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"意味"のない仕事に価値はないのか? 架空のルポライターが追う不思議な仕事たち
"意味"のない仕事に価値はないのか? 架空のルポライターが追う不思議な仕事たち
今年も厚生労働省より、国内のさまざまな分野において卓越した職人を表彰する「現代の名工」の発表が、11月に予定されています。毎年その道の第一人者として、150名の匠が選ばれるこの賞。中には、日本で唯一の技術を継承する職人も登録されており、日本の伝統技術の歴史の深さと職人たちの誇り、そしてその技術を受け継いでいく"意味"を知ることができます。作家・三崎亜記氏の著作『玉磨き』は、そのように日本の職人たちが代々継承してきたような伝統産業や、時代の波に埋もれようとしている仕事を一つずつ、架空のルポライターが取材していくという短編集です。そこに登場する人々の仕事は、一般的なものと多少趣が異なっています。表題作にもなっている『玉磨き』は、日夜を問わず、ただひたすら直径60センチの玉を磨き続けるという不思議な伝統産業のルポルタージュ。玉磨きの技術を受け継ぐ唯一の担い手・高橋家を訪ねた「わたし」は、伝統産業であるにも関わらず生産物が何もなく、完成という概念がない玉磨きの作業を目の当たりにします。作中には、他にもひたすら一人で部品だけを作り続け完成形を見ることのない分業体制や、水底に沈んだ町でたった一人、商店街組合を守り続ける男などが登場しますが、「玉磨き」を含め、それらの仕事には"意味"というものがないのです。では仕事でも人生でも、意味のないことに価値はないのでしょうか。消え去るであろうものや、失われるために存在するような仕事でも、作中を通しそれに従事する人々の想いをくみ取ることで、その答えが見えてくるかもしれません。今月16日よりKDDIが提供するスマートフォン向け電子書籍サービス「ブックパス」では、三崎氏の最新作『イマジナリー・ライフレポート』を独占配信しています。『玉磨き』同様、架空のルポルタージュ形式で物語は進んでいく同作ですが、今回「わたし」が追うのは「仕事」ではなく「人」。三崎氏曰く、同作では「評価が定まってしまった人を別の角度から探るような物語を書いていきたい」とのこと。今回のように書籍の最新作を電子書籍で先行配信するというのは珍しい取り組みになりますが、「電子書籍だからといって執筆スタイルを変えることはしません。自分の書きたいものを書こうと思います」と三崎氏は話します。最新作『イマジナリー・ライフレポート』はブックパスの「読み放題プラン」内で連載。全12回で、6タイトルを前後編で掲載し、2014年12月の終了を予定しています。【関連リンク】【ブックパス】ブックパス with 幻冬舎http://www.bookpass.auone.jp/info/gentousya_fair/pc/index.html
BOOKSTAND 2013/10/22 18:00
男性の2倍 日本人女性に「首こり」が多い理由
男性の2倍 日本人女性に「首こり」が多い理由
パソコンやスマホ、タブレット端末を使う機会が増えた現代人。首こりは時代がもたらした症状らしい(撮影/写真部・慎芝賢)  実は今、肩こりならぬ「首こり」に悩む人が増えているという。特に女性に多いというが、その理由は何なのか。  都内で働く会社員の女性(37)は、2年くらい前から首が重いと感じることが多くなった。 「夜になると、首がどんどん重くなり、痛くなっていくんです」  通勤中はスマートフォン(スマホ)を見ていることが多い。仕事ではノートパソコンを使い、姿勢は前かがみになりがちだ。長時間の会議でストレスがかかると、首はよりしんどくなる。 「自分でアロマオイルでマッサージするとよくなります。ですが効果は一時的なんです」  あまりに首が重く、休日でも何もする気が起きないこともある。それでも仕事に行かなければならず、じっくり休む時間はない。  つらい首筋のこりや首が重く感じるといった症状で悩む人は近年増えている。いわゆる「首こり」だ。日本人は西洋人に比べて頭が大きい傾向がある。その頭を支えるために首に負担がかかる。しかも女性は一般に、男性に比べて首が細く、より首が疲労してしまう。  長年「首こり」に悩まされる人を診察し『首こりは万病のもと』などの著書がある東京脳神経センター(東京都港区)理事長の松井孝嘉医師は言う。 「年齢は20~40代の働き盛りが多く、女性は男性の2倍程度」  近年増えてきた要因もある。 「携帯とパソコンです」  医師らは口を揃える。携帯電話を操作する際、つい下を向くことが多い。パソコンもノート型が増え、視線はモニターやキーボードがある下に向きがちになる。昔ながらの読書やメモ取りなども同じように下を向くが、デジタル機器だとより長い時間、同じ姿勢をとって集中しがち。スマホが普及してから、さらにその傾向が顕著になった。 「首こり」の正体は何なのか。30年以上前から「首こり」という言葉を使い続けてきた松井医師は、次のように説明する。 「頭の重さは約6キロで、男性用のボウリングの球ぐらいの重さ。下向きの姿勢は、まっすぐな状態と比べて首にかかる負担が約3倍。下向きで首の筋肉を酷使すると、首の後ろの筋肉が疲労し、酷使し続けると筋肉が硬くなってしまう。これが首こりです」  首の構造は複雑だ。首の周辺には肩と首に関係する僧帽筋や、頭部を支える頭板状筋など役割が異なるさまざまな筋肉がある。首こりにも、肩こりを併発するタイプ、頭痛を併発するタイプなどさまざまだ。単純にメカニズムを解説するのは難しい。 ※AERA 2013年10月21日号
働く女性肩こり
AERA 2013/10/21 11:30
アノヒトの読書遍歴 今泉泰幸さん(後篇)
アノヒトの読書遍歴 今泉泰幸さん(後篇)
(写真:WEB本の雑誌) ロックバンド『スキップカウズ』のボーカルとして20年以上活躍する今泉泰幸さん。前編では、読書好きになったきっかけをお話いただきました。後編では、好きな本について更に語っていただきます!心霊写真、古本屋、アルコール中毒――シビれます――怪談ものがお好きだとか?僕は中岡俊哉先生の心霊写真が学級文庫にあった時代の人間ですから、それを見てオカルトに興味を持ちました。だんだん成長していろいろモノがわかってきて「ゾクッとさせるっていいなっ」て思って。そういうのが好きなんですよね。なかなかないんですけど、作家さんの書く自分の体験みたいなのが一番好きです。例えば遠藤周作さんが昔書いた『怪奇小説集』っていうのがあって、あれはシビれましたね。遠藤さんが本当に体験した、不思議なことみたいなのを書いていて。あの時代の人たちの、フィクションかノンフィクションか分からない感じがたまらなく好きです。多少、創作入ったっていいんですよ。話って盛ったほうが面白いんだから。だけどちょっと自分のエッセンスが入っていて、みたいな感じのものがすごく好きだったなぁ。――ブログを拝見すると、古本屋巡りもされていますね?普通にぶらぶら見ているだけでも楽しいですね。5時間ぐらいいれます。あと、すごくいいと言われているのになかなか売ってなかったりする本とか、そういうのを見つけた時に嬉しい。『湯殿山麓呪い村』で有名な山村正夫さんというミステリー作家の『断頭台』っていう、当時の角川文庫から出た短編集があるんですよ。これをずっと探していて、見つけたときはほんとにガッツポーズするぐらいの嬉しさでしたね。――最近古本屋で買った本は何ですか?最近は麻耶雄嵩さんの『隻眼の少女』っていう本。アンチミステリーって言われているんですけど、発想がぶっとんでいて。本格ミステリ大賞を獲って、日本推理作家協会賞も獲ったっていうダブル受賞した本ですね。――ブックガイドも好きでよく読むそうですが、そうするとまた買いたい本がどんどん増えていきません?そう。キリがないんですよ(笑)。いい加減にしないとなって思っているんですけど。でもほかに道楽あんまりないので。僕、物欲がないんです、最新の何かが欲しいとか。だから、それが唯一の趣味かなっていう。ま、本屋に行く、本を買う、で、酒飲むとか、それぐらいしか趣味がないので。まあいいかなと。――最後に、バンドを20年以上続けてきて、これまでに励まされた本や影響された本を教えてください。その都度ありますね。最近読んだ本だと、映画監督の三池崇史さんが書いた『監督中毒』。自分たちは請け負い仕事をやっているんだと。芸術をつくるというよりもとりあえずその場にあるものを面白くする、そして監督が撮りたいものを自分がいかに実行するかってことを助監督のスタイルとして書いていて。監督を請け負う時も、ポリシーがないっていうんですよ。自分はこれを撮りたいとか、そういうのはないと。だけど、撮ってくれって依頼を受けたからにはそれを精一杯面白くすると。だから、自分を「職業:監督」だって言うの。芸術家ぶらないんですよ。それすげえなって。あと、中島らもさんの『今夜、すべてのバーで』。アル中について書いてあって、読んだら自分もアル中に憧れるようになっちゃって。アル中の人の本ばっかり読んでいた時期があった(笑)。――バーチャルアル中みたいな(笑)。本当にそう。「かっこいい!」って言ってアル中の本ばっかり読んで(笑)。文学者や作家とかもそうですよ、織田作之助がアル中だったよなとか、そういう理由でその人の小説を読んだり。アル中、面白いですよ。突拍子なくて。≪プロフィール≫今泉 泰幸(いまいずみ やすゆき)1971年7月12日生まれ。千葉県出身。1990年にロックバンド「スキップカウズ」にボーカルとして加入。20年以上活動中。ニックネームは「イマヤス」。現在bayfmのON8にてイントロDJ、MOZAIKU NIGHT~No.1 Music Factory~の火曜日メインパーソナリティ、青森放送の土曜ワラッターの3本にレギュラー出演中。
BOOKSTAND 2013/10/05 11:00
訪問医が話す「後悔しない看取り」とは
訪問医が話す「後悔しない看取り」とは
