を起源とする。大正時代に入ると椙山高等女学校に発展させ、戦後は新制大学スタートとともに4年制大学となった。  星薬科大(1950年、東京)の前身は、星製薬株式会社に1911(明治44)年に設置された教育部門である。のちに星製薬商業学校、星薬学専門学校となり、戦後は4年制大学として認可された。星製薬の創業者で大学初代理事長は、星一氏。作家、星新一氏の父にあたる。  杉野服飾大(1964年、東京)は、服飾家の杉野芳子が1926(大正15)年に設立したドレスメーカー・スクールが起源となっている。2002(平成14)年に杉野女子大から現校名に改称して男女共学となった。  跡見学園女子大(1965年、東京)は、私塾で書画や漢学を教えていた跡見花蹊(あとみ・かけい)によって1875(明治8)年に設立された跡見学校を起源とする。跡見学園の沿革には「日本人による初めての私立女子校として誕生」(跡見学園ウェブサイト)とある。  安田女子大(1966 年、広島)の歴史をさかのぼると、1915 (大正4)年に安田リヨウが開いた広島技芸女学校にたどり着く。戦争中は苦難の道を歩み、大学ウェブサイトには以下のように記されている。「学園は世界で最初の原子爆弾によって破壊され、安田五一初代理事長をはじめとして多くの犠牲者を出しましたが、惨禍に志を曲げることなく、残された教職員そして学生は自ら額に汗して、復興に取り組み、建学の理念を守り今にいたっています」  川崎医科大(1970年、岡山)の創設者は、岡山市内で病院を経営していた川﨑祐宣氏である。旧制岡山医科大学(現・岡山大医学部)出身の医師で、「真に医師といわれるにふさわしい臨床家を養成して世に送りだしたい」(川崎学園ウェブサイト)という思いから、医科大学をつくった。  藤田医科大(1968年、愛知)の起源は、名古屋帝国大医学部出身の医師、藤田啓介氏によって1964(昭和39)年、設立された南愛知准看護学校である。看護師・臨床検査技師の養成校からのスタートで、1966年、名古屋衛生技術短期大開学。そして、1968年に名古屋保健衛生大が開学し、1972年に医学部設置。1984年に藤田学園保健衛生大、1991年に藤田保健衛生大、2018年になって藤田医科大に改称した。  川村学園女子大(1988年、千葉)の起源は大正時代にさかのぼる。1952年に川村短期大を開校した。川村学園女子大(1988年、千葉)の起源は大正時代にさかのぼる。1952年に川村短期大を開校した。大学は設立時をこう紹介している。「創立者川村文子が、関東大震災後の荒廃した社会・世相を我が国の『非常』の時ととらえ、その解決のためには女子教育の振興以外にはないと考え、『感謝の心』『女性の自覚』『社会への奉仕』を建学の精神として、大正13年(1924年)、『川村女学院』を創立いたしました」(川村学園ウェブサイト)  現在は文、教育、生活創造の3学部だが、2024年度で教育学部は募集停止となった。大学がつらい胸の内を明かす。「18 歳人口の減少、特に近年の共学志向の高まりなど社会情勢の変化の中で、入学者数の定員割れが続き、教育学部・教育学専攻をこのまま維持することが厳しくなりました。これまで教育学部・教育学専攻存続のためにあらゆる可能性を模索し、将来の在り方について慎重に検討を重ねてまいりましたが、誠に遺憾ながら教育学部・教育学専攻の学生募集停止という苦渋の決断に至りました」(大学ウェブサイト)  十文字学園女子大(1996年、埼玉)の始まりは、十文字ことら3人が設立した文華高等女学校にある。1966年に十文字学園女子短期大が開学。大学の沿革にこう記されている。「十文字学園は、創立者である“十文字こと”の、『教育を受けたいと思う女性がひとりでも多く学べる私立学校をつくりたい』という強い願いのもと、1922(大正11)年に設立されました」(大学ウェブサイト)  嘉悦大(2001年、東京)の起源は私立女子商業学校である。1903(明治36)年に開校。創立者は嘉悦孝である。「日本で初めて女子を対象とした商業学校」(大学ウェブサイト)であり、その教育理念は大正時代に日本女子商業学校(1944年に日本女子経済専門学校に改称)、戦後は日本女子経済短期大へと引き継がれた。  植草学園大(2008年、千葉)のルーツ校も明治生まれだ。1904(明治37)年に植草竹子が現在の千葉市内に「千葉和洋裁縫女学校」を設立する。その後、1世紀以上の時を経て、4年制大学が開学した。  大阪河﨑リハビリテーション大(2006年、大阪)のルーツ校も新しい。1997年設立の河﨑医療技術専門学校である。創設者は大阪高等医学専門学校(現・大阪医科薬科大)出身の医師、河﨑茂氏だ。  大阪行岡医療大(2012年、大阪)の歴史は、昭和初期につくられた大阪接骨学校から始まる。大阪医科大(現・大阪大医学部)出身の行岡忠雄氏が、1933(昭和8)年に開設した学校だ。  亀田医療大(2012年、千葉)のルーツは、江戸時代末期の1830年ごろ、西洋医学を学んだ亀田自證が鴨川で開いた学問所「鉄蕉館」までさかのぼる。その後、1954(昭和29)年、亀田病院附属准看護婦学校を開校し、改称や統合などを経て今日に至る。  ヤマザキ動物看護大(2010年、東京)の起源は、山﨑良壽氏が1967(昭和42)年につくったシブヤ・スクール・オブ・ドッグ・グルーミングである。ヤマザキ動物看護短期大を経て、4年制大学として開学した。  創立者の名前を掲げた大学名から、さまざまな事情で名称を変えた大学もある。  北海道女子大(1997年、北海道)は2000年に北海道浅井学園大に、2005年には浅井学園大に名称変更した。創立者である浅井一族にちなんだものである。ところが、2006年、浅井幹夫前理事長(当時)が背任などの容疑で逮捕される。大学経営陣が刷新され、2007年、浅井学園大は北翔大としてスタートすることとなった。「浅井」の名は校名にふさわしくない、という判断だった。  了德寺大(2006年、千葉)は仏教系、地名と間違われることがあったが、創立者の名前に由来する。医療関係の仕事に関わってきた了德寺健二がつくった大学だ。だが、2024年、大学理事長はSBCメディカルグループホールディングス CEOの相川佳之氏に交代し、SBC東京医療大と改称した。同社がコマーシャルで有名な湘南美容クリニックを経営している。  創立者の名がつく大学は、新しい分野で挑戦しよう、女性が社会で活躍できるようにしよう、というパイオニア精神が見てとれる。現在、創立者から3代目、4代目となる一族が理事長として経営のかじ取りをしている大学もいくつかある。  津田塾大、北里大のように、お札になるような、歴史に名を残す大学創立者が現れるか。少子化で厳しい情勢ではあるが、大学には社会にインパクトを残してほしい。スタンフォード大など世界で名だたる名門校も、アメリカで功成り名を遂げた偉人の名が由来となっていることだし。 <一部、敬称略> (文/教育ジャーナリスト・小林哲夫)
雅子さまの「いい人生だったと振り返れるように」を思い出す 英王室「完璧なおもてなし」の温かさ
雅子さまの「いい人生だったと振り返れるように」を思い出す 英王室「完璧なおもてなし」の温かさ   バッキンガム宮殿での晩餐(ばんさん)会を前に、記念撮影に臨む天皇、皇后両陛下と英国のチャールズ国王、カミラ王妃=2024年6月25日、ロンドン、代表撮影    天皇、皇后両陛下は6月22日から英国を公式訪問された。英王室の「完璧なおもてなし」から、ジャーナリストの多賀幹子氏が心の交流を読み解く。 *   *   * イギリス王室のおもてなしは完璧だったのではないだろうか。  6月25日、天皇、皇后両陛下の滞在先のホテルにウィリアム皇太子(42)が迎えに来たとき、皇太子は赤いネクタイを締め胸には白いポケットチーフを挿していた。  歓迎式典が行われるホース・ガーズ・パレードでは、チャールズ国王(75)とカミラ王妃(76)が車の到着を待っていた。背景の豪華な花飾りは白い菊と赤いバラ。国王の胸のポケットチーフは淡いピンク色で、王妃のブローチは桜のデザインだった。「君が代」に続いて流れた曲は、「さくらさくら」である。 英国のウィリアム皇太子の出迎えを受け、歓迎式典に向かう天皇、皇后両陛下=2024年6月25日、ロンドン、代表撮影  相手国へのリスペクトは具体的に色や音で表現された。  さらに晩餐会でのチャールズ国王のスピーチの冒頭は日本語での「オカエリナサイ(お帰りなさい)」だった。天皇、皇后両陛下が共にイギリスに留学した経験があることを踏まえたのだろう。天皇陛下が「英王室はまるで家族のように接してくれた」との言葉へのお返しだったのかもしれない。  国王は、ポケモン、ハローキティ、ジブリ作品など日本文化についても触れた。国王がポケモンの名セリフ「全部ゲットだぜ!」を英語で口にしたとき、ウィリアム皇太子が思わず笑顔になった。国王は、皇太子の3人の子どもからこのセリフを教えてもらったに違いないとメディアは書いた。ジョージ王子(10)、シャーロット王女(9)、ルイ王子(6)の3人の孫は、国王とはやり言葉やおもちゃを共有する仲良しなのだ。かつては母ダイアナ妃を悲しませ苦しめた父を恨んだ皇太子だったが、「父を理解する“大人”になった」との声が上がる。 オックスフォード大を再訪した天皇、皇后両陛下。天皇陛下が留学中に生活していたマートン・カレッジの部屋の窓からお二人で外を眺めた=6月28日 歓迎式典を終えて馬車に乗る皇后雅子さまとカミラ王妃=2024年6月25日、ロンドン、代表撮影  天皇、皇后両陛下と国王、王妃は贈り物を交換した。国王からはスコッチウイスキーがペアのタンブラーと共に、王妃からは扇子が贈られた。天皇陛下からは国王へは輪島塗の漆器、雅子さまから王妃へは佐賀錦のバッグがプレゼントされた。佐賀錦は佐賀の鍋島藩から生まれたといわれる伝統的な高級工芸品。カミラ王妃は晩餐会のときにさっそくバッグを手にした。雅子さまはすぐに気が付き、話が弾んだそうだ。  