検索結果2080件中

JimmyJazz物語[3] ひらけ、ゴマ!ジャズの千夜一夜物語『オープン・セサミ/フレディ・ハバード』
JimmyJazz物語[3] ひらけ、ゴマ!ジャズの千夜一夜物語『オープン・セサミ/フレディ・ハバード』
オープン・セサミ/フレディ・ハバード  新しい店舗が作られてるのを見て、有線放送の営業マンがやってきた。「ぜひ有線を引いてください。こんなにチャンネルがあって便利です。ジャズももちろんありますよ!」  無論断った。月々何千円かの聴取料を払うなら、レコードを買ったほうがずっといい。レコードはJimmyJazzの「財産」になるし、何より奏者の名前も答えられないジャズを流すなんて無責任だと思ったからだ。  そこいらのカフェバーとは違い、たかがBGMといえど、本物のジャズを流したかった。有線でもブルーノートのフレディ・ハバードはかかるが、それらはわたしが意図してかけるわけではない。できることなら、そのときの気分で適切なレコードを選びたいと思っていたのだ。  そうはいっても、接客中にレコードをいちいちかけ替えるのは不可能に近いから、買ったレコードは120分のカセットテープに録音して、オートリヴァースのデッキで流すことにした。  いよいよJimmyJazzオープン!1988年11月のことである。親父の店が歩いて三分ほどしか離れてないので、そっちから随分客を引っ張っらせてもらったが、いざ蓋を開けてみると、地元の住民にたいした違和感もなく受け入れられた。珍しいもの見たさ(?)に客がやって来て、念の為にプールしておいた運転資金に手を着けることもなく、その年を越すことができた。その後も順調に顧客は増え、JimmyJazzはなんとか軌道に乗っていく。  いつもスーツでビシッとキメて、パーマをかけに来るお客さんがいた。「お出かけですか?」と何度か訊いたが、いつも「いえ…。」という返事。あとでその方の奥さんに訊いたら、JimmyJazzに行くときはわざわざスーツに着替えてめかし込んで行くのだという。  JimmyJazzのある大阪市西淀川区は工場地帯だから、会社帰りに作業着で来店されるお客さんも居る。わたしは作業着だろうとジャージだろうと全然気にしないのだが、「汚い作業着ですみません」と恐縮される。「サンダル履きですみません」と謝る人も居た。  ヒソヒソ声で話をする人も多かった。普通に話せばよさそうなものだが、なんだかあっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ。JimmyJazzはジャズ喫茶ではないので、「私語厳禁」の貼り紙はないのだが、店の威圧感のようなものがそんな現象を起こしたのだろう。  今となっては考えられないが、その昔、ディスコで「Gパン、スニーカーお断り」というのがあった。ジャズ喫茶の「私語厳禁」もそうだが、そういう洗礼を受けた世代がJimmyJazzもディスコやジャズ喫茶、あるいはカフェバーといった「お洒落な産業」の仲間と認めてくれた。その証が「スーツ姿」と「ヒソヒソ声」だったのである。ダサい仕事の代名詞だと思っていた「散髪屋」が、ついに「お洒落な産業」の仲間入りを果したのだ! 「散髪しながらジャズが聴けるなんて画期的ですね!」そう誉めてくださるお客さんもあった。正直、BGM程度の音量だから「聴ける」というほどでもない。オーディオ装置も安物だし、ソースはカセットテープだ。「聴ける」という言葉に、少なからずプレッシャーを感じていた。今なら装置も多少は立派(?)になったので、是非とも聴いていただきたいのだが、残念ながらそのお客さんは東京に転勤してしまった。 「散髪しながらジャズが聴ける」この一言がなかったら、わたしはここまでオーディオに首を突っ込んでいなかったかもしれない。  JimmyJazzはわたしの思惑通り、あれよあれよという間に親父の店の売上を抜いた。今は亡き祖母がとても喜んでくれたのを憶えている。 「俺の斬新なアイデアと技術で成功したのだ!」と思いたかったが、不思議とそんな気持ちがまったく起こらなかった。それどころか、協力してくれた親父やお袋、必死で頑張ってくれたスタッフ、何よりも喜んで来てくださるお客さんに感謝の思いでいっぱいだった。わたしがやったことといえば、「ジャズと理容室をくっつけよう」と、頭の中で考えたことだけ。実際に奔走してくれたのはまわりの人達だ。JimmyJazzは、決して自分ひとりの力では為し得なかった。 ―――それに、あの頃は誰が何をやっても成功した。そんな夢のような時代が本当にあったのだ。(つづく) 【収録曲一覧】 1. Open Sesame 2. But Beautiful 3. Gypsy Blue 4. All or Nothing at All 5. One Mint Julep 6. Hub's Nub 7. Open Sesame [Alternate Take] 8. Gypsy Blue [Alternate Take] Freddie Hubbard (tp),Tina Brooks (ts),McCoy Tyner (p),George Tucker (b),Al Harewood (ds) [Bluenote] 19.Jun.1960 Engineer:Van Gelder
2013/03/06 00:00
第1回 ニール・ヤングは、この分厚い自伝をどのようにして書いたのだろうか
第1回 ニール・ヤングは、この分厚い自伝をどのようにして書いたのだろうか
『ニール・ヤング自伝Ⅰ』 『ニール・ヤング自伝Ⅱ』 『リヴィング・ウイズ・ウォー』  何年に一度かわからないが、忘れたころに、思わず涙がこみ上げてくるような音楽と出会うことがある。これを「こみ上げ盤」と呼ぶことにするが、ぼくにとっていまのところ最後の「こみ上げ盤」は、ニール・ヤングの『リヴィング・ウイズ・ウォー』というアルバムになる。発売された年をみると2006年。もう7年も経ったのか。  ぼくはこのアルバムが、ニール・ヤングのファンやいわゆるロック・ファンとかその周辺でどう評価されているのか知らないが、傑作だと思う。とくに《ファミリーズ》という曲から最後の《アメリカ・ザ・ビューティフル》にかけて連続して収録されている6曲は名作の連なりで、それは雄大な山脈や寄せては返す大海の大波を連想させる。  そういう流れで聴いていくと(それまでの曲や流れが悪いというわけではないが)、2番目に《フラッグス・オブ・フリーダム》という曲が流れてくる。訳せば「自由の旗」ということになるが、この場合の「旗」はアメリカ国旗を指している。これがじつにいいのですね。60年代大好きオヤジやあの時代から逃れられない人には、絶対にお勧めします。とくに歌詞の、  「Listenin' to Bob Dylan singin' in 1963」  「Flags that line old Main Street / Are blowin' in the wind」  という部分になってくると、ぼくはいつも泣きそうになる。ここもまた、この「こみ上げ盤」のクライマックスのひとつなのです。それに追い打ちをかけるようにニール・ヤングが吹くハーモニカも。  『ニール・ヤング自伝』(奥田裕士訳:白夜書房)を読んだ。上下の2巻に分かれ、それなりに分厚いが、文字がやや大きく、文字数的には「ちょっと分厚い一冊分」といったところだろうか。原書は一冊だが、それを上下に分けて出したところがミソで、作戦勝ちという感じがある。  内容的には、まあこのようなものなのだろう。スキャンダラスな話題もなく、新しい発見のようなものもそれほどない。むしろ淡々と綴られている。ニール・ヤングも68歳、過去はすべて美しい思い出になったということだろうか。とはいえニール・ヤングが老いたということではなく、それは新作を聴いてもわかるが、まだバッファロー・スプリングフィールドのメンバーのように若い。  ぼくが最も興味をもったのは、ニール・ヤングがどのようにこの本を書いたのかという方法論だった。それはぼくが書くことを仕事としているということと関連しているのかもしれないが、はたしてニール・ヤングは、この分厚い本をどうやって書いたのか。  この本は、ボブ・ディランの自伝がそうだったように、時系列で順を追ってこれまでの人生と出来事を書いたものではない。むしろあっちに飛び、こっちに飛びで、注意深く読まないと置いてけぼりを食らうことにもなりかねない。さりとて時空を超えた超常現象的かつ幻想的な展開というものでもなく、トーン(ここでは「音質」と訳したい)というか色彩感は、どことなく統一されたものになっている。それはそうだろう、同じ人間がずっと書いたのだから。いやそういうことではなく、これは構成によるものだと思うのだ、ぼくは。  おそらく、そう、おそらくという推論をたぶんに含んだ「読み」ではあるのだけれど、おそらくニール・ヤングは、最初から最後まで、律儀に時系列に書き上げていったのではないだろうか。そして一度は完成させ(ニール・ヤングには、どうも「脱稿」という言葉は似合わない)、それを68の章に切り刻み、次いで前後を入れ替え、そうして再構成することによってこの自伝というか物語を構築したのではないだろうか。  そう考えると、下巻の第60章からエンディングに向かっての盛り上がりと感動の秘密が理解できるような気がする。つまりこの部分は、書かれた内容というよりは、構成上の工夫と演出によって成された、ニール・ヤングの力技(チカラワザ)なのではないか。  そういうふうに見てみると、ものすごく当たり前のことに気づく。ニール・ヤングはこの自伝を、映画のように、音楽のように組み立てることを思いついたのだろう。そしてぼくが自伝を読んで受けた最初の印象は、ニール・ヤングの音楽を聴いたときの印象とほとんど変わらなかった。それはニール・ヤングの音楽が、あるいは楽曲や主なアルバムが、(おそらくは)そのような手法や発想でつくられているからにほかならない。  この自伝は、だからだろう、読んでいると、まるで音楽に身を預けているような気分になる。そして強烈にニール・ヤングの存在を感じ、懐かしい親しい気持ちが芽生えてくる。しかもニール・ヤングとの距離はけっこう近い。先に内容的に不満めいたことを書いたが、思うにミュージシャンが自分で書いた本というものは、自伝であれなんであれ、このように読者に思わせた者が「勝ち」なのではないだろうか。そこに「ミュージシャンが自分で書くことの意味」があるように思う。  その意味で、ニール・ヤングは、生涯で一冊しか書けない立派な自伝を書いた。さあ、もう一度『リヴィング・ウイズ・ウォー』を聴こう。あっ、ちょっと待てよ、久しぶりに『ハーヴェスト』か『渚にて』にしようか。いや、やっぱりいちばん新しい『サイケデリック・ピル』にしよう。
2013/02/28 00:00
30代男性、会議で涙… 世代で働く意識に違い
30代男性、会議で涙… 世代で働く意識に違い
 高度経済成長やバブル景気を経験してきた「アラウンド50」世代と、物心ついたときから不況しか知らない「アラウンド25」世代。そこには、働き方の意識に大きな違いがある。  製薬会社でマネジメント職として働く男性(51)は、同世代の数の違いが意識の違いにつながっていると感じている。  男性の同期は120人。少し下のバブル期入社組は200人もいた。競争相手が多い分、必死にやらなければ生き残れないという意識があった。研究職だった男性は、新人時代、徹夜で実験を繰り返し、休日出勤で実験用の動物の面倒もみた。  一方、いまの若手は帰宅が早い。不況の影響や労働基準法順守のため、会社がノー残業を推進するせいもあり、新人も夕方6時になれば帰り支度。  ある30代前半の社員は、会議で仕事の遅れを指摘されると、 「僕の責任です」  と涙を流した。男性は「弱みを見せる基準」が、自分とは随分違うと感じる。いまの若手は同期が少ないせいか、会社でのポジションを失うという危機感が薄いのかもと思う。  リクルートキャリアで若者の面接相談などをする細井智彦さん(52)は、「選択」への意識の違いがあると話す。 「今ほど豊かでなかった時代に育った50歳世代は、まずは選ぶより与えられた環境で成果を上げようとするが、生まれた時から情報やモノがあふれている25歳世代は、先に自分で選択しようとする。就職活動でも自己分析に慣れているため、自分の適性を探すことに必死になる」  だが若者も、そんなに選びたいわけではない。  今年、『置かれた場所で咲きなさい』という本が80万部のベストセラーになった。幻冬舎の担当編集者によれば、人気を牽引したのは20代。この世代からは「現状でも頑張れば好転すると、実は言ってほしかった」という感想が多いという。 ※AERA 2012年12月24日号
仕事就活
AERA 2012/12/21 11:30
高校数学の非正規先生「バイトしないと生活できない」
高校数学の非正規先生「バイトしないと生活できない」
 教育現場が揺れている。この6年で3割増しになっているともいわれる「非正規教員」だが、そのなかにも大きく二つのタイプがあるという。フルタイムの「常勤講師」とパートタイムの「非常勤講師」だ。非正規教員になるのは主に、大学などで教職課程を履修し教員免許は持っているものの、都道府県などが行う採用試験に受からなかった人たち。ほかには定年退職後、新たに非正規教員として働く人もいる。  非正規は通常、長くて1年契約で、年度替わりに更新される。給与自体は自治体で上限を定めているところが多い。大半の人は終業式で福利厚生なども含めた契約が切れるため、春休み期間は「無保険状態」ということもよくあるらしい。  身分の不安定さから、若い非正規教員は、毎年採用試験に挑む人が大半だ。西日本の中学校で正規教員として勤務するBさんは(30代)は、7回目の挑戦で採用試験に合格した。 「非正規の立場では、試験勉強などもあり、子どもに100%向き合えない葛藤(かっとう)がありました。でも今は、ずっと教員を続けていられる、子どもに向き合えるという安心感があります」  教員としての出発点は、高校の数学の非常勤講師だった。1コマ約2500円で、月収は16万円ほど。そこから年金などが差し引かれた。塾のバイトを掛け持ちしてやっとの生活。当時の校長からは「ちゃんと働いたら正規の教員にさせてやるぞ」とパワハラめいた言葉で、プレッシャーをかけられた。採用試験には、校長の意見も資料として提出されるからだ。  その後、中学校の常勤講師となり月収は約22万円に増えたが、部活動の朝練から始まり、朝7時から夜10時まで働いた。「正規教員より働いていた」(Bさん)が採用試験に落ち続けた。親から「先生にならなくてもいいだろう」と諭されたのは、正直こたえた。  30歳になる年の4月、講師の仕事を中断し、勉強に打ち込む決意をした。無収入で半年勉強した末、正規教員の座をつかみとった。 ※週刊朝日 2012年11月30日号
出産と子育て
週刊朝日 2012/11/23 07:00
なくならない在日米兵の犯罪 「旅の恥はかき捨て」感覚?
なくならない在日米兵の犯罪 「旅の恥はかき捨て」感覚?
