第6回 「あなたに会えてよかった」の「あなた」は誰か
■最初は作詞を嫌がっていた
1991年、小泉今日子は「あなたに会えてよかった」をリリースしました。この曲はミリオンセラーとなり、彼女のシングル盤の売り上げ記録を更新します。みずから手がけた歌詞は、日本レコード大賞作詩賞に輝きました。
自分で歌詞を書くアイドルは、そのころ珍しくありませんでした。そのなかで、メジャーな作詞賞を受けたのは、小泉今日子ただ一人です。
よく知られているとおり、小泉今日子は2006年から、読売新聞の書評委員をつとめています。作詞で賞を獲り、大新聞に定期的に寄稿する。「作家」としてこれほど実績のある「アイドル出身者」は稀です。
小泉今日子は、もともとは「書いたものを公表すること」に積極的でなかったようです。彼女が最初に歌詞を書いたのは、1985年に発売されたアルバム「Flapper」に収められた「Someday」でした。レコーディングを担当していた田村充義が、このときの事情を回想しています。
<作詞も「せっかくだから小泉さん書いてみない?」って振ってみたら不承、不承(笑)「こんなので」って書いて渡してくれて。(中略)あまり自分でやる気はなかったようですが、僕は当時、彼女を見ていて、話が上手い人だと思ったんです。TBSの『ザ・ベストテン』で彼女が紹介した本がベストセラーになったということがあったり、この本やこのドラマのここが面白かったという説明をすごく的確に言う人なので、「歌詞書けるんじゃないかな?」って思って>(注1)
ピアノを弾くときには、できれば他人に聴いてもらいたいと願い、文章を書いたら、なるべく広く読まれたいと望む――これが「自然な心の働き」です。自分に恵まれた表現能力は、可能な限り使いたくなるのが「道理」のはずです。小泉今日子は、傑出した「言葉をあやつる力」を持ちながら、そこに背をむけていました。
彼女と9年間結婚していた永瀬正敏は、「あの人はああ見えてすごくシャイな人」と言っています(注2)。小泉今日子当人は、自分の特徴についてこう語っています。
<……世間のみなさんは、私はトンがったことを発信するアイドルだと思っただろうし、実際そう見えていたと思います。でも、本当の私はそういうことを自発的に発信するタイプではないんです。子どものころから内向的で、家にいるのが好きなタイプ。部屋で一人で本を読んだりレコードを聴いたりマンガを読んだり。(中略)私に何か才能があるとすれば、人が提案したものを吸収して「自分らしい形」にすることなんです>(注3)
詞を書くことは、一般的に考えるなら「人が提案したものを吸収して『自分らしい形』にすること」ではありません。それよりずっとストレートな「自己表現」です。このことと、小泉今日子が作詞に及び腰だった理由はおそらく関連しています。「あからさまに自分の世界を語ること」は、彼女にとって抵抗があったのです。
■「文学系アイドル」がいた時代
多くの80年代の女性アイドルは、「歌と演技だけの人間と思われたくない」という願望をギラギラさせていました(詳しくは「もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(上)」(dot.<ドット>朝日新聞出版 参照)。彼女たちは、文才や教養を誇示して「ただの芸能人」でないことを印象づけようと試みました。演技や歌といった「芸能人としてのスペック」に収まらない「特別な私」――それを証明しようと必死になっていたのです。
小泉今日子の「夜明けのMEW」(1986年リリース)のアレンジを担当した武部聡志は、こんなことを言っています。
<(「夜明けのMEW」は)秋元康さんの詞だし、(斉藤)由貴ちゃんや薬師丸(ひろ子)さんみたいな「文学系アイドル」ではないから、ドラムやシンセの音色もちょっと派手めに作ってありますね>(注4)
「文学系アイドル」という表現に、この時代の「『特別な私』を見せつけたがる芸能人」のありようが集約されています。
斉藤由貴は1985年、男性向けアイドル雑誌で「ルキノ・ヴィスコンティの映画と三島由紀夫の小説が好き」と語りました(注5)。今から見ると場違いな「教養自慢」に映りますが、この時代にはこうした言動が受けいれられていました。ポエムや小説をあつめた単行本も、彼女は何冊か上梓しています。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にも、自作ポエムを朗読するコーナーがありました。