国賓としての3日間を終えた天皇、皇后両陛下は、国王、王妃とバッキンガム宮殿の玄関で別れを惜しんだ。その様子は「まるで旧友のよう」とイギリスのメディアから描写されたが、チャールズ国王もカミラ王妃も、雅子さまの両肘をとって励ますようなしぐさを見せた。  雅子さまは国王、王妃にチークキスをして別れた。  天皇、皇后両陛下を乗せた車が走り去るまで手を振り続けたチャールズ国王が、背を向けて宮殿への階段を上るとき、カミラ王妃が国王の背中をポンポンと軽くたたいたのが印象的だった。国王の寂しさを察して、慰めたかのようだった。  イギリス滞在最終日の28日、天皇、皇后両陛下は、かつて学んだオックスフォード大学に足を運んだ。天皇陛下はマートンカレッジ、雅子さまはベリオールカレッジに留学していたが、それぞれの母校を一緒に訪ね、街を散策した。  雅子さまは20代の学びの地で何を思われただろうか。  1993年の婚約会見では、「殿下にお幸せになっていただけるように、そして私自身もいい人生だったと振り返れるように努力したい」との印象的な言葉があった。それから30年以上が経った。オックスフォードを再訪して、この言葉をふと感慨深く思い出されたかもしれない。 チャールズ国王、カミラ王妃にお別れのあいさつを終え、バッキンガム宮殿を出る天皇、皇后両陛下=2024年6月27日、ロンドン、代表撮影  イギリスは7月4日の総選挙に向け、選挙運動中だったため、国賓訪問のニュースが幾分少なかったとの声が聞かれた。天皇陛下の温かさとフレンドリーさ、雅子さまの知的でエレガントなたたずまいなどが、SNSなどに感想として上がっている。  また、キャサリン皇太子妃(42)の晩餐会への出席がかなわず、残念がる声もあった。国王の公式誕生日直前の声明では、「夏にいくつかの公務に参加する希望を持っている」との文言があったからだ。  国民が次に期待するのは、テニスのウィンブルドン選手権のときだ。妃はパトロンを務めていて、これまで何度も観戦する姿が見られている。  一方で、今回の歓迎イベントにヘンリー王子(39)の妻・メーガンさん(42)からの水を差す言動がなかったことに安堵の声も聞かれる。これまで、ロイヤルの誕生日や結婚式など大切なイベントにメーガンさんは決まって離脱や妊娠、ブランドの新商品紹介など自分ごとの発表を重ねてきた。メーガンさん不在の理由は、「キャサリン皇太子妃が欠席だったから」とささやかれている。 (ジャーナリスト・多賀幹子)
都知事選掲示板に「生後8カ月のわが子」のポスターを貼った男性の“懺悔” 「浅はかでした。今は離婚危機に陥っています」
都知事選掲示板に「生後8カ月のわが子」のポスターを貼った男性の“懺悔” 「浅はかでした。今は離婚危機に陥っています」 男性が「ポスタージャック」した掲示板。画像を一部加工しています。(撮影/板垣聡旨)    6月25日、AERA dot.は<都知事選『ポスター枠』を55万円で購入した男性 『生後8カ月のわが子』をポスターに掲載した理由>と題した記事を配信した。東京都知事選で物議をかもしている候補者の「ポスター枠」を実際に買った男性に意図を取材したものだが、記事掲載から2日後、男性から記者に電話があった。その内容は「ポスタージャックはやるべきではなかった」「浅はかだった」という後悔の言葉だった。なぜ男性は考えを改めたのか。何を後悔しているのか。改めて話を聞いた。 *  *  *  7月1日、都内ホテルのカフェで記者と対面した男性は泣きじゃくりながらこう話した。 「勝手に子どもの顔写真を使ってしまったことで、妻には『何てことをしてくれたの!』と泣いて怒られ、その後は口もきいてくれません。子どもは無邪気に過ごしていますが、家庭は崩壊している状態です。今は子どもに作り笑顔で接するのがやっとです」  愛知県在住の50代男性は6月、ある政治団体から東京都知事選候補者の「ポスター枠」を購入。経費含め、約55万円の費用を支払った。生後8カ月の息子の写真を使って「ダメ!一極集中。投票に行こう。東京を住みよい街に」という主張を書き込んだポスターを約900枚作成し、都内36カ所に掲示した。   【こちらも話題】 都知事選「ポスター枠」を55万円で購入した男性 「生後8カ月のわが子」をポスターに掲載した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/226151   掲示されていたポスターを剥がす男性(本人提供)   不適切な手段だった  東京都知事選では、特定の政治団体が候補者のポスター掲示枠を事実上「販売」しており、いわゆる“売名”のために掲示板が利用されていることが問題視されていた。そこでAERA dot.では「ポスター枠」を実際に買った男性に接触。どういう目的なのかを取材すると、当時、男性は次のような主張をしていた。 「経済停滞、待機児童や出生率低下など多くの問題が東京一極集中に起因しています。それらを解消し、子どもたちの生活しやすい東京をつくってほしい」 「未来の子どもたちのためにも投票して(暮らしを)改善していこうというのが私の主張ですので、子どもたちの未来のために投票に行ってほしいという気持ちを込めて、わが子の写真を使いました」  だが、記事が掲載された2日後、男性から記者に電話があり、「子どもの写真を掲載したポスターを貼ったことを後悔している」「ポスタージャックなどするべきではなかった」と後悔の念を語った。  男性は掲示したポスターを全て剝がすことを決めたと言い、7月1日はそのために上京していた。そこで同日、都内ホテルで改めて男性に話を聞くと、冒頭のように泣きじゃくりながら後悔を語り出した。 「自己顕示欲とか記念づくりとかそういう考えは、全くありませんでした。より良い都知事選となるために、いい投票となるように、都民の皆さまに自分の主張を聞いていただきたいという思いが強くあったんです。ただ、そのためにポスタージャックに参加するという不適切な手段で伝えようとしたのは、極めて自分勝手な考えで、浅はかだったと思っています」   【こちらも話題】 「税金で設置の公器なのに」全裸写真、売買…苦情電話殺到?都知事選掲示版で選管に「一度もつながらない」 https://dot.asahi.com/articles/-/225997   離婚を切り出されたら諦める  再取材した時点で、都内36カ所に掲示してあったポスターはすべて剝がしたという。そして、こう続けた。 「もし、妻から離婚を言い出されたら諦めようと思っています。しかし、もしこの状態を乗り切れたら、こんな頼りない夫を支えてくれた妻にも、まだ何もわからず遊んでいる息子にも、一生をかけて償っていきたいです」  今回、改めて取材を受けたのは、いまだ「ポスタージャック」に参加している人たちに、自分の後悔を伝えたいという理由もあるという。 「ポスターの内容は公序良俗に反していないにしても、私はポスターを出してしまったことをとても後悔しています。世間の常識から逸脱した行いをして、愛する家族を悲しませてしまった……。だからこそ、(都知事選の掲示板での)ポスターを通しての主張はいま一度、考えるべきだと思っています」  そして、最後にこう語った。 「投票に行っていただき、本当に都知事にふさわしい人を選んでほしいと思っていますし、一人の同じ日本人として、東京の皆さまのよりよい生活を願っているのは本心です。ただ、その手段が間違っており、家族や都民の皆さまにご迷惑をおかけしてしまいました。このたびは誠に申し訳ありませんでした」  取材の最後には、男性の目は泣き腫らして真っ赤になっていた。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨)   【こちらも話題】 都知事選「ポスター枠」を55万円で購入した男性 「生後8カ月のわが子」をポスターに掲載した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/226151  
〈2024年上半期ランキング 皇室編10位〉雅子さまは「フリル」調で華やかな存在感 愛子さまは清楚な美しさ 明治神宮参拝で「競演」した白いロングドレスの輝き
〈2024年上半期ランキング 皇室編10位〉雅子さまは「フリル」調で華やかな存在感 愛子さまは清楚な美しさ 明治神宮参拝で「競演」した白いロングドレスの輝き 明治神宮を参拝する愛子さま。シンプルな白のロングドレスに、11粒の真珠があしわられた「ご愛用」のブローチ、真珠のネックレスとイヤリングが映える=2024年4月、明治神宮  早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。皇室関係の記事の10位は「雅子さまは『フリル』調で華やかな存在感 愛子さまは清楚な美しさ 明治神宮参拝で『競演』した白いロングドレスの輝き」でした(この記事は4月14日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  明治天皇の皇后だった昭憲皇太后を祀る東京・明治神宮に今月9、10の両日、没後110年の節目にあわせて、天皇、皇后両陛下や長女の愛子さま、上皇ご夫妻が参拝した。女性皇族方は白いロングドレスをお召しだったが、それぞれの個性の光る参拝服の「競演」となった。    9日は、雨と風が強まるなかでの参拝となった。モーニングコートに身を包んだ天皇陛下は、宮司の先導で拝殿に進むと、玉串を捧げて拝礼した。続いて皇后雅子さまも白い参拝服であるロングドレスで拝礼。  明治神宮は、明治天皇と、その妻である昭憲皇太后を祀る場所だ。  昭憲皇太后は社会福祉事業へ力を注いだことでも知られている。両陛下の長女、愛子さまが就職した日赤と皇室の縁も、昭憲皇太后の活動がきっかけとなった。  昭憲皇后は、1912年の赤十字国際会議で、現在の価値で3億5千万円ほどにあたる10万円を寄付している。このお金を基に昭憲皇太后基金が設立された。 