心が疲れていませんか? 感情労働の現場を生き延びる
自分の感情を押し殺し、問い合わせやクレームに応対する。本来の自分らしさを失ったり、破壊衝動に走ったりと、「副作用」もある(写真部・植田真紗美)
いまや職場こそ「感情労働化」している。外の顧客ではなく、社内の継続した関係性の中で、逃げ場がなく悩む人は多い(写真部・植田真紗美)
体を使う「肉体労働」、頭を働かせる「頭脳労働」に続く第3の労働形態が感情を商品として提供する「感情労働」だ。一番の価値である「感情」を守りながら働くにはどうしたらいいのか。(編集部・深澤友紀/ライター・今井明子)
左手で受話器を握りしめる。声は努めて落ち着いたトーンで。「今日ご連絡いただいた件ですが……」
外資系IT企業でサポートエンジニアとして勤務する女性(35)は、ユーザーからの問い合わせに電話やメールで対応することが業務だ。
「パソコンの反応が遅く感じるんだよね」
と言われても、一体何秒だったら速いのか。ゴールが見えない。でも、むげにもできない。顧客からの評価が恐ろしいからだ。自分の応対は全て点数化され、待遇や給与の評価に直結する。
イライラが募って、右手で机をたたきながら応対することも。そんなときにも声のトーンは変えない。午前9時から午後5時半の就業時間外も、顧客への回答を用意するため急遽、残業することもある。そんな日はプライベートな予定をドタキャンだ。相手に振り回されてばかり。「顧客満足」という目に見えないものとの戦いに、ほとほと疲れた。
●技術職さえ「顧客満足」
数年前から、感情を切り売りする「感情労働」が注目されるようになった。感情労働に詳しい日本赤十字看護大学の武井麻子教授によると、感情労働とは「会社などから管理・指導され、自分の感情を加工することによって相手の感情に働きかける職務」。簡単に言えば、本来の感情を押し殺して業務を遂行することを求められる仕事だ。
その代表的な職種は「看護師」や「客室乗務員(CA)」と言われるが、いまやあらゆる職種に「コミュニケーション能力」が求められ、冒頭のようにITエンジニア職でさえ「顧客満足」が徹底される。
最近はどの職場にも感情に絡む悩みが増え、社会全体が感情労働的になってきた。この現象を「感情労働シンドローム」と名付けたエッセイストの岸本裕紀子さんはその背景として、正規・非正規の社員の格差、ブラック企業、成果主義の導入などでメンタルヘルスの問題が深刻化していることを指摘する。
「職場に余裕がなくなり、同僚にも弱みを見せられなくなった。自分の感情をコントロールしながら仕事をするという意味では、社内も外の顧客へも変わらない。しかも、接遇マニュアルなどがない社内のほうが、より疲弊しやすくなっています」
私たちはこの「総感情労働社会」をどう生きていけばいいのだろう。
看護師でエッセイストとしても活躍する宮子あずささん(50)は言う。
「自分の感情を隠蔽しないことが大事です」
看護師は「白衣の天使」のイメージを押し付けられ、本人たちもその像に縛り付けられている。患者を嫌ったり、嘔吐物を処理するときに嫌だと感じたりすると、「私は看護師失格じゃないか」と自身を責める看護師が多い。
「もちろん患者さんに『嫌いだ』と伝えはしませんよ。でも自分の気持ちを認めたとき、楽になれました。嫌いというのは所詮私の好き嫌いであって、その人自身の評価ではない。私が嫌いでもいいんじゃないかって」
武井教授もこう強調する。
「看護師も人間です。腹が立ったりつらかったりすることもある。その気持ちを認めて『だけど仕事だからやらなきゃ』と割り切るようにしなければ、感情が破綻することもあります」
●実力の8割出せばOK
感情労働には「副作用」がある。自分の感情を欺いているうちに、本来の自分らしさが失われたり、買い物やギャンブル依存に陥ったり、破壊衝動に襲われ、暴力をふるう人もいる。
しかも、同じ感情労働なのに来場者を楽しませようとするディズニーランドのキャスト(従業員)と違って、死や病気の恐怖に直面する患者の負の感情を相手にする。怒鳴ったり、暴力を振るったりする患者を相手に、治療に向けて前向きになってもらうのはより難しい。
元全日空のCAで、『いつもうまくいく人の感情の整理術』の著者、里岡美津奈さんは、各国の国家元首などのVIP特別機の担当乗務員を15年間務めた経験から、自分の感情を相手の感情に合わせて変えるのではなく、いつも一定に保つことが重要だと言う。
「お客様からクレームを受ける人は毎回同じで、感情が乱れている人でした。感情が乱れるとミスを連発しますし、人間は弱い者には攻撃したくなるんです」
だが、女性はもともと月経の前にイライラしやすいなど、ホルモンの変化で体調や感情が乱れやすい。さらにCAは時差やシフト勤務などで生活リズムが狂いがちだ。また、国際線のフライトでは、最短でも4日間日本を離れる。病気の家族やケンカ中の恋人などがいれば精神的に不安定になることもある。