ジョイステージ八王子では24時間態勢で看護師も常駐。訪問診療の担当医と入居者の状態を情報共有する(撮影協力/ジョイステージ八王子、撮影/写真部・山本友来) のみ込みが困難な入居者には、介護スタッフが食事をサポートする(撮影協力/ジョイステージ八王子、撮影/写真部・山本友来)  人生の死に場所に老人ホームを選ぶ高齢者が増え、それに取り組む有料老人ホームも増えている。介護サービスの質だけでなく、連携先の医療機関によっても死のありようが大きく変わろうとしている。介護・医療ジャーナリストの長岡美代氏が実情に迫った。 *  *  *  介護職員が24時間常駐する介護付き有料老人ホームには元気なシニアを入居対象とするところもあるが、「終の住処」を期待する人も多いだけに、看取りへの対応は欠かせなくなっている。  東京都八王子市で定員260人の規模を誇る介護付き有料老人ホーム「ジョイステージ八王子」もその一つで、開設から18年目を迎え、看取りに取り組む機会が増えてきた。昨年までの5年間で65人が亡くなり、その約8割をホームで見送った。 「一定の介護が必要になったら自立棟から介護棟に移ってもらいますが、その時点で改めて最後を迎えたい場所をはじめ、病状が急変した時の救急搬送や延命措置の希望などを書面で確認しています。入居時などにも伺いますが、元気なうちはイメージしにくいようです。なかにはかかりつけの大学病院での最後を希望される方もいます。ただ、ほとんどの入居者は住み慣れたホームでの看取りを求めておられます」(舛田典勇代表)  同ホームにはテナントとして「松本クリニック」が併設され、病状の急変が見込まれる要介護者には月2回の訪問診療を提供するほか、夜間早朝を問わず緊急の往診にも対応してもらえる。  終末期でも病状によって救急搬送する場合はあるが、高齢患者は救急隊が搬送先の病院を探すのに難渋することも多い。だが、クリニックが事前に病院に連絡を入れ、受け入れ先を確保してくれるためホーム側は安心できるという。  院長の松本清彦医師は、「訪問医療の仕事の大半は患者・家族との信頼関係づくりにあります。そのためにも緊急時に往診することが不可欠です。いざという時に来てくれなければ信用されないし、看取りも断念してしまうでしょう。その点は在宅でも老人ホームでも共通です」と話す。  特に終末期は家族との面談に時間をかけ、治療方針に対する意向を丁寧に確認するよう心がけているのだと言う。 「延命措置をするかしかないかを決める家族の責任は重い。迷って、すぐに決められないのが一般的です。時には『自分だったらこうします』と言って、決断の参考にしてもらうこともあります。誰しも後悔はしたくありません。病状に応じて、その時々にできる治療の選択肢を伝えるとともに、『気が変わったら、いつでも遠慮なく言ってください』と話しています」(松本医師) ※週刊朝日 2013年10月4日号
介護を考える終活
週刊朝日 2013/10/01 07:00
最終回の喪失感「あまちゃんロス」をどう乗り越えるか
最終回の喪失感「あまちゃんロス」をどう乗り越えるか
Amazonで「あまちゃん」オリジナル・サウンドトラックを購入する Amazonで「あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1」を購入する Amazonで「あまちゃん 完全版 DVD-BOX1」を購入する  じぇじぇ!「あまちゃん」がついに今週、最終回を迎える。多くのファンが「あまちゃんロス」に陥るのは必至。どう克服したらいいのか。 「何を心のよりどころにしていけばいいのか、責任をとってほしい」と嘆くのは、書評家の豊崎由美さんだ。毎週、1週間分を録画して、週末の夜、トイレを済ませ、バーボンのグラスを片手にじっくり楽しむ。 「見ているうちに自分の中で『あまちゃん』が高まってくる。なくなるのかと思うと…」  思えば初回のオープニングから引き込まれていた。大友良英作のテーマ曲が流れ、三陸の美しい海が映る。 「津波の真っ黒い海を見てしまったみんなに、このきれいな海を見せたかったんだな」と思うと涙がこぼれた。宮藤官九郎の脚本にも魅せられた。 「すごくアバンギャルドなことのできる人が、おじいちゃん、おばあちゃん、小学生にもわかるドラマにしている」  1980年代アイドルなどの小ネタやサブカルネタを満載しつつ、わからない人も気にせず見られる配慮がある。さらに豊崎さんが心を奪われたのは、主人公の天野アキを演じる能年玲奈だ。 「52年間生きてきて、芸能人でいちばん好き。いつも水がたまっているような目、ちょっとアヒル口なのもかわいい。顔にいやなものが出ていないでしょう。見ているだけで、自分がニタニタ笑っている。彼女がどれだけの人を幸せにしていることか」  能年が祖母の夏ばっぱの年になるまで「あまちゃん」が続いてほしいと願っているが、現実には今週で終わる。 「飼い猫が死んでもペットロスまでいったことはない。人生で初めてのロス経験だから、自分がどうなるか想像がつかないんですよ。やる気を失って仕事ができなくなるのが心配です」  ドラマ終了後のあまロスについて、精神科医の春日武彦さんにきいてみると、 「確かにさびしい、つまらないというのはあるだろうけど、ドラマが完結する満足感、充足感はあるはずだし、終わって残念ということをみんなと共有できますからね」  本当につらいのは、家族やペットのように取り返しがつかないものを失って、しかも自分だけで抱え込まないといけない孤独感があるときだという。 「一時的にがっくりきても、あとになって振り返れば、話のタネになる。五輪終了後にくる祭りのあとのさびしさと同じで、それも楽しみのうちなんです」 ※AERA 2013年9月30日号
あまちゃん
AERA 2013/09/25 07:00
わたせせいぞうさん 漫画やイラストのモチーフとしての撮影
わたせせいぞうさん 漫画やイラストのモチーフとしての撮影
カメラはいずれも作品の取材のため、その都度購入してきた。後列右から世界初のAF一眼レフ、ミノルタα-7000。それにキヤノンEOS1000S、EOS Kiss、アサヒペンタックスSP。前列が現在メーンで使っているEOS Kiss Digital X、人物の服のシワなど確認用のポラロイドOne600 Pro、フジSLIM ACE。手前はコンタックスT2、T3にソニーサイバーショットDSC-T1 古代ローマ時代の遺跡が残る南仏ニームのカフェ。プラタナスの上に伸びる枝と葉の緑が印象的だ 雲にはいろんな表情があるので撮るのが好きだという。自宅のベランダから撮影。写真はデジカメでも全部プリントにして、テーマごとにファイルしてある 京都知恩院の上から撮られた桜と参道、瓦屋根が美しい。これらの写真はすべて作品に生かされる。縦の構図が多いのは、写真からポスターに描くことが多いからだという ――最初に使ったカメラは?  高校1年のとき、入学祝いに親が買ってくれた一眼レフです。機種は覚えてませんが、リコーの35ミリ。初めて撮ったのは、春の雲でした。2台目は1974年に小学館ビッグコミック賞の受賞インタビューのとき、カメラマンにおすすめの機種を聞いたら、アサヒペンタックスSPがいいと。さっそく賞金で買いました。ぼくは実際にモチーフを見て描いているので取材用のカメラが必需品。仕事道具ですね。3台目は、ミノルタα-7000。初めてニューヨークに行くことになり、急遽、望遠レンズとともに買いました。練習する暇がなく、飛行機の中で説明書を読んだのを覚えています。エンパイアステートビルからの夜景が美しくてね。でも三脚を持っていなかったから、その夜景は全部ブレてしまったんです。(笑)  いまはEOS KissデジタルXが中心。デジタルはなんとなく躊躇していたんですが、3年ほど前から使っています。実際使ってみると、ものすごく便利。速いペースで何枚も撮れるし、失敗したらどんどん消していける。これを買う前は取材のたびに大量のフィルムを用意して撮影中に何度も入れ替えていましたから、非常に楽になった。 ――プライベートの旅では?  ぼくの場合、旅行イコール取材なんです。絵に使いたいモチーフはすべて押さえておきたい。イメージだけでは絶対に描けないんです。たとえば雲はまったく同じ形のものはないし、春と夏では明らかに違う。想像で描いてしまうと存在感のない雲になってしまう。  人物の場合は事務所のスタッフをモデルにして、ポラロイドで撮っています。服のシワやラインを確認するためですね。ジャケットのシワの出方も、夏場のコットンと冬のウールでは全然違う。デジカメで撮ってプリントアウトするより、早く見られるので便利なんです。面倒じゃないかと聞かれることもありますが、写真に撮ってから描くのはぼくのこだわり。なぜだろうと考えていくと、子どものころの体験に行き着きますね。絵を習っていた家庭教師が1個のりんごを何度も描かせるんです。よく見て描くんだよと言って、ほかのものを描かせてくれない。不満に思いつつも、そのうちりんごの表面に反射したわずかな光や影に気づいた。それを描いたとき、初めてOKをもらいました。徹底的に観察する目を、そのとき教わったんですね。 ――撮影時に心がけていることは?  絵にしたい対象を見つけたら、とにかく無差別に撮ります。それも単純に平坦に撮るんじゃなくて、遠近感のあるカメラアングルを意識しています。建物や木が落とす影の形も時間帯によって変わりますから。見た瞬間、引き込まれる絵ってあるでしょう。写真も同じだと思うので、作品にそのまま反映できるように撮るのが理想。人間って、目で見ただけではなかなか記憶に残らないけど、カメラはそこにあるものをそのまま記録してくれる。その場で気づかなかったものに、後で気づかされることも多いんです。  先日、「菜(さい)~ふたたび~」という作品のために芸妓さんの家を取材させてもらいました。部屋の隅々まで歩き回って、2日で500枚は撮ったかな(笑)。間取りを記録しておくという目的だったんですが、写り込んだ何げないものから思いがけないヒントをもらいました。冷蔵庫に張ってある紙、火鉢、三面鏡、神社のお守り……現場ではささいなものに感じたんだけど、写真で改めて見返してみると主人公の行動がふっと浮かんできて物語のイメージが次々とわいてくる。「物がモノを言う時」があるんですね。だからぼくは、好きな音楽を聴きながら取材で撮ってきた写真をながめる作業がとても楽しいんですよ。 ※このインタビューは「アサヒカメラ 2008年6月号」に掲載されたものです