 強姦や強盗など、在日米兵による犯罪が深刻な問題となっている。犯罪のたび非難を浴びるのは必至なのに、夜間外出禁止令が出ているときにまで真夜中の犯行に及ぶ米兵たち。そして、まるでそれを予測しているかのように、素早く火消しに動く在日米軍。約3万7千人もいる彼らの全体像を理解することはむろん不可能だが、接触可能な米兵たちを通して、在日米軍と呼ばれる人たちの行動や思考の一端を知ることはできないか。そんな思いで、米軍基地が集中し、米軍関係者の犯罪が圧倒的に多い沖縄に向かった。  沖縄・北谷(ちゃたん)の美浜アメリカンビレッジ。オープンカフェ風の店でビール片手に談笑していた3人組に話をきいた。  リーダー格のマーク(24)が海兵隊に入ったのは3年前。大学の学費を払い続けることができず、2年で中退した。軍で4年間務めれば学費を払ってもらえると知って入隊。残りの1年を務めた後は大学に戻り、経営学修士(MBA)を取得して、「故郷のカリフォルニアでレストランかバーを経営したい」。  同じくカリフォルニア出身のルーカス(21)は、高校を卒業してすぐに入隊した。「それまでは悪い友だちと付き合っていた」。このままでは道を誤ると感じたのと、世界を見てみたいと思ったことから兵役を志願した。医療保険や大学の学費支援などの軍の福利厚生も魅力だった。やはり4年で除隊し、大学で犯罪学を学んで捜査機関で働きたいと話す。  ジョン(24)はハワイ・オアフ島の出身だ。10代で2人の息子の父親になり、自動車整備を生業にしていたが島では仕事がなく、「母親に家族全員が面倒をみてもらっている情けない状態だった」。自活を目指して就職フェアをのぞいたが、めぼしい仕事が見つからず、会場から出たところで海兵隊員に声をかけられた。家族を養うのに十分な給料が決め手だった。入隊して6年。海兵隊基地があるカリフォルニア州に家を買い、妻子はそこで暮らす。軍にずっといるつもりはない。「いつかは映画監督になりたい」  3人に共通するのは、軍の務めを「一時的なもの」と考えている点だ。そうした人は、米軍では少なくない。  米軍全体の現役兵士の総数は過去10年間、140万人前後で推移している。25歳以下が占める割合も、ほぼ45%が維持されている。これは、多くの若者が軍に入る一方で、若い兵士が多数除隊していることを意味する。  軍が一過的な所属先であれば、そこでの行動を律する意志が鈍っても不思議ではない。決して先の3人がそうだというものではないが、「外国」に短期駐留する場合はさらに羽目を外しやすくなるとも考えられる。 「かつては、沖縄での任務を終えて米国に帰る前の米兵が、女性を襲うことが珍しくなかったと聞いている。『旅の恥はかき捨て』という感覚をもっている米兵が、今もいるのではないか」  沖縄で郷土資料保存に携わる女性(50)は、そう話す。 ※AERA 2012年11月26日号
沖縄問題
AERA 2012/11/21 07:00
クリア率は5%以下! 大人がハマる脱出ゲームの魅力
クリア率は5%以下! 大人がハマる脱出ゲームの魅力
 クリア率が5%を切る超難関のゲームをご存じだろうか。その名も「リアル脱出ゲーム」。密室で「謎解き」に挑み、解けたら脱出する、参加型イベントのことだ。  参加者はチーム編成が基本になり、宇宙基地や牢獄、開かずのマンションに閉じ込められたなどといった設定で、制限時間内の脱出、すなわちクリアを目指す。  謎解きに使われるのは主にクロスワードパズルだ。空欄を埋めるには、まず部屋の中に隠されているヒントを探さなければならない。理系的な思考が要るものもあり、数人での分業も必要だ。  リアル脱出ゲームの運営会社スクラップは、東京で2軒の常設型の施設を運営している。  しかし、クリア率が5%を切るようなムズいゲームが、なぜウケるのか。筆者も実際に体験してみた。  東京の「原宿ヒミツキチオブスクラップ」。裏原宿の地下テナントには、16の丸テーブルが置かれ、壁には洋館を模したカーテンがかかる。この日のゲームは、コミック『金田一少年の事件簿』とのコラボイベントだ。6人1組で謎解きにかかる。平日の夜7時過ぎ。仕事帰りの男女も多く、場内は満員だ。  参加費は前売りチケットで2800円。原作さながらの推理と謎解きをしながら、60分以内に殺人事件の真犯人を探すのがミッションだ。  筆者のチームは、上智大学の学生3人に、30代女性が2人。初対面で緊張するが、人見知りしている場合ではない。ともかく協力して知恵を絞る。残念ながら最後の問題でつまずき、クリアはならなかったが、終わるころには、すっかりうち解けていた。  関西大学の安田雪教授は自著『ルフィの仲間力』で、コミック『ONE PIECE』が売れる理由を、「仲間」と共に「試練」を乗り越える「物語性」にあると指摘する。それはこのゲームにもあてはまる。  リアル脱出ゲームの運営会社スクラップ代表の加藤隆生さん(38)はこう言っている。 「大人は部活を求めている」  部活と違い、職場では組織の論理もあって純粋に目的めがけて突っ走ることはできない。ゲームは、働く世代にとって青春のやり直しなのだ。 ※AERA 2012年11月19日号
ゴールデンウィーク
AERA 2012/11/16 16:00
離婚相談にものってくれる 大宮の熟女キャバクラが人気
離婚相談にものってくれる 大宮の熟女キャバクラが人気
 テレビ番組でのタレントの「熟女好き」発言などをきっかけに、今、空前の熟女ブームが起こっている。熟女を集めた「熟女キャバクラ」も登場し、リピーターも多い。その魅力は何なのか。  JR大宮駅南口には、昔ながらの狭い路地が入り組む。そのうちの1本、100メートル強の通りに7、8軒の熟女キャバクラなど熟女系専門店が密集する。昨年暮れごろから「大宮熟女ストリート」と呼ばれるようになり、県外からも夜な夜なオジサンたちが訪れる。 「淑女・熟女クラブNon娘(こ)」は通りの一角、雑居ビル3階に一昨年3月、通りではじめて熟女系専門店としてオープンした。代表の男性は、もともと大宮の水商売の店で働いていたが、独立にあたり、大人の女性が働ける店を作りたいと、女性従業員の年齢を30歳以上に絞った店をオープンしたという。  開店当初から注目を集め、売り上げは右肩上がり。料金は、初回70分3千円から。一日の平均客数は約40人。40、50代を中心に20代や60、70代も。約8割がリピーターだという。 熟女の魅力を先の代表の男性はこう話す。 「ただ騒ぐだけではなく、社会経験豊富な女性が、お客様に癒やしを与えます」  別の熟キャバに、多いときで週4日通う51歳の男性は、 「落ち着きます」  としみじみ。仕事のストレスも、熟女と話して帰るだけで、癒やされるのだという。確かに普通のキャバクラに行っても、20歳前後の若い子だと、客なのに気を使って話を合わせ、クタクタに。その点、熟女は人生経験豊富な分、話術にたけ、気を使う必要もなく下ネタだってOK。  Non娘のキャバ嬢は31歳から52歳まで25人ほど。シングルマザーや、不況で昼間の仕事を解雇された人が多い。ここで働く香奈さんも、52歳でバツ3のシングルマザーで、20歳から25歳まで3人の子どもがいる。うち2人はアルバイト生活のため、香奈さんの収入が頼り。以前はスナック勤めだったが、女の子がのびのび働いている店があると聞き、オープンとほぼ同時に働き始めた。 「私の魅力ですか? 人生経験だけです」  などと謙遜するが、離婚を考えている男性客の相談にも乗る。まさに人生経験のなせる業だ。 ※AERA 2012年10月1日号
男と女離婚
AERA 2012/09/28 00:00
チェンジできず、7000円。
チェンジできず、7000円。
 最近はありがたいことに、一緒にごはんを食べてくれるイケメンさんが大勢いる。なので出張ホストはもう必要ないかなと思っていたのに、突発的に呼んでしまった。桜が咲いている夜だったので、気持ちがふわふわして、急に恋愛ごっこをしたくなってしまったのもしれない。  指名したのは、りりしそうな眉が印象的な、目鼻立ちが整った二十代半ばの男性。メールの受け答えも丁寧だったし、これは当たりだろうと楽しみにしていたけれど、結果から言ってしまうと、大はずれだった。  彼は、確かに顔は整っていたのだけれど吹き出物で満ちていて、気の毒になるくらいだった。そしてよろしくと差し出してきた手は汚れており、すべての爪は伸び、中が真っ黒で、私は握手をすることができなかった。  清掃のバイトもしているというから、普段から手が荒れがちなのかもしれないけれど、爪くらい、切れるだろうに。  ホストが気に入らなければキャンセルやチェンジもできるらしいのだけど、さすがにキャンセルを告げる勇気が出ない。ああ、2時間という予約時間がどれほど果てしなく長く感じたことか。  しかたなく「ごはんでも食べましょう」と彼と歩く。本当は夜景がきれいなバーでお酒でも飲みたかった。でも私が彼を連れて入ったのは、定食屋。そこでもお茶碗を持つ彼の爪の汚れが気になってしかたがなかった。  爪の中が黒い出張ホストに、私は以前も遭遇したことがある。その彼も顔立ちはとてもいいのに、家出中でお風呂にもろくに入っていないとかで、爪や袖口が汚れていた。  私は定食を平らげた後、「仕事を思い出した」などと適当な理由をつけて、2時間を待たずに先に帰った。これ以上彼と話すこともなかったからだ。店にクレームをつければ多分料金はタダになるケースだと思うのだけれど、彼は出張料は2時間で5000円です、と1円もおまけしない姿勢を見せた。結局私は出張料5000円と定食代2000円と合計7000円も使ったのだった。  帰ってから彼にメールで「あの爪はちょっとどうかと思う」と送ると、「あの日はお手入れし忘れちゃってました」と返ってきた。でもあの指は間違いなく、日ごろからお手入れなどしていない。 「遊ぶ金が欲しい」と彼は繰り返していたけれど、自分が遊ぶ金を得るためには、まずお客様を楽しく遊ばせなければならないと思うのだけど......。少なくとも私はもう二度と彼を指名しないだろう。
2012/09/27 00:00
逆ナンイベント、5000円。
逆ナンイベント、5000円。
 先日、拙著『イケメンと恋ができる38のルール』出版記念にと、友達のひろこちゃんが逆ナンイベントを開催してくれた。  お姉様と遊びたい若い男性と、若い男性と遊びたいお姉様とのマッチングパーティーで、お姉様は気に入った男性を選んでお酒を飲むことができるという。ただしその時は、その男性の飲み代は、こちらもち。というルールだ。  会費は1人5000円。男性の分を払ったとしても10000円なのだから、本当のホストクラブに行くより安く済むのもありがたい。もちろん私はいそいそと出かけた。  会場に行くと、ズラリと10人ほどの男性が揃っている。ほとんどの人がスーツだ。スーツなのだけれど、仕事帰りらしく、イケメンと恋ができる38のルールが輝いている人もいる。  それに対して女性はなんと2人しかいない! 聞くと男性の反応は素晴らしく良かったのだけれど、女性の参加者がなかなか集まらず苦労したようだった。  どうやら、年下男性におごってあげてまで一緒に飲みたいという気概のある女性はまだまだ少ない様子。肉食女子が増えたとはいわれていてるが、金銭面では対等でいたいというのが、本音なのだろう。  それに比べて男性陣の集まりの良さは驚きである。聞くと、元役者志望、歌手志望、それからIT系サラリーマンという顔ぶれだった。平均年齢は25歳。  選ばれたそうに私を見つめる彼らの瞳に、私は驚いた。ほんの少し前だったら、このイベントの企画自体「そんなホストみたいな真似をするのはイヤだ」と拒む男性が続出しただろう。不況のせいで女性の経済力を頼りにする男性が増えたとニュースで見かけたけれど、目の当たりにすると、衝撃だった。  さて私はこの逆ナンイベントでどうしたかというと、実は、誰も指名しなかった。たった1人だけ選ぶと残りの9人の男性達が、一気にシラけてしまいそうで怖くて決められなかったのである。  でもその夜は素人男性達に、「脚が綺麗ですね」「すごく知的ですね」などとおだてられ、かなりイイ気持ちになれた。もうちょっと押してくれたら、思い切って財布を開いちゃってたかもしれない。でもギリギリのところでお互いに留まった。それでよかったのかもしれない。だってこれはあくまで一夜限りの試みだったんだもの。  でももう少し女性たちが男性に奢ることに慣れてくれば、こうしたイベントは各所で行われるようになる気がしてならない。私はそれをあと2?3年後と読んでいる。
2012/09/27 00:00
宵っ張りが楽しむ真夜中のツイッター
宵っ張りが楽しむ真夜中のツイッター
 昨日(11/24)の明け方、地震がありました。4時半くらいだったかな。  最近はテレビをつける前に、ツイッターを見ます。  ニュース速報も含めて、ここが一番情報が早い。  僕のタイムラインで、いっせいにいろんな人が「ゆれた」「地震だ」とツイートしてるのですが、その数に呆れました。明け方の4時半なのに、数多すぎ。  確かに映像関係や芝居関係の人間を中心にフォローしているからなんでしょうが、同じような業種だと同じような生活サイクルになるんでしょうか。  その日も朝9時過ぎまで〆切の原稿書いていて、それから寝たのですが、同じような時間帯で仕事をしている人がいて、結構うれしいものですね。 「ああ、一人じゃないんだ」と。  ただ、身体に負荷かけているのは確かなんでしょうね。みんなそれなりの年齢になっているし、考えなきゃならないなとも思います。  ライターの中にも、ちゃんと朝7時ごろ起きて、夜12時頃眠るという方もいますからね。  元来、宵っ張りのタイプで、就職を出版社にしたいと思ったのも、ひとつには「出社が昼過ぎでいい」という話をきいたからです。  そのくらい夜更かしが好き。朝が弱いというよりは、夜更かしが好きなんですね。  会社員時代、「50を過ぎると朝型になるよ」と先輩に言われたりしたのですが、全然そんな気配はありません。  むしろ午前四時頃からスパートかけて、ここから六時くらいの二時間でどこまで仕事ができるかが、一日の仕事量の目安だったりします。  いや、これはさすがにあんまり遅すぎるんじゃないかなと、ちょっと反省したりもしてたんですが、ツイッターで同じようなことをつぶやいていた年長のイラストレーターの方がいて、思わず「ですよねー。やっぱそこからが勝負ですよねえ」なんてツイートしあったりしてしまいました。  昔だと電話くらいしかなかったのですが、今はツイッターやフェイスブックなどで、夜中でも多人数でひとつの話題を共有、展開できるので、面白いですね。  一人のつぶやきに端を発して話題が予想もしなかった方向にどんどん展開していったりするのは、学生時代、アパートで友人達と夜中に馬鹿話で盛り上がる感覚に似ていて、実に楽しいです。  それも〆切間際に限って、面白い話になったりして。あれ、不思議なものですね。  まあ、ここのところずっと〆切に追われていて、家から一歩も出ない日が、一週間に一二度あったりするのがざらになってきたので、なおのこと電脳空間で遊んでいるのかもしれませんが。  もちろん、ツイッターなんて誰が見ているかわからないので、「往来で大声で独り言を言ってるんだ」という感覚を忘れてはいけないと思いますが。  最近、若い人がツイッターやSNSで、飲酒運転とか万引きとかをつい発言してしまうのをニュースなんかでみるたびに、そのことを思い知らされます。あれ、きっと友達にメールしている気分になるんでしょうね。
2012/09/27 00:00
『ぴあ』休刊につきない思い出
『ぴあ』休刊につきない思い出
