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想像以上に“日本に馴染んだ” DeNAバウアー「NPBに骨を埋める」可能性はあるのか
想像以上に“日本に馴染んだ” DeNAバウアー「NPBに骨を埋める」可能性はあるのか DeNAのトレバー・バウアー  今シーズン来日した超大物外国人トレバー・バウアー(DeNA)は将来的にどのようなキャリアプランを描いているのだろうか。米国復帰を目指しているのか。それとも、日本に骨を埋めるつもりなのか。  NPBではこれまで3試合に先発登板。初戦の広島戦こそ7回を9奪三振、1失点の好投で白星を挙げたが、その後の2試合は連続で炎上。その実力に疑問符がついている。だが、2020年にメジャーでサイ・ヤング賞に輝き、年齢も今年で32歳と“バリバリのメジャーリーガー”であるのは間違いない。 「体はそこまで大きくないが(185cm)、打者に的を絞らせないうまさがある。常時95マイル前後を記録する動くストレートと変化球で打たせて取ることで長い回を投げることもできる。先発に1人いれば助かるタイプで、普通ならメジャーの各球団から引く手あまたの投手」(MLBアジア地区担当スカウト)  能力的な部分では誰もが認める好投手だが、2021年5月にはDV疑惑が浮上してMLBが調査に乗り出す大事件となった。その後、出場停止処分を受け今季から復帰可能となっていたが、結果的に所属していたドジャースは契約を解除。今年3月にDeNA入りすることとなった。 「欧米ではDVに関して社会的関心が非常に高い。バウアーは法的には罰せられていないものの倫理的には大問題。獲得意思を見せただけでも非難を浴びることは目に見えており、当面の間、MLB球団との契約は難しいと見られている」(在米スポーツライター)  DeNA入りしたバウアーは問題が発覚する前から横須賀の練習場を訪れるなど、以前から交流があった。「彼は今罪に問われているわけではない、というのが大きなポイント」(萩原龍大チーム統括本部本部長)と現状を把握した上で獲得を決定。様々な条件を付けて1年300万ドル(約4億2000円)で契約を結んだ。 「優勝を狙うチームに実績ある本物の投手が加入した。DV疑惑や性格に難があるという噂があったので、チーム内に多少の緊張感はあった。しかし実際は明るく、気さくで偉そうな部分は全くないナイスガイで本当に心強い」(DeNA関係者)  来日後は親日家の面を至る所で発揮、チームに溶け込むのも早かった。移動には電車を使い、自ら神奈川県内の野球専門店で和牛JBグラブを購入して使用していることなどが話題となった。 「2009年の日米大学野球で来日してから日本が大好きらしい。自身のYouTubeチャンネルを見てもわかるが、日本文化に興味津々で多くのことを吸収しようとしている。日本に馴染むことで野球にも好影響が及ぶはず。ビジネス面を度外視すれば日本で骨を埋める可能性もある」(DeNA担当記者)  バウアーの今後に関しては多くの噂が飛び交い、MLB復帰を見据えてのDeNA入団という声も少なくない。しかしグラウンド内外で日本生活を心底エンジョイしている様子を見ると、契約延長の可能性もゼロとは言えないようにも感じるが……。 「日本のことは好きだろうが、野球選手としてのビジネスは別問題。DV疑惑という問題を抱えてはいるが、投手として一級品なのは明白。状況が整いMLB復帰に障壁がなくなれば、獲得に動く球団は複数あるはずで桁違いの契約を結べる」(スポーツマネージメント会社関係者) 「DVは重く受け取られる問題だが、米国はセカンドチャンスを与える国でもある。MLB復帰には時間が必要だろうが、獲得に向けて前向きな球団もあるという。以前に近い投球ができるなら、時期がくれば米国復帰が濃厚でしょう」(在米スポーツライター)  今季の1年契約が終了した時点で再びFAとなるため、来季以降は現時点では不透明だ。いずれにせよ、バウアーはコンディションを保ち「投げられる」状態を維持することが大事になるが、来日後ここまでは「らしさ」全開とは行かず、今後の活躍を不安視する声も出始めてはいる。 「昨年1年間は実戦で全く投げていない。多くの球種を織り交ぜた投球術を大事にするタイプなので、感覚が戻るまでは仕方がない。NPBという初舞台への適応も必要。アジャストのうまさも持ち味だけに、あと何回か投げれば結果に結びつく投球ができるでしょう」(MLBアジア地区担当スカウト)  サイ・ヤング賞投手の肩書き、DV疑惑の過去など注目を集める要素が揃っている。普通の投手なら「調整段階なら合格点」と言われる投球内容でも厳しい判断をされてしまうのは仕方がない。 「米球界関係者は冷静に見ている。メディアやファンは結果に一喜一憂するが、球質やコンディションを客観的にジャッジしている。現時点では以前と遜色ないという声も聞こえる。MLB復帰が可能となった際には獲得競争になるはず」(在米スポーツライター) 「米球界は好景気で、仮にバウアーがMLB復帰する場合はNPB球団とは比べ物にならない金額が手に入る。日本で骨を埋めるとすれば、心底から日本を愛している場合だけだろう。結局は本人の気持ち次第」(DeNA担当記者)  これまでも多くの大物外国人選手がNPBにやってきたが、“日本に合わず”早い段階で帰国するケースも少なくなかった。しかしバウアーの場合は日本で長くプレーすることもあるのでは?と思わせてくれるほど、“馴染んで”はいる。 「バウアー人気でグッズはバカ売れ、横浜駅ビルには大型広告が掲出される騒ぎ。多少の金額を払っても回収は可能なはず。DeNAを含めたNPB球団は人情のみではなく、条件面でも本気の誠意を見せて欲しいものです」(スポーツマネージメント会社関係者)  開幕から2カ月しか経過していない段階で早くもオフの去就が話題になるほど、バウアーの影響力は大きい。  野球界では不祥事が多発、イメージダウン進行中の今だからこそ必要な存在。大谷翔平(エンゼルス)ら一流の日本人選手がメジャーに活躍を求める今、逆に米国から来た大物は貴重でもある。1年でも長く日本でプレーしてNPBを盛り上げて欲しいとも思う。
子どものお弁当「カロリー足りてる?」という不安を払拭 管理栄養士が教える中高生弁当3つのコツ