2013/09/24 00:00
松任谷正隆さん ライカに勝ったと思えるリコーGRデジタル
松任谷正隆さん ライカに勝ったと思えるリコーGRデジタル
右から叔父から譲り受けたライカⅢに、1970年代まではカメラにオーラがあったという松任谷さんお気に入りのアサヒペンタックスSP。そして初めてライカに勝った思えるデジタルカメラというリコーGRデジタルには、ワイドコンバージョンが付けられている。ほかにライカⅢf、M3、M6などライカを中心に30台ほど所有している メカニズムが好きで、カメラのことは一日中話していても飽きないが、撮るのは苦手だという。この日は連載している雑誌「MEN'S EX」(世界文化社)の取材中に逆にカメラマンを撮影した 上の写真と同じく取材されているとき、自分の足元を撮影。軽快な操作と「デジタルっぽくない微妙な味」というリコーGRデジタルの描写力が気に入っている ――カメラは、いつごろから好きだったんですか。  小学生の高学年くらいからですね。遠足に親父からお下がりでもらったミノルタのオートコードを首からぶら下げていったくらいです。それから学校の行き帰りにわざわざ自由が丘駅で降りて、「一誠堂」というカメラ店のショーウインドーを毎日、眺めていました。棚に並んでいた順番まで覚えています。一番上が王様のニコン、次がキヤノン7、そしてペンタックスSPでした。最初に買ってもらったカメラはフジペットだったんですが、やっぱり一眼レフはミラーが上下するときの音が特徴的じゃないですか、それがいいんですよ。しかもシャッターを切るとミラーが瞬きするのが見える。こいつがなんとも……(笑)。とくにペンタックスはデザインに憧れていました。ぼくが子どものころ「原子力潜水艦シービュー号」というテレビドラマがあって、それが唯一、旭光学提供の番組だったんです。ドラマよりもCMが見たかった。「ペンタックス、ペンタックス。望遠だよ、望遠だよ」というセリフは今でもよく覚えている。  だから中学1年生のときにペンタックスSVを買って帰ったときは、「あり得ないもの買ってしまった」という興奮で、その夜は眠れなかったですね。でも、そのSVは親父に取り上げられてしまったんですよ。 ――それはどうして?  じつは……SVを買うために祖父のお金をくすねていたのがバレてしまって(笑)。祖父は家作を持っていて、家賃が当時は現金書留で送られてきたんです。そのお金を抜き取って、封筒はハサミで切り刻んでトイレに流して、自分では「完全犯罪だ」と思っていたんですけれど、寝言でうっかり口を滑らせてしまったみたいです(笑)。取り上げられたSVは高校生のときに返してもらえました。  そのあと叔父の遺品でライカをバルナック型からM型まで、10台くらい譲り受けました。叔父はゴルフ場を経営していて、そのコースの写真などをライカで撮っていたのをよく覚えています。とくにこのライカⅢは叔父が初めて買ったライカなので、ぼくも思い入れが深いですね。  いま持っているカメラは30台くらい。コレクターじゃないのでレアモデルとかじゃなく、むかし自分が憧れていたカメラばかりです。カメラにオーラがあったのが1970年代までだと思うんですよ。ポジションも全然違った。70年代からこっちは単なる「写真を撮る道具」。それ以前はカメラは車と同じように別の意味を持っていて、ステータスとか、カメラそのものが偉そうな雰囲気がありましたよ。 ――それが最近になって、リコーGRデジタルを買われたのはなぜでしょうか?  こいつは、ぼくの中で初めてライカに勝ったカメラなんです。最初はライカM8が気になっていました。でも、友人がGRデジタルで撮った猫の写真を見て感動したんです。まるでアナログカメラのような奥行き感と、デジタルならではの硬さ、くっきり感の両方を持っている。ライカのよさってコンパクトなボディーでしょ。するとあれだけの機能をよりコンパクトなボディーに収めるというのは、大きなM8よりGRデジタルのほうがむしろライカ的な発想に近いんじゃないかと思いました。  ぼくが音楽の世界でアナログからデジタルに移行したのは、81年のアルバム「昨晩お会いしましょう」からなんです。そのときはアナログで作っていた音と全く違うイメージで愕然としましたよ。まるで大きなお皿に料理がチョコッと載っているスカスカな感じで、この隙間をどうやって埋めようかと。それ以来、ぼくの中では「アナログとデジタルは別もの」という感覚ができていたんです。カメラについても同じ。でもそんな諦めもGRデジタルと出合って変わりました。 ――写真はどんなものを撮るのですか?  モーターショーの取材では、GRデジタルにワイドコンバージョンレンズを付けて運転席からインテリアまでの車内を撮ります。でも音楽の仕事ではなかなか撮らないですね。コンサートの準備をしているときは自分が制作のど真ん中にいるわけですから、メーキングの写真なんか撮っている余裕はないですよ。やっぱり写真は、自分がどこか傍観者的な立場のときですね。  ライカの叔父もそうだったんですけど、ぼくは人にレンズを向けるのが苦手なんです。人を撮るのって、撮られる側と関係性を作って、その人の領域に入っていかなくちゃけない。そのエネルギーたるや大変なものでしょう。そんなの簡単に撮れないって。だからぼくにとってカメラとはもっぱら仕事の気分転換にいじるためのもので、撮るのは二の次。  かみさん(松任谷由実)ですか? たまーに撮るときもありますよ、カメラがいじりたいときに(笑)。カメラは家の棚に並んでいるんだけれど、「趣味がいっぱいあっていいわね」と言ってくれてます。(笑) ※このインタビューは「アサヒカメラ 2008年2月号」に掲載されたものです
2013/09/24 00:00
東大、特別休学で50万円支給 新しいプログラム
東大、特別休学で50万円支給 新しいプログラム
 国内最難関の大学・東京大学が新しい取り組みを始め、注目されている。  釜石駅(岩手県)から車で5、6分の釜石市役所で、今年東京大学文科二類に入学したばかりの田久保彰太さん(19)は、毎日インターンシップ生として働いている。主な担当は、地域振興事業「釜援隊(かまえんたい)」の仕事だ。  釜石市は東日本大震災で大きな津波に襲われ、死者・行方不明者あわせて1千人以上の被害が出た。復興に向けて動いている様々な事業のひとつが「釜援隊」で、自治体、企業、NPOなど関係者の調整を主にしている。震災後休止されていた祭り「釜石よいさ」の運営に携わったり、仮設住宅の入居者の声を拾い上げて行政に生かしたり、業務内容は多岐にわたる。  東大では今年の新入生のうち希望者を対象に1年間の特別休学期間を与え、大学以外の場で社会体験活動を行う「FLYProgram」を導入した。参加者には必要に応じて最大50万円の支援金が支給される。それを知った田久保さんは、すぐに釜石市の嶋田賢和副市長にメールを送った。実は、嶋田副市長は東京の麻布高校の先輩。OBとして講演に来たときに高校3年だった田久保さんは感銘をうけ、連絡先を交換していたのだ。副市長からはすぐに連絡があり、とんとん拍子に市役所でのインターンが決まった。学内の手続きなどを経て、6月から釜石での生活が始まった。  そもそも、東大はどうしてこのような制度を導入したのか。プログラムの担当をしている東大の藤井輝夫教授は言う。 「大学に入ったあとの学習には、入る前の学習とは違う問題意識が必要。海外に出たり多くの人に触れたりすることで、やりたいことが何かを考えるきっかけになればよいと考えています。学校での勉強以外の経験を通して、受験時の発想から脱却し、世界に通用する人材になってほしいのです」  プログラムでは東京の大学では得がたい経験ができることが伝わってくる。しかし、彼らの同級生はいま駒場キャンパスで授業を受け、合コンに行ったりサークル活動をしたりもしている。1年のブランクに焦りはないのだろうか。  田久保さんはこう話す。 「釜石駅周辺には大学も専門学校もないので、同年代の友人ができず、寂しいことはありますよ。でも携帯の電波がないところに寝泊まりし、ふと見上げた星がきれいだったり、近所に住むおばあちゃんが声をかけてくれたり、という経験はなかなかできないと思うんです」  夏休みを使って市役所に東京から別の東大生が短期インターンに来たときは、仕事の割り振りをしたり、夜一緒に宿泊したり、最終報告のスライド作成を手伝ったりと「先輩」として仕事を教え、サポートする立場にもなった。 「もし春から普通の学生になっていたら、もっと漫然と過ごしていた気がします。ここで多様なバックグラウンドの人と出会って刺激をうけ、自分の将来を考える機会も増えました。学びたいことをしっかり吟味できる1年になりそうです」 ※AERA 2013年9月9日号
東大
AERA 2013/09/08 07:00
夜逃げ、火事…ダイソー社長の悲惨な過去 恐怖心で成功へ
夜逃げ、火事…ダイソー社長の悲惨な過去 恐怖心で成功へ
ダイソーの矢野博丈社長。夜逃げ同然で上京し職を転々とするも、一代でダイソーを築き上げた。座右の銘は「分相応」。「ネガティブすぎる社長」としても有名だ(撮影/村上宗一郎)  自信がない。いつも後悔ばかりして、くよくよ悩んでいる。そんな、仕事ではマイナスに働きそうな「ネガティブ思考」だが、実はこれにより成功を収めている著名人もいる。 「破滅の哲学」で、一代で売上高3500億円企業を築き上げたのは、100円ショップ最大手のダイソーを展開する「大創産業」(本社・広島県東広島市)の社長、矢野博丈(ひろたけ)さん(70)だ。  1972年に大創産業の前身となる矢野商店を創業。87年に「100円SHOPダイソー」の店舗展開を開始。今や国内に約2700店舗、海外25カ国・地域に700店舗近くを展開するまでになった。  時代の寵児ながら、「わし自身、何もないんですよ、中身が」「物事は、ずっとうまくいくことはありえないんですよ」と、否定的な言葉を繰り返し、「人間でも会社でも、いつかは壊れるようにできとるんです」と、「衰亡論」まで唱える。  だが、この「哲学」が矢野さんの原動力でもある。転職9回、夜逃げ1回、火事1回──。矢野さんは、人生でこれだけ経験している。  大学を卒業後、妻の実家の広島でハマチの養殖を手がけたが事業に行き詰まり、借金を抱え妻と幼子を連れ夜逃げ。東京に出ると、ちり紙交換や百科事典のセールスマンなど職を転々としたがどれもうまくいかない。70年代初め、義兄のボウリング場を手伝うため広島に戻った。その時に夫婦で始めた副業が移動販売の雑貨商「矢野商店」だった。が、商品の保管倉庫が火事になり自宅も半焼。商売ができなくなって生活にも困り、広島市内のスーパーに移動店舗のコーナーを持たせてくれと頼んだのが、今日の発展につながった。 「だから、物事には発生があって成長があり、いつかは衰退するという哲学を持っとるんよ」  しかし、その裏で「いつつぶれるかわからない」という恐怖心を持ち続け、食べるために必死にしがみついた。    70年代後半の第2次オイルショック後の狂乱物価の時には同業者は次々と撤退していったが、「能力がないけえ」と仕方なしに目の前の仕事を一生懸命こなしたという。 「ネガティブというのはようわからん。だけど、悪い流れにのみ込まれんよう、いつも恐れおののいておらんといけんのです」 ※AERA  2013年8月26日号