 夜中にツイッターのトレンドを見ていると、今現在、数多くつぶやかれているキーワードがわかります。  おかげでニュースを見てなくても、築地市場の火事も、なでしこジャパンのワールドカップ決勝進出も、リアルタイムで知ることができます。  こういう情報の共有スピードの速さを体感すると、これまでの情報提供サービスは新しい形にならざるを得ないなと感じます。  情報誌なんて本当に時代遅れになってしまったんですね。 『ぴあ』首都圏版も来週の7/21発売号で休刊になりますが、それも仕方のないことなんだろうなと思います。  思いますが、しかし、寂しい。 『ぴあ』という雑誌は、東京生活の象徴でした。  最初に知ったのは大学受験で東京のいとこの家に泊まった時。  一つ下のいとこが、買っていたんですね。  そこには映画や演劇の情報がビッシリ。 「さすが東京、こんな便利な雑誌があったのか」と驚きました。  そして無事大学に合格して、東京暮らしが始まると、『ぴあ』は僕の生活の必需品になりました。  当時は月刊誌。値段は100円か150円。確か150円だったかな。  買うと、まず映画欄を確認して、行きたい映画をチェックします。  まだ名画座がたくさんあった時代です。しかも自分が通っている立教大学がある池袋には文芸座という有名な名画座がありました。  一階は洋画、地下は邦画。週替わりの二本立てですが、土曜の夜はオールナイトで四、五本上映する。  入場料は通常が300円くらいだったのですが、これが『ぴあ』をもっていくと100円割引になる。他の名画座でも『ぴあ』割引はあったので、二三回名画座に行けば、この雑誌代くらいは、元が取れてしまうんです。  金のない学生には本当にありがたかった。  田舎暮らしで、まだビデオもない時代。とにかく見損ねていた映画が観たかった。東京に行けば映画と芝居を好きなだけ観る。そう決めて、高校時代からコツコツそのための費用を貯金していたのですから、もう毎日のように映画館に通っていた。  一番多い時では、丸一日で文芸座だけで9本観たかな。土曜の午後、文芸座でまず2本、夕方アパートに帰って仮眠を取って、夜9時か10時くらいから始まるオールナイトに出かける。ここで5本観て、朝、時間を潰して、文芸地下で一番の回に入って2本観て家に帰るというのをやりました。これで映画代は全部で1500円いかなかったんじゃないかな。  まあ、体力だけはあったということです。 『ぴあ』を片手に名画座は随分回りましたね。佳作座、早稲田松竹、江古田文化、板橋東映、黄金町や座間あたりまで行った事もあったな。当時は小田急沿線だったので、関東西部がメインだった。  大学一年生の時に、一年間で300本近く映画を観たのですが、二年になって、ふと「あれ、俺、なんで大学に友達がいないんだろう」と思い、「あ、そりゃそうだ。だって学校よりも映画館にいる時間のほうが長いじゃないか」と気がついて、二年目からはさすがに減らしました。それでも年間100本は観ていたな。  演劇でも、随分お世話になりました。  映画以上に情報がないので、とりあえず芝居のタイトルだけで観るものを決めたりとか。  『ぴあ』の魅力はそれだけではありません。「はみだしYOU&ぴあ」という雑誌の両サイドで読者投稿を載せていたのですが、そこに掲載されるのが学生の憧れだったり、クロスワードのイラストが、高校時代好きだったマンガ家の大矢ちきさんだったり、隅から隅まで楽しめた。  読者プレゼントで月光仮面のポスターが当たり、お茶の水のレコード屋まで受け取りにいったこともあったな。編集部からの発送ではなく、自分でお店にもらいに行くところが、いかにもタウン誌らしいなと感心したりもしました。  そしてなにより、「ぴあテン」と「もあテン」です。 「ぴあテン」は今でも続いているのでご存じの方も多いでしょうが、その年に公開された映画や演劇のベストテンを読者投票で決める。 「もあテン」は、自分が観たい過去の作品の人気投票ですね。オールタイムベストテンということで、その頃は映画だと一位はだいたい『2001年宇宙の旅』だった。当時はビデオもなくリバイバル上映の機会も少なかったので、幻の傑作SF映画という評判だけが一人歩きしていたのです。この企画は、映画会社へリバイバルを促す意味もあったのかもしれませんが、気がついたらなくなっていました。ビデオレンタルが始まり、好きな映画を好きな時に観られるようになったからでしょうか。「ぴあテン」の演劇だと、当時はやはりつかこうへい事務所全盛期でしたね。新作として『いつも心に太陽を』や『広島に原爆を落とす日』、『蒲田行進曲』が公演されていた時代でした。あと、東京キッドブラザース、東京ヴォードヴィルショー、東京乾電池なんかが人気でしたね。もちろん状況劇場も、唐十郎を筆頭に李礼仙、根津甚八、小林薫、十貫寺梅軒、不破万作などなど役者の黄金期だったのではないでしょうか。  そういうそうそうたる劇団をながめながら、いつか自分の芝居がここに載る日が来ればいいなとぼんやり憧れたりしていたものです。  その後、劇団☆新感線として、随分と雑誌『ぴあ』にお世話になるとは思ってもいませんでした。 特に関西版は、編集部が、新感線の稽古場と同じ扇町ミュージアム・スクエアにあったりして、縁を感じたものです。 『ぴあ』が隔週になり、こちらは会社の仕事が忙しくなり、学生の時のように、一冊丸ごとしゃぶりつくすような読み方はしなくなり、やがては買わなくなってしまいました。  それでも、自分にとって、確実に一時代の戦友だった雑誌がなくなるのは寂しいものです。  最終号くらいは、じっくり読んでみたいですね。
2012/09/27 00:00
五輪サッカーFW永井選手は意外にも「草食系」だった
五輪サッカーFW永井選手は意外にも「草食系」だった
 関塚隆監督率いるU-23日本代表は、優勝候補と目されるスペインと、続くモロッコに、いずれも1-0で勝った。なかでも、スペインの敵将に「あれは驚異」と言わしめたのはFWの永井謙佑。その爆発的なスピードに強豪スペインでさえ、度肝を抜いたのだ。サッカージャーナリストの安藤隆人は永井についてこう語る。 *  *  *  50メートル5秒8の俊足を生かし、DFを置き去りにするドリブルや裏への飛び出しがウリだが、単純に速いだけでない。父親の仕事の都合で3歳から8歳までブラジルで過ごし、ストリートサッカーに興じた。サッカー王国で磨いた技術を土台にした滑らかなボールタッチ、リズミカルなドリブルは際だっている。  一夜にして時の人となった永井だが、エリート街道を歩んだわけではない。  中学卒業時は、Jリーグの下部組織や地元・福岡の強豪校などから声がかからず、新興勢力だった九州国際大付属高枚に進学。高3で全国高校選手権に初出場したものの、2回戦で姿を消した。高校卒業時もJリーグから声がかからず、福岡大へ。そこでそのスピードを最大限に生かす術を身に着けた。あまりに足が速すぎて、試合中にラインズマンが追いつけなかったという逸話すらある。  そして2008年のAFC U-19選手権得点王、09年のユニバーシアード得点王、10年の広州アジア大会得点王に。同年の南アフリカW杯ではサポートメンバーに選ばれ、名古屋グランパスエイトに入団した。  爆発的なスピードで敵を狩るスピードスターだが、非常におっとりした人柄で、いわゆる"草食系"。常に笑顔で、インタビューでも自分のテンポで話す。 ※週刊朝日 2012年8月10日号
週刊朝日 2012/09/26 00:00
妻が寄せた手記 ジャーナリスト黒木昭雄氏一周忌
妻が寄せた手記 ジャーナリスト黒木昭雄氏一周忌
 先日、お父さんの夢を見ました。無言で帰宅したあと、 「冗談だよ!」  と言うお父さんにしがみついて泣いたところで目が覚めました。この夢のことは子どもたちに話すことができませんでした。つらく、苦しいことを思い出すことになりますから……。  お父さん――。  子どもが生まれてからずっと、1歳年下の主人をこう呼んできました。そのお父さんが突然、私たちの前からいなくなってもう1年です。  2010年11月1日、夕方4時ごろ。「週刊朝日の副編集長と打ち合わせがある」と言って、いつもどおり、車で出かけました。  着るものは私が用意しました。お気に入りの茶色のジャケットです。 「寒くなってきたから、これがいいネ」  と。出かけるとき、 「いい仕事してくるから」  と親指を立てました。その前の数日は体調がよくなかったのです。 「よく眠れない」  と言っていました。医師にはうつ病と言われていたようなのです。私には全然そうは見えなかったのですが、心配をかけまいと、笑みをくれたのでしょう。  そして、「行ってくる」とのあいさつ代わりのクラクションを鳴らしました。  1時間くらいして、 〈渋滞してたけど、無事、着いたよ〉  とメールが来ました。しばらくして、 〈久しぶりに会ったのでお酒を飲みました。ホテルをとってもらったので、明日の朝、帰るネ。戸じまりして早く休んでください。スマン〉  とメール。久しぶりに会って熱心に話をしているものだと思い、電話はしないで、メールで、 〈了解です。家の方は大丈夫です。のみすぎないようにネ〉  と返信しました。すると、 〈ハイ、ハイ〉  とまた返信が来ました。  翌朝にも、 〈昨晩はおいしいお酒をのみました。かえりに親父の墓に寄ってから帰るネ〉  とメールが来ました。普段どおりの頻繁なメールのやり取り。だから、私もいつもどおりに仕事に行きました。  しばらくして、息子(22)からの電話でお父さんから来たメールの内容を聞きました。 〈わかっていると思うが、お母さんを頼む。力仕事と草むしりを拒むな。あの世でお前の成長をおじいちゃんに伝えておく……〉 「ウソでしょう?」  と思い、家に帰りました。  そこへ、バイク仲間の方から電話があり、その方にもおかしなメールが来ていることがわかりました。急いでお墓のあるところへ行くと、お墓の前でお酒を飲んだ跡がありました。  市原警察署で事情を話しているとき、お墓に行っていた息子から電話がありました。 「親父、見つかったよ......」  と。それからまたお墓へ行きました。さきほど、私が車をとめた奥に、壁で遮られていた場所があり、見慣れた車がありました。その横に、毛布にくるまれたお父さんが横たわっていました。  シャツの胸ポケットには短い包帯が巻かれていたものが入っていました。それは12年前、義父が病院で亡くなったときに手に巻いていた包帯でした。  お父さんの手はまだ温かく、柔らかでした。目の前のことが信じられず、頭の中は真っ白でした。  お父さんの携帯で、前日に会うと言っていた週刊朝日の方に電話しました。すると、「昨日は会っていない」ということでした。  懇意にしていただいている清水勉弁護士から私の携帯に電話がありました。お父さんの手紙(遺書)が書留で届いたという話をされたということですが、清水弁護士と何を話したのか、よく覚えていません。 ◆岩手の事件との出会いは"運命"◆  お父さんは警察署で検視を受け、夜遅く家に戻りました。東京で働いている娘(25)もすでに帰宅していました。テーブルの上の私の置き手紙を見て泣いたとのことでした。それは、私が仕事に出かける前にいつもどおりに残しておくメモでした。 〈お父さん、おつかれ様。ゆっくりしていて下さい〉  その後、警察の方や週刊朝日の方など、いろんな方が来てくれました。  私や娘、息子、そして、姪がお父さんを囲んで一夜を過ごしました。「これは夢なんだ」と何度も思いました。目を閉じて開けたら、そこにお父さんの元気な姿があるのではないかと。すべては夢なんだと。でも、お父さんは何も言いません。 「何で。何で」  と何度も叫びました。 「通夜、葬儀は家族葬で」  というのが生前の希望でしたので、そうしました。死に顔を他の人には見られたくなかったのでしょう。 でも、たくさんの方が来てくださいました。  葬儀が終わり、お父さんはお骨になって家に戻ってきました。日がたつにつれて淋しさ、悲しさ、悔しさが募って仕方ありません。  私宛ての遺書には、 〈人生を全うしてほしい〉  とありました。でも、どう人生を全うしたらいいのか、毎日考えています。  私はお父さんの仕事が大好きでした。尊敬していました。だから、岩手の事件(三陸少女殺害事件=囲み)に没頭していたときも、静かに見守っていました。  テレビ局の仕事で現地取材に行って、自宅に戻ってきたときは本当に興奮していました。 「この事件はおかしい」  と。それから突っ走っていったように思います。ジャーナリストになって10年。 「この事件に出会ったのは運命だ」  と話し、岩手の事件にすべてを懸けていました。岩手県警が指名手配し、警察庁が懸賞金までかけて行方を追っている容疑者とは別に真犯人がいると信じていたのです。自分の働きで事件の真相に少しでも近づくことができたら本望だと考えていたのでしょう。 「警察やマスコミはやるべきことをやってほしい」  と。岩手の事件の捜査は誰が見てもずさんなものです。でも、警察もマスコミも動かなかった。  私も警視庁の警察官でした。警察学校に入って最初に覚えるのが自分の職員番号と「警察法」第2条です。 〈警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもってその責務とする〉  この意味をすべての警察官は理解しているのでしょうか?  お父さんは命の大切さを知っていたはずなのに、最後の、最後の手段として死を選んだ。そうすることで、岩手の事件に関心を持ってもらって、動いてほしいと心から思っていたことは事実だと思っています。  一昨年、真相解明を求める署名活動で1カ月、家を留守にしたときも、朝7時前から夜まで道路脇に立ち、地元の方々と一緒に一生懸命署名を集めました。署名が集まれば岩手県が動いてくれると信じていたのです。 ◆家族はいちばん小さな組織だよ◆  でも、お父さんが心血注いで取材した内容をまとめた50枚を超える情報提供書を岩手県は読んでくれたのでしょうか? 真相解明を求める2600人以上の方々の署名を岩手県はどう思っているのでしょうか?  お父さんは私にとって、ふたりの子どもにとっていちばん大事な、大切な人でした。その人をこれほどまでに苦しめた人たちを恨みます。  このままでは、お父さんの死が無駄になってしまうのではないかと、悔しくて、悔しくて、仕方がありません。岩手の事件が全面解決とならなければ、お父さんの想い、志は無駄になってしまいます。私たちの思いはただひとつ。真実を調べてほしいということ……。  事件の取材にかかって2年あまり。同時に2冊目の警察小説も、ある出版社から出せると頑張って書いていました。編集者と何回も打ち合わせをし、何度も書き直しました。でも、出版の話はダメになりました。  この小説はお父さんが最初に配属され、私たちふたりが出会った警視庁本富士署を舞台にしたものです。現地に何度も行き、ビデオに撮っては原稿の完成に力を注いでいました。それほど強い思い入れがあっただけに、さぞ悔しかっただろうと思います。何か妨害があったのでしょうか?  結局、2冊目の小説は、友人の計らいでネットで公表してもらい、出版社のインシデンツから『誤認手配』というタイトルで出版してもらう予定です。  1冊目の小説『臨界点』も、あるテレビ局でドラマ化されるという話がありました。脚本まで書いていただいたのに、この話もボツになりました。何かと敵視していた警察がドラマ化を邪魔したという話も聞いたことがあります。  今回のお父さんの件では、清水弁護士はじめたくさんの方々に心配していただき、私たち残された家族はどれだけありがたかったか、言葉にできないくらいです。  半面、警視庁の知り合いはほとんど来てくれませんでした。私の知り合いも、お父さんと仲良くしていた人も来てくれませんでした。お父さんを警察の敵だと今でも思っているのでしょうか? これほど警察を思っている人はいません。  10月19日に33回目の結婚記念日を迎えました。昨年の記念日には、お互いに、 「33年目もよろしく」  と言い合っていたのに。  私たち夫婦は本当に仲の良い夫婦だったと思います。私はお父さんのことが大好きでした。お父さんも私を大事にしてくれました。専業主婦を8年間した後、少しずつ仕事をしていましたが、お父さんがいたから、のびのびと仕事ができたのだと思います。 「家族は世界でいちばん小さな組織だから」  お父さんがよく使っていた言葉です。  あるとき、ふたりで朝のゴミ出しに行って、お父さんがこんな話をしました。 「俺たちにとって宝ものって何だろう?」 「もちろん、ふたりの子どもたちでしょう」 「そうだよな。ふたりとも自分の生きる道を見つけてくれて、ありがたいな」  今もひとりでゴミを出しに行くと、そのときの会話が思い出されます。  東日本大震災では署名活動で回った地域がだいぶ被害を受けたと聞いています。もし生きていたら、すぐに現地に飛んでいっていたことでしょう。 (構成・西島博之)      * 黒木昭雄(くろき・あきお)1957年、東京都生まれ。76年、警視庁入庁。23回の警視総監賞を受賞し、99年、荏原警察署巡査部長を最後に依願退職。以後、ジャーナリストとして活躍。著書に『栃木リンチ殺人事件』『神戸大学院生リンチ殺人事件』(ともに草思社)など。正子さんと78年に結婚、長女(25)、長男(22)をもうける。 <三陸少女殺害事件> 2008年7月1日、岩手県川井村(現・宮古市)の沢で、佐藤梢さん(当時17)が絞殺体で発見された。岩手県警は容疑者として無職の小原勝幸氏(当時28)を指名手配し、警察庁は100万円の懸賞金をかけた。しかし、黒木昭雄さんの取材によって、事件当時、小原氏は利き手である右手を痛めていて絞殺は不可能だったことなど、捜査に関して多くの疑問点が浮上した。その後、殺害された梢さんの遺族と小原氏の家族が再捜査を求めるなど異例の展開となり、事件の解明を求める署名を県副知事に提出した。しかし、何の動きも起こらず、警察庁は、黒木さんが亡くなった10年11月1日、小原容疑者の懸賞金を300万円に引き上げた。 週刊朝日