子どものお弁当「カロリー足りてる?」という不安を払拭 管理栄養士が教える中高生弁当3つのコツ 左は900ミリリットル、右は700ミリリットルのお弁当箱に詰めたお弁当。この容量が、カロリーの目安になる  育ち盛りの中学・高校時代は、人生で最もエネルギー量が必要な時期。1日3食のうちの一つであるお弁当についても、「カロリーは足りているのか」「よく残してくる」など悩みが尽きない。スタジオ食(coo)を主宰する管理栄養士の牧野直子さんは著書『ムリなくできる! 栄養のこと、ちゃーんと考えた 毎日おいしい弁当』で、そんな悩みに答えている。暑さで食欲が落ちがちな時期を前に、「お弁当のカロリーを把握する意外な方法」「ご飯とおかずの黄金バランス」「残さず食べさせるコツ」を押さえておきたい。 カロリーを把握する意外な方法  必要なエネルギー量(カロリー)は、同じ中高生といっても、性別や活動量などによって異なるし、個人差もある。その前提で一般化すると、中高生の1回のお弁当に必要なエネルギーは、男子で800~900キロカロリー、女子で700~800キロカロリーと言われている。  自分が作っているお弁当が、この必要カロリーを満たしているのかどうかを知るための、意外な方法がある。お弁当箱の裏側などに書いてある「容量」を見てほしい。牧野さんは、この容量が、ご飯やおかずを詰めたときのカロリーとほぼ一致する、と話す。もちろん、実際のカロリーはご飯とおかずのバランスやおかずの種類などによって変動するが、十分に目安になるという。  つまり、中高生男子なら800~900ミリリットル、中高生女子なら700~800ミリリットルの容量のお弁当箱を用意しておけばいい。 ご飯とおかずの黄金バランス  お弁当を構成するのは、主食であるご飯と主菜、そして副菜。これらを、「主食:主菜:副菜=2:1:1」の比率で詰めるのが、牧野流の黄金バランスだ。 全体の半分に主食を詰め、残った半分には主菜と副菜を1:1の比率で詰める。野菜の副菜は2種類にしてもいい  主食になるご飯や麺などの炭水化物(糖質)は、脳や体を動かす大切なエネルギー源なので主菜や副菜よりも多めに。主菜は、筋肉を作るためにも肉や魚、卵などの動物性たんぱく質を意識する。副菜は、主菜との食感の変化を意識して、野菜中心のものにするといい。主菜がしょうゆベースの味つけなら、副菜は塩やトマトケチャップなど、別の味にすることも重要。カレー粉などのスパイスやバジルなどのハーブを使うと、味にバリエーションを出すことができる。  実際にお弁当箱に詰める際は、全体の半分に主食。残りの半分をさらに2等分にして主菜と副菜を詰めると、バランスも整い、キレイに見える。 残してくるなら「ワンハンド」  十分なカロリーのお弁当を持たせても、残してくることが多ければ、結果的にカロリーが不足してしまう。お弁当を残してくる場合、「食欲がない」「好き嫌いがある」などの理由を考えがちだが、意外に多いのは「食べる時間がない」という理由だ。 サンドイッチなら主菜となる炭水化物と肉や魚、野菜を一度に摂ることができる。おにぎりの具材も工夫次第 「4時間目の授業が押した」「そもそも昼休みが短い」「授業の準備があってゆっくり食べていられない」――。学校の日常は時間に追われ、親が思う以上に忙しい。こうした理由で残してくる場合に有効なのは、手軽に片手で食べられるお弁当。昼休みに何かの準備をしながらサンドイッチを一つ。授業が終わってから短い休みにもう一つ、といった食べ方ができるよう、工夫するといい。 (構成 生活・文化編集部 端 香里/写真 新井智子)
「市原隼人」が肉体派俳優から“怪演系”へ 独特の「クセが強い」演技が高評価
「市原隼人」が肉体派俳優から“怪演系”へ 独特の「クセが強い」演技が高評価 市原隼人  木村拓哉主演「風間公親-教場0-」(フジテレビ系)の第1話で犯人役を演じ話題となった市原隼人(36)。鍛え上げられた肉体は健在だが、そこに繊細な演技が加わり、役者としての幅が広がった印象だ。今秋放送の台湾ドラマ「商魂 TRADE WAR」への出演も発表され、これまで以上に勢いに乗っている。 「『教場』では体力がなさすぎて警察学校を中退した犯人を演じたことから、視聴者からはSNSで『お前、肉体派すぎるやろ! ありえない』などのツッコミもありました。一方で、ドラマでは物静かでありながら、犯人独特の違和感を醸し出し、場の空気がどんどん不穏になっていく演技に見入ってしまった視聴者も多かったでしょう。まさに“怪演”という感じで、市原さんの底力を見たような気がします」(テレビ情報誌の編集者)  市原は、岩井俊二監督作「リリイ・シュシュのすべて」(2001年)で繊細な少年役を演じ、主演デビューを飾りました。それ以来、主演ドラマ「WATER BOYS2」(04年、フジテレビ系)では男子シンクロ部員、「ROOKIES」(08年、TBS系)では元ヤンキーの球児など、さまざまな役柄を演じてきた。 「『ROOKIES』で当たり役を得てからは、肉体派の熱血キャラのイメージが強くなった市原さんですが、ここ数年は個性的な役柄にもチャレンジしています。市原さんは30代半ばにしてすでに20年以上のキャリアがあり、かつ常に第一線で活躍してきた。同世代の俳優の中では一歩抜きん出た存在といえるでしょう」(同)  20代後半から容姿が渋めになり、演じる役柄も個性的なものが増えてきた市原。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(22年、NHK)では幕府の宿老の一人で“常にしっとりしている”八田知家を、ドラマ「正直不動産」(22年、NHK)では主人公のライバルで、優秀だがうさんくさい不動産営業マンを、劇場版にもなった「おいしい給食」(19年~、BS12)では給食を偏愛する“給食絶対主義者”の教師を演じている。いずれも演技力が必要とされるキャラクターを見事に演じ分けている。 「いわゆる“肉体派イケオジ枠”は、阿部寛、西島秀俊、伊藤英明らの寡占状態が続いています。市原も20代前半の雰囲気のまま年を重ねていたら、いずれ彼らの“分厚い筋肉の壁”に道を阻まれていたかもしれません。