それまで戦争救護を主におこなっていた赤十字が自然災害や疾病予防といった平時の活動に力を注ぐ転機となり、それ以降、歴代皇后が名誉総裁に就任することになった。  愛子さまが勤務する日赤に強い影響を与えた昭憲皇太后を祀る神社だけに、今回の参拝も感慨深いものになったに違いない。   ここぞという場面では「フリル」をお召しの雅子さま  この日の雅子さまの参拝服は、白いロングドレスにジャケットを羽織ったもの。  普段はシャープなラインをお好みの雅子さまだが、やわらかい曲線のデザインをお召しだった。     【こちらも話題】 愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴  https://dot.asahi.com/articles/-/218140     明治神宮に参拝する皇后雅子さま。ジャケットの襟と裾はフリルのような「スカラップ(ほたて貝)」のデザインで、華やかな存在感がある=2024年4月、明治神宮  たとえば天皇陛下の即位に伴うパレード「祝賀御列の儀」で雅子さまは、ローブデコルテの上に華やかなフリルがあしらわれたジャケットを合わせたように、「ここぞ」という場面では華やかなデザインを着用することも少なくない。  長年パリコレで取材を続けたファッション評論家の石原裕子さんは、ロングドレスの上に羽織った個性的なジャケットが印象深いものだったと話す。 「上の襟はごく一般的なテーラードジャケットですが、下の襟とジャケットの裾は『ほたて貝』の丸い殻をイメージした『スカラップ』にデザインされ、変化を持たせていらっしゃる。下襟の丸みを大きくとり、ジャケットのウエストから裾のひろがりをたっぷりとり、『スカラップ』のデザインを加えることで、華やかさが増しています」  あいにくの雨だったが、ドレスはたっぷりと丈をとったフレアスカート。シンプルな服装を好まれる雅子さまだが、この日は、「フリル」調のデザインが入った参拝服で大輪の花のような風格を印象付けたと石原さんは話す。   明治神宮を参拝する愛子さま。シンプルなデザインの生成り色のロングドレス(参拝服)に、美しい真珠の宝飾品が映える=2024年4月10日、明治神宮    一方、翌日に明治神宮を訪れた長女の愛子さまが着用していたロングドレスは、採寸して仕立てる際に用いる「原型」のデザイン。首まわりもノーカラー(襟)で全体に装飾を省きつつも、ウエストに入る細かなギャザーでスカートがきれいにふくらんでいる。   上皇后さまが、デザイナーの故・植田いつ子さんと考案したドレスの上に「マント」や「ケープ」を重ねるスタイルの参拝服と小さな丸い帽子をお召し=2024年4月、明治神宮  また、雅子さまと同じ日に参拝した上皇后美智子さまは、ひさしぶりに白いロングドレスの上にケープ型の上着と小皿帽子をお召しだった。  ドレスやスーツの上に共布のマントやケープを重ねるスタイルは、美智子さまがデザイナーの故・植田いつ子さんと相談して独自に考案したものだった。植田さんによれば、公務ではコートの着脱もままならない場面が多い。このスタイルであれば、羽織ったまま手を振る動作も容易で、コートよりも素早く着脱しやすいというメリットがあったという。     【こちらも話題】 愛子さま伊勢神宮で見せた「本物の笑顔」 天皇陛下と雅子さまから受け継ぐ「内面からのオーラ」とは https://dot.asahi.com/articles/-/218350     「明治神宮鎮座百年祭」の参拝では、ジャケットとそろいの「スカラップ(ほたて貝)」デザインの飾りのついた帽子をお召しで、一層華やかな雰囲気=2020年、明治神宮   「雅子さまは、華やかな存在感で威厳を示された。一方、若く、エネルギーあふれる愛子さまは飾りのないシンプルなドレスがよくお似合いでした。上皇后さまは平成の皇后時代によくお召しであったケープを羽織ったロングドレスと、小さな丸い形の帽子をお選びで、懐かしく感じました」    上皇后、皇后、天皇家の内親王という女性皇族が、それぞれの年齢と立場にふさわしい参拝服を着こなす様は見ごたえのあるものだったと、石原さんは振り返った。   まさにプリンセス!29歳の雅子さま  実は雅子さまは、明治神宮の建立100年を祝う「明治神宮鎮座百年祭」にあたって参拝した20年秋にも、同じ参拝服をお召しだった。  この時は、帽子にもほたて貝のような「スカラップ」の飾りがデザインされており、よりフェミニンな雰囲気だった。    伊勢神宮に参拝した皇太子ご一家(当時)。雅子さまの参拝服は、タイトなシルエットの白のロングドレス=2014年7月、伊勢神宮  しかし、2014年にご一家で伊勢神宮を参拝した際には、同じ白い参拝服だったが、雰囲気はすこし違う。ウエストを共布のキャザーでしぼり、ドレスのスカートもタイトなデザインだった。     結婚の報告のため、伊勢神宮へ参拝する皇太子妃時代の雅子さまの姿はまさにプリンセス。珍しくうすいベージュ色のドレスと華やかなチュール飾りがあるつばの広い帽子をお召し=1993年6月、伊勢神宮  雅子さまの最初の神宮参拝は1993年6月、29歳のときだった。ご結婚を報告するために伊勢神宮を参拝している。  このときの参拝服は、薄いベージュ色。ひかえめながらも、肩先とスカートをふんわりと膨らませたロングドレスにあわせたのは、華やかなチュール飾りがついたつばの広い白い帽子。真珠のイヤリングとネックレスをつけた姿は、プリンセスそのものだった。    愛子さまも今年、23歳の誕生日を迎える。社会人として成年皇族として日々、ご成長する姿を、誰もが楽しみにしている。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま初めての明治神宮参拝 春の日差しに輝く白の参拝ドレスにどよめき https://dot.asahi.com/articles/-/219398  
【「光る君へ」本日26話】格差社会を生きた「光る君」ご一家の「お受験」事情
【「光る君へ」本日26話】格差社会を生きた「光る君」ご一家の「お受験」事情 カネ・コネのある貴公子は幼時から高価な書籍を読み周囲から手ほどきを受けた。当時の児童教育書 を見ると漢文のハイレベルさに驚く  6月30日放送の大河ドラマ「光る君へ」ではいよいよ、藤原道長の娘・彰子が一条天皇に入内。遠からず、まひろ(紫式部)がこの彰子に仕えることになり、「源氏物語」の執筆が始まるはずだ。  平安貴族は、男子は官人(政治家兼公務員)か僧侶、女子は主婦(一家の女主人)になるものと決まっていた。トップ・オブ・トップ貴族である藤原道長の一族では、娘が次々に天皇に入内していくが、これも後宮(后妃らの住む宮殿)の女主人である后(中宮ともいう)まで出世することを目指しての、いわば「就職」である。このような将来に備え、貴族の男児は漢学、女児は衣服の調製(染色法や製糸、縫い物)を習った。そのほかには何を、どこでどのように学び、その「学歴」はどう評価されたのか。『源氏物語もの こと ひと事典』(砂崎良・著)から紹介したい。 ***  夫の装束の仕立ては妻の仕事で、当時の女性にとって、「夫の装束」は縫いや色のセンスを含め優秀さのみせどころであると同時に、自身と実家の力量を示す機会でもあったということは、6月23日に公開した記事【「光る君へ」本日25話】踊って出世「庭の清掃」が権力の証 現代の常識で捉えきれない源氏物語の世界に詳しい。  男女共に必須のスキルは、書道や和歌。教育は基本的に各家庭で行われたため、親や近しい親族がその技能にたけていて子どもに教授できるか否かで差がついた。親にかわいがられている子はそうでない子に比べて、圧倒的に有利だった。平安皇族・貴族の社会では、授かっている位階や官職などに応じて国から給料を支給される。よい位階・官職に就けた者は、富や人脈を手中にし、子どもによい教育をほどこせる。平安遷都から200年以上、この制度をたもってきた都では、「家柄がよいと教養があって優秀」と見なされるほど、格差が拡大・固定化されていた。 平安時代の官職。夕霧の「六位」は最下層だが、実際にはこの図は「上流・中流貴族」の抜粋。平安人の0.1%未満という上澄み中の上澄みの人々である。  だが、「源氏物語」で光源氏は、息子の夕霧の官人生活を六位という低い身分からスタートさせ、「大学寮」で漢学を専門的に学ばせている。光源氏は飛びぬけて高貴な権力者、望めば夕霧を四位にもできたのだから、この時代の貴公子には珍しい苦学コースである。作者である紫式部の漢学者の娘としてのプライドや、名門の子弟の早すぎる出世への批判精神が感じられるエピソードだと言っていい。 「光る君へ」でも、高杉真宙演じるまひろの弟・藤原惟規が大学寮に学んでいる。この「大学寮」とは、官吏の養成を行う学校のこと。中国の歴史や文学を学ぶ「紀伝道」、論語や孝経などから儒教の教えを学ぶ「明経道」、律令制を中心に法律にまつわる教育を行う「明法道」、中国古代の『九章算術』などを教科書に算術などを学ぶ「算道」の4教科(四道)があり、卒業して「寮試」と呼ばれる試験に合格すると、擬文章生(ぎもんじょうしょう)になり、さらに「省試」に合格すると、官吏として仕事に就ける文章生(もんじうしょう)になった。  夕霧に苦学コースを歩ませた光源氏だが、娘の明石姫君や養女の紫上・玉鬘(たまかずら)には、琴(弦楽器の総称)や書道を教えている。この時代の上流階級の姫君は、「一に書、二に琴、三に和歌が御学問」といわれていたため、こちらはスタンダードな教育方針。女性キャラの中でも、雲居雁(くもいのかり)や浮舟は琴が不得手で、育ってきた環境がよくないことを示している。 (構成 生活・文化編集部 橋田真琴/イラスト 鈴木衣津子)
反撃に出たり、新しい男への寝返りも 妻となっても恋焦がれた男を待ち続ける“平安の女たちの悲哀