仕事
AERA 2013/08/31 11:30
「半沢直樹」見ている率トップ1は派遣・アルバイト&主婦
「半沢直樹」見ている率トップ1は派遣・アルバイト&主婦
 NHK連続テレビ小説「あまちゃん」超えを果たし、今年の連続ドラマ最高視聴率を記録したのがTBS系列の日曜劇場「半沢直樹」だ。ともに視聴者の「元気の源」になる作品。本誌は20歳以上の500人にウェブアンケートを実施した。 「うまくいかない状況でも、アキちゃんは明るく挑戦する。そして彼女の周りに支える人たちの輪ができる。自分の行き詰まっている日々を忘れられます」  都内在住の40代主婦は、すっかり「あまちゃん」にハマっている。  一方で「半沢直樹」を放送するTBSの宣伝部には、「日曜の夜が憂鬱だったけど、『半沢直樹』のおかげで楽しみになった」との会社員の声が寄せられているという。 視聴者はどんなふうに両作品から元気を受け取っているのだろうか。7月29日、インターネット調査会社ミクシィ・リサーチの協力を得て、「『あまちゃん』と『半沢直樹』を見たことがありますか?」という質問に加え、職業(サラリーマンについては役職も)や両作品に元気をもらっている理由(自由記述)などに関して調査した。回答したのは男性308人、女性192人。年代では40代が35.4%で最多だった。 「あま」を見たことがある人は38.6%、「半沢」は38.4%で、調査時点で3回しか放送されてなかった「半沢」の強さが光る。年代別にみると、30代、40代の働き盛りで「半沢」が強く、50代、60代以上になると「あま」が勝る。  また「半沢」を見ている女性は、既婚者が未婚者を17.2ポイントも上回る。「半沢」にハマったご主人の影響で、一緒に見ているのだろうか。  地域別に見ると、両方見ている率が最多だったのは四国で36.4%。最少だったのが北海道・東北の9.3%。「あま」だけ見ている率は北海道・東北の34.9%が断トツで、地元が舞台のドラマに注目している様子が垣間見られる。  どちらかを見ている人に 限定して職業を尋ねると、両方見ている率は自営業の50%で最も高かった。「半沢」を見ている率は派遣・アルバイトと主婦が71.4%でトップに並んだ。回答者の声を拾うと、「『あまちゃん』を仕事前に見ると、楽しい感情そのままで仕事に入れる」(63歳・男性、自営業)、「堺雅人さんの演じる半沢直樹は、苦境に立たされても必ず活路を見いだして逆転していく。あの姿に憧れる」(50歳・男性、サラリーマン〈係長・主任クラス〉)  両方見ている人では、「どちらも主人公が逆境に立ち向かうところに感銘する」(67歳・男性、サラリーマン〈一般社員〉)という声があった。  NHKの訓覇(くるべ)圭プロデューサーは「あまちゃん」の発する元気のもとについて、「脚本の宮藤官九郎さんと一緒にやれたことが肝になっています。笑えるかどうかが大切なポイントです」と語る。クドカンの笑いはエッジが立ち、毒気の強いものが多いが、今回は朝から視聴者の目に触れるので、「笑いの質と量」に心を砕いたという。 「朝からトゲのある笑いが続くと少しキツいでしょ? 全体のバランスをみて、誰に笑いどころを演じさせるか、にもこだわりました」(訓覇さん)  一方、TBSの伊與田(いよだ)英徳プロデューサーが「半沢直樹」を制作する上で大切にしたのは「爽快感」だ。 「日曜の夜は翌日からの仕事に備える特別な時間。明日も頑張るぞ、という爽快な気分になれるような作品を目指しています」  TBSの日曜劇場で、2話目の視聴率が初回を上回るのは10年ぶりという。伊與田さんは驚きつつ、「よい原作とキャスティング、よい演出や音楽などの化学反応が起きたかな」と好調の要因を分析する。主人公の「倍返しだ!」との決めゼリフに爽快感を感じている人も多い。 ※週刊朝日  2013年8月16・23日号
あまちゃんドラマ半沢直樹
週刊朝日 2013/08/08 11:30
夢枕獏さん ネーチャーフォトの革命児、木原和人との出会い
夢枕獏さん ネーチャーフォトの革命児、木原和人との出会い
学生時代からニコン党という夢枕さん。右からニコンF4にレンズは35~70ミリF3.5、ニコンF3とマイクロ105ミリF4。日本はもちろん、ヒマラヤやチベットなどハードな旅に同行した愛機である 木原和人さんの影響を受けたという花の接写。「レンズは光をブレンドするものだ」というように、ボケ味を生かして混じり合った赤がきれいだ 朝日に輝くヒマラヤ山脈アンナプルナ南峰(7219メートル)。ネパール側、標高約5000メートルからニコンF4・200ミリレンズで撮影 ――カメラはいつから  昆虫が好きで、中学に入ったころ、父親が持っていたアイレス35で蝶(ちょう)やカブトムシなどを撮影したのが最初です。寄った写真を撮りたかったけど、アイレスのレンズでは無理。不満な日々が続いていました。高校時代に写真部の暗室を借りて現像を始めたら、寄れたんです(笑)。要はトリミングですね。  大学に入ってからは、ニコマートFTNと二眼レフのマミヤC330がメーンでした。神奈川県小田原市のミユキカメラのご主人がニコンSを持っていて、しきりにニコンをすすめるんです。ニコンFも発売されていたけど高価で手が出ない。レンズは同じニコンだから撮れる写真も変わらないだろうと思って決めました(笑)。23歳のころ、この2台を持ってヒマラヤにも行きましたよ。山が好きでヒマラヤから帰ってもしばらく霧ヶ峰の炉辺人(ロベンド)ヒュッテに入り浸っていましたね。  そこで革命的な出会いがあった。木原和人さんと出会うことで、ぼくの写真が変わった。それまではモノクロばかり、カラーはワンポイントであとはブルーか茶の濃淡といった墨絵のような感じに仕上げていたんですが、ある夜、酒を飲んでいると木原さんに「こんなに花がきれいなのに、何で赤を真っ赤に撮ってあげないんだ。みんなが驚くような赤を撮ればいいじゃないか」と言われました。それで、カラーリバーサルで撮るようになった。 ――ネーチャーフォトの第一人者で、1987年に40歳で急逝した木原和人さんの影響とは  レンズとは何かというのが、この時期にわかったんです。レンズとはピントを合わせる装置ではなく、光をブレンドするシステムだと。赤でもいろんなグラデーションがありますが、その赤をわざとボカしてブレンドすることによって花の中にスープのように光が溜(た)まって、こぼれてくるような感じに撮れる。木原さんは言葉にしていないけど、光をブレンドするということを最初に意識してやった写真家だと思う。 ――お気に入りの光は?  自然光です。ぼくの仕事部屋には曇りガラス越しにいい光が入ってくる。直射日光だと強すぎてどこかに飛ぶところが出てしまうけど、半透過光ならその心配もない。小説を書きながら原稿用紙を下に置いて反射させて撮ったこともあります。(笑)  花とわかるのがいやなんです。基本的に花びらの外のラインがフレームに出ないようにしています。等倍以上の接写になるのでピントがむずかしいけど、ほかは全部ボケてもいいが花粉1個にでも合わせたい(笑)。当時のマクロレンズは暗くてスローシャッターになるし、人間の体は絶対に止まらないからブレないように座布団を2枚重ねた上に乗り、セルフタイマーで撮っていました。 ――プロ並みですね  木原さんとは何度か一緒に撮影に行っています。このままいくと、プロの写真家になっちゃうなという実感もありました。ヤバい。引き返せないぞと。「ああ、きれい」とか言って撮っているうちはまだいいんですが、プロはテーマ性が必要。小説を書いていると、プロがどのくらいエネルギーを消耗するか、どこまでしなくてはいけないのかがわかります。これは地獄だなと思って、意識的に踏み出さないようにしました。93年にチベットへニコンF4を持っていったのを最後に、それからぼくの愛機は「レンズ付きフィルム」。(笑)  そして今年の5月、タクラマカン砂漠に久しぶりにニコンF4を持ち出しましたが、カメラの筋肉が戻りませんね。小説を書くときと撮影するときとでは、使う脳が違う。変なところで妥協してシャッターを押している。ちょっと悔しいよね。来年、ニコンF3かF4でまた撮りに行きたいですね。 ※このインタビューは「アサヒカメラ 2005年12月号」に掲載されたものです
2013/07/26 00:00
最後のお願いは「秋葉原でやりたい」 安倍首相の“選挙ハイ”
最後のお願いは「秋葉原でやりたい」 安倍首相の“選挙ハイ”