その意味では、いわゆるイケメン俳優の道を捨て、クセの強い“怪優”路線にかじを切ったのは大正解だと思います」(芸能ライター) ■「人生の師」は長渕剛  だが、市原の俳優人生はすべて順風満帆だったわけではない。20代のころは役者として苦悩を抱えていたようだ。映画ライターはこう語る。 「若手俳優としてブレークした20代前半には撮影のプレッシャーがすごかったようで、当時は涙が止まらなくなったり、嘔吐(おうと)してしまったりすることもあったとSNSで告白しています。そこで頼ったのが、市原が慕う長渕剛。市原の悩みを優しく包み込むように受け止め、背中を押してくれたと語っています。ともに肉体を鍛え上げ、語り合うことで、心身ともに研ぎ澄まされていったのだと思います。今、俳優としてとてもいいポジションにいる市原ですが、人生の師ともいえる長渕の存在が転機になったのは確かでしょう」  市原は過去のインタビューで「役者は感情が商売道具なので、役をいただいたら、もうそのことしか考えられなくなる。人生の3分の2くらい、私生活でも役のことを考えているので、少し寂しいと感じることもあります」(「ハルメク365」22年5月15日配信)と語っていた。相当ストイックな性格のようだが、だからこそ、主演であれ脇役であれ、スタッフから評価され、役者として重宝されているのかもしれない。  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は市原の魅力についてこう分析する。 「確かに『鎌倉殿の13人』や『教場』などでの熱演、怪演は話題になりましたが、おそらく彼自身は演技や役柄に真摯に向き合っているだけで、『爪痕を残してやろう』などという意識はないはずです。とにかく真面目で誠実な性格で、サービス精神にあふれ、周りとズレていてもどこか憎めない……これらがむしろ本当の姿なのではないでしょうか。鋭い日本刀のようなたたずまいも十分にかっこいいのですが、良い意味で昭和の俳優の趣を感じさせる彼が本領を発揮するのは、コメディーだと思います。なので、10月スタートの『おいしい給食』のシーズン3は非常に楽しみですね。彼の主演作の中でも傑作といえるドラマ『明日の君がもっと好き』のような、真面目で熱心だけど、どこかユーモアが漂う人間味あふれる役をもっと見てみたいですね」  年齢を重ねるたびに変化する市原の演技を、これからも堪能したい。 (雛里美和)
忘れることのない祖母の言葉「諦めずに貫け」 損保ジャパン・西澤敬二会長
忘れることのない祖母の言葉「諦めずに貫け」 損保ジャパン・西澤敬二会長 部下の話を聞くときはまず雑談から入り、心を開き合ってから核心の本音を切り出す。「人の和」をつくる前、酒は入れない。これは、いまも同じだ(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年5月22日号の記事を紹介する。 *  *  *  2003年7月1日、富山支店長になった。かつては高い実績を出した拠点の一つだが、このとき、全国に71あった支店で下から3番目。立て直しが、任務だった。ひと月かけて県内の支社や代理店への挨拶回りを終え、驚いた。成績が、全国の支店で最下位に落ちていた。  職場は、元気がない。本社からくる多様な指示は、1人がこなせる量を超えていた。それを愚直にやって、疲弊していた。再生は容易でない。でも、「昨日より今日、今日より明日は働きがいがある」と思える職場へ、戻したい。それには、全員共通の「成功体験」を持たせるのが一番。そう、目標を決めた。 ■布団の中に潜り何度も聞いた 一心岩をも通す  東京・北千住で過ごした子どものころ、町工場の経営で多忙な両親に代わり、祖母が世話してくれた。小学校低学年まで、祖母の布団の中に潜って寝た。「おばあちゃん」と呼んだ祖母は、寝物語を聞かせてくれる代わりに、心構えを説く。いくつかの言葉が、胸に刻まれた。  一つが「一心岩をも通す」。同じ意味で「一念岩をも通す」との言い方もあるが、「おばあちゃん」はこの言葉を口にした後、「いいかい、何事をするにもまずは目標を高く持ち、一度やろうと決めたことは諦めずに貫くのだよ」と加えた。ビジネスパーソン人生の『源流』となった教えだ。  新米の支店長に、再生への近道など浮かばない。何かうまくいかないと、すぐ機構や人事をいじりがちだが、それは違う。育てるための道順が、必要だ。だから、まず仕事に優先順位を付けることにした。何が優先かが決まれば、誰でも順位が高いことに取り組む。  県内の営業部隊100人に、どういう仕事をどんな発想でしているのか聞いて回り、優先させることに選んだのが生命保険の営業だ。自由化で、損害保険会社も生命保険を扱える時代になっていた。だが、営業職員も代理店も損保で稼げれば、経験の乏しい生保に手を出さない。  生保を手がけるには、一から勉強せざるを得ず、みんなが同じスタートになる。本社を説き伏せ、損保の営業を半年止めて生保販売に集中させた。毎晩、支店長室ではなく部下たちの机が並ぶ部屋で、みんなの帰りを待つ。節約のため灯りを絞った薄暗い部屋に座っている支店長をみて、戻ってきた部下たちは驚くが、慣れると雑談をしかけてくる。返す言葉に、生保を扱う意義や夢を盛り込んだ。  年末、生保の販売額は全国の支店で3、4位になっていた。みんな、自信を感じさせる発言をするようになる。上げ潮ムードがその後の損保の営業にも及び、支店の成績は全国で上から3分の1くらいへ上がった。全員共通の成功体験。「諦めずに貫く」ができた。 ■兄と同じ中学へ 安易に考え失敗 高校受験で挑戦  1958年2月、東京都足立区で生まれた。祖父母と両親、兄の6人家族。祖父母は長野県の農家出身で、若いときに田畑を売って上京し、荒川沿いの北千住で染色工場を始めた。父は次男だったが、兄が戦死したため、母と約30人の町工場を継いだ。祖父は幼いときに亡くなったが、「おばあちゃん」は高校2年のときまで存命した。  小学校6年のとき、兄が受験して慶応義塾の中等部へいっていたので「自分も慶応へ」と決めた。でも、安易に考えて遊び続け、親が付けてくれた家庭教師との学習時間も無視する。捜しにきた「おばあちゃん」から逃げても、追いかけられ、家へ連れ戻された。  結局、試験は通らず、別の私立中学へ進む。