反撃に出たり、新しい男への寝返りも 妻となっても恋焦がれた男を待ち続ける“平安の女たちの悲哀 源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B216-50?locale=ja)  夫婦の別居が当然だったりと、現在とはまるで違う平安時代の恋愛事情。そうした風習は男女の間柄にも影響があった。平安文学研究者・山本淳子氏の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集し紹介する。   *  *  * 待ち続ける女 「あなたを待って三年三月」。そんな演歌が昔あった。阿久悠作詞、昭和五十年に森昌子が歌ってヒットした。『源氏物語』の末摘花(すえつむはな)が光源氏を待ったのは三年とひと月。演歌と平安文学の世界とは、男女の間柄をめぐっては相通じるものが多くて、今も昔も女はとかく待つものとされる。平安時代の女が待つ理由は、二つある。一つには、万葉時代には貴族でも恋人同士が山野でデートすることがあったのに、そうしたアウトドア派が消え、貴族階級の逢瀬(おうせ)は女の家で行うものと決まってしまったことだ。彼とどこかで落ち合うとか、彼の家に行くとかではなくて、恋をすれば女は待たなくてはならない。使いが彼の文(手紙)を持ってくるのを待ち、彼が訪れるのを待つ。ひたすら家で待つ、それが平安の貴族女性の恋の基本的な形なのだ。  もう一つは、結婚のありかたがいわゆる「妻訪婚(づまどいこん)」、夫が妻を訪ねる形だったことだ。具体的には、サザエさん一家を想像していただきたい。両親と暮らす妻のもとに夫がやって来る、婿入り婚。だが夫の姓は結婚前と変わらない。磯野一家と暮らしながらマスオさんの姓が実家の姓「フグ田」のままであるのと同じだ。違う点を言うなら、平安貴族は夫婦別姓なので、サザエさんは「磯野サザエ」でなくてはならない。さらに、マスオさんは毎日帰ってくるが、平安の夫は実家と婚家を行ったり来たりして、そう毎日やってこない。光源氏など、内裏(だいり)の桐壺(きりつぼ)や母から相続した二条院(にじょういん)にばかりいて、正妻・葵(あおい)の上(うえ)のいる三条(さんじょう)の邸宅には、気が向いたときに帰るといった体だ。  こうして女は、恋人としても待ち、妻となっても待つ。男を待つ心は、大方の女たちに共通の心情となる。それを描く歌や物語は、いきおい膨大な数にのぼる。「来や来やと待つ夕暮れと今はとて帰る朝といづれまされり」(『後撰和歌集』恋一)。元良親王(もとよししんのう)(八九〇~九四三)が恋人に問いかけた歌だ。「彼が来るか来るかと思って待つ夕方と、じゃあねと帰ってしまう朝方と、女心ってどちらが切ないものなのかな」。恋人の答えは「朝の方がつらいわ」。夕方には、期待する心がある。だからたとえ空振りに終わっても慰められる。でも朝には、別れに意気消沈する気持ちしかない、というのだ。彼は他の女にも聞きまわっていて、「待つ方が苦しい」という答えもあった。待たせる側の男が、しゃあしゃあと聞いたものである。ちなみにこの元良親王は、平安時代でも指折りの色好みで知られ、「一夜めぐりの君」と呼ばれた。「一夜めぐり」とは陰陽道(おんようどう)の太白神(たいはくじん)のことで、金星の精だ。一夜ごとに居場所を変え、十日でひとめぐりして十一日目にもとに戻る。親王も恋人があちこちにいて忙しく、次に逢うまで随分待たなくてはならないという、多情をからかったあだ名である。  待たされた女が反撃に出ることもある。自分を待たせた男がようやくやって来た時に、家に入れず、逆に待たせるのだ。「待つ女」の代表ともいえる、『蜻蛉(かげろう)日記』の作者・藤原道綱母(みちつなのはは)のエピソードが名高い。新しい女をつくり自分から足の遠のいた夫・兼家(かねいえ)が、暁に戸を叩いた。「あの人だ」と分かったが、腹が立つので開けさせず、夜が明けてから歌をおくりつけた。「嘆きつつ一人寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る(来ないあなたを思って一人泣きながら寝る夜が、明けるまでどんなに長いものか、あなたにはわかりますまい)」。ただ、こうした高飛車な反撃に出られるのは、それなりの自信か保証のある女だけだ。道綱母は決して夫の愛情を喪ってはいなかった。『源氏物語』の葵の上も、光源氏に待たされながら、ようやっとやってきた彼を拒絶すること度々なのは、正妻にして左大臣の娘という安心材料があるからこそ取れた態度だ。その点、父親を喪っている末摘花(すえつむはな)には生活の面倒を見てくれる人がいない。光源氏なくしては、蓬に埋もれた屋敷の中、召使もろとも痩せ衰えるしかない。経済的後ろ盾のない女性は、恋人や夫婦の関係をそのまま生きるすべとしたため、男にすがらざるを得なかったのだ。  そんな女にもできることがある。新しい男への寝返りだ。中には前の男に心を残したままという例もあって、『伊勢物語』に哀しい話が載る。田舎から宮仕えに出た夫が三年たっても帰って来ず、女は待ち続けたがついに別の男の求愛に折れた。その結婚当日、元の夫が帰宅。「あらたまの年の三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ(三年間、待ちわびました。でもまさに今日、他の方に嫁ぎます)」。恋情をこらえて女が詠むと、元夫は祝福して立ち去る。その後を追いかけて、女は絶望し死んでしまうのだ。三年は、当時の法律『養老令(ようろうりょう)』が決める、夫に連絡を絶たれた妻が次に結婚するまでに待つべき期間だった。阿久悠の「三年三月」の意味はわからないが、『源氏物語』で末摘花が三年を超えて心変わりせず待ち続けた設定には、必ずやこの法が関わっていよう。もっとも末摘花その人は、時間などけっして数えてはいなかっただろうが。
【「光る君へ」本日25話】踊って出世「庭の清掃」が権力の証 現代の常識で捉えきれない源氏物語の世界
【「光る君へ」本日25話】踊って出世「庭の清掃」が権力の証 現代の常識で捉えきれない源氏物語の世界 砂崎 良(さざき・りょう)/フリーライター。東京大学文学部卒。古典・歴史・語学など、学習参考書を中心に執筆。『平安ものことひと事典』『源氏物語ものことひと事典』(共に朝日新聞出版)のほか著書多数。『まんがでSTUDYはじめての♡源氏物語』(朝日新聞出版)も監修  1月の『平安 もの こと ひと 事典』に続き、6月20日に『源氏物語 もの こと ひと 事典』を発売したライターの砂崎良さんが、6月15日、朝日カルチャーセンター新宿校で「用語でみる平安時代、源氏物語の世界」と題した講座を開いた。源氏物語は、用語の意味や時代背景を知らずに読むのと知って読むのとでは面白さがまったく違う。このことを、具体例を挙げながら解説した。  実際、砂崎解説を聞くと源氏物語の「解像度」が一気に上がる。その一部を、ここで特別に公開したい。  現代人が源氏物語を読むと、「平安貴族は、恋や宴に時間を使い、優雅に遊び暮らしていた」というイメージを持ちがちだ。砂崎さんは、「それは誤解だ」と話す。  例えば、第7帖「紅葉賀」の、光源氏が「青海波(せいがいは)」を踊る場面。青海波とは、左右二組に分かれて演奏する舞楽の左グループが披露する曲で、2人がペアになり西域渡来の青海波模様(同心円を重ねた幾何学模様)の衣装をつけて舞う。光源氏はこれを親友かつライバルの頭中将(とうのちゅうじょう)と共に舞い、格段の出世をする。  ちょっと舞を舞うだけで出世とは、と思うかもしれない。だが、砂崎さんによれば「平安人は、この舞を観ている人たちがこんなに喜んでいるということは、きっと神様も喜んでいる、と考えるんです。結果、厄災も防げるだろう、と。つまり、光源氏が青海波を舞うという行為は、今で言うと、防災対策に力を尽くしたことに等しいんですね」。  第18帖「松風」に出てくる「遣水」の清掃シーンも、平安人の常識を知れば単なる掃除ではないことがわかる。遣水とは、当時の庭園で人気だった小川のようなもののことで、自然に近づけるためにわざとくねくねした形にするのが人気だった。理想は東から南西へ流すこと。「松風」では、都近郊に越してきた明石君(あかしのきみ)を久しぶりに訪ねた光源氏が、その翌日にいきなり、遣水を清掃させる。紫式部はその光源氏の姿を「なまめかしい」と書いている。「なまめかしい」は、若さや生命力があふれる魅力を指す言葉だが、当時は、官能性のある「色っぽい」という意味も持ちつつ、天皇家特有の美質や高貴さ、上品さを表現する語として使われていた。 「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された毛越寺に残る遣水  遣水の清掃が「なまめかしい」のには理由がある。遣水周りのもろもろは、平安人にとっては男性の仕事。「流れは東から南西へ」ということを含め、適切に処理する知識があるのはハイスペックな男性のみだったから、明石君とその家族は「うちの婿殿、すごい」と感じたことだろう。しかも、男性が女性のもとを訪ねる通い婚だった当時、朝になってもすぐに帰らず清掃を指揮する姿は、光源氏が明石君との関係を公にしていい、と考えていることの証左だ。「今後も責任を持ちます、という気持ちをみせてくれたようなものです」と砂崎さん。  青海波一つ、遣水一つとっても、言葉の意味と背景を知るだけで、多くのことが読み取れることがわかる。 宮中に参内する際に男性が着用した「束帯」。紫(または黒)を身に着けることを許されたのは、原則、一位から三位までの高級貴族のみ(イラスト 鈴木衣津子)  遣水周りが男性の仕事なら、装束周りは女性の持ち場。男性は束帯姿で内裏に出勤するが、その仕立ては妻の仕事で、「妻とその実家の力量を示す機会でもあった」と砂崎さん。第38帖「鈴虫」には、紫の上が自ら女三宮(光源氏の正妻)の法事のために縫製をしたと書かれている。天皇の子である女三宮はあまりにも格が高いので、紫の上自身が仕立てを行い、その縫い目が「見事」だった、と。  砂崎さんによれば、装束の仕立ては当時の女性にとって、縫いや色のセンスを含め優秀さのみせどころでもあった。