 与党が半数を超える76議席を獲得。参院選で圧勝して、ようやくねじれが解消した。安倍晋三首相(58)の第一声は「たくさんの国民の皆さまに『政治を前に進めていけ』との大きな声をいただきました」だった。  7月21日夜、東京・永田町の自民党本部。テレビ局の中継インタビューに答える安倍首相には、過去に主役を務めた国政選挙とは“異なる次元”の余裕があった。  政権奪還を果たした昨年12月の衆院選は、笑みはなく、終始緊張感を漂わせた。年金や閣僚の失言で逆風が吹き荒れた6年前の参院選では、37議席にとどまった責任を報道陣に問われると、「新しい国づくりはスタートしたばかりだ」と必死に繰り返した。このときの選挙では、午後9時ごろになると党幹部が遊説先から沈痛な面持ちで本部に集まり、頻繁に見通しのない選対会議を開いた。  今回の参院選で、選対会議が開かれたのはわずかに1度。選挙を取り仕切る執行部の一人は、「こんなのは戦(いくさ)じゃない。票の奪い合いにすらなっていない」と話し、またある候補者は「関心は自民党の他の候補者と比較して、得票率でどれだけ上回れるかだった」と振り返った。  自民党の勝利が早くから見えていたこともあり、党本部が各都道府県連に対し、選挙公約集の追加希望があれば申し出てほしいと声掛けしても、返答はなし。地元に届いた公約集も、選挙事務所にうずたかく積まれたまま。政治熱の低さを示すように、選挙区の投票率は戦後3番目に低い52.61%だった。  自民党の選挙戦を危機管理の面から裏支えするコミュニケーション戦略チーム(コミ戦)も、今回は開店休業。加藤勝信官房副長官(57)や、候補者でもある世耕弘成官房副長官(50)も時折参加して各種分析を行ったが、主な仕事は二つだけ。  民放が各党の政調幹部を集めて討論番組を企画した際、失言の可能性がある高市早苗政調会長(52)ではなく、塩崎恭久政調会長代理(62)を出演させたこと。そして時事通信社による4選挙区のネット中継の討論番組で、司会が民主党政権で内閣審議官を務めた下村健一氏と、脱原発を掲げる元NHKアナウンサーの堀潤氏とわかり、自民党候補に出演を見合わせるよう指示したことだった。  コミ戦の結論は毎回同じで「最後まで安全運転を」。危惧された選挙中の突然の逆風も発生しなかった。緩みがちな選挙戦で、最後まで神経をとがらせ続けていたのが、党で選挙を取り仕切った石破茂幹事長(56)だ。石破幹事長は他の党幹部に、「各地の動きが鈍い。もっと指示を出せ」と叱咤し続け、自身の選挙応援も「スポット遊説をもっと入れてくれ」と日程を分刻みで詰め込んだ。「あまりに過密日程で、候補者や随行職員が休息を取れないので、幹事長の日程表にわざわざ“トイレ休憩”を入れた」(側近議員)。夜になるとメールで指示を飛ばし続けた。  安倍首相もまた選挙中、「異常なハイテンション」(周辺)だった。選挙戦最終日の締めの演説も「最後はどうしても(東京)秋葉原でやりたい」と主張。周囲が「騒然とするので、有楽町などもっと落ち着いた雰囲気でどうですか」と進言しても譲らなかった。終盤には、情勢が芳しくなく、側近議員が「入って負けたら総理のせいにされますよ」と諌めた沖縄にも、あえて足を運んだ。  那覇市に宿泊した7月16日夜。翌日に現職首相として48年ぶりとなる石垣島と宮古島の訪問を控えていることもあって、周囲は体を癒やしてもらおうと夕食はホテルで弁当でもどうかと勧めた。ところが本人は「外でステーキが食べたい」と要望。締めのガーリックライスを平らげるまで、2時間近くずっとしゃべりっぱなしだった。  議席獲得には失敗したものの、安全保障上、今後さらに重要となる対沖縄戦略の布石を打った。同日、那覇空港のVIPルームで仲井真弘多・沖縄県知事(73)と会談すると、県が熱望する那覇空港の第2滑走路建設について、5年10カ月の工期をさらに短縮すると約束したという。政権党と付き合う重要性を県側に十分に認識させる訪沖となった。 ※週刊朝日 2013年8月2日号
2013参院選沖縄問題
週刊朝日 2013/07/25 07:00
出井伸之さん 自分の目線に合ったフルパノラマカメラ
出井伸之さん 自分の目線に合ったフルパノラマカメラ
富士写真フイルムのTX-1(左)と共同開発されたハッセルブラッドXPAN。35ミリフィルムの2コマ分を使うことでシャープなフルパノラマ撮影を可能にした。手前は世界最薄9.8ミリで510万画素の高画質、ソニー サイバーショットDSC-T7 イタリア・シチリア島の町並み、さらに海を遠景に手前はローマ帝国時代の競技場跡。縦位置でパノラマ撮影することによって、迫力ある画面となった スイスのダボス会議に出席したとき、移動のヘリコプターから撮影。ガラス越しの空撮とは思えないほど、雪の質感や雪面の陰影が繊細に描写されている ギリシャ・エーゲ海の島でのスナップ。地中海特有の白い石畳をおおう強い日差しと影のコントラスト、鮮やかな色の花が猫の目線というローアングルでとらえられている スイスでの零下20度の世界。樹氷と雪、川から立ち上る湯気の質感など、TX-1の描写力が見事に生かされている。撮影で手に凍傷を負ったという出井さんにとっても思い出深い一枚である スウェーデン・ストックホルムで白夜の季節に行われる「海のフェスティバル」のにぎわい。ワイドな画面でも遠近感がよく出ている。パノラマ撮影では、つねに水平に気をつけていると出井さんは言う ――パノラマカメラを選んだ理由はなんですか  こういう立場(企業の責任者)にいると、ゆっくり写真を撮る時間はありません。すばらしい景色に出合っても、構図を変えて何枚も撮ることなどできない。だから、広角レンズで風景を一発で撮れれば便利かなと思いました。  TX-1は標準サイズとの切り替えができ、パノラマ撮影では35ミリ判フォーマットで2コマ分撮れ、30ミリレンズだと15ミリの超ワイドになる。最近はテレビ画面もワイドになっているし、シネマスコープサイズに慣れているから、24×36ミリのライカ判に抵抗を感じるんですね。ぼくはパノラマのほうが撮りやすい。人間の視野に近いためか、構図を決めやすいんです。TX-1に出合ってから写真を撮るのが楽しくなりました。  レンズの性能もよく、ディテールが出るので引き伸ばしてプリントするときれいです。スイスのダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)に出席したとき、ヘリコプターのいちばん前の席でスイスの雪山を撮りましたが、雪面の陰影や雪におおわれた山脈がきれいに出ました。旅にはちょっと重いし、倍撮れるぶん、フィルムをたくさん持っていかなくてはいけないけど、すばらしい景色に出合うと、TX-1を持ってきてよかったと実感します。 ――メーカーの視点からも、よいカメラだと  ぼくはハード自体が好きなんです。カメラをはじめとして製品を見ていると、企画した人の気持ちが伝わってきます。TX-1は外観は古いカメラに見えますが、中には最新のテクノロジーがつまっていて写真が好きな人が作ったんだなあとわかる。よい意味で変わり者なんだろうと思いますよ。この時代にこんな重いカメラを作るなんて。(笑) ――フジTX-1と、兄弟機のハッセルブラッドXPANの2台を持ってますね  TX-1は発売(1998年)されてすぐに購入しました。その後、ハッセルブラッドと共同開発だったことを知り、XPANをスイスで手に入れました。TX-1はずっと使っていたので傷だらけですが、特別に2台を使い分けることはありません。まあ、先に見つけたほうを持っていきますね(笑)。レンズは30ミリ、45ミリ、90ミリと共通で使い回しています。気に入っているのは、やはりパノラマの特徴であるワイドが生かせる30ミリ。  ふだんは自社のコンパクトデジタルカメラ、サイバーショットDSC-T7を携行しています。デジカメで撮った写真はパソコンの壁紙にしたり、デジタルアルバムに保管してメールチェックする前に、ついつい眺めたりと楽しんでいます。両方を使って思うことは、便利さと不便さということですね。銀塩カメラに便利さを求めると、軽い製品になってしまう。不便さこそが、銀塩のよさだと思います。 ――銀塩とデジタルカメラの性能の違いはどう思いますか  銀塩カメラのいちばんよいところは、コントラストがはっきりしていることです。デジタルカメラのメーカーがこんなことを言ってはいけないかもしれませんが、逆光下での撮影や大きなプリントで比較すると銀塩カメラのよさが際立つ。それは言い換えれば、デジタルカメラには進歩する余地があるということです。ぼくが銀塩カメラから離れられないのは社内でも知られているから、開発会議のたびに「銀塩カメラのコントラストにもっと追いつけ」と言っています。銀塩のコントラストを開発の目標にしている。さらに、デジタルは銀塩ではできないものをやらなくてはだめなんです。手ブレを完璧に抑えるとかね。性能はまだ銀塩のほうが上だけど、それを抜く。いまに見ていろという気持ちですね。  デジタルカメラは、カメラ産業を変えたといえます。ソニーだけで今年1500万台、世界的に見ると7千万台以上が販売されている。昔はカメラ・写真業界は特殊な産業でしたが、ずいぶんと変わってきました。DPE店では、メモリーを持参して自分でプリント注文の操作ができ、自宅にはプリンター機器が置かれるようになった。ぼくも家でプリントしてますよ。夜、芋焼酎を飲みながら、「放課後の楽しみ」として。(笑) ――大学時代は写真部ですね  早稲田は社会派だったから、女性のポートレートなんか撮らなかったなあ(笑)。街に出て、テーマを見つけては組写真で発表していました。写真展をしたり、みんなで批評し合ったり、楽しかったですね。日経新聞に何回か載ったことがあって、写真の道に進むか別の世界を選ぶか考えたけど、3年のとき写真部の部長になれと言われて、これはたまらないと思って退部しました。  最初のカメラは中学生のとき、オリンパスの小さなカメラでした。その後はペンタックスも使ったけど、ニコンMなどずっとニコン党でした。後にキヤノンとソニーがカメラで競争するとは意識していなかったけどね。(笑) ――カメラとはどんな存在ですか  ぼくは小中学校で音楽(バイオリン)をやっていて、高校、大学では写真、それ以降はビジネスの世界にいます。オンとオフの時間があるけど、カメラは仕事を離れたオフの大切なアイテム。カメラを持つと、自分にとっての「場」が設定できる。写真を撮るという気持ちがあると目線がキョロキョロしないんです。街の見方が一定してくる。最近の流行語でいえば、立ち位置が決まるということです。充実した時間を過ごせます。 ※このインタビューは「アサヒカメラ 2005年8月号」に掲載されたものです
2013/07/09 00:00
長野県 日本一の長寿の理由は「県民が真面目だから」?
長野県 日本一の長寿の理由は「県民が真面目だから」?