楽しい日々だったが、中学2年の秋に「一心岩をも通す」の言葉が浮かんだ。ここで思い直し、高校でもう一度、慶応を受験しようと決め、猛勉強を重ねて合格した。高校と慶大経済学部の7年は、庭球部で過ごす。  80年4月に安田火災海上保険(現・損保ジャパン)に入社。研修後、名古屋市の保険金サービス部へ配属され、火災保険の保険金支払いを5年担当した。営業担当は代理店を通じてやる仕事がほとんどで、お客と接点は少ない。でも、保険金の支払いは査定にいき、自宅が全焼したとか家族が事故で亡くなったとかお客が厳しい局面のなかで、直に話すことが多い。  最初の実地調査から、衝撃を受けた。仕事に出ていた夫以外の家族全員が、火災で亡くなった。着くと夫は呆然と立ち尽くし、かける言葉がみつからない。お見舞いの言葉だけにして、同行した鑑定人と調査を始めた。  燃えた柱や壁の一部が残っていたが、査定は「全焼」だ。保険金の1千万円に付帯されていた臨時費と片付け費用を加え、紙に1160万円をお払いすると書いて示す。夫は保険金額を超える提示に驚き、「家族を失った悲しみは一生癒えないが、このお金でまた新しい生活が始められる。本当にありがとう」と涙を流した。  23歳のときの鮮烈な経験だ。 ■頑張った人に虹色のチケット 希望部署へ異動  富山支店長へ出る前の2000年7月、人事課長になった。ここでも「諦めずに貫く」があった。名古屋で主任になって以来、部下の評価では「頑張った人を推す」を続けた。人事課長として軸に置いたのも「頑張った人に報いる」だ。でも、望む部署へいかせたいと思っても、定員に空きがなく、なかなか希望に沿えない。道を探していたら、ふと、案が浮かぶ。 「希望先に空きがなくても、異動させてしまおう。定員超過分は、次の人事の際に解消すればいい。社員数の多い会社だ、それくらいは包み込めるだろう」  部長や担当役員、社長まで、「面白い、やってみろ」と言ってくれた。早速、営業担当役員から推薦された「頑張った」15人を、希望の部署へ送る。付けた制度名が「ドリームチケット」。実際に虹色のチケットをつくり、役員が本人へ渡す。社員たちが先々に「夢」を持てるように、との思いだった。03年夏に始め、いまも続いている。  2015年4月、持ち株会社と事業会社の副社長執行役員となり、半年後に持ち株会社の新規事業開発部長も兼務した。人口減に伴う契約の伸び悩み、若者の車離れ、想像を超える自然災害の続発など、損保事業の成長性はみえにくくなっていた。  何か潜在需要の大きい新規事業へ乗り出したいと思い、部の全員を集め、どんな新規事業を考えているのか聞いた。そのなかで興味を持ったのが、介護事業だ。やはり「世のため人のため」になる事業を、と頷く。  社内の多くが「難しい」と反対したが、押し切った。いま運営する高齢者施設は200カ所を超え、介護サービス付きマンションも約50棟。デイホームや在宅サービスもやって利用者は8万人近く。もちろん、介護に携わる3万人の処遇も大事。当初は看護師の6割くらいだった介護を担当する職員らの平均年収は、もう少しで看護師と並ぶ。  16年4月に事業会社の社長になっても、22年4月に会長になってからも、介護事業に力を注ぐ。「決めたことは貫く」という『源流』からの流れは、止まらない。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年5月22日号
元日経記者・後藤達也 日銀キャップ退職に「会社員の立場を捨てることに家族のほうが前向きだった」
元日経記者・後藤達也 日銀キャップ退職に「会社員の立場を捨てることに家族のほうが前向きだった」 「日経の退社に関し妻は『辞めろ』に近い勢いだった」と後藤さん(撮影/小山幸佑)  後藤達也さんが日本経済新聞社を辞め、会社員からフリーランスに転じたのが2022年4月。今の仕事状況は? 普段見せないプライベートは? アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より5ページのインタビューを抜粋してお届けする。  ツイッターのフォロワー数50万人超(2023年4月20日現在/以下同)、ユーチューブのチャンネル登録者数約25万人、noteの有料読者約2万人といった驚異的な数字を、経済系インフルエンサーでは史上最速レベルで達成した。  フリーランスへの理想形のような転身に成功した後藤さんだが、インタビューでお会いしたときは濃紺のスーツにネクタイ姿。絵に描いたような「大手企業に勤めるエリートビジネスパーソン」に見えた。  実際、エリートだったことは間違いない。文春オンラインが2022年3月、実名こそ伏せたが「精緻(せいち)な解説で人気だった日銀キャップが退職届を提出」したことを報じたとき、業界に衝撃が走った。  日銀記者クラブは報道各社が精鋭記者を投入する経済報道の主戦場。現場責任者である「キャップ」は出世コースに乗った人が通る道だ。  後藤さんは妻と子どもの3人暮らし。日経を離れることに家族の反対は全くなかったという。本人の気持ちはどうだったのか。 「辞めたくて仕方がないほど嫌気が差していたわけではありませんが、仕事は過重気味で窮屈さはありました」  退社直前、ニューヨーク特派員時代にはじめたツイッターのフォロワー数は30万人を超えていた。独立にあたってこのアカウントは閉じ、イチから再スタート。 「情報発信で生計を立てられるほど世の中に求められているか……。不透明でしたが、試してみたい気持ちが強まりました」  迷う心境を妻に話したら「『辞めろ』に近い勢いで強力に背中を押してもらいました(笑)。もしかしたら日経にずっと残るほうがリスクなのではないか、と」。 「妻はシンクタンクで働いていて、収入があります。少しは貯金もあったので、1年働いて100万円しか稼げなくても、すぐに生活に困るわけではないだろう、と。全然食えないとなったら、また職を探せばいいと楽観的に考えていました」 「ツイッターなどのSNSで経済に関し『断言』する人は信じないほうが」  後藤さんは慶應義塾大学経済学部を2004年に卒業し、日経入り。金融市場全般と日銀、財務省、企業調査を主なフィールドにニューヨーク特派員も経験し、取材や執筆の幅を広げてきた。  