第6帖「末摘花」や第15帖「蓬生(よもぎう)」に登場する末摘花は、器量が悪かったために捨てられたというイメージが強いが、実は光源氏は不器量であることは問題にしていない。ハイセンスな会話ができない、感性が鈍い、と感じることがあった後に、器量がよくないということがわかり、極め付きが装束のプレゼントだった。  世間に公表するほどの関係には至っていないのに装束を送ってくるという空気が読めない感じに加え、あきれ返るほど質の悪いものが届いた。光源氏はこのことを「あさまし(がっかりだ/嘆かわしい)」と思ったのだ。第11帖「花散里」に登場する花散里も不器量だったが、衣服を作るということにかけては素晴らしかった。結果、光源氏の邸宅「六条院」に住居を得ている。  もう一つ、砂崎さんの講座で目からうろこだったのは、平安貴族たちの忙しさの背景だ。 第6帖「末摘花」に、朝早く光源氏の寝室に頭中将が乗り込んでくるという場面がある。「内裏から来たのか」と問う光源氏に「そうだ」と答えた頭中将は、こう続ける。「予定されている朱雀院への行幸で、誰が演奏して誰が舞うのかを今日決める。このことを昨夜、帝から承った。それを伝えに来た。また内裏に帰る」。  このあとふたりは一つの牛車(ぎっしゃ)にのって内裏に出勤していくのだが、メールも電話も郵便もなかった平安時代、平安人たちは行事の準備のために、牛車に乗って「今日ミーティングやるよ」を参加者一人一人に伝え回った。そして、もろもろのことを「縁起のいい時間」に行うために、常に時間を気にしていた。誰かが来ないという場合も、牛車で出かけていって叱責する。藤原道長の側近として活躍した藤原行成が残した日記「権記(ごんき)」からは、彼が連絡係をしていた当時、月に1日ないし2日しか休んでいなかったと思われる出勤記録が残っている。  砂崎さんは言う。「用語を正確に把握すると、現代の感覚では見逃したり誤解したりしてしまう場面に気づくことができる。作者がこれを書くことで何を言おうとしているのかがわかる。当時の常識を踏まえれば読み解けるところが、源氏物語にはまだたくさんあるんです」。 (構成 生活・文化編集部)
三菱財閥「旧岩崎家住宅」からアール・デコの「旧朝香宮邸」まで 歴史彩る東京の名邸宅
三菱財閥「旧岩崎家住宅」からアール・デコの「旧朝香宮邸」まで 歴史彩る東京の名邸宅 旧岩崎家住宅/所在地:台東区池之端1-3-45 三菱財閥の第3代社長・岩崎久彌の住まいとして建設。1896年竣工。最盛期には約1万5千坪の敷地に20棟の和館と1棟の洋館が並んだ。洋館はイギリス人建築家、コンドルの傑作と名高い(写真:山内貴範)    時代の流れとともに失われた名建築は数多い。それでも日本の建築史を語るうえで欠かせない傑作が残っている東京。東京の国宝・重要文化財建築を網羅した『TOKYO名建築案内』(朝日新聞出版)の著者、山内貴範さんに、見学におすすめな住宅建築を紹介してもらった。AERA 2024年6月24日号より。 *  *  *  目まぐるしく流行が変化し、常に再開発が行われている東京は、地方都市と比べるとどうしても古い建築が残りにくい土地といわれる。明治維新の後も、関東大震災や東京大空襲があった。そして戦後の高度経済成長期の開発などの影響もあって、三菱一号館や帝国ホテルのライト館など、その過程で失われた名建築は数多い。それでも、日本の建築史を語るうえで欠かせない傑作が都内各地に残っている。 生活の主体は和館  見学におすすめなのが、東京の住宅建築だ。当代一流の建築家が設計し、しかも、最先端の流行を取り入れた傑作が多いためである。公共性をもつ官公庁などとは異なり、自由度の高い住宅は建築家の作風を存分に楽しめるだけでなく、施主の性格や職業についても深掘りできる点が面白い。  明治時代に入ると、住宅は西洋文化の影響を大きく受けるようになり、富裕層の間で従来の和館に隣接して洋館を設ける和洋併置式住宅が流行した。1896(明治29)年に建てられた旧岩崎家住宅は、洋館と大広間(和館)が連結している。洋館で暮らしていたと思われがちだが、岩崎家に限らず、明治時代の富裕層のほとんどは和館で生活していた。洋館は賓客をもてなすためのパーティーなどが行われ、滞在の機能をもつVIPルームのような扱いであった。 和館でのおもてなし  なぜ、岩崎家は洋館での暮らしになじめなかったのか。その要因の一つが、邸宅内で靴を履いたまま過ごす、西洋のスタイルに違和感を抱いたためといわれる。旧岩崎家住宅は1969(昭和44)年に和館の大部分が取り壊されてしまったため、現在では洋館がメインで、和館がサブのように思えてしまう。しかし、繰り返すようだが、明治時代の人々の生活の中心はあくまでも和館にあったのだ。 旧朝香宮邸/所在地:港区白金台5-21-9 “アール・デコの館”としても名高い朝香宮鳩彦王の邸宅。1933年竣工。フランス帰りの施主の朝香宮夫妻の趣味が凝縮されている。現在は東京都庭園美術館となっている(写真:加藤史人)    ところが、時代が下り、昭和初期に竣工した旧前田家本邸になると、和館と洋館の使われ方が逆転する。海外駐在期間が長かった前田利為は洋風の生活に慣れていたため、洋館で生活し、和館をVIPルームとして活用した。特に、外国人との交友関係が多かった前田は、和館での接待こそが日本文化を満喫してもらうにはふさわしいと考えたのだ。この前田の狙いは的中している。  以前、私の知人のイギリス人を旧前田家本邸に案内した際、洋館にはそれほど興味を示さなかった。ところが、和館にはいたく感激していたのだ。日本人はもしかすると、感じ方が逆になるかもしれない。 趣味が表れた住宅  東京はさすが大都市ということもあって、施主の趣味が濃厚に表れた住宅が数多い。特に大正時代以降は、個性派の住宅が相次いで建設された。  壁面に銅板を貼った旧磯野家住宅がある一方で、質実剛健な造りを示すのが旧朝倉家住宅である。和館が主体であり、洋間も設けられているものの、政治家の住宅ということもあって、華美さを避けている。旧久邇宮邸は天井に日本画家の手になる天井画をはめ込んでいる。これは久邇宮が日本美術協会の総裁だったため、様々な芸術家と繋がりがあったためだ。フランスに留学した朝香宮夫妻が建設した旧朝香宮邸は、世界最高峰のアール・デコの館である。  なかでも異色なのが、新1万円札の肖像にも選ばれた渋沢栄一の邸宅の一部であった、旧渋沢家飛鳥山邸の晩香廬であろう。大正時代の自由な気風が発揮されている名作だ。渋沢家は空襲で邸宅の大部分を失ってしまったが、晩香廬と青淵文庫の2棟は奇跡的に残った。  渋沢は建築に深い造詣があり、最初の兜町邸は当時まだ若手だった辰野金吾に設計させている。生涯500もの会社に関わった人物ということもあって、若手に仕事を任せる気概はさすがといえるし、進取の精神があったといえる。残された建築をもとに、渋沢に思いをはせてみてもいいだろう。 (ライター/編集者・山内貴範) ※AERA 2024年6月24日号
子育て支援金の徴収額、年収1千万円なら月1650円にも 扶養家族が増えても負担額は変わらず
子育て支援金の徴収額、年収1千万円なら月1650円にも 扶養家族が増えても負担額は変わらず 参院本会議に臨む岸田文雄首相(前列右)と加藤鮎子こども政策・少子化担当相(同左)=5月17日    医療保険に上乗せし徴収する子育て支援金。負担は2026年度から始まり、28年度まで段階的に増額される予定だ。加入している健康保険や所得によって負担額はどう変わるのか。AERA 2024年6月24日号より。 *  *  *  明日の破滅に直結するものではないだけに、日本が直面している少子高齢化の問題に危機感を抱くのは難しい。だが、着実に進行しているのは明白だ。6月5日に厚生労働省が公表した「人口動態統計」によれば、昨年の「合計特殊出生率」は1.20で、統計調査の開始以来、最低になったという。 「合計特殊出生率」とは、15~49歳の女性の年齢別出生率を合計したもの。1人の女性が一生のうちに産む見込みの子どもの数を示す指標と位置づけられている。一方、先進諸国における高齢化率を比較すると、日本は2005年から最も高い水準に到達してトップを独走中だ。  このまま少子高齢化が続くと、いったいどんな未来が待ち受けているのか? 4月下旬に民間の有識者グループ「人口戦略会議」が発表したレポートは衝撃的な内容だった。 新たな国民負担が発生  2020年から50年までの間に、日本全体の4割に該当する744の自治体で、20~30代の女性が半分以上減少。人口が激減し、最終的には消滅する可能性があると分析したのだ。  このように少子高齢化が極限状態まで進めば、おのずと公的年金も苦しい運営を迫られる。大多数を占めるシニア世代の年金給付を、少数派の現役世代が必死で支えることになる。可及的速やかに少子高齢化に歯止めをかけなければ、日本の未来は悲惨なものになりかねないのだ。  そんな中、参議院本会議で可決・成立したのが改正子ども・子育て支援法などだ。くしくも過去最低の「出生率」が発表された6月5日のことなのだが、野党はこれに反対しており、世間でもブーイングが飛び交っている。なぜなら、新たな国民負担を強いる内容だったからだ。 AERA 2024年6月24日号より    児童手当の拡充をはじめとする支援策は、子育て世帯が歓迎できるものばかりだ。しかし、その財源を確保するため、子育て支援金制度が新設されることも決定。支援金と言っても健康保険を通じ、子どものいない世帯からも幅広く徴収される仕組みだ。 負担は再来年度から  子育て支援金の負担は2026年度からスタートし、28年度まで段階的に増額される予定だ。肝心の負担額は加入している健康保険の種類によって異なり、まず被用者保険の場合は年収に応じて異なる設定になっている。  被用者保険に該当するのは、中小企業の従業員などが加入している協会けんぽ、大企業の従業員などが加入している健康保険組合、公務員などが加入している共済組合だ。上の一覧表にまとめたように、年収300万円なら26年度は月額300円で、28年度には500円に引き上げられる。  年収1千万円の人は初年度が月額1千円で、28年度には1650円になる。被用者保険加入者なら、扶養する家族が増えても負担額は変わらない。たとえば年収800万円なら、専業主婦の妻と2人の子どもがいても、初年度の負担は月額800円。年収800万円の独身者も、同じ800円の負担になる。  ウェルス労務管理事務所代表で社会保険労務士の佐藤麻衣子さんは次のように説明する。「国民健康保険加入者や後期高齢者の負担額は被用者保険加入者と計算方法が異なりますが、公費の投入で低所得者には軽減措置が設けられます。そのため、各々の負担能力に応じた金額になってきます。加入している健康保険の種類を問わず、現時点における20分の1~25分の1程度になりそうだというのが一つの目安です」  表中における国民健康保険加入者と後期高齢者の負担額は、低所得者向けの軽減措置を反映したうえで算出した平均値で、所得によって実際の負担額には違いが出てくる。また、被用者保険加入者の場合は、同じ金額を事業主も負担する。(金融ジャーナリスト・大西洋平) AERA 2024年6月24日号より   ※AERA 2024年6月24日号より抜粋  