 日本一のご長寿県といえば沖縄県。そのイメージは今後、大きく変わってくるかもしれません。それも、意外な県に取って代わられる形で......。 というのは、全国47都道府県を様々なジャンルでランキングした書籍『ハクショおもしろ雑学ブック』の中ので、長寿ランキングについて次のように書かれていたためです。これまで7回連続で長生き県(女性)の第1位だった沖縄県なのですが、近年、その生活様式に変化が表れているといいます。「寿命は、遺伝などの要素よりも、食生活やストレス、適度な運動などの影響が大きいといわれている。その点、女性長寿1位の沖縄は、大豆や魚、海藻を多く摂り、豚肉などで動物性タンパク質もしっかりとる伝統的日本食を食べ、年をとってもしっかり働くことのできる場が生活の中にあるのが効を奏している。ただ近年、若者世代を中心に、本土以上にジャンクフードを食べる習慣が広まり、近い将来1位の一から下降するのでは、ともいわれている」 そして事実、2013年の厚労省の調査によると、都道府県別平均寿命(女性)の第1位から沖縄はついに陥落。そこに取って代わって1位となったのが、長野県でした。 実は長野県はこれまでも男性の長寿では1位になっており、あまり知られていないご長寿県だったのです。しかし、長野県民の寿命が長い理由は、いまいちピンとこないところ。書籍でも次のようにつづられています。「一方、男性長寿1位は長野県。塩辛い食べものが多く、寒い地域で生活条件も決して楽ではない。寒暖の差が大きく塩分の多い食生活は、高血圧を原因とするさまざまな疾患の原因となるのは明らか。雪深い地域では、運動も不足がちになる。実際に、同じ条件がそろう東北の各県、青森、秋田などは、最下位の47位と46位に名を並べている」 どう考えてもリスクになることばかり。では、一体なぜ長野県がご長寿なのでしょうか。そこには意外な理由がありました。「そんな客観的状況にもかかわらず長野が1位なのは、その真面目な性格ゆえの規則正しい生活のおかげ。規則正しい上に身体を動かす仕事も好き。いくつになっても、何かしら自分の仕事を見つけて身体を動かし続けている。この辺は長寿日本一の沖縄県の女性と事情は似ているかもしれない」 どうやら長寿を促す「規則正しい生活」を送るにあたって、長野県民は適した性格である、ということのようです。確かに、長生きするには規則正しい生活が第一。そしてそれを続けるためには、何よりも真面目で勤勉な性格が必要になってきます。長野県は長寿日本一であるとともに、真面目な人間性でも日本一といえるかもしれません。 そんな長野県、他にも日本一のものがあるのをご存知でしょうか。それも、1位から3位までを独占するという断トツの日本一。それが、露天風呂です。 「温泉宿・予約サイトゆこゆこ」が、6月26日の「露天風呂の日」を前にお風呂評価、総合評価、口コミをもとに「絶景露天風呂のある宿ランキング調査」を行ったところ、なんと上位3位を独占したのが長野県の温泉宿でした。 順に紹介していくと、栄えある第1位となったのが長野県・南木曽温泉の「ホテル木曽路」。欧州の香り漂うリゾートホテルです。自慢は趣向を凝らしたお風呂で、150トンもの巨石をくりぬいて造った石風呂や、檜の香りが浴室いっぱいに広がる檜風呂、さらに南信州の大自然を見渡す開放感たっぷりの露天風呂などがあります。夜には露天風呂がライトアップされ、幻想的な雰囲気も楽しめるとのこと。また敷地内には、木曽路ビール醸造所もあるので、ビール好きにもたまらない温泉です。 2位にランクインしたのは長野県・白骨温泉の「白船グランドホテル」。深い山々に囲まれた野趣あふれる露天風呂で、乳白色の温泉は"3日入れば3年風邪引かぬ"と言われているそう。 3位となったのが、長野県・諏訪湖温泉の「双泉の宿 朱白」。ここの魅力は何と言っても、太平洋の水平線を遥かに望む抜群の眺望! 海を見下ろす展望大浴場で、さざ波に耳を傾けながらゆったりと湯につかることができます。 と、想像するだけでもうっとりしてしまうような、魅力的な露天風呂がそろっている長野県。もしかしたらこの温泉も、ご長寿に一役かっているのかもしれませんね。【関連リンク】「絶景露天風呂のある宿」(ゆこゆこネット)http://www.yukoyuko.net/special/dir/name/s_zekkeiRoten
BOOKSTAND 2013/06/22 09:30
「あんなにしんどいことない」多忙な宝塚スターの食生活
「あんなにしんどいことない」多忙な宝塚スターの食生活
土鍋で炊いたご飯をこんもり一膳。味噌汁は前日から用意し、朝は味噌を溶くだけに。主菜はソーセージや肉の炒め物、オーブントースターを利用した焼き魚など多彩。野菜やフルーツも欠かさない。夏はフルーツをジュースにして青汁も※朝食写真は再現です(撮影/下村しのぶ、スタイリング・調理/藤原美佐)  忙しいとつい抜いてしまいがちな朝食。しかし体が資本な人ほど、それを大切にしているようだ。  月組トップスターから女優へ──。2012年4月に宝塚歌劇団を退団した霧矢大夢(きりや ひろむ)さんは今、女優になって初めての舞台「マイ・フェア・レディ」に立っている。新しい人生を歩み始めた時、霧矢さんが決意したことが「朝ごはんをきちんと摂る」ことだった。  宝塚時代も朝ごはんを食べてはいた。舞台と稽古を繰り返すハードな生活は朝食抜きではとても務まらない。華やかなステージは体力があってこそ成り立つ。稽古は昼頃から夜10時、11時は当たり前。時には深夜0時を過ぎることも。朝しっかり食べないと、その後は食事を摂る時間もないのだ。公演期間中も、朝食を摂った後は休憩時間もほとんどなく、メイクの間に用意してきた一口大のおにぎりと、作ってもらったバナナジュースを口にする程度。朝ごはんは自然と腹持ちのいい米食をメインに一汁一菜程度となった。 「あんなにしんどい生活は二度とないから」  宝塚を卒業した先輩たちの慰めの言葉は退団してよく理解できた。確かに今は舞台だけに集中できる。時間的に余裕があり、肉体的にもずっと楽だ。 「宝塚時代とは違って、今はスケジュールに差がある。仕事が入っていない時でも規則正しい生活をしないとダメになっていく気がしたんです。だからこそ朝ごはん。生活習慣を整えようという意識がより強くなりました。この仕事は自分自身の気を引き締めることができるかどうかが問われると思うんです」 ※AERA 2013年5月20日号
AERA 2013/05/16 11:30
ギター その1
ギター その1
『Jazz Guitar Virtuoso』 『Complete Live Recordings』 『Complete Gramercy 5 Sessions』 ●ジャズ・ギター前史 バンジョーからギターへ  ジャズ創成期から40年あまり(アコースティック・)ギターは恵まれない楽器だった。一にも二にも音量が乏しかったせいだ。30年代の終わりにエレクトリック・ギターが導入されて音量と表現力が増すまで、日陰の身に甘んずるほかなかった。リズムおよびコード楽器の役割は、長らく強力なサウンドが出せるバンジョーが担う。そのバンジョーにしても、メロディー楽器への移行は果たせなかった。経験上、バンジョー(注)は弦の張りが強く、弦高が高く、音域が狭く、シングル・トーンによるソロには不向きだったと思う。  バンジョーでソロをとった者がいなかったわけではない。先駆者に、キング・オリヴァー(コルネット)、ルイ・アームストロング(トランペット)、ジェリー・ロール・モートン(ピアノ)の20年代の名演にもれなく参加した、ギターも弾くジョニー・センシア(1890‐1966)がいる。ただし、多くはコード・ソロで、シングル・トーンによるソロもアルペジオに類するものだ。リズムの名手と見るべきだろう。大方のバンジョー奏者は律儀にフォー・ビートを刻み、たまにフィルイン(装飾音)をカキ鳴らす程度のことだった。  30年代に入ると、ニューオリンズ伝来のリズム楽器だったチューバはベースに、バンジョーはギターに置き換えられていく。サウンドの洗練化にともなうもので、マイクロフォンの進歩がそれを後押ししたということだろう。しかし、ギターそのものの音量と表現力が増したわけではないから、地位が劇的に向上することはなかった。バンジョーから地位を譲られたとはいうものの、ギターに持ち替えた奏者は相変わらず律儀にフォー・ビートを刻み続け、まれにソロをとる場合でも、バンジョー譲りのコード・ソロで通していく。 ジャズ・ギターの開拓者  その数年前、ギターはソロ楽器として歩み始めてもいた。先鞭をつけたのは、アーバン・ブルースの名手、ロニー・ジョンソン(1899‐1970)だ。ルイの録音(27年と29年)やデューク・エリントン楽団の録音(28年)を通じて、ロニーはシングル・トーンによるギター・ソロをジャズ界に移植する。影響された大物に、ロニーとは何度も共演したエディ・ラング(1902‐1933)と、テディ・バン(1909‐1978)がいる。彼らは、リズムおよびコード楽器にすぎなかったジャズ・ギターに、メロディー楽器の機能を加えた開拓者だ。  ラングは知的で洗練され、白人ながら優れたブルース感覚をそなえた名手だった。超売れっ子の最中、扁桃腺の手術がもとで夭逝する。ギターの地位が低かったこととラングのレベルが段違いだったことから、直接的な影響力はジャンゴ・ラインハルトやエリントン楽団のフレッド・ガイあたりにとどまった。ただ、趣味のよいライン、繊細なコード・ワーク、洗練されたブルース感覚は白人ギタリストに脈々と受け継がれていったように思う。バリー・ガルブレイス、ジム・ホール、ビル・フリゼールなどに、それを強く感じる。  バンはブルージーでハード・ドライヴィング、群を抜くスウィング・ギタリストだった。センシアの影響もうけている。ラングとバンがソロ楽器の地位に導いたにもかかわらず、ギターはブレイクしなかった。無理もない。ベニー・グッドマン(クラリネット)ですら、チャーリー・クリスチャンのオーディションをもちこまれたときに、「誰がギターなんて聴きたいんだ?」と反発した時代なのだ。ジャズ・ギターに革命がおきるには、エレクトリック・ギターを抱えたクリスチャンが、表舞台に登場するのを待つしかなかった。  注:一般的にアーリー・ジャズで使うテナー・バンジョーは4弦で、カントリー・ミュージックで使う5弦バンジョーより音域は高く狭く、金属的なカン高いサウンドを発する。 ●チャーリー・クリスチャン(1916‐1942) 田舎の天才、都にのぼる  チャーリー・クリスチャンの功績は、エレクトリック・ギターによりギターを管楽器と対抗しうるソロ楽器の地位につけ、後進に絶大な影響をおよぼし、オフ・ビート感覚と斬新なコード進行でビ・バップの方法論を示唆した、ということになるだろう。