記者の仕事は情報入手で競う面が強いが、後藤さんは日経在職中に米国コロンビア大学留学も経験している。シンクタンクのCJEB(日本経済経営研究所)で2年、エコノミストとしての修業を積んだ。  独立して、暮らしはどう変わったか。 「気が向いたとき、働きたいときに働いています。夜9時に寝て深夜2時に起き、執筆することもある。午前3時に寝ることも」  どんなに忙しくても1日6~7時間の睡眠は確保する。寝不足は大敵。 「家では自室に行けばいつでも仕事ができてしまうので、オンとオフの境目があいまいになった感じはあります」  後藤さんとマーケットとの接点は学生時代にさかのぼる。 「2000年夏のマネックス証券上場直前、創業者の松本大(おおき)さんの講演を聞いて株に興味を持ちました。当時は大学生でしたが、なけなしの貯金でマネックスの株を買ったのが最初です。  その後20年以上も経って松本さんと対談(2022年12月28日「マネクリ」<マネックス証券のマネー情報メディア>)したときはうれしかった」  一口にお金や経済の情報と言っても、ツイッター、note、ユーチューブ、テレビ番組と各媒体に適した伝え方がある。 「noteは日本経済新聞に近いかもしれません。月500円の課金をしてでも勉強したい人たちが読んでくださっているので、『つみたてNISA(少額投資非課税制度)って何?』みたいな超初心者向けの内容はマッチしづらい。  ツイッターのフォロワーも金融リテラシー(お金や経済の知識と判断力)が高めの人が多いように感じます。ユーチューブは視聴者の視聴結果を元におすすめ動画が表示されることもあり、少し受け身。  とはいえ経済に興味のある人が見る前提ですから、わかりやすいグラフを自作し、視聴してくれる層を探っています。 「正直にやる。小金目当てに読者の信頼を失うほうが怖い」  テレビは『関心はなかったけど、たまたま(後藤が)出ていたから見た』という人も多いでしょうから、金融の知識ゼロの人にもわかるような解説を心がけています」  お金についての興味や勉強の熱意は千差万別。だからこそ一律に同じ情報を発信するのではなく、伝えるべきポイントや話し方も変えていく必要がある。  後藤さんファンにはどんな人が多いのだろう。なぜここまで支持されているのか。 「金融機関も大手メディアも相手にしてこなかった『カネにならない人たち』がついてきてくれている気がします」  証券会社や銀行では、高い手数料を払ってさまざまな金融商品を買ってくれる人が「いい顧客」だ。買わせるために、あの手この手で新商品の紹介をする。  相場解説もどちらかといえば「上昇期待」に寄る傾向にある。大手ウェブメディアや雑誌はクライアントの絡みもあり、いいものは褒めるが悪いものには触れない(けなさない)ことが多い。  テレビは「年金の運用成績が悪い」「投資で損した」など悪い話のほうが視聴率を稼げるので、民放が大きく報じるのはネガティブな話題——。 「日経新聞の読者は数百万人。その読者には、金融や経済を知り尽くしたプロもいます。その対極に『消費者物価指数やFOMC(米連邦公開市場委員会)などという言葉を見かけるけど、実はよくわからない』『NISAなどで資産運用をしたいが知識ゼロ』という人がいて、こちらが数的には圧倒的に多い」 「NISAって何?」「投資信託はどれを買えばいいの?」という情報はあっても、経済の流れを自分で判断できるようになる力が養える場はなかった。  後藤さんの言う通り、この層を鍛えてもカネになりにくいのである。NISAで低コストなS&P500の投資信託を買う「だけ」の人は、証券会社の利益にはほとんど貢献しない。  複雑に絡み合う経済動向をわかりやすく解説するのはプロでも難しい。そして経済の知識が豊富な人が、初心者に理解させるスキルを持っているわけではない。 「SNSなら忖度(そんたく)なしに情報発信できます。ネットのおかげで、これまで情報が届かなかった人たちにアプローチできています。  経済を知らなくても生きていけるし、興味がなければ調べなくてもいい。でも、よほどの富裕層でない限り、預金以外での資産形成は避けて通れない問題でしょう」  わかりやすく、おもしろく、偏りなく。後藤さんの情報発信に共通する3カ条だ。ツイッターでもnoteでもユーチューブでも、読者数や再生数を稼ぎたいための過激な「釣り見出し」コンテンツはない。  ネット上には有料無料を問わず、情報があふれている。大げさなもの、間違っているものも多々ある。 「特定のインフルエンサーの1人か2人だけを信奉することは勧めません。『この人に聞けばすべて完璧』なんて、ありえないからです。  また、断定口調を連発する人は危険かもしれない。株価や為替の見通し、買うべき金融商品を断定的な言葉で語られると、インパクトがあって『この人の言うことはすごい』と思ってしまうかもしれませんが……ご注意ください」  金融機関やきちんとしたメディアは基本的に断定口調を使わないので、特に初心者は「言い切られると新鮮に感じる」のだ。言葉のマジックである。 「マーケットと長年向き合っていると、断定口調で話すことが恥ずかしくなってくるものです。世の中は複雑ですから。明日は何が起こるか、誰にもわからない」  ツイッターもユーチューブも、怪しいもののほうが多いと思うぐらいでちょうどいい。発信するのに資格は不要だし、過激なことを言うほど注目され、フォロワーも増える。  大手金融機関に勤めていたことを信頼性の担保にする人もいるが、どの部署にいたかで知識の程度は変化する。正確な情報を丁寧に発信している人ほど目立たない(後藤さんを除く)。  最近はSNSだけでなく、書籍も見極めないと危ない。フォロワー数の多さに目をつけた版元から声がかかり、付け焼き刃の知識しかない人が出す「トンデモ本」が存在する。  証券会社のレポートや新聞にも、それぞれのバイアスがかかっている。  そういえば後藤さんのSNSには、アマゾンアフィリエイトのリンクすらない。アマゾンアフィリエイトとは、読者がリンクを踏んでから一定時間内に何か買い物をすれば、アカウント保有者に売り上げの一部がバックされる形のネット副業の定番だ。 「そもそもツイッターのリンクを踏んでもらうことで直接稼ぐ気がありません。