週刊朝日 2012/09/26 00:00
我が家だからできる「心ゆくまでのお別れ」
大川恵実 大川恵実
我が家だからできる「心ゆくまでのお別れ」
◆「今日もいい日になるぞ」、ふたりで毎朝眺めた日の出◆  東京都小平市の幸崎順子さん(63)が暮らすマンションの居間には、夫の啓也さんの遺影が飾られ、水や花が供えられている。よくある風景とひとつ違うのは、写真の前の両手で抱えられるぐらいのガラス球体だ。パウダー状にした啓也さんの遺骨が入っている。 「君のそばにいたい」  啓也さんはそんな気持ちで墓に入らない手元供養を選び、納まりきらない骨を新婚旅行で回った九州などに散骨してほしいと願った。  マンションの目と鼻の先にはテニスコートがある。大のテニス好きの啓也さんは、よくここでテニスを楽しんだ。小学校の同級生だった順子さんともテニスがきっかけで結婚した。転勤が多いサラリーマン生活で、単身赴任が終わった矢先に前立腺がんが見つかった。主治医は啓也さんに、 「もう末期です。あと1年もつかな」  と唐突に告げた。2005年11月のことだ。 「悔しい、悔しい」  と啓也さんは泣いた。  入院後に大腸にも転移が見つかり、手術をした。その後も入退院を繰り返したが、06年6月には、半年もたないだろうと言われた。  啓也さんは抗がん剤治療を拒み、痛みを除いてもらうことだけを望んだ。そして、家に帰りたがった。同室の末期がん患者たちが亡くなるのがつらいという。家の食事も恋しがった。  ヘルパーの資格を持つ順子さんは、家で看取ることを決意する。離れて暮らすが、看護師の娘と介護士の息子の存在も心強かった。  まず家の改修を頼んだ。車イスで移動できるように、床をフローリングにして段差をなくす。トイレや風呂に手すりをつける。すべて介護保険でまかなった。  8月から在宅看護が始まった。娘の勧めで依頼したケアタウン小平の山崎章郎医師は、初めて自宅に来たとき、「もう安心して」と順子さんの肩に手を置いた。啓也さんとも握手を交わして、山崎さんは言った。 「余命は半年かもしれないけど、その間にやることをやって家族といっぱい楽しんでください」  訪問診療が週に1回、ほかに週1回の訪問入浴と、訪問介護が2回来た。水曜日にケアタウンのデイサービスへ出向くこともあった。痛みが出た際、転移による骨折の疑いもあり、一時的に入院して症状をコントロールしたこともあったが、それ以降は、家で痛みを緩和できた。  家にいることで、人生の終い支度もできた。アルバムをめくりながら、 「この写真、君は欲しいか? 僕はいらないと思うよ」  そうやって一枚一枚、啓也さんが持っていきたいもの、順子さんが持っていたいもの、そして捨てるものの三つに分けていった。 「来年、僕は生きていないから夏服はいらない」と洋服も処分し、棺に入る際のワイシャツやブレザーを自分で選んだ。無宗教の音楽葬も生前予約した。  順子さんは食事の準備やトイレの介助、おむつ交換などをした。カニやうなぎが食べたいと啓也さんが望めば、買いに出かけた。病院では食事が出て楽な半面、好きなものは食べられないし、ほかの患者に気兼ねして話しづらいこともある。やはり家は自由だった。 「ケアタウンで診てもらえるようになって僕は生き返った、自分らしく生きられるようになった。夫はそう話していました」  啓也さんのリクライニングベッドは、8畳ほどの部屋に置いた。順子さんはその隣にふとんを敷いて寝た。 「順子、順子」  明け方、啓也さんは決まって呼んだ。 「なあに?」 「日の出だよ、日の出」  東側の窓から、日の出が見える。ゆっくりと昇る大きな太陽をふたりでずっと見ていた。ベッドを起こし、朝日を眺める啓也さんの横顔に光があたり、次第に明るくなってゆく。 「きれいね」  順子さんが言うと、いつもこう返した。 「今日もいい日になるぞ」  11月20日の朝は、夫が8回、ささやくように妻の名前を呼んだ。このころ啓也さんの体は急激に弱っていた。決まり文句を、この日は順子さんが言った。 「今日もいい日になるよ。大丈夫よね」  すると、夫の声が小さく聞こえた。 「もうだめだ。ありがとう」  翌日、啓也さんは家族に囲まれて眠るように息を引き取った。58歳だった--。  4年が過ぎたいまも、順子さんは、ふたりで見た日の出の光景を思い出す。朝日を浴びた夫の横顔がよみがえってくる。 ◆スパゲティに親子丼……母の手料理で笑えた日々◆  2005年の秋、ケアタウン小平が開設されると知って、東京都府中市の高橋操さん(71)、清賀子さん(71)夫妻は、オープン前に見学に出かけた。そのときはまさか、わが子がここで世話になるとは考えていなかった。  間もなくして、娘の美峰子さんに異変が起こる。この年の春、美峰子さんは卵巣を取り除く手術を受けていた。腫瘍ができ、妊婦のようにおなかが膨れ上がった。  だが「がん細胞ではない」との診断で、その後は経過を見つつ、高校教諭の夫と2人の子どもとの暮らしに戻れていた。それが、再び体の不調を訴えるようになったのだ。目まいが激しく、楽しみにしていた子どもの運動会でも、まともに立っていられない。  清賀子さんは美峰子さんとともにケアタウン小平を受診した。 「採血の結果、重い貧血がありました。すぐに入院して、手術を受けた病院でしっかり検査してもらってください」  山崎さんが言った。  しかし、体が弱っていたところに検査、検査の連続で、美峰子さんはみるみる衰弱していく。検査のために何日も食事を抜いた。その周りで、同室の患者たちが食事を取る。食べ物を口に運ぶ音やにおいが三度三度、美峰子さんのベッドまで運ばれてくる。  食べることが生きがいの娘にとって拷問に等しい、と清賀子さんは感じた。 「もう無理です。家に連れて帰りますから」  連絡を入れ、自宅に帰るとものの30分で山崎さんがスタッフとやってきた。美峰子さんは、ケアタウン小平の患者第1号となった。  卵巣の腫瘍は実はがんで、小腸に転移しており、そこからの出血で、助かる見込みはなかった。だが美峰子さんは、入院していた約3週間とは見違える時間を過ごした。すっかり食欲を失っていたのに、親子丼やらスパゲティやら、清賀子さんが作る料理を平らげた。 「とにかくまあ、よく食べましたね。それでも足りずに、そっちでにおいがするけど、それ何?なんて」  清賀子さんがお茶をしていると、口を挟んできたりした。病院で"拷問"だった食事が、家では生きる喜びに変わったのだ。  両親だけでなく、勤務先の理解が得られた8歳下の弟もほぼ毎日付き添った。ケアタウンのスタッフは時には一日近くいて、入浴の介助やアロママッサージ、顔のパックまでしてくれた。  よく日のあたるリビングに置かれたベッドで好きな音楽に囲まれ、美峰子さんはよく食べ、よく眠り、よく笑った。家に帰ってきたときは歩けなかったのに、亡くなる前日までトイレに自力で行けた。  これなら、病に勝てる。清賀子さんが希望を感じるほどだった。 「ママ、ありがとう」  最期は小学5年生の娘、3年生の息子と夫からの感謝の言葉に送られ、38年の生涯を終えた。しばらくして、美峰子さんが家族あてにメッセージを書いたノートが見つかった。 〈安心しています。これから2人のこと、よろしくお願いします〉 〈子どもたちには、あまりきつく当たらないでくださいね〉  鉛筆で書かれた、しっかりとした文字だった。病院でなく、家で書いたのだろう。家族やスタッフに囲まれた、穏やかな時間があったからこそ、別れの言葉を残せたに違いない。清賀子さんはそう思っている。 ◆困ったときには何度も電話、密なサポートが大きかった◆  約束を忘れる。話の辻褄が合わない。島本一道さんにそんな症状が目立ち始めたのは2006年春だった。証券会社などに勤めた後、1997年に自らヘッドハンティングの会社を起こした一道さんは、深夜に帰宅したり、夜中でも海外と連絡を取ったりしていた。  妻の多江さん(51)と病院へ行くと、悪性の脳腫瘍と診断された。入院して手術を受けたが腫瘍を完全に取り除くことはできず、余命は約6カ月と言われた。  大学生の長女、海外の高校に留学していた長男、高校受験を控えた次男。職場結婚だった多江さんとの間に3人の子がいたが、一道さんは比較的、冷静に受け止めたようだった。3人の将来は心配だが、自分はやりたいだけ仕事をやり、食べたいものも食べ、行きたいところへも行った、と。  脳腫瘍の患者は安定した状態が続くこともあるからと、医師は在宅での療養を勧めた。とはいえ、どこに相談すればいいか見当もつかない。多江さんが小平市役所に相談すると、「この中からケアマネジャーを見つけてください」と一枚のリストを渡された。何件目かの電話で、自宅から歩いてすぐの距離にあるケアタウン小平を教えてもらった。  体調に応じ、医師の診察が月に1、2回、訪問看護と訪問入浴が週に1、2回、水曜日にはケアタウン小平のデイサービスに通った。  自宅で近所の子どもたちに英語を教えていた多江さんはこの間、休むことなくレッスンを続けた。  家で療養するにあたって、多江さんがもっとも恐れたのは一道さんの発作だった。発作が来ると、電池が切れたようにその場に倒れてしまう。意識を失い、激しいけいれんを起こすこともある。自分ひとりでうまく対応できず、それが原因で命を落としてしまったら--。そんな不安を山崎さんや看護師に打ち明けると、 「発作はどこにいても起こり得る。家での対処法はあるので、落ち着いてできることをすればいい。わからないことがあれば電話をください」  と励まされた。 「いつでも電話できる安心感はすごく大きかった。それがなければ、自宅では見られなかったと思います」  と多江さん。実際、何度電話したことかわからない。  病院では医師にも看護師にも良くしてもらったとの思いはあるものの、遠慮もあり、自分の聞きたいことや伝えたいことを言えずじまいだった。家では違った。  一道さんの食欲が落ち、体もやせ細ってくると、もう少し食べたり飲んだりしてほしいと思う。それを山崎さんに伝えると、「食事を受け入れる力が衰えているところに無理に食べ物を入れると、苦痛の原因になることがある」と説明された。密に会話を重ねることで、ひとつひとつの対処に納得できたという。  そんなサポートを得ていた多江さんも、心が悲鳴をあげたことがある。看護のかたわら、夫の会社をどう残すかという心労と、末の子の受験の心配が重なった。 「もうできないかも」  ある日、一道さんのベッドのそばで、多江さんは涙をこぼした。そのころ一道さんは言葉が出ない状態だったが、多江さんの手をぎゅっとつかんで、「大丈夫、大丈夫」とでも言うかのようにゆすってくれた。 「夫の気持ちがすごく伝わってきて。頑張らなくちゃ、頑張れる。そう思いました」  2007年7月11日、前日の夜中に大きなけいれんが起き、一道さんは50歳で亡くなった。病院では患者が目の前にいるのに心電図ばかり見てしまうことが多いと聞いたが、多江さんは子どもと4人、大泣きしながら、しっかりと見送れた。 ◆悲しみは大切なものとして持っていていい◆  幸崎順子さん、高橋操さん、清賀子さん夫妻、島本多江さんはいずれも、ケアタウン小平の遺族会「ケアの木」の世話人を務めている。「ケアの木」は、遺族が定期的に交流できる場として、3年前にできた。互いの死別体験を語り、悲しみやつらさをわかち合う。  山崎さんはこう語る。 「元気そうに見えて心に長く喪失感を抱えている方もいます。でも、悲しみは大切なものとして持っていていいんです。いつでも参加でき、どういう気持ちでいてもいい場所があることが大事だと思っています」  すでに100人を超える会員がいる。家で看取った人が多いが、病院で看取った人もいる。共通するのはスタッフへの感謝の気持ちだと世話人代表の豆白洋司さん(65)は言う。  幸崎さんは夫を失って2年ほどは、ケアタウン小平に足を踏み入れることができなかった。感謝の気持ちを伝えたい。でもみんなの顔を見た途端、つらさが一挙にあふれてしまう。 「それで朝、散歩と称してケアタウンの前に行って、お辞儀だけしてました。そうしたら偶然、山崎先生に会って、ボランティアにおいでって誘われたんです」  現在は夫がデイサービスに通っていた水曜日に、おかずづくりなどを手伝う。 「いまも一人で寂しくて、泣きながら自転車をこいでケアタウンに行くこともあります。夫のことを知っている看護師さんたちに会えるのが何よりうれしい」  島本さんも、水曜日にボランティアに行っている。 「大してお役に立てないので、むしろ行かせていただいてる感じです(笑い)。3年目には3年目なりの、10年目には10年目なりの悲しみがある。遺族会やボランティアの場は、それが癒やされるところです」  遺族もまた、ケアタウン小平の活動を支えている。      * ケアタウン小平:「24時間の在宅ケア」と「末期がんの患者に限らないホスピスケア」を理念に掲げ、2005年に開設。訪問診療や往診を専門とする山崎章郎医師らのクリニックや、訪問看護ステーション、デイサービスセンターなどが入る 週刊朝日
介護を考える終活
週刊朝日 2012/09/26 00:00
【トリック政局】 戦犯はお前だ
【トリック政局】 戦犯はお前だ