エレクトリック・ギターを使った先駆者ではないし、シングル・トーンによるソロをとった先駆者でもない。しかし、先人とは次元が異なった。ギターをソロ楽器として確立したのはクリスチャンにほかならず、ジャズ・ギターの歴史はここに始まったといっても過言ではない。  テキサス州バナムで音楽一家に生まれる。2人の兄もクリスチャンも幼少期に父から弦楽器を仕こまれた。やがて一家はオクラホマ・シティに移る。26年に父が死去、ギターを受け継いだがサイズが合わず、ウクレレを演奏していた。32年に高校を中退、ギタリストとしてプロ入りする。同年、レスター・ヤング(テナー)と知り合い、ジャムを重ねた。34年にはトリオを率い、37年にはエレクトリック・ギターを手に入れ、ローカル・バンドに加わって中部をツアーする。39年の春にオクラホマ・シティに戻り、コンボを率いた。  7月にメアリー・ルー・ウィリアムス(ピアノ)の口利きでジョン・ハモンド(プロデューサー)に会い、8月16日にグッドマンのオーディションを受けたが、グッドマンの無関心とクリスチャンの緊張から不首尾に終わった。その夜、ダンスホールに出演していたグッドマン楽団の休憩中、ハモンドはクリスチャンを忍びこませる。ステージに戻ったグッドマンは不快感も露わに曲名を告げたが、演奏は47分も続いた。結果、当代随一の人気バンドにクリスチャンは雇われ、田舎の天才は瞬く間に全国区のスターにのぼりつめる。 ジャズ・ギターの革命児  表舞台に登場した時点で、クリスチャンは出来あがっていた。それ以前の録音はない。残された録音に先人の痕跡は認められるだろうか。素朴でいて都会的なブルース感覚はロニー・ジョンソン譲りだろう。アコースティック・ギターを弾いたエドモンド・ホール(クラリネット)の録音が好例だ。クリスチャンより先にエレクトリック・ギターを弾いたエディ・ダーハムの影は、クリスチャンが唯一コード・ソロをとった《スターダスト》にうかがえる。30年代の半ばにジャンゴ風のソロをとったという話は、後知恵ではないか。  クリスチャンは終生レスターをアイドルとした。スロー・テンポの寛いだ演奏で、まれにレスターのフレーズが顔を出す。それは41年3月のジャム・セッションで聴くことができる。ほかでは、さほど近似性は感じられない。クリスチャンはスタッカート感が強く、乗りもイーヴン、キチンとしている。レスターはレガート感が強く、小節線は無視するし、どこかルーズだ。共通するのはホリゾンタルなアプローチしかないと思う。このほか、ウエスタン・スウィング・ギターの影響もありそうだが、またの課題にさせていただく。  クリスチャンの革新的な奏法は無数の追随者を生んだ。例外はジャンゴくらいではないか。クリスチャン後の主だったギタリストを列挙するだけで紙幅はつきる。それで終わらせたい誘惑を抑えて、自身も大きな影響源となった、各年代を代表するギタリストをあげておこう。50年代はバーニー・ケッセル、ジミー・レイニー、タル・ファーロー、60年代はジム・ホール、ウェス・モンゴメリー、70年代はジョージ・ベンソンだ。このほか、ほとんどのジャズ・ギタリストがクリスチャンのDNAを受け継いでいるといえるだろう。 ●バーニー・ケッセル(1923‐2004) 今一人のオクラホマの天才  クリスチャンはビ・バップの方法論を示唆したが、バッパーではなかった。そうなる前に夭逝してしまったというべきだろう。コード進行の理論化、オフ・ビート・バッキング、コード・ソロといった積み残しの解決は後進にゆだねられた。クリスチャンのスタイルに基づき、バップの語法を消化し、いち早くモダンなスタイルを完成させたのがバーニー・ケッセルだ。闊達なシングル・トーンによるソロと華麗なコード・ワークを組み合わせ、ダイナミックなスタイルを築いた。モダン・ジャズ・ギター史の1頁目にくる巨人だ。  オクラホマ州マスコギーに生まれた。12歳でギターを手にし、14歳のときに黒人バンドで演奏を始める。当地で唯一の白人ミュージシャンだった。黒人と誤認しかねないファンキーな感覚は、ここで培われたのだろう。16歳のとき、オクラホマ大学のバンドに加わって演奏していた会場に、既にスターになっていたクリスチャンが訪れ、運命的な出会いを果たす。これでプロになる決意を固め、42年にハリウッドに出た。ほどなくチコ・マルクス楽団に雇われ、入退団を繰り返したあと、43年にロスに定住し、ラジオの仕事に就く。  そのあとケッセルが参加したとされる録音(注)は入手できなかった。ただ、時期と場所からいって、レス・ブラウン楽団への参加は疑わしい。ケッセルもオーディションに落ちたと語っている。参加が事実でも、当時のビッグ・バンドでソロは許されていないだろう。公式初録音は44年8月、チャーリー・バーネット楽団の録音だが、ソロはとっていない。初期のケッセルが聴ける録音で入手し易いのは、同月に出演した映画『ジャミン・ザ・ブルース』のサウンドトラックだ。クリスチャンにそっくりで、なんとも微笑ましい。 クリスチャン+ビ・バップ  直後にアーティ・ショウ楽団に招かれ、45年の暮れまで在団する。ビッグ・バンドによる録音に出番はあまりない。重要なのは、選抜メンバーによるコンボ、グラマシー・ファイヴの録音だ。45年1月の録音ではソリッドでグルーヴィーな個性を打ち出し、7月の録音ではバップの語法をとり入れ、モダン・クリスチャンというべきスタイルになっている。ツアーを続けるなか、最先端の音楽に触れたのだろう。バップ旋風が巻き起こる以前のロスにとどまっていたら、ビ・バップの洗礼をうけるのは少し先になったかもしれない。  出来あがりつつある姿は46年1月のチャーリー・ヴェンチュラ(テナー)の録音に、出来あがった姿は47年2月のチャーリー・パーカー(アルト)の録音にとらえられている。8月のライオネル・ハンプトン(ヴァイブ)のライヴ録音では「未だクリスチャンの幻影を強く感じる」という方があるが、スウィング系のお膳立てに合わせたにすぎまい。また、51年から53年まで在籍したオスカー・ピーターソン・トリオでスタイルを完成させたという方もあるが、ようやく才能を開花させる場を得たのだと見る。ケッセルの影響が色濃いのはハワード・ロバーツだ。初期のレイニー、ホール、ウェスにも痕跡が認められる。  注:レス・ブラウン楽団の17曲(43年3月、8月、11月、44年5月)、ティミー・ロジャース・コンボの1曲(43年12月)、ジャック・マクヴィー・コンボの1曲(44年4月)。 ●参考音源(抜粋) [The Prehistory of the Jazz Guitar] Johnny St.Cyr: The Complete Hot Five and Hot Seven Recordings/Louis Armstrong (25.11-27.12 SME) Lonnie Johnson: The Okeh Ellington/Duke Ellington (28.10 & 11 SME) Eddie Lang: Jazz Guitar Virtuoso/Eddie Lang (27.4-32.2 Yazoo) Teddy Bunn: Big Soul Clarinets/Johnny Dodds & Jimmie Noone (37.12 & 38.1 MCA) [Charlie Christian] Complete Live Recordings/Charlie Christian (39.8-41.6 Definitive) The Genius of the Electric Guitar/Charlie Christian (39.10-41.3 SME) [Barney Kessel] The Complete Gramercy Five Sessions/Artie Shaw (45.1-8 Bluebird) Charlie Ventura 1945-1946 (46.1 & 3 Classics) Charlie Parker Story on Dial Vol.1 (47.2 Dial)
2013/05/16 00:00
河原雅彦「おっさんが引き起こす大変な事態」
河原雅彦「おっさんが引き起こす大変な事態」
 俳優、演出家、脚本家の河原雅彦氏は、50歳を過ぎた男性たちが引き起こす「大変な事態」について、こう話す。 *  *  *  自分は今年で44歳になる。ま、世間的に言えば完全なるおっさんだ。  とはいえ、自覚は極めて薄い。舞台の仕事は、現場現場で目まぐるしく環境が変化するため、その分、常に新鮮で、ことさら年齢を気にする機会が少ないからだと考える。  特に演出家なぞは、目に見える昇進も無ければ、肉体を酷使するわけでもない。どんなに経験を重ねようと、その一方で、瑞々しい感覚をキープすることが求められる。  そうねえ、現時点で「年とったなー」って思うのは、以前より酔っぱらうのが早くなったとか、疲れがなかなか抜けないとか、そんなもんか。  本来これらはおっさん化サインとしては十分なのだが、自分なんか、今でも平気で若い連中と朝まで飲み歩くし、なんのてらいもなく短パンだって穿く。誰かに頭のひとつもはたいてもらえりゃいいのだが、なまじおっさんになってしまったため、周囲にはどんなにしょーもない話でもへラへラきいてくれる後輩達がぐんと増えた。これは非常に危険だ。そろそろ本気でおっさんを自覚せねば、そのうち大変な事態を引き起こしかねない。  例えばこんなことがあった。 「50を超えたおっさん俳優に連日連夜口説かれ、ほとほと困り果てた20代女優が自分のもとに真顔で相談に訪れる」というかなり残念なケースが、ここ最近、続けざまに起こったのだ。「そんなの人知れずこっそりしっぽり上手にやって下さいよぉ」……というのが先輩達に対する俺の本音。だが、彼らにはそれが出来なかった。  これは、彼らがおっさんの自覚無く40代半ばを過ごしてしまったからに違いない。だって、火遊びならまだしも、先輩達、本気で恋しちゃってんだもん。無理だよぉ……そりゃドン引きされるよぉ……50代なんて彼女達にとっちゃあ、おっさん通り越して、パパすら通り越して、完璧おじいちゃんだものぉ。  しかし、そんな常識に気づくことなく、彼らは黙々と恋の炎に薪をくべ続けた。悲しいことに、若い頃のオラオラ&イケイケ感を消せなかったわけだ。  どのケースも、最初はただただ良かれと思い、稽古場の片隅で若い女優に演技指導を繰り返し、女優にしてみれば頼れる大先輩としてそれをありがたく受け入れ、仕事終わりに安い飲み屋で親交を深め合い、そんな中、酔った勢いでボディタッチが増え始め、そのうち毎晩、「今、なにしてる? 俺、お風呂上がりー」的なマジどうでもいいメールを連発するようになり、彼女達の返信が少しでも遅れると、「なぜ返事がない!」と拗ね始め、やがて自分と距離を取り始めた彼女達に業を煮やし、地方公演中、辛抱たまらん!とばかりに、彼女達を強引に呼び出し、「俺を一人の男としてみてくれ」と執拗に迫るのだ。しみとしわだらけの顔して。  これはもうね、本当に愚かしい。若かりし日の残像を追うのもたいがいにしないとね。これから毎晩、「ボクはおじさん。ボクはおじさん」と10回唱えて眠りにつこうと思います。 ※週刊朝日 2013年5月17日号
