独占インタビュー吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」(前編)
吉永小百合さんよしなが・さゆり 東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。11歳で連続放送劇「赤胴鈴之助」に出演、13歳で松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画界にデビュー。日活の専属を経てフリー。おもな主演映画に「キューポラのある街」「伊豆の踊子」「細雪」「動乱」「北の零年」「母べえ」「ふしぎな岬の物語」など @@写禁
戦争の犠牲者に祈りを捧げる夏を迎えた。戦後70年。焦土からの驚異的な復興と、平和な社会をつくりあげながら、安全保障政策で今、日本が岐路に立つ。戦後に寄り添い、数多くの映画に出演してきた吉永小百合さんが、戦争の愚かさ、平和の尊さを語った。
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数日前に映画「母と暮せば」の撮影を終えたばかり。12月の公開に向けて、撮影中とはまた違う忙しさです。私にとっては119本目の出演作になりました。救急車だと言って笑っているのですけど、テーマが長崎の原爆ですから、戦後70年の今年のうちに公開しようと、スタッフみんなで頑張っています。
この忙しさに追われている間に、安保関連法案が衆議院で強行採決されてしまいました。映画関係者らでつくる「映画人九条の会」の反対アピールの賛同者に加わりました。
振り返ってみれば、私は10代で映画の世界に入ってからは、演じることで、社会も戦争も原爆も学んできたと思っています。さらに人との出会いによって、平和や核のことを考えてきました。もしも作品で出合わなかったら、私は原爆も戦争もここまで考えることはなかったのかもしれません。でもまた同時に終戦の年に生まれた一人として、考え続けなければならないんだろう、という思いも持つのです。
私自身、父や母に戦争について聞いたことは、ほとんどありませんでした。南方戦線に送られていた父が病気で倒れたために帰還できて、私が生まれたことは、それとなく聞いています。また、私が生まれる直前に東京大空襲がありました。だから、私はこの世に生まれ、生かされたことに感謝しなければいけないと思っています。生まれなかった命も、生まれてすぐに奪われた命もあるのですから。
母からは、私が生まれたころは、食べるものもないし、母乳も出ないし、いきなりみそ汁をふくませたとか、私を背負って神奈川県の農村へ食料を求めて通ったとか、そんな話を聞きました。子どもを連れていると、いくらか多めに野菜や牛乳などを分けてもらえたそうです。戦中から戦後へ、親の世代が体験した話を、もっともっと聞いておくべきだったと今になって悔やんでいます。
●演じることで戦争を学んだ
原爆を描いた映画に出演した最初は、1966年の「愛と死の記録」です。原爆の後遺症に苦しむ青年と、彼を愛する娘の悲劇です。大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』の中で紹介されている実話で、監督は蔵原惟繕さん。8月の広島で毎日厳しいリハーサルとロケが続いて、音を上げそうになりましたけど、演じているうちにどんどんヒロインにひきつけられて、ヒロインの心情と一体となって、思い切り演じられたという充足感を持つことができました。
ところが、完成した作品からは、原爆ドームやケロイドの顔が出ている場面がほとんど削られてしまいました。当時はまた今とは違うさまざまな思惑があったのでしょうが、原爆をテーマにした映画なのに、なぜという強い思いの中で、撮影所の食堂前の芝生で座り込みをしてしまいました。
そして、それから2年後、映画「あゝひめゆりの塔」に出演しました。臨時看護婦部隊として従軍し、死に追いやられた沖縄師範の女子学生たちの悲劇を描いた作品でした。
当時、本当の意味でまだ戦争をわかっていなかった私は、映画に描かれたあまりの悲惨さに、ただただ泣き叫ぶだけでした。
ところが、完成試写を見た私は、愕然としました。スクリーンの中の私たちがあまりにも泣いているので、本当の厳しさが観客に伝わらないのではないか、こんな演技でよかったのだろうかと考え、いたたまれなくなってしまいました。
自分自身、頑張ったことは事実ですけれど、演技者の気持ちと観客は必ずしも一致しないのではないかと痛感したのです。それから何年もして、実際のひめゆり部隊にいて生き残った方が、「涙も出ない状況でした」と話されるのをテレビで拝見して、戦争の本当の過酷さを突きつけられた思いがしました。
どちらも、いろいろな意味で私には思い出に残る、青春時代の作品です。
●原爆詩を朗読して一字一句を大切に
その後、「夢千代日記」に出演します。81年の2月から放映されたNHKの連続ドラマで、出演したテレビドラマの中でも最も好きな作品です。私の演じた主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。原爆症を発症しており、余命2年と宣告されていました。
この出演がきっかけとなって、原爆の詩の朗読が始まりました。86年に東京で開かれた平和の集いで、被爆者の団体から依頼されて、原爆詩人といわれる峠三吉さんや栗原貞子さんの詩を朗読したことが最初です。
それからは、映画の撮影に入っていないときに、演劇や音楽などの舞台にふれる機会の少ない、地方の中学校などを中心に出かけては朗読していました。全校生徒三十数人といった山村の分校を訪ね、生徒たちと交流しながら、原爆詩を読んだこともあります。
そして、「第二楽章」と題して、私の「編」という形で本になり、CDも出すことができました。
「第二楽章」とは恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間から時間が流れて、次の世代へ移っていく時代になって、語り継ぐべきことを、どう語っていけばいいだろうと考えて生まれたタイトルです。音楽でいえば、激しいアレグロではなくて静かで穏やかなアダージョ。経験そのものを持たない世代の人にも共感を持ってもらえるように、やさしさと想像力をもって聴いてもらえるように、語りかけたいと思いました。
ですから、朗読は自分の感情を入れないで、一字一句丁寧に読んでいくことを心がけています。悲惨さや哀しさに読み手の私の感情が高ぶっていると、聴く人はそこで終わってしまいますから。自分をコントロールすることの大切さを、自分に言い聞かせています。
井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読をしている奈良岡朋子さんが、やはり「一字一句伝えることを大切にしている」と言われたのを新聞で拝見して、大先輩がそう言われるのだから、私もこれでいいんだ、と納得しています。
朗読の会はその後、海外でも持たれました。アメリカ・シアトルの郊外での朗読が、最初の海外です。95年のことですが、この2カ月前に米スミソニアン博物館で予定されていた原爆展が中止になっていましたから、日が迫ってくるにつれて、アメリカ人に原爆を伝えることができるだろうかととても不安になって、眠れなくなったほどです。でも、朗読が終わったとき、みなさんが立ち上がって拍手をしてくださったので、ほんとにほっとしたものです。
イギリスのオックスフォード大学での朗読は、2011年の秋です。坂本龍一さんのピアノの演奏に支えられての朗読でしたが、このときも幸いに多くの共感をもって受け入れられました。坂本さんが「朗読は音楽」だと言われましたが、日本語で朗読しても、音楽と同じで言葉の壁を越えて伝わるのですね。
(聞き手・文/由井りょう子、構成/長沢 明)
※週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋
週刊朝日
2015/08/14 07:00