◆菅 相も変わらぬパフォーマンス癖◆  絶体絶命のピンチを乗り切った夜、記者会見で菅首相は時に薄ら笑いを浮かべていた。 「僕も会見に行きましたけど、妙な笑顔で『一定のメド』『一定のメド』って、つまんないお約束のギャグかよって感じでしたね」  政治ウオッチャーとして知られるお笑いグループ大川興業の大川豊総裁はあきれる。 「市民活動家あがりの人って、外に向かって何かを訴えるより、たぶん内部闘争が大好きなんですよ。だから『どうだ、俺はこの難局をまた乗り切ったぞ!』って勝ち誇った気分なんじゃないですか」(大川総裁)  そんな菅氏のふるまいこそすべての混乱の元凶だと、政治ジャーナリストの野上忠興氏は話す。  総理の座に就くまでは権力闘争に明け暮れても、いざ総理になったら、最高指導者たるもの、恩讐を超え、懐を深くして舵取りをすることが求められる。ところが菅氏がやっていることは、相も変わらぬ権力闘争だ。 「民主党議員全員での『412人内閣を』と公言しながら、実際は小沢をヒールに仕立てて自分は正義というイメージを振りまいてきた。不信任案の採決前に『鳩山さん、小沢さんと話をしたい』と言いながら、実際に会談したのは鳩山だけで小沢には電話すらしていない。これでは小沢が『もはや、これまで』と見限るのも当然です」  パフォーマンスに走る癖も抜けていない。日中韓首脳会談の開会式を福島で開くことにこだわったことがいい例だ。 「中国側の関係者は、菅のパフォーマンスに『ばかばかしくてやってられないよ』とあきれてましたよ」(野上氏 ) そんな軽薄さが被災地にさらなる災いをもたらしている。政治評論家の森田実氏はこう憤る。 「被災地を回って現場の声を聞いていると、菅直人が復興の障害になっているんですよ。3カ月たっても被災者にほとんどカネが配られていない。陳情に行ってもたらい回しにされる。戦後も阪神大震災の後も、時の政府は職を失った人たちのために雇用を生み出す努力をしてきました。そうした努力が今回はまったく見られません」  金融関係者たちも、菅氏の居座りが景気の足を引っ張ると断言する。 「たとえば停止された原発の再稼働は住民感情を考えると難しいでしょう。しかし、それに対する具体的な対応策は練られていません。バランスの取れた経済感覚はなく、感情的、短絡的に世論受けする発言を繰り返している」(独保険会社アリアンツの資産運用部門RCMジャパン・寺尾和之最高投資責任者)  それでは菅氏はいったいいつ辞めるのか。  菅氏をよく知る人物は、 「菅さんの話を『永田町用語』に翻訳したらダメ。語義どおりに読まないと」  と語り、菅氏の思いをこう代弁する。 「延命とか政権にしがみつくなんて意識は菅さんにまったくない。それは寿命が過ぎている人に使う言葉であって、菅さんは任期途中なんだから総理のイスに座ることが当然だと思っていますよ」  原発の「冷温停止」も一定のメド、などと言ってのけるその頭を真っ先に冷やすべきでないか。 ◆小沢 自分だけが助かろうとした◆  親小沢の急先鋒、松木謙公衆院議員が小沢グループでただひとり、不信任案で賛成に回ったその本会議場に、親分である小沢氏の姿はなかった。  政治評論家の屋山太郎氏は菅、鳩山、小沢の「トロイカ」のうち小沢氏にもっとも厳しい。 「彼はこのままでは検察にやられる、と今回、勝負に出たが、鳩山グループが腰砕けで数が足りないとわかった。それで勝てない戦から身を引いて、自分だけが助かろうとした」  自民党など野党から追及されているマニフェストの「4K」(子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、農家の戸別所得補償)に小沢氏がなおこだわる点については、「だれの目にも破綻が明らかな4Kをやれだなんて、政策オンチもいいところだ」とバッサリ。  同志社大学大学院の浜矩子教授は、 「結局、こういう有事の状況下でも権力闘争しかできない」  「インサイドライン」編集長の歳川隆雄氏も、 「怨念と執念だけで突っ走ろうとした」  と、小沢氏をやり玉に挙げる。一方、大川総裁は、 「菅さんの目が被災地に全然向いてないから、被災地出身である小沢さんがもっと現場へ出てがれきを撤去したり避難所で炊き出ししたり地元の野菜食べたりしてたら、小沢待望論が出てきたかもしれないのに」  と惜しがる。  新たな処分こそ受けなかった小沢氏だが、今後、逆転の目はあるのだろうか。  歳川氏は、 「小沢さんは最後の勝負に負けたわけで、離党して新党結成しかないでしょう」  と言うのだが。 ◆鳩山 彼が出てくるといつも大混乱◆ 「まあ、鳩山さんでしょうね。鳩山さんが出てくると必ず混乱するんです。要するに、常にグラついているのがいけない。10分前と10分後で言うことが変わるんだから」  政治アナリストの伊藤惇夫氏は、鳩山氏を第一の戦犯に挙げた。  その鳩山氏を突き動かしているのは「誤ったオーナー意識」だと言う。 「いまだに民主党は自分の党だと思っている。それが背景にあるから、動きがおかしくなる」(伊藤氏)  ちょうど1年前、自らの退陣が取りざたされたとき、小沢氏や輿石東参院議員会長との三者会談を終えた鳩山氏が、部屋を出る際に親指を突き上げるポーズを見せ、そのトリッキーな動きが話題となった。  大川総裁は当時のことを思い出したという。 「ちょうどあのころは宇宙飛行士の野口聡一さんが地球にお帰りになったタイミングだったんで、あ、鳩山さん、宇宙からメッセージ受け取ったなと思ったんですけど、今回はどっからメッセージ受け取ったか、読めないんですよ(笑い)」  歳川氏は鳩山氏の詰めの甘さを指摘する。 「これは生きるか死ぬかの権力闘争で、うそでも何でもありの世界。ペテン師であろうが勝てば官軍、それ以外は負け犬の遠吠えでしかない」  1976年、大福(大平正芳・福田赳夫)の間で交わされた、福田氏が2年で首相の座を降りるという密約もほごにされたように、「今回の覚書もほごにされて当然」(歳川氏)だという。  屋山氏も「あの政治センスのなさはどうしようもない」と鳩山氏に手厳しい。 「鳩山は不信任案に賛成したら自分のグループが持たないとわかって焦った。そりゃあそうだよ。あのバカさ加減見てたら、だれもついていかないよ。仮にいつ辞めるか菅との間で約束したとしても、それを口にしたら総理大臣は仕事ができなくなっちゃう。言わないのが仁義なんだ。そんな常識もわからない。記者時代から歴代の首相を見てきたけど、あれこそ本当のバカだね。『指3本』で辞任させられた宇野宗佑のほうが、よほど利口だったよ。そんな人間がこの間まで一国の総理をしていたわけだからおそろしいことだよ」  鳩山氏が菅氏や岡田克也幹事長を「ウソつき」「ペテン師」と罵ることにも、脱力せざるを得ない。 「自分が総理のとき、アメリカのオバマ大統領に『トラスト・ミー』と軽々しくぶった。それに総理を辞めたら引退するって話はどうなった? あれこそウソの極みだよ」(屋山氏) ◆"トロイカ"総崩れで民主党の未来は?◆  もちろん菅、小沢、鳩山のトロイカ以外にも戦犯はいる。自民党など野党がこの時期に不信任案を提出したことに、浜氏は、 「開いた口がふさがりません。あごが外れましたよ」  とあきれかえる。 「原発事故がいまだ収まらない緊迫した状況下で、こういう低次元の政争に血道をあげるなんて、とんでもない。自民党は見識のなさを露呈しました。こんなときでも与党に返り咲くことしか考えていない。主導した人はだれであれ、トップに責任があります」  と谷垣禎一総裁を戦犯に挙げた。]  日本大学の岩井奉信(ともあき)教授によれば、今回のドタバタ劇はだれが悪いとも言い切れない。与野党双方にとって「戦略なき火遊び」だったからだ。民主党政権になって以降、政界全体を見渡してシナリオを描ける人材がいなくなったことが、背景にあるという。 「野党も民主党も、菅を降ろせば何とかなると思っていたが、その後の展開が描けていなかった。確固たる信念や論理がないまま、ズルズルと菅降ろしの空気に流されてしまっていたので、菅降ろしに回った側も内心、不信任案が否決されてホッとしているのではないか」  一方、民主党内では意外なことに(?)このところ岡田幹事長の不人気ぶりが目立つという。 「菅降ろしを一皮めくると、不満の元凶は実は岡田さんだという声が多いんです。要は、執行部を代えてほしいという思いが菅降ろしにつながっている。いまや幹事長は党内不人気ナンバー1ですよ。特に居場所と出番がない1年生議員の不満がくすぶっている。というのも、岡田さんは1年生のガス抜きが狙いの懇談会の場でも、相手を論破してしまうんです。やりこめられた1年生の不満はたまる一方で、2日の代議士会でも、菅さんより岡田さんへのヤジがすごかった。『引っ込め』『辞めろ』なんて、礼節も何もあったものじゃないですよ(笑い)」(民主党職員)  もはや「学級崩壊」状態の政権与党はどこへ向かうのか。先の伊藤氏は、 「常に菅、鳩山、小沢の3人の対決、あるいは協力関係の中で党内が振り回されてるわけでしょ。今回もまさにそうだったわけですから、全員引くべきですね」  一方、屋山氏も、 「トロイカがこれで全部アウトでしょう。タマネギでいうと、この3枚の皮がめくれて、ようやく民主党もまともに食えるようになるんじゃないの」  めくった先に中身はあるのか。では「ポスト菅」を探ってみよう。 ◆ポスト菅、実力をバッサリ診断 前原、野田、仙谷、枝野、蓮舫、小泉……◆  菅首相の「なんとなく辞意表明」は、その後、言った言わないの泥仕合になっている。しかし、さすがにこのまま菅政権が続くはずがない。永田町のセンセイたちは、「ポスト菅」探しへ動き始めた。  ところが--。本命不在でほとほと決め手に乏しい。どうも新味のないパッとしない「首相の座争い」になっている。  識者の意見の中では、自民党との大連立を前提に、仙谷由人官房副長官を有力視する声が目立った。 「インサイドライン」編集長の歳川氏はこう話す。 「自民はここでは負けたけど、参院での問責決議案提出など、揺さぶりにかかるでしょう。民主党批判が日常的になり、大連立しかないという動きにつながっていく。秋口の早い段階から、連立の動きが出てくるはず。そうなれば当然、そのキーパーソンの一人は仙谷氏ということになる」  日大教授の岩井氏も、こう指摘する。 「期限付きの大連立を考えるなら仙谷氏。大島理森副総裁などの自民党幹部、公明党では井上義久幹事長との関係が深いですから」  民主党の職員たちの間でも仙谷氏の評判が高い。 「官僚組織を効率よく回して、かつ、政府という巨大組織を回せるのは仙谷氏しかいない」(ある職員)  復興、社会保障の費用をどう捻出(ねんしゅつ)するのか、ねじれ国会をどう切り回していくのか。身動きがとれない状況の中で、消去法的に浮かんでくるのが、仙谷氏というわけだ。  政治アナリストの伊藤氏は、あきれ気味に言う。 「誰が有力、有力じゃないというんじゃなくて、どういう総理でないといけないのか、考えないと」  その上で、野田佳彦財務相を挙げた。 「非常にバランス感覚がいいし、政策通でもある。とんがったところもないから地味だけど、次の政権というのは大震災からの復興に向けて地道に課題を整理していくことになる。こんなときは黙々と汗を流すタイプがいい。パフォーマンス好きで、利に走ったりするような人はダメ」  野田氏は当選5回の54歳。菅首相が2日の党代議士会で口にした「若い世代への引き継ぎも果たしたい」との条件もクリアする。演説のうまさや面倒見のよい性格には定評があり、党内では約20人のグループを率いている。  代表経験者の前原誠司前外相にとっては、3月の外国人献金問題での外相辞任劇が痛手だが、政治評論家の屋山氏は「ポスト菅」のトップにその名を口にした。 「前に代表になったときに打ち出した『前原3原則』は非常に賢明な策だった。政策は党内審議の上で多数決で決め、官公労と若干の距離を置く、と。これが実現できたら大変なものだ。彼は意外と頑固なんですよ。これは大切です。今の菅首相のように、人の話を聞いて、しょっちゅうフラフラしてるようじゃダメですから」  やはり、今の首相が反面教師だ。  政治ジャーナリストの野上氏は、海江田万里経済産業相を挙げた。 「菅支持の勢力がイニシアチブを取るのは難しい。鳩山、小沢、菅、中間派それぞれの勢力から支持をとりつけるとすれば、海江田氏あたりが浮上するのではないか」 ◆菅以外ならOK 実務なら自民?◆  政治評論家の森田氏は国民新党の亀井静香代表を推した。 「今は何より被災地のことを考えるべきでしょう。そのためには30万人の役人を動かせる人が必要。そういう意味で、亀井氏でしょう」  識者の意見に共通するのは、「誰がやっても菅さんよりはマシ」ということだ。  今回の騒動で、またずっこけた自民党。谷垣禎一総裁に対し、経済界からは「ポスト菅」とする声があった。RCMジャパン最高投資責任者の寺尾氏だ。 「東日本大震災からの復旧、復興を考えると、民主党より自民党のほうが経済的な感覚があり、政策の実務能力がある。がれきの処理や仮設住宅、賠償金の問題などで、よりスピーディーな対応が期待できると思う」  同志社大大学院教授の浜氏は大胆な意見だった。 「わからないというのが正直なところですが、突拍子もないところでいうと、江田五月法相でしょうか。ドン・キホーテ内閣ですね。ピュアなイメージと気構えだけを示し、周りに枝野さんたちを実動部隊として置けばいいんじゃないですか」  前出の民主党職員はまた、思い切った若返りも提案した。当選3回の50歳、馬淵澄夫首相補佐官だ。 「まだ3回生だから無理だろうけど、彼には期待できる。役所でも民間でも、馬淵と仕事をすると、『この人のために何かをしよう』と、チーム馬淵ができあがってまとまるんです」  大川興業の大川総裁は、 「菅さんが原発問題にメドがついたら辞めるということは、30~50年かかるんじゃないかと思いますよ。東電が絶えずやらかしてくれますから」  と笑い飛ばした。 ◆「小鳩菅は女子中学生レベル」 東京・新橋で50人に聞きました◆  菅首相が「なんとなく辞意表明」した日、東京・新橋駅前に行った。 「30秒しか時間ないよ」という会社員の男性(37)が缶ビール片手に吐き捨てた。 「首相なんて誰がやっても同じだから報道すら見なかったね。印象が悪いのは小沢。この大変なときに(安全性のアピールで)釣りして刺し身食ってんじゃねーよ!」  不満を思い出したようで話は10分以上続いた。ほかにも小沢氏については、 「あれだけあおっといて採決を欠席だなんてナシ。彼がいる限り民主党が一枚岩になれない」(40代男性)  就活の「売れ残り」という男子大学生3人組は、 「原発対応にもたついたせいで就職難問題は置いてきぼり。被災者だけでなく僕らも先行き不安。こっちは職すらないのに、日本中から呆れられても役職にしがみつく菅サンの感覚って、どんだけズレてるんだか」  可愛い顔して、言うときは言う。  新橋では、カン違い首相との「約束」で混乱を招いた鳩山氏の評判も悪かった。 「"お呼びでない"のに現れては宇宙人のように意味不明の行動。国民というか地球人の邪魔」(50代男性)  会社員の女性(25)は、小鳩菅の3人組を、 「やってることが女子中学生の派閥争いレベル。こんな彼氏にも上司にもしたくない男ワースト3が日本を動かしてるなんて悲惨!」とバッサリ。前言を翻して「信任」に甘んじた民主党議員もすべて悪いと憤る。  一方、"ポスト菅"には、震災後の"不眠会見"で注目を集めた枝野幸男官房長官や、前原氏、蓮舫行政刷新相、「既成政党は信用できない」(50代男性)と渡辺喜美氏の名も挙がった。  女性に多いのが、 「時代錯誤のオヤジ政治家と違って、きっと『空気を読む』ことができる」(30代)  などと小泉進次郎氏を半ばヤケクソで推す声。男性からは、「お手並み拝見したい」(30代)という「小沢待望論」もあった。  とはいえ、全体に漂うのは「誰が首相でも変わらない」という冷ややかな空気。小雨降る夜、ほろ酔いサラリーマンたちは、「腹黒い政局より"黒い雨"が気になる」とつぶやきながら家路を急いでいた。   ■識者が審査した「戦犯」ランキング■                 菅直人 小沢一郎 鳩山由紀夫 谷垣禎一 森喜朗 古賀誠 伊吹文明 野上忠興             10    -    -    -    -   -   - (政治ジャーナリスト) 歳川隆雄             -     4    3    -    1   1   1 (「インサイドライン」編集長) 伊藤惇夫             3     3    4    -    -   -   - (政治アナリスト) 寺尾和之             8     1    1    -    -   -   - (RCMジャパンCIO) 屋山太郎             3     4    3    -    -   -   - (政治評論家) 森田実              10     -    -    -    -   -   - (政治評論家) 浜矩子              -     4    1    5    -   -   - (同志社大学大学院教授) 岩井奉信             -     -   -    -    -   -   - (日本大学教授) ----------------------------------------------- 合計                34    16   12   5     1    1    1 (各氏への取材をもとに本誌で配点した) 週刊朝日
週刊朝日 2012/09/26 00:00
男の更年期障害増加「朝勃ち」してますか?