里岡さんも20代の頃は失恋のショックからミスをしたこともあった。そこで、親戚の医師からアドバイスを受け、睡眠や食事、身だしなみを整えるようにすると、感情も安定するようになった。
意識も変えた。日頃から「実力の8割を出せれば大丈夫」と考え、好調・不調の波がない一定の品質のサービスを心掛け、どんな相手でも気後れせず、余裕を持って応対するようにした。
「ポイントは穏やかに『弱』のアプローチでお声掛けし、相手の様子をうかがうことです」
過剰なサービスは相手の心を乱し、トラブルにつながる。「安定感」にこそ価値があるのだ。
●相談時間と場所を限定
自分の感情だけでなく相手の感情ともうまく付き合わないといけないのが感情労働の現場だ。保護者や児童生徒、教員、さまざまな立場の人の心が交差する学校も例外ではない。特に臨床心理士の資格を持つスクールカウンセラーは、プロとして感情と向き合う。
都立武蔵高等学校・附属中学校に勤務する柴田恵津子さんは、カウンセリングの際、相手を脅かさないように心がけ、自分なら悩んだときどのように接してほしいのかを常に考えるという。
カウンセリングで留意しているのは、「急いで話を聞き出そうとしないこと」「すぐにわかったつもりにならないこと」だ。
「たとえ子どもであっても、悩みに関しては相手のほうが先輩だと思って話を聞きます」
カウンセリングは1件につき約1時間。あくまで学校内だけで行う。でも、限られた時間と空間で、十分なケアができるのだろうか。複数の私立学校でスクールカウンセラーを務める滝口のぞみさんは言う。
「不安になれば何時間でも話を聞いてほしいと思うのが人間の自然な感情でしょう。もちろんカウンセリング時には相談者の話をとことん伺いますが、時間外まで相談に応じることはありません。カウンセラーに依存してしまい、逆効果だからです」
依存関係に陥れば、相談者はますます社会に適応しにくくなる。そのためにも、カウンセリングの時間と場所を限定することが大切なのだという。
モンスターペアレントに対しては、「子どもを守りたいという熱い思いがあるのに、どうしたらよいか分からず困っているのです」と滝口さん。柴田さんも、保護者に激しい感情をぶつけられたり、問い詰められたりすることもあるが、
「子どものことを心から心配してのことです。そのようなときは、私はこの局面でどのように協力できるかを考えます」
人々の感情と常に向き合いながら、感情に引きずられないように冷静に仕事を行う。高い専門知識を身につけた心理職だからこその仕事だ。
●行動タイプを把握
札幌市内のハウスメーカーに勤める藤原卓丈さん(37)も常に顧客の感情研究を忘れない。モデルハウスに来場した人々へ住宅をすすめる営業職をしているが、集客力もブランド力もない会社で、中途入社した当時は年間2棟を売るのが精いっぱいだった。その後、独自に顧客の感情をリサーチし、現在は月1棟のペースで住宅を販売するまでになった。
「全ての来場客は住宅営業マンが嫌いです。逃げ場がない中で近づいてきて、自社の商品を売り込んでくる。まずはお客さんの気持ちに寄り添い、不安を取り除くことが大切です」
母校から現在の家族構成まで細かく書き込んだ写真付きの自己紹介ハガキをつくって来場者に手渡し、向こうから共通点を探して話しかけてもらうのを待つ。大事なのは「共感」。先日契約が取れたのも「出身幼稚園が同じです」と話しかけてきた人だった。
商談、契約前後、工事中、引き渡しという流れの中で顧客の心理も変化する。例えば家を買う直前は不安で眠れない人もいる。「あなたの判断は正しかった」と不安を解消し、勇気づけるために、夜中でも見返せるよう書類と手紙を送る。
「相手の心を理解すれば、不安を取り除いて、喜びを与えることもできるんです」
ただ、感情の起伏が激しすぎる人や、どうしても合わない顧客がいたら、接客するのをやめるという。
「住宅営業は引き渡し後も長くお客さんとの関係が続きます。深刻なトラブルが起きる前に退く判断も必要です」
相手の感情に寄り添えと言われても、心の機微を理解するのは難しいし、ケースごとに変化する。コミュニケーション能力も個人差がある。
産業能率大学の横井真人教授はこう言う。
「感情は、行動を起こすスイッチ。例えば喜びや感動があれば購入や契約に結び付きます。相手と自分の性格や行動タイプを早めに把握して働き掛けることが、仕事をうまくスムーズに運ぶコツです」
自分の感情を正直に認めたうえで、相手に合わせる。ただ、心が擦り切れて最大の商品価値である「感情」を失う前に、退く勇気も忘れないように。
※AERA 2014年5月19日号
AERA
2014/05/12 00:00