薬師丸ひろ子は、スケジュールの合間を縫って受験勉強に励み、1983年に玉川大学に入学しました。当時は18歳人口が多く、志願者全員が入学できる「Fランク大学」は存在しません。芸能人が4年制大学に進学することは、それだけで「快挙」でした。
1年間留年したものの、薬師丸ひろ子は大学を卒業し、ハードな芸能活動と勉学を両立させています。この実績によって、「高卒がほとんどの、ふつうのアイドルとは格が違うイメージ」を彼女は獲得しました。
こうした「文学系アイドルの時代」を象徴するメディアが、「月刊カドカワ」です。1998年に終刊したこの雑誌は、「総合文芸誌」の看板を掲げていました。にもかかわらず、特集ページでは歌手を取りあげ、小泉今日子も二度フィーチャーされています。このうち、1990年2月号の特集には、ロング・インタビューや「読書日記」、当人自身による全アルバム解説などが載っています。
このときの「読書日記」の前文に、小泉今日子が「芸能界一の読書家」であるというフレーズがあります。編集部には、彼女の「教養」をアピールする意図があったのでしょう。しかし、小泉今日子がここで触れている書物は、ジュニア向けファンタジーや少女漫画が中心です。文芸雑誌の読者が、「こんなハイブロウな本も読むんだ。すごい!」と感心するラインナップではありません。
この号の目次には、五木寛之、林真理子、山田詠美、村上龍といった、現在でも人気のある作家の名前が見えます。その傍らに、斉藤由貴、尾崎豊、黒木瞳、鈴木保奈美といった芸能人の創作が並んでいます。小泉今日子が二度目に特集された1993年2月号にも、斉藤由貴、渡辺満里奈、荻野目洋子、三上博史などが寄稿しています。
武部の言葉にもあるとおり、「月刊カドカワ」でポエムや小説を書いていたタレントと、小泉今日子は「別のタイプ」と見られていました。「読書日記」からも、彼女が「文学系アイドル」と一線を画していたことは伝わってきます。
この「文学系ではない」という点では、80年代アイドルの二大巨頭だった松田聖子と中森明菜も同じです。
ただし、松田聖子は華麗な男性遍歴で知られています。子どもの頃から憧れだったという郷ひろみをはじめ、映画で共演した神田正輝、年下の外国人、歯科医師――彼女のお相手は、女性が「こんな人と恋愛をしてみたい」と願うタイプの総カタログです。そのことが「女の子が欲しがるものはすべて手に入れるイメージ」を生み、同性の共感を呼ぶポイントになっています。
中森明菜は、1989年、交際相手だった近藤真彦の自宅で自殺未遂をしました。以後、恋愛や事務所の移籍をめぐってトラブルがつづき、精神的な不調を伝えられるようになります。このことは、多くの男性の「自分が応援してあげないと」という気持ちをかき立て、新しいファンの獲得につながりました。
松田聖子も中森明菜も、「歌手としてのキャラクター」と「どういう恋愛をしているか」を分けて語ることはできません。「芸能人としてのスペック」に還元されない「ドラマチックな私生活」が、彼女たちのカリスマを支えています。
アイドル時代の小泉今日子にも、恋愛の噂は当然ありました。何回かは、写真週刊誌の標的にもされています。しかし、そうした恋愛騒動によって、彼女の歌う曲や演じる役柄は左右されませんでした。交際相手が、小泉今日子の「芸能人としてのイメージ」に影響したのは、中年に達してからです。40歳になった2006年、20歳若い亀梨和也とつきあっていることが報じられました。その結果、「美しく齢を重ねている人」として、いっそう広く認められるようになりました。
■「マウンティング」しないから「アンチ」が少ない
「文学系アイドル」は、教養や文才を誇示することで、「芸能人としてのスペック」に収まらない「私」をアピールします。松田聖子や中森明菜も、仕事を離れた「私」の姿でファンを引きつけました。
アイドル時代の小泉今日子は対照的です。歌詞を書いて「自己表現」することには及び腰、教養自慢もせず、恋愛騒ぎも仕事に反映させない――芸能活動を離れた「私」が表に出ることを、避けていたようにも映ります。