皇后雅子さま 英女王国葬の訪英でお召しだった「吊るし」の喪服 皇室がファストファッションにプチプラ服、上質な「既製服」を選ぶ理由
皇后雅子さま 英女王国葬の訪英でお召しだった「吊るし」の喪服 皇室がファストファッションにプチプラ服、上質な「既製服」を選ぶ理由   英国のエリザベス女王の国葬に参列するため同国を訪問し、宿泊先のロンドン市内のホテルに到着した天皇、皇后両陛下=2022年9月17日、ロンドン    天皇、皇后両陛下は22日から8日間の日程で、国賓として英国を公式訪問する。歓迎行事をはじめ、チャールズ国王が主催する晩餐会などにも出席する予定だが、両陛下の海外訪問となると注目を集めるのが、その衣装。これまでに海外を訪問した皇后や皇族の装いといえば、オーダーメイドによる仕立て服が基本だったが、2年前の英国訪問で雅子さまがお召しの喪服は、上質な既製服(プレタポルテ)だった。令和に入り、皇室の装いにも変化が現れている。 *   *   *  おふたりが2022年に英国の地を踏んだのは、ロンドン・ウェストミンスター寺院で執り行われたエリザベス女王の葬儀のためだった。  皇后や女性皇族の海外訪問では、その装いにも注目が集まる。  参列した皇后雅子さまのブラック・フォーマル(喪服)と漆黒の宝石「ジェット」は、その品の良さで評判となった。  すこし前までは、海外訪問時の皇后の装いといえば、専属デザイナーによる仕立ての服が基本だった。  しかし、政府専用機で英国に到着してからロンドン市内のホテルに到着する間、雅子さまがブラック・フォーマルとしてお召しだったのは既製品の服、いわゆる「吊るし」のジャケットだった。   「量産品」だった皇后の喪服  雅子さまのブラック・フォーマルのジャケットを手掛けたのは、東京・中野区に縫製工場を持つ「辻洋装店」。1947年に個人のオーダーメイドの洋装店として創業し、現在はパートやアルバイトを含め30名ほどの従業員が働いている。  代表取締役の辻吉樹さんによると、雅子さまがお召しだったのは、日本を代表するデザイナーである故・芦田淳氏が創業したブランド「JUN ASHIDA」から量産品として依頼を受けたジャケットのうちの一着。「JUN ASHIDA」がブラック・フォーマルとして長年販売している定番のジャケットだという。     【こちらも話題】 【写真特集】きらびやかな装いの雅子さま、佳子さま、美智子さまの笑顔が集い… 写真で振り返る春の園遊会 https://dot.asahi.com/articles/-/220483   皇后雅子さまがお召しのブラック・フォーマルは、「吊るし」の既製服でも生地と高い縫製技術で仕立てられたジャケット。光が当たっても白さが出ない高貴な「漆黒」色=2022年9月、ロンドン市内    ひと口に「黒」と言っても、白や赤、黄色味の混じった黒など、さまざまな種類がある。  雅子さまがお召しのジャケットは、光に当たっても白光りなどせず、漆黒の色味が美しい一着なのだという。 「私どもも皇后さまが英国で着用いただいているとは存じませんでしたので、関係者を通じて教えていただき、驚きました」(辻さん)  創業者の芦田淳氏は、かつて上皇后美智子さまが皇太子妃であった時期に専属デザイナーを務め、1993年の天皇陛下と雅子さまのご結婚の際の関連儀式、「饗宴の儀」のドレスも数着手掛けている。  同ブランドの検査基準は厳しく、量産のプレタポルテ(既製服)といえども、すこしでも気を抜くと返品されてしまうほどだったと、辻さんは振り返る。   皇太子妃時代から既製服も愛用 米トランプ大統領夫妻の歓迎行事と会見、見送りを終えたリラックスした表情の両陛下。賓客との公務ではデザイナーの手による装い=2019年5月、皇居・宮殿、代表撮影/JMPA    ロイヤルの国葬への参列は、皇室の大切な公務のひとつだが、日程は急に決まることが多いため、皇室周辺は相当にあわただしいスケジュールとなる。  2022年9月8日に死去したエリザベス女王の場合も、両陛下は17日に訪英し、19日の国葬に参列するという強行スケジュールだった。  そのときに、雅子さまがお召しだったのが、辻洋装店が手掛けた「吊るし」のジャケットだった。  かつて、皇室に仕えた人物はこう話す。 「こうした急な海外訪問では、当然仕立ての衣装の準備も間に合わない。もともと皇后雅子さまは、皇太子妃時代から体調の問題もあり、プライベートでは既製服もよくお召しでした。質が良く値段も手ごろで着心地がいいという合理性があるならば、海外訪問時であってもすべてが高価なオートクチュールでなくとも構わない、というお考えなのでしょう」  思い返せば、昨夏のご静養時では、長女の愛子さまもファストファッション「GU」のワンピースをお召しだった。     【こちらも話題】 愛子さまの帰京時のワンピースは「GU」で2490円!? ファストファッションでも品と清潔感 https://dot.asahi.com/articles/-/200955   那須御用邸から帰京した天皇ご一家。愛子さまは「GU」の2940円の商品と見られるワンピースをお召し。雅子さまはワインレッドのジャケットを上手に着回している=2023年9月5日、東京駅、読者提供    雅子さまが選んだジャケットは、量産品のためにオーダーメイドよりも手ごろな価格だが、日本のデザイナーや縫製職人らのこだわりや思いの詰まった一着だ。  辻さんによれば、化繊素材ではあるが、ジャケットの袖や背中部分、ウエストのラインといったドレープ感が美しく出る布地が用いられているという。 「生地はまさに生き物です。同じ品番の布地でも、異なる時期に染められた釜(ロット)であれば、まるで違う『顔』を持ちます。この生地は、ドレープが美しく出ますが同時に、縫製には高度な技術が必要で、とても仕立てが難しい」  経済産業省の統計によると、22年に日本で販売された衣料品のうち、98%以上が海外で生産された輸入品だ。辻さんは、そうした時代だからこそ、量産品であっても日本のブランドや高い縫製技術を守っていきたいと話す。   海外訪問でも上質な量産服からプチプラまで   ギリシャを訪問した佳子さまがアテネ市内のパルテノン神殿を視察の際に、着用したとみられるブルーの「2wayパフハーフスリーブニット」=オンライン限定販売ブランド「ピエロ(pierrot)」の公式ホームページより     英王室のキャサリン妃が公務でファストファッションを愛用し、共感を集めているように、令和に入り皇室の姿も変わってきた。  秋篠宮家の次女佳子さまがペルーやギリシャを訪問した際には、4790円のジャケットや2990円のニットといった「プチプラ(プチ・プライス)」の既製品服が話題となり、注文が殺到した。  雅子さまは英女王の国葬のために、いくつかの候補の品のなかから日本の小さな縫製工場の技術と誇りの詰まったジャケットを選んだ。  今回、国賓として招待された両陛下は、英国で歓迎行事や晩餐会などに出席される予定だ。古き良き皇室らしいデザイナーによる仕立てのドレスから上質な「吊るし」の既製服、ときには「プチプラ」やファストファッションまでを柔軟に手にとるのが、令和の時代の皇室のスタイルのようだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 【写真特集】雅子さまや愛子さまの小物使いは、優美なロイヤルの「お手本」 モードなアイテムをダイナミックに着こなす女性皇族とは? https://dot.asahi.com/articles/-/224550    