自分が本を出したらお知らせしますが、そのリンクにさらなる収益の仕掛けは入れない」  自分の本なら、本を買ってもらうだけで多少なりとも収益につながるから、そこにわざわざアフィリエイトは仕込まないというわけだ。何かと正直な人なのである。 「自分の小金稼ぎのために、フォロワーにとって重要じゃなかったり、時には有害だったりする情報も発信すると思われたら、信頼度が下がってしまう。アフィリエイトで得られる目先の利益を優先して信頼を失うほうが、よっぽど損だと思います」  政府は2024年、値上がり益や配当が非課税のNISAを拡充。年間投資枠を最大360万円、非課税保有限度額を1800万円に広げる。後藤さんはどんな資産運用を勧める? 「NISAに工夫なんて、必要ないです。他の人が知らない裏ワザもありません。よくわからなければ、米国主要企業を網羅するS&P500や全世界株式に連動する投資信託をつみたてればいいと思います」  この1年で1ドル=一時150円超えまで円安が進み、全資産を円だけで保有することのリスクに気づいた人は多いはず。 「日本の円預金以外に、米国株などの海外資産をある程度保有することは必要でしょう。儲けるためではありません。自分の資産や生活を守るためです」  後藤さんは高校や大学で金融教育の出張授業も行う(2023年5月末まで募集、予定が埋まり次第終了)。謝礼どころか交通費も不要という。現在、はじめての著書を執筆中。日経BP社から発売予定だ。  最後に素顔をのぞくべく、お酒について。 「ウイスキーが好きです。『マッカラン12年』などのスタンダードな銘柄。あとは日本酒。吟醸香や甘味の強いものより、すっきりした味のものを選びます」 ◯後藤達也(ごとう・たつや)/経済ジャーナリスト。1980年生まれ、大阪府出身。慶應義塾大学卒業後、日本経済新聞社入社。金融市場全般、日銀、企業取材などの記者になる。その後、シンクタンク系の部署を経て2016年よりコロンビア大学ビジネススクールの付属機関、日本経済経営研究所(通称CJEB=Center on Japanese Economy and Business)へ。2019年4月~2021年9月、ニューヨーク特派員。このときツイッターによる経済情報の発信をスタートし、フォロワー数30万人超に。2022年3月に日本経済新聞社を退社、ツイッターアカウントも改めて新規で立ち上げ、現在のフォロワー数は50万人超。現在は「note」で月額500円のメンバーシップマガジン(会員数約2万人)やツイッターで情報を発信。YouTubeやテレビなどにも出演し、ファンを増やし続けている。“経済をわかりやすく、おもしろく、偏りなく”がモットー。既婚、子ども1人。好きな食べ物はすし、好きな酒はウイスキーと日本酒 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋
芸術家と医者で一致する死後のイメージ 横尾忠則&帯津良一「死が楽しみ」
芸術家と医者で一致する死後のイメージ 横尾忠則&帯津良一「死が楽しみ」 帯津良一さん(左)と横尾忠則さん(撮影/横関一浩)  読者から絶大な人気を誇る本誌「週刊朝日」連載の「ナイス・エイジングのすすめ」の帯津良一さんと「シン・老人のナイショ話」の横尾忠則さん。同じ年生まれで、思わぬ共通点があることも判明。医者と芸術家という異なるジャンルの二人の同じ思いとは!? *  *  * 横尾さん(以下、横):僕と帯津さんは年齢が同じなんですよね。 帯津さん(以下、帯):ええ、横尾さんは6月でしょ。私は2月の早生まれだから、ちょっとお兄さん。でも私から見ると横尾さんは芸術家で住む世界が違うから、恐れ多くて近寄れなかった。 横:僕のほうはお医者さんが身近なんです。僕はあっちこっちが悪い人で何かあるとすぐ病院に行く。目に埃が入っただけでも病院、爪が割れただけでも病院、とにかく病院に行くのが好きなんです。 帯:私は芸術が全然ダメなんですよ。ほんとに絵心もないしね。 横:そういう人のほうが怖いんですよね。絵のことはよくわかるっていう人は怖くないんですよ。  今日はまず診察をしてもらおうかな。私はまず耳がねえ、ひどい難聴で、壊滅的にダメなんです。もともと未熟児で生まれたんで虚弱体質なんですよ。 帯:そう見えないですけどね。 横:先生は、同い年だけどお元気ですよね。医者の不養生っていうのはないんですか。 帯:そうですね、酒もね、大好きで毎日飲んでますけれど、二日酔いはしません。私はお酒が生きがいなんですよ。お酒は飲まれないんですか。 横:全く飲まない。飲めないんです。 帯:そうですか。 横:僕は身体的ハンディキャップをなくそうっていう気持ちは全然なくて、悪くなれば悪くなったのが、自然体だと思ってるんです。手も腱鞘炎で線がまっすぐ引けない。ビリビリビリとする。すると絵が勝手にゆがんでしまう。変えようと思わなくても作品が勝手に変わってくれるんですよね。 帯:いいですねえ。 横:だから、変えようと努力する必要がないんですよ。 帯:うんうん。 撮影/横関一浩 横:去年の7月、あの安倍晋三さんが狙撃で亡くなった日の5時間前に、急性心筋梗塞を起こしたんです。 帯:横尾さんが。 横:それで、救急車で運ばれました。 帯:そうなんですか。 横:即カテーテル手術を受けて。 帯:大変でしたね。 横:死に損ないました。とにかくあの痛さと苦しみは、医学的にもナンバーワンらしいですね。そんな時に生きたいっていう気持ちが起こらなかったんです。このまま死んだほうが楽だなって思ったら、死に対する恐怖感はゼロになって早く死んで救われたいと思いました。 帯:私も80代になって、死については、やっぱりだんだんなじんできましたね。だから、もうそろそろ逝ってもいいかなって思う。  長年、一緒に仕事をしてきた私と同じ年の看護師がいるんですが、2年前に足を悪くして下半身が利かなくなっちゃった。運転が得意だったのに免許証を返上して、その頃からうつになってしまった。彼女が「私もう死にたいわ。先生、一緒に死んで」って言うんです。3週間ぐらい間をおいて、3回言われました。「そう言うなよ」と言って立ち直らせようとしたのですが、3回目には、もう一回言われたら、一緒に死んでやろうかと思いました。まあ、いいか、死ぬのも悪くないかという心境です。