男の更年期障害増加「朝勃ち」してますか?
  今年3月末まで約5年半にわたって本誌の編集長を務め、いまは販売部長として毎夜の酒席など多忙な日々を送っている。編集長時代には、東京マラソンへの出場を機にジョギングを始め、この1年で10キロの減量に成功した。172センチ、72キロ、体脂肪率は50歳標準値内の18%を維持している。 プチ努力で下半身を鍛えた甲斐あってか、深夜のフットワークも軽快なようで、銀座の消息筋からは多くの武勇伝が漏れ聞こえてくる(詳細未確認)。 ならば、さぞかし「お強い」はずであろう。 真偽を確かめるべく訪れたのは、東京都千代田区にある「三番町ごきげんクリニック」。アンチエイジング(抗加齢)が専門で、血液中の栄養バランスやホルモンバランスを分析して、栄養指導やサプリメントの処方など、さまざまな"若返り策"を提案してくれる。「性年齢診断」は診療科目ではないが、検査で出たさまざまな数値によって、強さもわかるというのだ。 診察室に入った前編集長に、澤登雅一院長(43)はさわやかに語った。「性の状態を測ることで、身体に潜むさまざまな危険性の察知につながることがあります。男性でも女性でも、健康でなければ、性もしっかりしないわけですからね。自分が興味のある切り口で健康状態を確認するのは重要なことなんです」 なるほど、"局部的"な問題ではなく、全身の健康に関係してくるのか。でも先生、肝心の診断結果を早く教えてー。「えー、50代後半ですね。正直に言っちゃうと、ごめんなさいね、山口さんは『弱い』です」 呆然とする前編集長に、澤登院長は理由を説明した。「血液中の亜鉛が足りていませんね。アメリカではセックスミネラルとも言われているほど、性に関係しているのです。性に関係してくる男性ホルモンは基準値内ですが、数値が下限に近いですね。50歳なら、もっとあっていいんです」 優しい口調で続くダメ出しに、前編集長の様子がおかしくなってきた。うっすら涙目にも見える。そして、口をついて出たのは意外な事実だった。山口 「実は......、30代後半くらいから、弱くなるというか......いわゆる『中折れ』が時々あって、やばいなと思っていたんですよ。朝勃ちもね、最近はほとんどないんです。たまの朝に『あっ、きょうは元気じゃん!』みたいな。40代に突入したころから、仕事の忙しさもあって女性への興味がなくなってきたというか、情けない限りです......」澤登院長 「山口さんは外食ばっかりですか?」山口 「昼はコンビニか社食の定食で、夜は飲み会ばっかりですね」澤登院長 「お酒も原因ですね。アルコールは栄養素を壊してしまうんですよ。コンビニ食やファストフードの添加物も栄養素を壊すから、男女問わず現代人の2~3割は亜鉛の量が基準値を下回っているんです」 澤登院長によると、普段から自宅でバランスのいい食事をとっている高齢者より、コンビニ食中心の若者のほうが、精力が弱いケースが多くあるそうだ。 現在は農地がやせてしまい、野菜自体の栄養素も激減している。例えば、ホウレンソウの鉄分は60年前の7分の1しかなく、しっかり食べているつもりでも、気づかないうちに栄養不足に陥っているという。山口 「(精液の)量も減っちゃったんですよ。18歳のころは毎日3回くらいドバッと出せたのに、35歳過ぎると、1回出すと(同じ日の)連チャンがだめなのはもちろん、1週間くらいは性欲そのものがなくなっちゃう。やっぱり、ドバッといっぱい出たほうが性的に気持ちいいんですけどね」 18歳でギトギトだったころの前編集長を想像してしまったが、澤登院長によると、生活の乱れで、現代人は精子の数も減少傾向にあるのだという。少子化社会にあって、ニッポン男児を取り巻く環境は厳しい......。澤登院長 「80代でお盛んな男性もいます。精子の数を検査されて『俺のおたまじゃくしはまだ元気だ』なんて喜んでいましたよ。年齢のせいにせず、しっかり対処すればいいんです」 前編集長が真剣に質問を始めた。精力復活に加え、ある"病"を恐れているのだろう。 最近、40代半ば~50代前半にかけて「男性更年期障害」になる人が増えている。無気力や鬱症状を伴い、仕事に影響するばかりか自殺との因果関係も指摘されている。 澤登院長によると、男性ホルモンの減少が原因で、精力の低下は更年期障害のサインである可能性があるという。前編集長にとっても他人事ではないのだ。山口 「何をしたらいいんですか? コンビニで売っている亜鉛のサプリメントや、サントリー広報の知人に薦められた『マカ』を飲んだこともあったけど、横着な性格なんで飲んだり飲まなかったりで......」澤登院長 「マカは効果としてはあるんですが、個人差がありますよね」山口 「スポーツ紙とかで、『ここで一発』とか、天狗のお面をかぶった広告が載ってるじゃないですか。本当に即効性があるんですか?そんな夢のような食品って、本当にあるんですか」澤登院長 「たいていの商品は、誇張されてますね」山口 「ですよね。『赤まむしドリンク』も飲んだけど、変わらなかった。要は偽薬効果というか、精神的なものなんですかね」澤登院長 「それは一理あります。男性は気分的なものが大きく、だめだと思うと、ホントにだめになってしまう。飲んだから大丈夫だと、気分的に安心するのは大事なことですよね」 澤登院長が勧めたのは、レスベラトロールのサプリメントと亜鉛を摂取し、アルコールを控え、運動を続けることだった。レスベラトロールは赤ワインに含まれるポリフェノール成分で、多くの美容効果がわかっているが、勃起障害(ED)にも効果があることがマウス実験で判明したそうだ。 前編集長が、救いを求めるように尋ねた。「ここでがんばれば、また『元気』になりますかね」 澤登院長は、笑顔で激励した。「太ってたころは、もっと弱かったはずです。80歳だろうがなんだろうが、性を強くすることは可能なので、努力し続けることが大切ですね。あと、勃起しないというのは、血管が拡張しないということで、動脈硬化のサインの可能性もあります。全身につながる問題として考えてみてください」山口 「仕事にプライベートに充実した50代を過ごすには、まず下半身から!? 早めに修復しないといけませんね」 心身ともに"仁王立ち"するために、まずは「朝勃ち日記」でもつけましょうか。そういえば、武勇伝の真偽は......もういいか、あくまで噂だし。 (本誌・國府田英之)週刊朝日
セックス
週刊朝日 2012/09/26 00:00
ワタミ会長渡邉美樹氏 禁断の「不倫」騒動(1)
ワタミ会長渡邉美樹氏 禁断の「不倫」騒動(1)
 4月3日午後、東京都文京区の学校法人「郁文館夢学園」は、"晴れの舞台"を迎えていた。創立120周年の記念式典が催された学校前では、同校の理事長を務める渡邉美樹氏が、テレビでもおなじみの笑顔を浮かべて来賓や保護者を出迎える--しかし、その場に学校にとって"ナンバー2"であるはずの一人の男の姿はなかった。渡邉氏の側近で常務理事だった石田勝紀氏(41)である。 1カ月ほどさかのぼった3月1日正午過ぎ。高校の卒業式を終えた理事長室で、渡邉氏は石田氏に向かってこう厳命を下していた。「(午後の)謝恩会なんか出なくたっていいから、何がなんでも『示談書』を取ってくるんだ!」 7年にわたって渡邉氏に仕えてきた石田氏は、そう言われて学校を出た後、戻ることはなかった。夜になってから、渡邉氏の携帯電話に一通のメールが入った。〈今日で辞めます。引き継ぎは済んでいます。お世話になりました〉 詳しい理由は記されていなかった。学校の机の中に辞表をしたためてあったのが、次の日に見つかったという。 石田氏はなぜ、突然に辞めたのか。取材を進めると、渡邉氏への「興醒め」と「不信」が石田氏の胸中に蓄積されていった過程が浮かび上がった--。 その詳しい内容に触れる前に、まずは渡邉氏と学園とのなれ初めを説明しておこう。 東京大学の至近に位置する旧名「郁文館」は、1889年に創立された伝統校だ。校庭の隣に住んでいた夏目漱石が小説『吾輩は猫である』で描いた学校「落雲館」のモデルだと言われている。卒業生には民俗学者の柳田国男、国語学者の物集高量らがいる。 ところが近年、創業一族がホテル建設などで失敗し、膨大な債務を抱え込み、破綻寸前に追い込まれた。そこへ現れた"救世主"が、ワタミ会長の渡邉氏だ。小説家、高杉良氏の小説『青年社長』のモデルになった御仁である。 「ワタミ」は言わずと知れた居酒屋チェーンだ。全国で600以上の店舗を展開し、介護事業や農場経営にも手を広げてきた。最近はNPO法人を通じてカンボジアでの学校建設にも取り組んでいる。 中高一貫の郁文館に渡邉氏が私財を投じ、「改革」に乗り出したのは2003年春のこと。自ら理事長に就任し、学校名に「夢」を加え、今春には伝統ある校歌も自作の詩に変えた。 学校の「経営」で話題になるとともに、公職にも就き始めた。安倍政権時の06年には政府の「教育再生会議」委員に任命され、教育改革について熱い議論を繰り広げた。06年秋から昨秋まで神奈川県の教育委員も務めた。 同時に、教育論を語れる経営者としてマスコミへの露出が増えたのは周知のとおり。現在も情報番組「スッキリ!!」(日本テレビ系列)などでコメンテーターとして活躍する傍ら、04年から日本経団連の理事も務めている。 持論は「教育現場に競争原理を持ち込む」ことで、理事長として乗り込んできた際、中学校の新入生に「この中から東大に20人以上出す」と宣言したことは語りぐさになっている。 もっとも、この過程で「人が変わった」との評も出ている。郁文館の元教員が、こう語る。 「彼は儲からない居酒屋1店舗を手に入れ、店員を育て、全国展開させた。それもある意味で『教育』の一つだった。初めは教育というものに素直に喜びを感じていたと思う。ただ、途中から自分が目立つことが何より大事になっていた。テレビ制作会社のカメラマンを常駐させ、自分の挨拶だろうが教室見学だろうが、常に撮らせて歩いていたのを覚えています。『将来、自分を取り上げるテレビ特集のために撮りためてる』とのことで、そのカメラマンは、いつの間にか学校の理事になってました」◆「性の道具か」と女性は激高した◆ 渡邉氏は、ひそかに政界進出の意欲も旺盛なようだ。複数の知人が、渡邉氏から出馬について相談されたと証言しているが、その一人はこう解説する。 「彼は『学校改革で成功して文部科学大臣になって、そのあと総理大臣にもなりたい』と本気で語っていた。つまり、学校は政界進出の手段なんですよ。一時期は『自民も民主も公認してくれないから、自分はカネもあるし政党を作りたい』とも息巻いてましたからね。最近は、来春予定の東京都知事選に興味を示し、常務理事の石田氏にも相談していたそうだよ」 その石田氏は、もともと横浜市で学習塾を営んでいた。大学院でMBA(経営学修士)を取得する際、「渡邉美樹」を論文のテーマに取り上げ、本人にインタビューする機会を得た。そこで意気投合した渡邉氏が、石田氏を学校に招き、重用したという。 だが、7年に及ぶ"師弟関係"は電撃辞任によって決裂した--。 本誌は、その理由について重大な証言を入手した。石田氏から直接、事情を聴いたという学校関係者がこう語るのだ。「実は昨秋から、石田さんは学内のある女性から悩みを打ち明けられていたのです。渡邉理事長と数年にわたって交際してきたのに、『君の中には自分が求めるものがなかった』と、たった一通のメールでフラれたという話でした。自分は単なる"性の道具"だったのかと、彼女は激高していたそうですよ。学校と取引のあったK氏という人物も、同じ女性の相談に乗っていた。それでK氏が義憤を感じ、石田さんに『教育現場にあるまじき行為だ。常務理事として正すべきでは』と進言していたのです」 ここに出てくるK氏は、もともとカナダで木材などの買い付けを長く生業としていた。数年前に石田氏と知り合って人柄を買われ、3年前から郁文館のカナダでのサバイバルキャンプを手伝い始めた。いわば現地コーディネーターであり、学校からすれば取引業者の一人である。 当のK氏も取材に応じ、その後の経過を説明した。「確かに、その女性からの相談はありました。もともと石田さんに紹介され、数年前からプライベートの悩みを聞くようになっていました。特に昨年12月中旬には、彼女は精神的にもかなり追いつめられていて、私から渡邉さんにケジメをつけるよう働きかけてほしいと頼まれたのです。そこで、私は渡邉さんに『このままじゃあタイガー・ウッズになっちゃうよ』とメールを入れました。ちょうどタイガーの不倫騒動のころだったのでね。彼女からのメールも転送したら、本人から電話がかかってきて、大晦日に会う約束をしました。でも、結局、その前に彼女と二人で話し合ったようで、その話は一度、そこで終わったのです」 言うまでもなく、渡邉氏には起業時代に結婚した元ウエートレスの妻と、2人の息子がいる。 渡邉氏は本誌のインタビューに応じて、こうした「不倫」の事実を否定している(別掲記事参照)。学校と女性も「不倫」や、石田氏とK氏への「相談」が事実無根だとしている。 これに対してK氏は、自身の携帯電話の受信トレイを開いてみせながら、渡邉氏や女性から届いたという一連のメールを示した。 そこには、昨秋以降に女性から届いたとされるメールが、現在も残っているだけで44通、渡邉氏から届いたとされるメールも7通、保存されていた。 女性から届いたとされるメールからは、K氏の言うように一連の流れがみてとれる。その中には、こんな文言が並んでいる。〈言いたいことはあの人に全部いってやりました やっぱり私にはお手上げです(略)K(原文は本名)さんしか頼れる人がいないです。あの人が滅びるも、救われるも、Kさんに全てお任せします〉(12月17日)〈昨日の電話では、私がこの事でKさんと結託して対外的に私が口を開いたりしないかとても気にしていました。月曜日学校に行くときに念書を書いて置くようにいわれています。内容は『渡邉が一千五百万円を支払うことを条件に次のことを約束することを誓う。一、今までの2人の関わりについて一切他言しない。メールも全て削除する。二、互いのプライベートは一切関係ない、三、そのことを踏まえた上で仲良く仕事をする』(略)私(注・渡邉氏)には、会計士が管理しているから大金は引き出せないと、懇願するようにこの金額を提示し、しかも月々30万だか50万だか分割でお願いしたいと言ってきました〉(12月18日)〈人間ですから、思いがけず、人を傷つけてしまうことがあるでしょう 心からごめんなさいの言葉が聞きたかった 昨日はやっとそれが聞けました 何を言っても心の通ったごめんなさいが聞けず、Kさんにお願いしましたが、昨日は心からのごめんなさいがありました それで救われました 何故Kさんに助けを求めたか、私がどれだけ恐怖を感じたか全て話しました。それを理解し心から反省し今後も一緒に仕事をしていく上で償い続けるという言葉に心を感じとれました。Kさんのお陰です 彼のことは許すことにしました。本当にありがとうございました〉(12月22日)◆「けじめ」の後に暴力事件が発生◆ 渡邉氏からK氏に届いたとされる同日付のメールには、こう綴られていた。〈昨日すべて解決しました けじめをつけさせていただきました ご心配をおかけしました この件でお時間をとっていただかなくてよくなりました31日は伺いません 今後も夢教育へのご支援をよろしくお願いします〉 メールに書かれたことが事実だとすれば、二人はかなりの"抜き差しならない"関係に見える。