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」 講義終了後、学生に協力してもらって撮影を行った。取材の現場も学びだ(写真:楠本涼)    関西学院大学総合政策学部特別客員教授、小西美穂。日が当たらないことでもテレビなら応援できると思った小西美穂は、大阪の読売テレビに就職。事件や司法を担当した。人一番努力しないと認めてもらえないと、休む間も惜しんで取材。数々のスクープを報じ、話題のドキュメンタリーを作った。異例の出向で日本テレビへ。キャスターとして活躍した後は、50歳で大学院で学び、現在は大学でも教鞭を執る。 *  *  * 関西学院大学神戸三田キャンパスⅡ号館201教室の前では、学生が長い行列を作っていた。2限の講義「テレビ報道論」が、まもなく始まろうとしているのだ。担当するのは、小西美穂(こにしみほ・55)。広々とした大教室がどんどん埋まっていく。24年度の履修者は396名。他学部からわざわざ聴講に来る学生もいる。小西は、開始時間が迫ると声を張り上げて着席を誘導していった。講義に向かうワクワク感、高揚感が伝わってくる。 「学ぶことの楽しさを、学生に知ってほしいんです。知的好奇心を喚起してあげて、人生の背中を少しでも押してあげたい」  長くテレビの世界で生きてきたが、52歳でテレビ局を退職。大学で教える仕事をスタートさせた。 「オワコンと呼ばれるテレビが、果たして学生たちからどう見えるのか。とても関心がありました」  しかし、小西が教壇に立つことになった22年、驚くべき事態が起きた。履修者が810名を数えたのだ。637名定員の大教室に入りきらなかった学生は、別の教室からオンラインでつないで小西の講義を聴くという異例の事態となった。 「うれしかったです。今や誰でも情報発信できる時代。メディアがいかにシビアに丁寧に事実と向き合ってきたか、未来を作る若者に伝えたいという思いがありました。そうしたら彼らは知らなかったと驚いてくれ、メディアに感謝もしてくれて」  革ジャンに身を包んだ教壇上の小西には、テレビ番組出演時のような温和さはない。スライドを見ながら学生に語りかける表情は厳しい。私語ができる雰囲気はなく、居眠りも許さない。時には後ろの席まで歩いていき、緊張感を高める。関西学院大学総合政策学部長、長峯純一(66)は語る。 講義で発する言葉、立ち位置、表情などは、すべて意図的にコントロールしている。「リラックスするところ、引き締めて記憶にとどめてもらうところがある」というテレビ番組の構成も意識している(写真:楠本涼)   「記録的な数の学生が集まりましたから、心配して様子を見に行ったこともありました。ところが、学生を騒がせることなく、関心を見事に引きつけて授業をコントロールされていた。なかなかできることではない。大したものだな、と思いました」 練習方法も分からず 手探りでラクロスを学ぶ  この日のテーマは、ニュースとは何か。使ったスライドは59枚。毎回の講義の後、数百枚に及ぶレポートすべてに目を通す。自らの過去の経験、50歳で通い始めた大学院での体系的な学び。まさに小西のすべてが詰まった、熱い講義なのだ。  兵庫県神戸市に生まれた。2歳のとき、家族で加古川に移り住む。父はのちに祖父の家業の米穀店を継いだ。祖父は死ぬ間際まで頼山陽の『日本外史』を手放さない勉強家だった。父からは「学び続けなさい。学びが人生の道を拓(ひら)くのだ」と言われて育った。父が学んだ県立校から、関西学院大学文学部へ。だが、華やかな私学のキャンパスで、打ち込めるものは見つけられなかった。 「テニスサークルに入ってみたんですが、私がいてもいなくてもこのサークルは進んでいくんだな、と思ったら、一気に興味をなくしてしまって」  何かに行き詰まったら、学びに行く。父の教えを思い出し、英語通訳の専門学校に通い始めた。ラクロスを知ったのは、大学2年生の5月。同じクラスだった男子学生が、棒の先に網がついたスティックを持って授業に現れる。「それ、なんなん?」と話しかけると、彼は関学でできたばかりのラクロス部に入部したと言う。日本ではまだ知られていなかったスポーツ。興味があるならマネージャーをやらないかと誘われたが、どうせなら選手としてやってみたいと思った。そんな談笑をしている最中、偶然にものちに顧問となる先生から、「女子のラクロス部を作らないか」と言われた。先生の研究室で、アメリカのラクロスの試合をビデオで見たときの衝撃を今も覚えている。 「華やかなタータンチェックの巻きスカートにポロシャツを着て、空中ホッケーみたいなことをしている姿が映って。可愛(かわい)らしいんですが、エネルギッシュなんです。これだ、と思いました」 大学2年で立ち上げたラクロス部は人生を変えた。当時の思い出の品々は今も大事に保管している。カナダ人コーチにもらった言葉「Hard Work Pays Off(頑張っただけ報われる)」は折々に感じた(写真:楠本涼)    まずは手当たり次第に友人、知人に声をかけると少しずつ人が集まってくれた。競技用の道具は海外から取り寄せたが、ルールも練習方法も分からず手探り状態。練習場所は石がゴロゴロした河川敷しかなかった。メンバーを増やすために、競技の写真を貼った手書きのラクロス部の募集ビラを作成、ユニフォームを着て、関学だけでなくそれ以外の大学の前でも配った。海外からラクロスのルールブックも取り寄せた。説明はすべて英語だったが、小西が自ら内容を翻訳し、仲間に伝え、効果的な練習方法を探っていった。外国人のコーチが来ると聞くと滞在をサポートし、宿泊先として実家を提供した。本場の練習や試合を見てみたいとカナダにも渡った。ところがカナダ人との練習中、小西は初日に鼻の骨を折る大怪我(けが)をしてしまう。このとき、通訳も兼ねて同行していたのが、草創期のメンバーだった瀧川裕子(54)だ。 「大量の鼻血が出て、もうびっくりでしたが、次の日からは顔を覆うフェイスガードをして練習に出ていました。うまい人とプレーできる、せっかくの機会。時間がもったいない、と。ラクロスに対しての情熱は、本当に強かったです」 弁護士の大平光代と出会い 極秘で1年密着取材  練習、戦術の研究、合宿、新たな部員の勧誘、他大学の指導、スポンサー探し……。スケジュール帳は真っ黒になった。小西はいう。 「今日、何かやれば、違う明日が来る。なるほど、そうなのか、と実感しました」  部員は3年後には100名を超える規模になった。後に小西は日本代表選手にも選ばれた。  就職先としてテレビ局を選んだのは、その影響力を実感したからだ。大学4年のとき、日本テレビの夜のニュース番組が、ラクロス普及の活動について取り上げてくれた。後にラクロスをやってみたいという声が、各地で広がったことを知った。 「マイナーなスポーツもそうですが、日が当たらないけれど一生懸命頑張っている人がいる。それをテレビの力で応援できるんじゃないか、と」 関西在住のラクロス仲間たちと年に数回集まる。創設当時の同期や後輩たちで30年以上の付き合いとなる。メンバーは、大学も年次もバラバラだ。昔話から最近の話まで、笑い声が絶えなかった(写真:楠本涼)    女性の総合職採用が始まったばかりの大阪の読売テレビに入社。最初は人事部に配属されるも現場を希望。2年目に大阪府警記者クラブへ。強盗、殺人、放火などを担う捜査一課担当は社内で女性初だった。夜討ち朝駆けの日々が始まる。官舎に夜回りに行くと、入り口の電灯の下で複数の男性記者がタバコを吸っていた。近づける雰囲気はなく、自転車置き場で一人待っていたら、年配の男性記者に声をかけられた。「お嬢ちゃん、何しに来たんや。お父さんお母さん待っとうで。はよ帰り」。なんとか「取材に来たんです」と返した。 「女性というだけでとにかく目立つわけです。これは、よほどの結果を出さないと認めてもらえないと思いました。だったら人一倍努力しよう、と」  とことん周辺を取材した。他の記者が行かなくなっても現場に顔を出した。捜査関係者が通うパチンコ店で話を聞こうと隣に座って声をかけたこともある。捜査関係者が出入りする食堂があると聞くと、入店して耳を澄ませた。できることは、あらゆることをやろうと思った。  捜査一課担当後、社内で女性初の司法記者クラブ所属の検察担当になった。夜回り朝回りの寝る間もない忙しさ。日中少しだけ時間が空き、裁判所のトイレで座って眠ったこともあった。ほとんどの時間を取材に使い、昼食も惜しんで関係者に会った。泊まり勤務の夜は新聞のスクラップ作りに使った。あるとき司法関係者に声をかけられた。 「あなた、よく頑張ってるね。実は弁護士で変わった経歴の女性がいる。紹介しようか」  それが、大平光代だった。会って話を聞いた。壮絶ないじめを苦に自殺をはかり、非行に走って16歳で暴力団組長の妻となった。しかし人生を立て直し、猛勉強の末に弁護士になったという。そのときは話を聞いただけで別れたが、この人の生きざまは多くの人に勇気を与えられると思った。小西はドキュメンタリーを撮りたい、と手紙を書く。最初は断られたものの、あきらめずに連絡を取り続けた。するとある日、自分のことを書いてくれないか、と大平から話がきた。鑑別所に行って「昔、君と同じように悪さをしていたんだ」と自分の過去を話しても信じてもらえない。だから見せられるものが欲しい、と。だが、小西は書くプロではない。ドキュメンタリーなら最高のスタッフを集められる。映像を先に作り、そのあと書籍を作るのはどうかと伝えたら提案を受け入れてもらえた。極秘の密着撮影が始まる。1年間の取材を凝縮した25分間の映像は大きな反響を呼んだ。 読売テレビが制作する番組「情報ライブ ミヤネ屋」では水曜日のコメンテーターを務める。最新情報が次々に飛び込んでくることもある。瞬時に自分らしさのあるコメントが求められる仕事だ(写真=楠本涼)   「一番うれしかったのは、30代の主婦の女性から、自殺をしようと思ったけど思いとどまりました、というお手紙をいただいたことでした」 日本テレビへ異例の出向 キャスターに抜擢される  放送を見た出版社から、出版企画書が山のように届いた。その中から、2人が選んだのは児童文学の編集者からの提案だった。大平が、子どもたちの立ち直りのために力になりたいと考えていたからだ。著書『だから、あなたも生きぬいて』は、250万部を超えるベストセラーになった。  その放送から1年後、小西が32歳のとき、海外特派員としてロンドン赴任の話が来る。当時、海外特派員は既婚男性が行くのが通例。憧れていたものの、さすがにないだろうと諦めていたが、社内で女性初の特派員として声がかかったのだ。  行ったものの最初は、大きなニュースには声がかからない。焦りを覚えながらも、自分にしかできない小さなニュースをコツコツと出し続けた。声がかかれば現場にいけるように常に態勢を整え、挑む姿勢を貫いた。2004年、イラク復興支援の現地取材に抜擢(ばってき)された。銃声の響く危険な地域で自衛隊が現地でどう役に立っているか、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て取材した。