河原雅彦
週刊朝日 2013/05/13 07:00
モータウン前夜のジャズのメッカ=デトロイトの真実
モータウン前夜のジャズのメッカ=デトロイトの真実
『ビフォー・モータウン:ア・ヒストリー・オブ・ジャズ・イン・デトロイト』ラーズ・ビョーン/ジム・ガラート著  多くの人々がデトロイトと音楽について考えるとき、なによりもまずモータウン・サウンドを思いつくものである(注:モータウンとは、モーター・タウンの略記)。しかしデトロイトは、注目すべきジャズ史をもち、それが、後にモータウン・サウンドとして知られるものに大きな影響を与えた。これは、ともすれば忘れられがちな事実である。  本書『ビフォー・モータウン』は、デトロイトのジャズ史を初めてテーマとして取り上げ、この町がアメリカのジャズの発展において果たした重要な役割を明らかにする。その歴史は、マッキンニーズ・コットン・ピッカーズやジーン・ゴールドケットのオーケストラに代表される 1920年代のビッグ・バンドに始まり、「ブルー・バード・イン」といったクラブを中心に繁栄した1950年代のモダン・ジャズ黄金期へと続く。  デトロイトのジャズ・シーンが、さまざまなミュージシャンやクラブのオーナーの証言によって息を吹き返し、時代色豊かな写真や広告(チラシ等)とともに、独特の雰囲気を放つ。また、生気あふれるジャズ界は、社会的な背景、特に黒人と白人の変わり行く関係を投影するものでもあった。 『ビフォー・モータウン』は、きわめて貴重な記録である。 ●本文より抜粋 エルヴィン・ジョーンズの証言  俺は1949年に除隊した。デトロイトには、「ブルー・バード・イン」というクラブがあったんだ。俺はそこで、ブルー・ミッチェルと仕事をしていた(1950年代)。俺はブルー・ミッチェルに雇われたんだが、彼と会う前からクラブへ通い、ワーデル・グレイのグループやなんかの演奏を聴いていた。アート・マーディガンがドラマーだった。彼はいつも親切で、俺の助けになってくれた。彼が演奏に加われとよく言ったが、俺は加わろうと思わなかった。そういうミュージシャンと演奏するのはおこがましいと思ったからだ。俺にとって、雲の上の存在だった。そういうミュージシャンと知り合い、話をするだけで、光栄なことだと思った。実際に自分がそういうグループに入り、レギュラー・メンバーになるとは、夢にも思わなかった。 トミー・フラナガンの証言  私たちはバード(チャーリー・パーカーの愛称)が演奏した曲に惚れこんだ。《ビリーズ・バウンス》《ナウズ・ザ・タイム》《ナイト・イン・チュニジア》だ。サド・ジョーンズは、彼自身の曲を発表しはじめていた。彼の音楽は当時、かなり進んでいたんだ。今でも十分通用する。私は今も、《エルーシヴ》のような曲を演奏しようとしている。あの頃、サドのグループは、町で一番前衛的だったと思う。国中でかなり認められていたんだ。だから、人を呼び、クラブは評判になった。あんな曲を書くサド・ジョーンズというトランペッターがいるとね。その後、マックス(・ローチ)とクリフォード(・ブラウン)が町にやってきた。彼らの演奏を聴いて、サドの曲に影響を受けたことがわかった。サドがアレンジをした《アイ・ゲット・ア・キック・アウト・オブ・ユー》は、ワルツのテンポだった。マックスは、そのテンポの変化が気に入ったんだ。人が押し寄せて、演奏の励みになった。ソニー・スティットもよくやってきた。マイルス(・デイヴィス)は、デトロイトでしばらく暮らした。彼は、即席のグループを作り、復帰に向けて慣らしていた。それから、ニューヨークに戻り、“本物のクインテット”を結成したんだ。
2013/04/22 00:00
しいたけを銀座で路上販売 通行人「なめてるのか!」
しいたけを銀座で路上販売 通行人「なめてるのか!」
銀座 虹の森路上が仕事場。様々な人が話しかけてくる。出稼ぎ外国人には「雇ってくれ」と言われ、実業家だった銀座マダムには「商売ってのはね」と、照明の当て方を教わった。取材中も、全身毛皮を着こんだマダムが来訪。「あんた、まだやっていたのね」(撮影/今村拓馬)  キッチンカーこと、移動販売車で弁当を売る様子などがオフィス街ではよく見られるようになった。そんな中、異色の商品を販売する店が登場している。 「銀座虹の森」代表の虹山虫太郎さん(29)は、銀座の路上で「しいたけの菌床」を売っている。自動車よりもさらに維持費が安い自転車を選んだ。  金曜の夜6時。銀座の三越裏に虹山さんの自転車が現れた。前にリヤカーのような大きな荷台。その上に、焼き菓子のようにも見える長方形の菌床が陳列されている。商品名は「CTAKEO」(しい・たけお)。仄(ほの)明るいランタンに照らされ、人が絶え間なく足を止めていく。菌床は生産者から直接仕入れた。ポリ袋開封後に水を吹きかけると、何本ものしいたけが生えてくる。一つ1050円。  3年前に路上で販売を始めた。当初は毎日売っていたが、現在はネット通販や卸売りも手がけるため、自転車での販売は週1回に減らした。それでも続ける理由は、 「人の温度を感じられるから」  学習院大学に在学していたとき、母親が立ちあげた金融事業が傾いた。なんとか立て直そうと、大学を中退して母親を手伝ったが、リーマン・ショックが到来し、事業はあえなく倒産。その後、曲折を経てネットワーク系企業に就職したものの、一日中パソコンの画面を眺める生活は単調すぎた。頭のなかで昨日と今日がつながり、次第に消耗していった。  ある日帰宅すると、新聞紙の上でしいたけが天日干しされていた。神経がすり減っていた虹山さんは、思わず足蹴にしてしまう。けれどもそれは、自分の健康を心配した妻が、「栄養のあるものを」という気遣いから用意してくれていたものだった。罪悪感に苛まれた。  それが縁でしいたけを調べるうち、菌床の存在を知る。  だが、しいたけの菌床という、一見トボけた商材を売っていることが癇にさわったのか、あるときスーツ姿の50代男性にこう言われたことがある。 「人生をなめているのか!」  男性は、険しい顔のまま立ち去っていったという。虹山さんが苦笑いをして振り返る。 「見た目はふざけているかもしれませんが、真剣ですよ。自分は社会のアウトサイダー。こんな自分でも明るくやれていることを人に伝えられたら最高だし、それができるのがこの仕事なんです」 ※AERA 2013年4月15日号
AERA 2013/04/13 16:00
山田洋次監督「寅さんの死に方は見事だった」と語る
山田洋次監督「寅さんの死に方は見事だった」と語る
山田洋次(やまだ・ようじ)1931年生まれ。映画監督、脚本家。渥美清さん主演の「男はつらいよ」シリーズは全48作の大ヒットとなった。他の代表作として「家族」「故郷」「幸福の黄色いハンカチ」など。今年、監督53年目を迎える(撮影/写真部・関口達朗) 帯津良一(おびつ・りょういち)1936年生まれ。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。『達者でポックリ。』など多数の著書がある(撮影/写真部・関口達朗) 山田監督の監督生活50周年を記念した作品「東京家族」はロングラン上映中。直木賞を受賞した中島京子さんのベストセラー小説を映画化する最新作「小さなおうち」は2014年1月に全国の劇場で公開される予定です(撮影/写真部・関口達朗)  渥美清さん主演の「寅さんシリーズ」で監督を務めた山田洋次さん(81)は、渥美さんの死に方に感動を覚えたという。がん診療とともに、養生にも造詣が深い帯津良一医師(77)との対談で次のように話した。 *  *  * 帯津医師(以下帯):渥美さんご自身はC型肝炎があって最後は肝臓がんが肺に転移して亡くなったんですよね。 山田さん(以下山):ええ。あの人は腹がすわっていましたね。亡くなった後で聞いたんですが、奥さんと子どもさん2人に夜、「お父さんの人生は寅さんの仕事をあと2、3回やっておしまいだよ」と、ちゃんと話していたそうです。「でもこれは誰にも言っちゃいけない。親戚にも。俺が息を引き取るまで、一切言うな」と。実際にご家族もそれを守られた。 帯:覚悟ができていたんですね。「死ぬときは野垂れ死にがいい」とも言っておられましたね。役者として、人知れず死ぬんだと。で、倒れているところを見つけた人が、「あれ、この人役者じゃないか」。 山:そうそう。「近頃、渥美はどうしたんだい、顔見ないね」「あれは死んだよ」っていうのが理想だった。死んだ後に人に負担をかけたり、大騒ぎされたりするのはイヤ。現役で仕事をしているんだからマスコミが騒ぎ立てるだろうけど、「ともかく、骨になって家に帰ってくるまで一切、誰にも言うな。あとは山田監督に連絡して任せなさい」、そう家族3人に言ったそうです。 帯:奥さん、そのとおりになすったんですね。 山;そうです。奥さんから電話がかかってきて、「昨日、主人が亡くなりました」。びっくりして腰が抜けそうでした。病気のことは知ってはいましたけど……。見事な死に方ですね。 ※週刊朝日 2013年3月29日号
週刊朝日 2013/03/24 16:00
鉄道で旅に出よう

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いよいよ秋の行楽シーズンに突入。今年もどこかに行きたいけれど、円安で海外はハードルが高い。そんな時こそ、列車に揺られ日本を楽しもう。「AERA 10月14日増大号」では、北海道から九州まで、鉄道をこよなく愛する「鉄ちゃん」たちがおススメする至福の鉄道16選を紹介。黄金色に輝く釧路湿原を走るJR釧網線、もみじのトンネルを走る京都の叡山電鉄、昭和にタイプスリップしたかのような千葉の小湊鐵道などのほか、「動くテーマパーク」とも言える各地の観光列車もピックアップ。さあ、秋の鉄道旅に出かけよう!

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更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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