しかし、この事実だけで石田氏が辞任したわけでは、もちろんない。石田氏から話を聞いたという前出の学校関係者が、こう続ける。「女性はずっと渡邉さんへの不満を語っていたのが、ピタッと止まり、徐々に石田さんらと疎遠になった。渡邉さんを許したということのようです。ところが、これがお互いの疑心暗鬼の始まりだった。Kさんは改めて、渡邉さんと3月初めに会う約束をしたのですが、2月12日に酒席で学校の男性理事を殴る"事件"が起きたのです。Kさんは『ゲームで軽く殴っただけ』と主張し、被害者の理事は『因縁をつけられてボコボコにされた』と訴えた。そこからさまざまな人間関係が壊れていったようです」 殴られた理事は警察に被害届を出し、渡邉氏ら学校側はカナダのサバイバルキャンプに関するK氏との契約を打ち切ろうと動いた。2月下旬、渡邉氏らが弁護士を交えてK氏と面談し、「示談書」にサインするよう求めたのだ。 そこには、被害届を取り下げる代わりに契約を打ち切り、校内で知り得たことを口外せず、学校関係者との接触を一切禁じるという条項が設けられていた。K氏は、女性との関係の口止めが真の目的だと考え、サインを拒んだという。 その渡邉氏とK氏の間に挟まれていたのが、常務理事の石田氏だ。このときの示談書が、冒頭の場面で、渡邉氏が石田氏に謝恩会を休ませてでも取ってこさせようとしたものである。 石田氏は周囲の友人に、こう語っているという。「女性問題について、都知事選に出ようという人がこんな対応ではマズイと忠告したこともある。学校を守るためにコトの収束を図ろうと努力したが、理事長の個人的なトラブルに周囲が巻き込まれ、学校全体の問題にまで発展してるのに、なおも保身を優先して部下の責任にすり替えようとした。もうついていけない」 確かに、これが事実であれば、教育者としてあるまじき行為である。そこで本誌が石田氏を直撃すると、こう語った。「(女性から理事長との関係について)いろいろ相談を受けたのは事実ですが、詳しい中身は言えません。ただし、『星が消せる』なんて思ったことも、言ったこともありません」 一方、当の女性に電話をかけると、落ち着いた声でこう答えた。「(石田氏への相談は)ぜんぜん何のことだかわかりません。どうして彼が辞められたか、私のほうが聞きたいくらいです。(理事長との不倫は)誰かほかの方と勘違いしてるのか、あるいは、あの方においてはそういうことは決してあり得ないと思いますけれども」 後日、代理人弁護士を通じてメールを見せたところ、改めて、 「これは自分が送ったものではない。なぜ存在するのかわからない」 とコメントした。◆「K氏に学校を乗っ取られる」◆ 学校側に取材を申し込むと、ワタミ社長室長(執行役員)で、今春、郁文館夢学園の理事にも就任した中川直洋氏が、こう説明するのだった。「Kさんは暴力事件の際、学校の理事に『お前の弱みを握ってる』『渡邉は俺の言うことを聞く』『お前も俺の言うことを聞け』と因縁をつけた。学校は理事の権限が大きいから、僕らはK氏に乗っ取られると考えた。業者としてもふさわしくないから契約解除したのです。石田さんが辞めた理由は、Kさんとの示談を成立させられず、責任を感じたからでしょう。渡邉と女性に確認したが、交際の事実も、女性が相談したという事実もあり得ない。別れ話もないし、相談のメールを送ったこともない。渡邉は政治で世の中が変わらないと思ってるから、政界進出も考えていないでしょう」 渡邉氏は常々、会社や学校で「ウソをつかず、誠実であれ」と教えていることをアピールしてきた。当然、社員や生徒ばかりにウソを禁じてきたわけではない。過去のインタビューでは、こうも述べている。〈社員は、社長はじめ経営陣の言動をよく観察しています。言っていることとやっていることが違えば、ついて来てくれません。その意味で、社長は、365日、24時間、試されているのだと思います。だから、口だけとか、小手先では通用しない。ウソをつかない生き方が、社長本人がそうしたいと思う生き方でなければ、社員に見破られるでしょう〉(日経ベンチャー07年12月号) もう一度、渡邉氏の言い分を載せた囲み記事をよく読んでいただきたい。実は渡邉氏らの説明は、「不倫」や、K氏らへの「相談」の事実の有無を除けば、大筋でK氏らの証言と一致する。 渡邉氏は一連のメールが、すべて「偽造」されたものだと言い切った。その言い分は果たして通用するのか。一連のメールの信憑性を専門家も交えて徹底的に検証し、次週号で詳しくリポートしよう。 =以下次の記事へ=週刊朝日
不倫渡辺美樹
週刊朝日 2012/09/26 00:00
JAXAが水面下で進める「日の丸アポロ計画」の全貌 
JAXAが水面下で進める「日の丸アポロ計画」の全貌 
 203X年--種子島宇宙センターから、H2級ロケット6本が、次々と打ち上げられた。 上がったのは、日本人初の月着陸を目指す6機の船団だ。有人の「日の丸宇宙船」は、3人乗りだった米国のアポロ宇宙船より一回り小さい2人乗り。そして「月着陸船」。残る4機は「軌道間輸送機」と呼ばれるロケットで、宇宙空間で2機ずつつながり、宇宙船と着陸船をそれぞれ月まで運ぶために使われる。 米国のサターンVのような大型ロケットがあれば、軌道間輸送機の機能も併せ持つアポロ級の大型宇宙船を打ち上げることができたが、日本のH2B増強型では、サターンの2割程度の打ち上げ重量しかないため、いくつかの部品に分けて打ち上げ、軌道上で組み立てるしかない。 こうして3日間の月飛行が始まる。 宇宙飛行士は2人。狭い船内の生活は大変だが、国際宇宙ステーションで長期滞在した経験が役に立つ。 月の周回軌道に入ると軌道間輸送機を切り離し、宇宙船と着陸船をドッキングさせて、飛行士たちは着陸船に移る。いよいよ着陸だ。 1969年に人類初の月着陸に成功したアポロ11号は、着陸船のコンピューターが処理能力オーバーに陥り、最後は一部手動で着陸した。 だが、日の丸着陸船は全自動だ。なぜなら、着陸地点には、すでに多くの日本の無人探査機やロボットたちが先着していて、着陸誘導装置などを設置し、人間の到着を今か今かと待ちかまえているからだ。 アポロ11号のアームストロング船長が「一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」と言って降り立った月への第一歩。あの時、月から届いたのは、着陸船のカメラがとらえた宇宙飛行士のぼんやりした映像だった。 しかし、日本人宇宙飛行士の第一歩は、事前にロボットたちが月面に設置したカメラによって、鮮明なハイビジョン映像でお茶の間に生中継される。うれしそうに手を振るロボットたちに、飛行士たちが駆け寄る。それはさながら、南極に残した愛犬との再会を果たした観測隊員のようだ......。 以上のシミュレーションは、日本の宇宙開発を担う宇宙航空研究開発機構(JAXA)内で検討されている「有人月探査計画」に基づいたものだ。もちろん計画はまだ発表されていないし、予算がついているわけでもない。 「でも、技術的には十分可能です。日本人宇宙飛行士が多数参加した『国際宇宙ステーション』や、小惑星に軟着陸して戻ってきた無人探査機『はやぶさ』など、進行中の計画で得られる技術を大成すれば、2030年代にも日本人を月に送り込めます」 JAXAの「月・惑星探査プログラムグループ」の佐藤直樹・技術領域リーダー(46)は、そう明言する。 例えば、日の丸宇宙船はまだ存在しないが、その原形はすでにある。 昨年9月、日本は空気が保たれた与圧部付きの無人貨物船を国際宇宙ステーションまで無事送り届けた。HTVと呼ばれる貨物船で、船内に食料品や衣類など真空では運べないものを入れた与圧部があった。宇宙ステーションの乗務員たちは、ここへ宇宙服なしで入って荷物を運び出した。 「この与圧部だけで地球へ帰還できるように改良し、中に人間が乗り込めば、それはもう日の丸宇宙船なのです」(佐藤氏) もちろん、荷物と人間では求められる安全性の高さが違う。人間が生活できるように酸素や室温などを保たなければならない。◆月着陸に役立つはやぶさの技術◆ さらに、人間が耐えられる加速度で大気圏に突入し、地上に帰還できる制御技術や、発射時にロケットが故障しても居住部分だけ脱出させる緊急ロケットの開発なども必要になるが、 「すでに我々は国際宇宙ステーションの実験棟『きぼう』で、長期滞在の実績があります。さらに地球帰還でも、『はやぶさ』のカプセルを、オーストラリアの予定地に正確に降ろすことに成功しました」(同前) HTVは2015年まで、毎年1機ずつ宇宙ステーションへ向けて打ち上げられる予定だ。そして、与圧部を地球に帰還させる改良は、早ければ16年にも実現しそうだという。 佐藤氏によれば、その先にある日の丸宇宙船は「2020年代半ばにも実現可能」な距離にあるのだ。 それでも、月への飛行や着陸は、日本人にとって未体験ゾーンであることに変わりはない。だが、「月・惑星探査プログラムグループ」で、この計画を担当する橋本樹明教授(47)は、 「そのために、無人探査機による月着陸計画『セレーネ』があるのです」 と自信たっぷりだ。 セレーネ計画は07年、すでに1号機「かぐや」を月周回軌道に入れ、ふだんは見えない月の裏側の重力分布図を作製するなど大きな成果をあげた。月への飛行は無人ながら、すでに成功しているわけだ。 そして15年には2号機で無人月着陸を目指す。東京・調布のJAXAの研究施設では、着陸船の開発準備がすでに進行中だ。月面に見立てた地面に、小型の無人着陸船の模型をさまざまな条件で落下させる実験が繰り返されている。 「ここでも『はやぶさ』の技術が役立ちます。月よりはるかに遠い小惑星に、数十メートルの精度で着陸できた技術を使えば、高精度の月着陸が可能です」(橋本氏) さらに20年には、3号機でいよいよ、月で集めたサンプルを地球に持ち帰る無人往復旅行に挑戦する。 サンプル採集に不可欠な月面車の試作も始まっている。同じ調布の施設に月面そっくりの実験場があり、金色に輝くロボット月面車がいた(写真右)。担当する「月・惑星探査プログラムグループ」の西田信一郎・研究開発室長(54)は、 「月では車輪が埋まらないようにするのが、いちばん苦労する点なんです」 と笑顔で語る。 地球の6分の1の重力しかない月面では地盤が締まっていないため、「レゴリス」と呼ばれる月特有の細かな砂に車輪が埋まって動かなくなってしまう。アポロが持ち込んだ月面車も何度も動かなくなり、宇宙飛行士が押し出した。 「まるで新雪の斜面のようなものです」(西田氏) そこで開発したのがキャタピラ付き車輪だ。 二重になった金属製キャタピラを3個の車輪で回し、月面を軽く踏み固めながら進む。戦車のような長いキャタピラは車輪が多くて故障の恐れがあるが、これなら車輪数を最少にできる。最高速度は秒速20センチだ。 「有人月面車なら、人間が操縦してくれるので、造るのはもっと簡単です」(同前) 再びシミュレーションに戻ろう。 日本が着陸するのは月の南極だ。アポロが着陸したのは、「海」と呼ばれる平地が多かったが、南極は厳しい山岳地帯。それでもここを選ぶのは「越夜」しやすいからだという。 「越夜」とは、月の夜を越すことだ。月の一日は地球の29・5日間に当たる。そのため、赤道付近では2週間近く夜が続く。 夜間は温度が零下約170度まで下がり、エネルギーを太陽光発電に頼るしかない機器は、「翌朝」まで電池がもたない。極めて厳しい環境なのだ。 ところが、南極の場合は、緯度の違いから、夜は地球の5日間程度しか続かない。そこで、南極付近にある「シャックルトンクレーター」の縁にある東西2キロ、南北500メートルの細長い滑走路のような丘が、有力な着陸候補地として検討されている。 セレーネの3号機は初めてこの南極に着陸し、一足先にロボット基地を建設する予定だ。 南極なので太陽光がいつも真横から降り注ぎ、地表には山や丘の影が長く伸びて、アポロで見た月とは違う独特の雰囲気だ。 飛行士らはここで2週間程度過ごす。その間、事前に送り込まれた月探検車を使い、地質調査などに繰り出すことになる。 月の誕生については、原始の地球に巨大隕石が衝突し、地球の一部がはぎ取られて生まれたとする「ジャイアント・インパクト」説が有力になりつつある。 月の内部構造がわかり、その証拠がつかめれば、世界的な発見につながる。 さらに、有人月着陸を成功させたさまざまな技術は、日本の産業界に多くの成果をもたらす。特に最大の貢献をしたロボットたちは、「はやぶさ」以上に注目を集めるだろう。 過酷な月の環境でも着実に仕事をこなすロボット技術は、白熱する世界のロボット開発競争で日本の実力を見せつけることになる。その姿を見て、多くの若者が技術者を志すという副次的な効果もありそうだ。 はやぶさにセレーネ、国際宇宙ステーション......。一見バラバラに見える日本の宇宙開発は、実は、有人月着陸めがけて一直線につながっているのだ。 この壮大な計画の最大の課題は、総額で数兆円に上る巨額の開発費である。JAXAの試算によれば、日の丸宇宙船の開発だけで1兆円近くかかる見込みだ。 現在の日本の宇宙開発予算は年3千億円強。その数倍が必要になるわけだ。 果たして財政危機の日本に負担できるのだろうか。 政府の事業仕分けに仕分け人として加わった松井孝典・千葉工大惑星探査研究センター所長(64)は、こう断言する。 「日本の経済力で、数兆円もかかる有人飛行は不可能だ。危険でコストが高い有人飛行よりも、無人探査機で、日本ならではの観測を多数試みるほうが、科学的価値が高いのではないか。JAXAの計画では、とにかく月へ行くことが前提となっていて、なぜ火星でも木星でもなく月なのか、という基本的な議論すらできていない」◆決断しなければ宇宙でも二流国◆ さらに、日本の関係者を戸惑わせているのが、米国の宇宙計画の迷走だ。 オバマ政権は2月、スペースシャトル計画の年内打ち切りと、ブッシュ前政権が提唱した有人月探査を柱とする「コンステレーション計画」の中止を発表した。 4月には、2030年代半ばに火星へ人を送り込む「新宇宙政策」を打ち出したが、実現するかどうかは未知数だ。 日本の有人宇宙開発には米国の協力が欠かせない。米国の月着陸計画中止の報を受け、JAXAには衝撃が走った。 その余波で、日本の宇宙開発計画を作成する内閣官房宇宙開発戦略本部の懇談会が7月にまとめた「我が国の月探査戦略」では、日本の探査はロボットによる無人探査とされ、有人宇宙船も「2020年ごろまでに実現の見通しを得る」にとどまった。 つまり、有人宇宙船も有人月着陸も、日本の宇宙計画には、まだ入っていないのである。 こんな日本を尻目に、欧州やロシア、インドなどが宇宙開発を加速させている。 なかでも、経済成長著しい中国は、日本より早い2025年の有人月着陸を狙っていると言われる。 有人宇宙船「神舟」は03年の初有人飛行以来、3回飛行し、08年には宇宙遊泳もした。早ければ11年に、独自の宇宙ステーション「天宮」を建設するという。 中国の無人探査機「嫦娥」は07年11月、日本の「かぐや」に遅れること1カ月で月周回に成功した。今後、13年には後継機が月に着陸し、18年には採集したサンプルをカプセルに載せて地球に送り返す予定だ。 ロボット探査では世界トップクラスを自任している日本だが、セレーネ2号が月に着陸するのは15年の予定。計画段階ですでに、中国に2年も後れをとっているわけである。 