緊迫感と恐怖とともに、自分の目や耳で感じたことは、その後の仕事にも生きている。 「偉くなりたいとか、何かになりたいとか、そういう思いはまったくありませんでした。見聞を広め、多くの人に伝えたい。それだけでしたね」  帰国後、意外な辞令がやってきた。日本テレビへの出向。キー局への出向は異例だった。政治部に配属されて2年目、夕方のニュース番組「ニュースプラス1」内の討論コーナーのキャスターに選ばれる。抜擢した当時の報道局プロデューサー、BS日本顧問の中山良夫は語る。 「当時、日本テレビには報道局が作るような討論番組がなかった。討論は予定調和ではつまらないんですよ。それだけにキャスターが重要になる。混乱してガチャガチャにしてくれる、でも乱れたりはしない。そんな人物を探していたんです」 講義が始まる前、ギリギリまで使用するスライドを精査していた。情報を使い回すことはほとんどなく、常に最新情報を盛り込むことを意識している(写真:楠本涼)    ローカル局出身で政治部の経験も浅い記者に、生放送もある討論を任せようというのだから、中山の大胆さは並外れだ。しかし、中山の動物的な勘を小西も大胆に引き受けた。「わからないことはわからないと答えればいい。聞いたことに答えていないと思ったら答えてませんと言えばいい」。中山のアドバイス通りに番組を推し進めたら、あの生意気な女性キャスターはなんだと、抗議の電話やメールが殺到した。厳しい言葉に小西は堪えた。だが、中山の感触は違った。何か心に引っかかったから、視聴者は反応したのだ。翌年、小西は夕方のニュース番組「NEWSリアルタイム」のサブキャスターを任される。 番組終了後に人生が暗転 自分磨きに目覚める  充実した日々だった。とりわけ、40歳の誕生日は華やかだった。20人ほどの仲間が集まり、レストランで祝ってもらった。だが、その後、番組終了が決まると人生は暗転する。「私は本当に必要とされているのか」と不安に襲われ、たびたび東京の街を彷徨(さまよ)った。関西では馴染(なじ)みの深い大丸によく行った。書店で自己啓発の本を買いあさった。ある日、アクセサリーショップで女性に声をかけられた。大学時代に小西からラクロスを教わったことがあるという。アクセサリーを見立ててもらい、後にメイクの仕方やファッションも教わった。 「行き詰まったら、学びに行く。そうか、こういう学びもありだな、とスイッチが入って」  美容やファッションなど、自分磨きを始めた。変化の様子を見ていたのが、番組を通して親しくなったスポーツキャスターの陣内貴美子(60)だ。ある日、陣内が誘ったレストランに行くと、小西が客の男性を見て「かっこいいね」と言う。 「それで私が、年を聞いてきてあげようか、と。ずいぶん年下だったので、これはないかな、と思っていたら、ゴルフをきっかけに二人で会うようになっていって」(陣内)  43歳で結婚。その8カ月後、3年半メインキャスターを務めることになる番組「深層NEWS」が始まる。政治、経済、医療などのテーマについて、政治家や文化人など、その道のキーパーソンを招いてニュースを深掘りしていく。しかも1時間の生放送。高度な進行技術が問われた。終了後のスタッフ会議では、容赦ない注意や指摘が飛んだ。ゲストにもっといい質問ができたはず。なぜあのとき、あんな切り返しをしたのか。いいゲストを招いても司会者がダメならどうしようもない……。集中砲火を浴びる日々。苦しかった。会社に行く途中、涙が止まらなくなることもあった。オンエア前にも、顔が紅潮したり、おなかが痛くなったり。だが、医師を頼り、体のメンテナンスを行うことで気持ちも落ち着くようになった。しゃべりを基礎から学ぼうと「日テレ学院」にも通った。その後、47歳で防衛省担当記者になり、半年後に夕方のニュース番組へ。ここからまた、むくむくと学びへの思いが押し寄せてくる。 「私は成長を感じなくなると、自信がなくなったり、焦りが生まれてくることがわかったんです。だから、これはインプットが必要だな、と」  50歳で小西は早稲田大学大学院に入学。テーマに選んだのはジェンダーと政治。討論番組でも、やって来る政治家や専門家は男性ばかりで、小西だけが女性ということが多々あった。政治の世界での男女比もいびつ。こうした問題を体系的に学びたい、ジャーナリズムとしての報道の在り方を考えたいと思った。忙しい合間を縫って講義に通った。長い時間をかけて議論された研究者の深い知見に改めて驚いた。目の前のニュースばかり追いかけてきた視野が一気に広がった。仕事以外の時間のほぼすべてを勉強にあてた。休日もなかった。入学前、ある年上の女性に投げられた言葉が忘れられなかった。「大学院? プロフィールの1行になるだけで何もならないことを今さらやってどうするの」。腹が立った。学びこそが人生を拓く。父の教えを思い出した。 「自分の可能性は誰かに決めつけられるものじゃないですよね。そこに蓋(ふた)をしたくなかった」  大学時代に出会った1冊の本がある。千葉敦子の『若いあなたへ!』。あなたは何にだってなれる。忘れられない言葉が詰まっていた。 「もう十分じゃない。どうしてまたチャレンジするの。そんな声が聞こえてくることがあります。でも、私にはぜんぜん十分じゃないんです。だって、大事なことは今だから。人の輝きって、今、何をしているかにあると思うから」  年齢なんて単なる数字でしかない。それよりも今、一歩を踏み出したとき、目の前に広がる景色を大事にしたい。そこにこそ、人生はあるから。 (文中敬称略)(文・上阪徹) ※AERA 2024年6月24日号
トレジャーハンター語る きっかけは天草四郎伝説「1万円あれば宝探しできます」
トレジャーハンター語る きっかけは天草四郎伝説「1万円あれば宝探しできます」 「家族からの理解も大事です」と語る八重野さん。妻は元同僚で、ともに天草に調査に行った間柄(撮影/編集部・井上有紀子)   「会いたい人に会いに行く」は、その名の通り、AERA編集部員が「会いたい人に会いに行く」企画。今週は50年お宝を探している人に、埋蔵金が気になる記者が会いに行きました。 *  *  *  トレジャーハンターの八重野充弘さんは、埋蔵金や歴史に埋もれたお宝を探している。お宝を探して50年。宝探しって、なんだかワクワクするのはなぜだろう。  八重野さんが宝探しと出合ったのは、26歳の頃。出版社で、雑誌のネタ探しをしていて、天草四郎の伝説を知った。島原の乱を戦った天草四郎が、軍資金を隠したという伝説だ。調べると、幕末に江戸で発見された古文書に、お宝は「三角池に沈められている」と書かれていた。その古文書に登場する地名は、実在していた。これは信憑性がある、と熊本に取材に向かった。だが、三角池は見つからない。残念だったが、記事は完成。宝探しはそこで終わるはずだった。  東京に戻って、2カ月後、忘れた頃に電話が鳴った。 「三角池が見つかったぞ」  取材に協力してくれた友人らが、調査を続けていたのだ。  天草四郎の軍勢が通過した道のそばに、三角形のくぼ地があり、そこに「名もなき小さな池」があった。昔は大きな池で、旅人は湧き水を飲んで一休みしたと言い伝えられていた。軍勢が通った跡で、かつ三角形の池。「もしかしたら」と、今回は東京の同僚たちも呼んで、熊本に行った。  水草を鎌で刈り、黙々とスコップで掘った。スコップの先がガツンと何かに当たると「何かあるぞ」と盛り上がった。だが、収穫はゼロ。  もっと手掛かりはないか、文献を調べ始めた。 「貧しいキリシタン農民が、やむにやまれず起こした一揆といわれていますが、裏があったんじゃないか。一揆の中心は旧領主でキリシタン大名だった有馬晴信と小西行長の家臣たち侍です。幕藩体制が完全に確立してなかった時代、西の外様大名の勢力を結集すれば、反徳川勢力を作れたんじゃないか。キリスト教は身分の格差がない教えです。民衆と支配階級との格差が少ない世界を目指したのかもしれません。クーデターの軍事予算だと考えられなくもない」 八重野充弘(やえの・みつひろ)/1947年、熊本市生まれ。70年、立教大学卒業。学習研究社(当時)、くもん出版に勤務。92年に作家、科学ジャーナリストとして独立。日本トレジャーハンティング・クラブ代表(撮影/編集部・井上有紀子)    宝探しの謎解きをしていると、歴史の一場面が目に浮かぶようになった。  謎解き好きな仲間も集まり、気づけばトレジャーハンター歴は50年。 「1人だったら、ろくなことにならなかったんじゃないかと思います」  大金をつぎこんで1人で宝探しをする人たちもいた。 「10年、20年でことごとく潰れていきました。こんなにお金をかけたのに見つからなかったらどうしようと悲壮感が漂っていました」  宝探しといえば、大型重機で山を掘るイメージがある。 「これまで発掘されたなかで一番深くて1.5メートルで、大抵は50センチ以内で出てきてます」  八重野さんは「1万円あれば宝探しできます」といつも言っているそうだ。スコップなどの掘削道具は数千円でそろう。寄付も受け付けていない。プレッシャーになるからだ。 「金鉱探しとは違うんです」  隠した人は、どんな理由で、お宝を隠さなければならなかったのか。また、いつかこのお宝を役立ててほしいと、どんな願いを込めて隠したのか。隠した人にストーリーがあったはずだ。 「宝が見つかった瞬間は、隠した人の思いがガーンと伝わってきて、何百年前の人とコミュニケーションが成り立つような気がするわけですよ。ロマンを感じますね」  ちなみに、活動を続けられるポイントはもう一つある。 「発掘現場の夜、同じ志の仲間と山で焚き火を囲みながら、酒を飲んだり、山で見つけた山ぶどうを食べたり、インスタントラーメンをすすったりするんです。キャンプみたいなものですが、明日お宝が出るかもしれないキャンプです」 (編集部・井上有紀子) ※AERA 2024年6月24日号

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