先に触れた「月刊カドカワ」1990年10月号の小泉今日子特集に、精神科医の香山リカは書いています。
<記号で表現される――つまり、メディアを通して私たちの目に触れる――キョンキョンは、偉大な精神分析家といわれるJ・ラカンの説を待つまでもなく、“記号内容の上を絶えず横すべりしている”。
キョンキョンの歌、CM、衣装、スキャンダル。
それらは凝視されればされるほど別の記号にするっと逃げ込もうとするばかりで、その記号が意味しようとするキョンキョンを読み取ることなんてできた試しはない。
(中略)ウルトラマリンの深い淵に沈むキョンキョンの真実は、あくまで縁からそっとのぞくことしか許してくれないみたい>(注6)
小泉今日子が、きわだって「『私』を見せないタイプ」と思われていたことがわかります。
最初は◯◯することは恥ずかしかったけど、やっていくうちにそうではなくなった――彼女のインタビューを見ると、この種の言いまわしがたびたび現れます。
<この年(1985年)のツアー「Kyon2 panic85」が始まるまで、ステージに立ちたくないとか家に帰りたいって思ったりしてたんだけど、これからそういうことがなくなった気がする>(注7)
<歌詞を小泉今日子で書き始めたのもこれ(1987年のアルバム「Phantasien」)が最初(それまでは「美夏夜」というペンネームを使っていた)。なれてきて、恥ずかしくなくなってきて>(注8)
<長い時間があったから、少しずつ恥ずかしくないことも増えているという感覚があるのね。(中略)文章を書くこともずっと恥ずかしかったけど、たとえば書評委員会も二年で辞めていたら、やっぱり中途半端で恥ずかしいまま終わっていた気がする>(注9)
彼女は、人前に心身を投げ出す必要にせまられると、まず「恥ずかしい」と感じるようです。「シャイ」で「私」を見せたがらない人間として、きわめて自然な反応といえます。
そうした「恥ずかしい」ことから逃げ出さず、「私」をさらすのとは別のアプローチで取り組もうとするのが、小泉今日子の流儀に見えます。他人から吸収したものを「自分らしい」形にして発信する――この「得意技」で勝負できる道を探すわけです。ライヴも作詞も書評も「恥ずかしくなくなった」のは、おそらくそれに成功したからです。
小泉今日子が手がけた歌詞を見ると、「自分以外の何か」の「尊さ」や「儚さ」が簡素な言葉で綴られているものが目につきます(彼女が愛読している大島弓子の漫画を思わせます)。女性歌手の自作歌詞は、「あなたをこんなに愛してる『私』」を声高に主張するものになりがちです。そういう類いの作品と、小泉今日子が描く世界は異なります。
彼女の著す書評にも、難解な用語や奇をてらった論法は現れません。誰にでも書けそうに見える平易な語り口で、対象としている本のすばらしさを読者の心に沁みこませます。
作詞でも書評でも、「私」をさらすのとは違うやり方で、小泉今日子は成果をあげています。「シャイ」な自分を変えることなく、体も言葉も公共の場に露出させる――そんな矛盾する営みを、30年間、彼女は続けてきました。
したがって小泉今日子は、「マウンティング=『私の方が上なのよ』アピール」とは無縁です(「マウンティング」イコール「私」自慢なわけですから当然です)。
男性にくらべ、女性が複雑なやり方で「マウンティング」しあうことは、しばしば話題になります(注10)。男性の「偉さ」を決める要因は、年収や職業など、いくつかに限られます。これに対し、女性同士の「どっちが上」を決める尺度はさまざまです。40歳で「独身・子どもなし・年収1000万円」と「専業主婦・子ども一人・夫の年収500万円」――両方に「私の方がエライ」と主張する言い分があります。
ほとんどの女性が込みいった「マウンティング」合戦に巻きこまれ、疲弊しているようです。このため、自分から「マウンティング」をしないタイプの女子は、同性から全方位的に好かれると、様々な文献で指摘されています。
小泉今日子は昔から、女性の「アンチ」がほとんどいませんでした。松田聖子や中森明菜とくらべても、この点は際立っています。
芸能人が書評のような「文化系活動」に乗り出すと、「無知なくせに見栄を張って」と批判を浴びせられたりします。そういう声も、小泉今日子に限っては聞こえてきません。