関係省庁の幹部の間では、 「今さら有人月着陸で国威を発揚している場合か」 「惑星探査は国際協力なしには不可能。ならば日本の独自性が出せるロボット探査に特化すべきだ」 といった現実論が根強い。 しかし、JAXAの長谷川義幸執行役(59)は、危機感をあらわにする。 「有人月着陸を断念したら、日本は宇宙開発の『二流国』になってしまうでしょう。今後、米国が火星探査計画を進める時には、有人技術を持たない日本ではなく中国が、米国のパートナーとなる可能性が出てくる。このままでは、日本はロボット探査の分野でも中国に抜かれてしまいます」 『小惑星探査機 はやぶさの大冒険』(マガジンハウス)の著者、ノンフィクション作家の山根一眞氏(62)は、 「『はやぶさ』になぜ、あれほど多くの人が心を動かされたのか。国民がもっと宇宙を知りたいと願ったからではないでしょうか」 と問題提起する。 「お金の話だけしていても展望は開けません。自動車もエレクトロニクスも中国に追いつかれている今、科学技術立国しか生き残る道のない日本にとって、その究極の分野である宇宙開発は必須です。10年先、20年先の日本のために、今こそ思い切って予算をつけるべきなのです」 これまでも日本は、国産ジェット旅客機やリニア新幹線で苦汁をなめてきた。 技術開発では先行していたのに、「採算がとれない」として、実現に向けて動き出そうとせず、そうこうするうちに欧米や新興国に追い上げられた。ようやく重い腰を上げた時には、ライバルたちはすでに日本の技術を研究し尽くしていた。 宇宙開発で同じ轍を踏むことは、もはや許されないが、宇宙に技術立国の新たな土台をうち立てようとするかどうかは、最後は政治判断で決めるしかない。 菅改造内閣で、宇宙開発戦略本部は、前原誠司前国交相から海江田万里経済財政相の管轄へ移った。 月に日本人が立つ日は来るのか。新内閣の度量が問われている。 (本誌・三嶋伸一) ◆宇宙の民間開放はもう始まっている◆ 巨額の宇宙開発費を軽減する方策の一つは、有人飛行を民間企業に委ねることだろう。米国のオバマ政権はすでに多額の予算を用意し、国際宇宙ステーションまでの有人飛行に民間企業が参入するよう呼びかけている。 参入企業の一つがスペースX社だ。今年6月には、自主開発した宇宙船「ドラゴン」の試験体を、自社ロケットで軌道へ投入することに成功した。同社の打ち上げコストは日本の半分強といわれている。 航空機業界最大手のボーイング社も今夏、参入を発表した。7人乗りの新型宇宙船「CST-100」を2015年までに完成させ、宇宙旅行会社スペースアドベンチャーズと提携して、宇宙ステーション訪問の旅を販売するという。料金はソユーズ宇宙船(1人35億円)以下を目指す。 もっと低高度の宇宙旅行なら、リチャード・ブランソン氏が設立したヴァージン・ギャラクティック社が、近く開業を目指している。数分間の無重力状態を体験できるお値段は2千万円ほどだという。 日本では元ライブドア社長の堀江貴文氏が、将来の有人飛行を見すえて、自らの会社で小型ロケットの開発に取り組んでいる。 「世界初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて半世紀余り。衛星軌道までなら、もう高度な技術はいりません。国があえてやる必要はないのでは。まず、小型ロケットの量産でコストを下げて、衛星なら1千万円で打ち上げられるようなビジネスを考えています」(堀江氏) 宇宙と言えば長年、国家の専権事項だった。しかし、大手ゼネコンで宇宙事業にかかわり、宇宙ビジネスのコンサルタントになった大貫美鈴さんは、こう指摘する。 「日本ではまだこれからですが、米国ではすでに多くの企業が参入しています。宇宙の商業化は今、急速に進みつつあるのです」■世界各国の惑星探査計画(JAXAの資料や報道による)日本 <2000年代>   ○無人探査機「かぐや(セレーネ1号)」が月を周回   ○無人探査機「はやぶさ」が小惑星に軟着陸し、地球に帰還   <2010年代>   ○「セレーネ2号」が月に着陸(2015年)   ○無人貨物船「HTV」の改良型を開発して無人地球帰還技術を獲得(2016年)   <2020年代>   ○「セレーネ3号」が月に無人基地建設(2020年)   ●有人宇宙船で地球周回(2020年代半ば)   <2030年代>   ●月に有人着陸 中国 <2000年代>    ●有人宇宙船「神舟5、6、7号」が地球周回(2003~08年)    ○無人探査機「嫦娥1号」が月を周回    <2010年代>    ●宇宙ステーション「天宮」建設    ○「嫦娥」後継機が月に着陸(2013年)    <2020年代>    ●月に有人着陸(2025年)      インド <2000年代>    ○無人探査機「チャンドラヤーン」が月を周回    <2010年代>    ○「チャンドラヤーン」後継機が月に着陸    ●有人宇宙船で地球周回      ロシア <2000年代>    ●有人宇宙船「ソユーズ」が国際宇宙ステーションとを往復    <2010年代>    ●「ソユーズ」に次ぐ新型宇宙船の開発    <2020年代>    ●ロシア独自の宇宙ステーション建設 欧州  <2010年代>    ○無人探査機が月着陸(ムーンネクスト計画)    ○無人探査機が火星着陸    <2020年代>    ●有人宇宙船で地球周回    <2030年代>    ●火星に有人着陸米国  <2000年代>    ●スペースシャトル計画    <2010年代>    ●新型宇宙船「オリオン」の開発(2018年)     <2020年代>    ●小惑星への有人飛行    <2030年代>    ●火星に有人飛行 (●は有人宇宙船による計画、○は無人探査機による計画)週刊朝日
堀江貴文
週刊朝日 2012/09/26 00:00
「愛欲生活15年」の全真相(上)
「愛欲生活15年」の全真相(上)
(※写真はイメージ 撮影/写真部・松永卓也)  正月気分も覚め始めた1月6日昼過ぎ、「吉川祥子」はいつものように、大阪府東大阪市内の弁当屋にいた。注文したのは、390円の天丼に210円の「手づくり玉子(たまご)焼き」。だが、これが最後の注文になった。  弁当屋の店長が語る。 「年末年始をお休みして、最初に来たのが1月6日やったと思います。普段は割りばしをいらないって言うのに、このとき初めてハシを求められた。弁当と別におかずを付けたのも初めてや思うし、何よりも弁当はこれまで2人分だったのに、1人分だったのは初めてなのでよく覚えています」  弁当は、1人分でよかった。彼女が17年連れ添った相手はもう、そばにはいない――。その4日後、彼女は警視庁大崎署に出頭し、約17年ぶりに本名の「斎藤明美」を名乗った。  明美容疑者と平田信容疑者が大阪へやってきたのは15年前のことだ。 「大阪では3カ所に、最初は1年あまり、次は7年、その次は7年と計15年、住みました。仲居、喫茶店員、事務員などの仕事をしました」(明美容疑者が滝本太郎弁護士を通じて発表したメッセージ)  うち14年は東大阪市で暮らし、「吉川祥子」は十数年前、同市内の整骨院でアルバイトとして働き始め、2000年夏に正規の従業員になった。  勤務日には整骨院から昼食手当1千円を支給され、平田容疑者の分と2人分の弁当を買っていた。冒頭の弁当屋に明美容疑者が現れるようになったのは約5年前で、平日の午後2時前後にほぼ欠かさず通っていた。定番は唐コロ弁当(390円)と、のり弁当(290円)の組み合わせだった。 ◆家賃を引いて給与は月20万円◆ 「毎日のように買うから、好っきやなぁと思うてた。割引のサービス券をうまく使い、スタンプ五つでお茶をよくもらっとったな。そういえば割引フェアのときに天丼を頼んだこともあるし、親子丼を2カ月ほど限定発売したときは親子丼とノリ弁のセットばかり。親子丼がなくなって唐コロ弁当に変わり、昨秋からは唐コロ弁当となぜかライス二つを毎日のように頼んどった」(店長)  明美容疑者はポシェットを斜めがけにし、封筒のカネをスタンプカードと一緒に出し、整骨院の名前で領収書をもらっていたという。  東大阪に長年、身を隠せたのには理由がある。  明美容疑者の正体を知らない整骨院の院長は、「吉川祥子」名義の健康保険証、厚生年金の手帳を取得し、手渡した。  明美容疑者と接見を続ける滝本弁護士はこう言う。 「住民票もないのに、東大阪市から健康保険証と年金手帳を支給され、本人もビックリしたと話していた。年金は将来、もらうこともないだろうと思い、手帳は捨ててしまったようだ。しかし、健康保険証は保険料を支払い続け、病院へ行って診察を受けたり、薬をもらうなどしていた」  さらに7年前には、整骨院が借り上げた高級ワンルームマンション8階の部屋を社宅として与えられた。  家具は必要最低限で、人からもらったという14型のブラウン管の古いテレビ、パソコン、台所には冷蔵庫、鍋一つ、フライパン一つ、数枚の皿とスプーン三つ......などだった。  顔見知りの弁当屋のベテラン店員は、近所のスーパーで一人、買い物している明美容疑者の姿を目撃したこともあった。 「夜はちゃんと家で作るんやなと思いました」(店員)  給与は家賃などを差し引いて月20万円近くで、現金で手渡されていたという。安定した仕事、住居は、逃亡を続ける女性に心の余裕を与えたのだろうか。  整骨院近くの化粧品店の50代女性店主は言う。 「マジメでええ子やったなぁ。誰もが言うやろ。言葉遣いが丁寧で上品やった。お年寄りには優しくて、よく外でも声をかけとったで。色白で細くて背が高く、いつも薄い化粧なのに、手配写真よりもずっとキレイやった。肌が弱いって言うて、ファンデーションなどの基礎化粧品はコーセーを選んどったな。白衣姿のまま自転車で通勤しとって、昼休みにも昼食のために自宅に帰っとった。シンプルな生活やったで」  整骨院の利用客でもある女性店主が続ける。 「初めは事務の仕事やったけど、そのうちマッサージの資格を取ったんか、患者のマッサージもしとった。院長の診察があると追加料金がかかるから、あの子のマッサージだけ受けて千円払って帰る人も多かった。これがまた上手でな、私も『待つから吉川先生、お願いな』と彼女を指名しとった。院長は男やから強すぎる。彼女のほうは細いなりに力はあって、これがツボによく入ってくるんや」  明美容疑者は月曜日から土曜日まで働いていた。午前の診療が終わるのは午後2時ごろ。午後の診療は午後4時に始まり、終わるのは夜10時前後だった。 「あの整骨院は15年くらい前に開業し、院長は40代前半。地元の老人でめちゃくちゃはやっとるけど、今は鍼(はり)の先生と吉川先生とアルバイトのオバハンとで回しとる。以前は若い子もいたんやけど、拘束時間が長いから辛抱できなくて辞めてくんやね。そこで吉川先生は10年以上も働いとる。群馬出身で『実家の父親の具合が悪いから年末は休む』と言ってはったけど、こんなキレイで頭のよさそうな子が、こんな田舎でなんで働いとるんやろ、とはみんな不思議に思っとったなぁ」(別の客)  近所に住む商店主の40代男性はこうも振り返る。 「確かにあの子は整骨院のマドンナで、ファンはごっつ多かったで。自分でマッサージを学ぶくらいなんやから努力の人やろし、標準語の女の子は珍しいから、地元のジジババは『相手を紹介しようか』って絡む。院長も独身やったから、お年寄りたちに『ふたりで付き合うたらええやん』って突っ込まれることも多かったな。院長は『タイプちゃうって』と返し、吉川先生は『私は男はコリゴリなの!』と頭を振っとった」  異性をかたくなに拒む明美容疑者の姿勢は服装にも表れていた。私服のときはめったにスカートをはかず、ユニクロで売っているようなベージュのチノパンにTシャツ姿。髪は茶色に染め、ずっと三つ編みにして、銀縁の細長メガネをよくかけていたという。  そして、近所ではこんな噂(うわさ)も広まっていた。 「実は彼女がやってきたころに『夫からの家庭内暴力に遭い、警察のアドバイスで逃げてきた』と噂が流れた。最初は彼女が誰かに言うたんやと思う。それで周囲も深く事情を突っ込まんほうがええということになった。『コリゴリ』と言われると、『本当に苦労してきたんやな』と思うやん」(前出の商店主)  ほかの男を拒む言動や行動、噂――これは、平田容疑者への愛の深さの裏返しにも見える。  少し、鼻にかかった遠慮がちな話し方をする控えめな平田容疑者に明美容疑者は昔から淡い恋心を抱き、「教団で知り合ったときから平田をずっと尊敬していた」と語っている。95年5月ごろ、平田容疑者から「2人でここを出よう」と声をかけられ、一緒に行動するようになった。  平田容疑者の暮らしぶりについて、明美容疑者は滝本弁護士にこう話している。 「平田は私が知る限り、住まいの移動のとき以外、一切外に出ませんでした。警察や周囲の人に気付かれそうになるとすぐ移動しました。家で彼は結構、洗濯、料理をしてくれていました。麻婆豆腐、カレーが得意でした。日中はテレビを見たり、パソコンをしたりしていました」  【「愛欲生活15年」の全真相(下)へ続く】 週刊朝日
週刊朝日 2012/01/24 16:36
鉄道で旅に出よう

鉄道で旅に出よう

いよいよ秋の行楽シーズンに突入。今年もどこかに行きたいけれど、円安で海外はハードルが高い。そんな時こそ、列車に揺られ日本を楽しもう。「AERA 10月14日増大号」では、北海道から九州まで、鉄道をこよなく愛する「鉄ちゃん」たちがおススメする至福の鉄道16選を紹介。黄金色に輝く釧路湿原を走るJR釧網線、もみじのトンネルを走る京都の叡山電鉄、昭和にタイプスリップしたかのような千葉の小湊鐵道などのほか、「動くテーマパーク」とも言える各地の観光列車もピックアップ。さあ、秋の鉄道旅に出かけよう!

鉄道旅
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
カテゴリから探す
ニュース
ファミマ2000店舗で「イートイン廃止」の衝撃 コンビニから“居場所”を奪われた当事者たちの悲鳴
ファミマ2000店舗で「イートイン廃止」の衝撃 コンビニから“居場所”を奪われた当事者たちの悲鳴
イートイン
dot. 8時間前
教育
マンガのモデルになった在宅診療医 「患者さんには、後悔なく生き切ってもらいたい」
マンガのモデルになった在宅診療医 「患者さんには、後悔なく生き切ってもらいたい」
在宅医療
dot. 10時間前
エンタメ
〈笑ってコラえて!2時間SPきょう出演〉ファンも業界人も総祝福 「堂本剛&百田夏菜子」の結婚はなぜ“アンチ”が全くいないのか
〈笑ってコラえて!2時間SPきょう出演〉ファンも業界人も総祝福 「堂本剛&百田夏菜子」の結婚はなぜ“アンチ”が全くいないのか
堂本剛
dot. 1時間前
スポーツ
巨人・吉川尚輝、9000万円の年俸どこまでアップ? 今季の“MVP級”の活躍には数字以上の価値
巨人・吉川尚輝、9000万円の年俸どこまでアップ? 今季の“MVP級”の活躍には数字以上の価値
プロ野球
dot. 1時間前
ヘルス
ビジネス
都内出張「日帰り」に切り替える人も 会社の出張旅費規定は「毎年見直し」の時代に
都内出張「日帰り」に切り替える人も 会社の出張旅費規定は「毎年見直し」の時代に
AERA 8時間前