「私」をさらすことが苦手だから「マウンティング」しない――この性質が、小泉今日子の「敵の少なさ」の大きな理由だといえます。
「文学系アイドル」は、文才や教養を示すことで「マウンティング」しようとしていた人たちです。彼女たちがスキャンダルを起こしたときに、同性が向けた目には厳しいものがありました。このことも、小泉今日子の「嫌われない理由」を、反対側から物語っています。
■バブルへの哀悼歌
バブルに浮かれていた世相に対し、小泉今日子が冷静なスタンスをたもっていたことを、以前述べました(「バブル時代の小泉今日子は過剰に異常だったのか」dot.<ドット>朝日新聞出版参照)。加えて、現在でも語り草になるような「弾けた活動」を彼女がしていたのは、1985年と1986年のほぼ2年間です(「何てったってアイドル」のリリースが1985年、「人拓」で話題を集めた写真集『小泉記念艦』の発売が1986年)。1987年からは、みずからアルバムのプロデュースを始めるなど、「大人の歌手」への路線変更が始まります。
バブル景気は1990年から終息に向かい、1991年に潰えました。小泉今日子は、周囲がまだ好況に踊っていた段階で、「次」へのステップを踏み出していたことになります。
彼女は昨年、テレビのトーク番組で「バブルの頃は、いくらでもCMの話が来た。毎日CM撮ってた。それが私のバブル」と語っています(注11)。
自分は時流に身をまかせていなくとも、異様な熱気がバブル期に立ちこめていたことは、彼女も肌で感じたはずです。そんな「狂乱の季節」が幕を降ろそうとするころに、「あなたに会えてよかった」の歌詞は書かれました。「作家」としての小泉今日子は、「失われゆくもの」に人一倍敏感なのが特徴です(『原宿百景』という「死んでしまった知人の思い出話」ばかりが並ぶエッセイ本も出しています)。一つの時代が去りつつあることへの感慨が、この曲の歌詞を綴る彼女の胸中にあったのではないかと、私は想像しています。
「あなたに会えてよかった」の「あなた」は、小泉今日子が当時つきあっていた恋人のことだ、という噂も耳にします。あそこで語りかけられている「あなた」に特定のモデルがいた可能性は、たしかに否定できません。
ただし、あの歌が個人的な思いだけを表したものだったら、あそこまでヒットしなかったように思えます。
私個人は、バブルの恩恵にはほとんど浴していません。それでも、無限に日本が豊かになっていけると、誰もが本気で信じていた様子は印象に残っています。そんな、夢のような時代に別れを告げる歌として、「あなたに会えてよかった」は人びとの心をとらえたのではないでしょうか。
流行に棹さしていた「文学系アイドル」たちは、1991年の段階では方向転換していません。特定の状況に深く加担してしまうと、そこを離れるのはどうしても難しくなります。トレンドを一歩引いて眺めていた小泉今日子だからこそ、「バブルへの哀悼歌」をいち早く書くことができたのです。
※助川幸逸郎氏の連載「小泉今日子になる方法」をまとめた『小泉今日子はなぜいつも旬なのか』(朝日新書)が発売されました
注1 田村充義インタビュー(『80年代アイドルカルチャーガイド』洋泉社 2013)
注2 永瀬正敏ロング・インタビュー(『アクターズ・ファイル永瀬正敏』キネマ旬報社 2014)
注3 小泉今日子インタビュー(川勝正幸『ポップ中毒者の手記(約10年分)』河出文庫 2013)
注4 武部聡志インタビュー(『80年代アイドルカルチャーガイド』洋泉社 2013)
注5 巻頭大特集・斉藤由貴(『BOM』1985年9月号 学習研究社)
注6 香山リカ「キョンキョンのポワン・ド・キャピトン」(『月刊カドカワ』1990年10月号 角川書店)
注7 小泉今日子「本人自身によるヒストリー&全アルバム解説」(『月刊カドカワ』1990年10月号 角川書店)
注8 注7に同じ
注9 小泉今日子「独りであることの美しさ」(『Swich』2008年8月号 スイッチ・パブリッシング)
注10 瀧波ユカリ・犬山紙子『女は笑顔で殴りあう・マウンティング女子の実態』(筑摩書房 2014)
注11 『ボクらの時代』2014年6月1日放送
2015/02/25 11:30