結局4回目はなくて、彼女はひとりで死んでしまったので、死なないままになったんですけど。要するに、向こうには親しい人がいっぱい逝ってますからね。早く逝って、一緒に一杯飲みたいなと思うんです。 横:僕も若い頃は死に対する恐怖感が強かったんですけど、もうこの年になって死と直面したので、先生と同じように死をどっかで期待してるところがありますね。 帯:そうですね。本当。 横:死ぬ瞬間に痛いとか苦しいのは、嫌ですけれど、あれが死だったのかと思うと、そんなに怖くないですね。向こうの世界は虚無の世界だとか思ってませんから。向こうはこちらの延長、次元が変わるだけですからねえ。だから、向こうは向こうの楽しみがあるんです。 帯:そのとおりです。 ■欲望と執着がなくなってきた 横:帯津先生はピカソみたいな方で、女性がずっと好きでしょうけど、僕の場合、この年齢になると欲望と執着がだんだんなくなってきて、1日の時間も1カ月の時間もすごく長くなってくるんです。 帯:私はお酒が大好きで、お酒をおいしく飲むには、昼間働いてるほうがいいんですね。だから、今でも医者の仕事をちゃんとやっている。つらいことがあっても、夕方になってもうじき飲めると思うと元気が出るんですよ。 横:僕にはその経験がないです。元は生活と創作が別だったんですが、生活の中には旅行するとか、映画、演劇を見に行くとかがあったんです。それがだんだん、生活と創作がひとつになって、創作が生活になってしまいました。 帯:やっぱり芸術家ですね、横尾さんは。 横:だから今までのような生活がなくなっちゃったんです。絵が生活で、おもしろくないっていえばおもしろくない。 帯:いいですね、そういう生き方。でも、絵を描く時は、執着とか、欲望はないんですか。 横:それどころか、描くことに飽きちゃいました。今まで、音楽を聞いてごまかしていました。頭の中にある言葉と概念を排除して、考えなくしちゃうんです。 帯:あー、なるほど。 横:人工的に頭をアホにするんですよ。頭から考えを排除すると体が自由に動くんです。そうすると思いのたけをキャンバスに写せる。気がついたら絵ができているんです。 帯:アスリートのゾーンみたいな感じですかね。 横:ハイ、そのとおりです。アスリートにすごく近いです。僕は自分でアスリートだと思っています。よくランニングハイってあるでしょ。ああいう状態の自分になってキャンバスの前に立つと、どんどん描けちゃうんです。ところが、音楽で自分を騙そうとしてきたんだけど、耳が悪くなって、音楽はただの雑音です。 帯:いま会話で使っている拡声マイクでは聞かないんですか。 横:音は聞こえても、音楽になってないんで、意味がないんです。だから、音楽は僕の生活から完全に失われました。 帯:音楽なしで、余分な考えを消す方法はあるんですか。 横:長い間、座禅をやってきました。座禅をすると雑念が去来するんですよね。その雑念に引っかかって、引きずり回されるとダメですから、頭を空っぽにしなさいって徹底的に教えられた。座禅をやってきた効果が今頃になって少しずつ出てきています。 ■向こうでも絵を描くんですか 帯:瞑想ですね。 横:先生がやってらっしゃるホリスティック医学はどっちかっていうと内科になるんですか。 帯:ホリスティック医学はボディー(体)、マインド(心)、スピリット(命)の三つの側面から、人間をまるごとみるんです。 横:ああ、それはアートと同じです。 帯:体をしっかりみるために西洋医学をしっかり学んでいないといけないし、患者さんとこちらの心がピタリとひとつになるっていうのが大事なんです。そして命のエネルギーを高める。命はまだ科学が解明してませんから、あまり大きなことは言えないんですけど、西洋医学ではとらえられない命のエネルギーを想定して、いかに高めるかをやる。体、心、命と付き合うというのは、まさにおっしゃったように芸術的だっていえば、そうなんですよね。 横:僕が病院に興味を持つのは結局そこなんですよ。自分について自分が何を考えて何をしようとしてるのか、どういう存在なのかっていうのは知りたいと思いますよね。それは形而上学的に難しく考えたってわからない。だけど、病院に行けばあそこが痛い、ここが悪いっていろいろ教えられる。体から入って僕はこういう状態だとわかる。精神的に自分はどういう人間かと考えてもわかりません。だけど肉体的に説明されたほうがよくわかるんです。自分とはこの身体なんだと認識します。 帯:なるほど。いいですね。 横:僕は病気の本を2冊書いているんです。 帯:それは読んでみたいですね。 横:いや、恥ずかしいです。病気にかかって、治るまでのプロセスを書いているんですよ。 帯:それは大事ですよ。 横:それがね、ほとんど医学的に治ってないんですが、ひょんな行為によって治るんですよ。 帯:わかります。 横:たとえば、パリに行った時に日本のレストランに入ったんですよ。でも料理を見た途端に急に具合悪くなったんです。だから、全然お箸もつけないでタクシーで帰った。カミさんと一緒に。帰る途中にクレープを売っていました。帰った途端ね、熱がすごく出たんです。でもクレープが食べたくてしょうがないんですよ。それでカミさんにクレープを買ってきてもらった。それを食べた途端、熱がさっと下がったんです。そのあと、映画のナイトショーを見に行きました。 帯:いいですね。横尾さんの体と命がクレープを要求していたんです。それが心にあらわれた。 横:そうなんですよね。 帯:その要求に応えることで、病がいい方向に進んだわけです。いや、いい話ですね。このまえ心筋梗塞で倒れた時に死が近づいて、来世のイメージみたいなものが湧いたりはしませんでしたか。 横:それはなかったんですけど、僕は死んでも次元が変わるだけだから、向こうに行けば、こちらの生き方がそのまま反映すると思うんですよ。こちらでいい加減な生き方をすると、死んでからもいい加減な生き方をせざるを得ない。死んだ時のための生き方をしておいたほうがいいなと思っているんです。 帯:やっぱり向こうに行っても絵を描くんですか。 横:いや、向こうに行ってまで絵は描きたくないです。だから、こちらで徹底的に絵を描き尽くしておかないと。全部吐き出して空っぽで逝きたいんですよ。そのために今絵を描いてる。 ■来世のイメージ一致しています 帯:私は太極拳をやっているんですが、こちらでは完成させずに、向こうに行ってから完成させようと思っています。太極拳は気功ではあるけど、武術なんです。武術は常に上があるんで、これでいいっていう境地はないんです。常に上を目指すとなると、この世だけでは終わらないだろうと思っています。 横:体を健康にするための太極拳だったら死んだら肉体がないわけだから、やる必要がないわけですが、でも、武術っていうことなら、精神的な魂を高めるわけだから、先生のおっしゃることがすごくよくわかる。 帯:向こうのほうがいろんな面でレベルアップした状態なわけです。お互いの人間関係もいいし、全体の空気もいい。エネルギーが高いわけですよね。だから向こうの世界に行ってみたいなって気がしますよね。 横:こちらだったら、異なった人間同士ばっかりじゃないですか。それでいろいろとトラブルが起こったりするけど、向こうへ行くと親和性によって形成された世界だから、同じ考え、同じ意識の人と交流するわけです。だから問題は起こりませんよね。 帯:そうなんですよ。比叡山のお坊さんと話した時もそれを言っていましたね。向こうに行ったら好きな人としか会わないって言うんです。 撮影/横関一浩 横:学校での偏差値のようなものはないんですよ。 帯:人によって、この人と付き合う時は30歳、この人は80歳っていうようにね、違ってくるわけですよね。 横:自分自身については、相手と理解できる年齢で付き合いができるんですね。 帯:なんか一致してますね、来世のイメージが。 横:お医者さんとこういう話が一致するっていうのは、難しいですよね。なぜかっていうと、お医者さんは、唯物的にものを見られるから。でも先生は違うんですね。そこがすごいなと思って。 帯:向こうに行ったらまたお会いしましょう。向こうでは横尾さんもお酒が飲めますよ。ぜひ一杯やりましょう。 横:そうですね。向こうに行ったら、現世でニガ手だったことが逆転するので、お酒が好きになるかもしれませんよ。先生も生きてる時なぜこんな酒なんか飲んでいたのかなって、思われるかもしれないですよ。甘い物が大好物になって。 帯:うん。そうかもしれない。 横:それも一つの悟りだと思います。僕だって向こうではこんなばかばかしい絵なんか描く気は起こらないですよ。行った世界のほうがそのまま芸術なんですから。 帯:なるほど。 横:だから楽しみなんですよ、死ぬのが。 帯:そうですね、やっぱり向こうで会わないとダメだ(笑)。 (構成/梅村隆之、本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2023年5月26日号
横尾忠則が「仕事を早く片づける」理由「やがて起こる衝動を待っているのかも」
横尾忠則が「仕事を早く片づける」理由「やがて起こる衝動を待っているのかも」 横尾忠則  芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「創作」について。 *  *  * 「今さらですが、いつも原稿を書くのが早いのですが、一気に書き上げるのですか、またいつ書くのですか」  おかしな質問ですが、僕はイラチ(せっかち)な性格なので、何でもすぐやらないと気分が収まらないんです。ワーワー催促されるのが嫌なんですよね。生きるとか、創作は思想のような堅苦しい理屈ではなく、どちらかというと生理的というか気分先行です。  絵もアーティストというより僕はアスリートに近いと思っています。考える余地を与えないで、サッとやるのが性分に合っています。脳派というより肉体派です。脳を頭だけではなく全身に巡らすので、肉体の脳化と命名しています。考える余地を与えると、どうしても遅くなって、アーでもない、コーでもないと決定に迷いますが、考えを肉体に宿すと、その時の気分というか、直感が決定してくれて、先ず迷うことがないので、進行が早いのです。  ご質問のいつ書くか? は、いつとも決めていません。その時々の気分です。書く態勢は常にできています。まるで物書きのようないい方ですが、いつ、どこででも書けます。この原稿は成城の駅前のレストランで、料理を注文している間に原稿用紙に書いています。パソコンのような近代兵器は使えない根っからのアナログ人間です。アトリエには仕事机がないので、お店のテーブルかカウンターが仕事机になったり、アトリエのソファで足を伸ばした状態で原稿用紙を立てかけて書いています。  森鴎外は仕事机ではなく、家のどこでも、旅先でも、執筆に決まった場所がなかったと言っています。ルネ・マグリットという画家もアトリエがなかったので、家の中ならどこでも描けたそうです。谷内六郎さんの家に行くと台所で描いていました。僕の絵は大きいので、イーゼルにキャンバスを立てて描くことは滅多になく、壁にキャンバスを立てかけて、立ったりしゃがんだりの屈伸運動を繰り返しながら描きます。  絵を描く行為は常に自由でなければなりません。絵の主題も、様式も、肉体もアスリートのように瞬発力が必要です。いちいち考えていると身体が自由に動きません。文章を書く場合だけは身体を固定して書きます。文章は思考なので、僕は文字として早く原稿用紙に定着させるために、話すスピードにはかないませんが、なるべく話すように早く書きます。作家じゃないので、特に文体を意識したり考慮しながら書くというようなことはないです。  ここまではレストランで書きましたが、ここから先は自転車でアトリエに戻ってから、この続きを書くつもりですが、アトリエの帰路にふと、沢山の樹木に囲まれた公園に立ちよってそこのベンチでこの原稿の続きを書きたくなりました。今日は風もなく、初夏のような暑い日差しが差しているので着ていたジーンジャケットを脱ぐことにしました。すでに鮎川さんのご質問にはお答えしたように思うのですが、仕事がたまるのがストレスになるのでなるべくストレスをためないために、というか、目先の仕事は早いとこ片づけて、いつも空っぽ状態にしておきたいので、そうした体調管理のためにも(ちょっとアスリート的でしょう)頭も肉体も無の状態にしておくことで、実はこの間が充電期間になっているのかも知れませんが、そんな理屈はなるべく肉体から排除というか断捨離しておくのが健康ではないかと思います。  よく手帖を持ってスケジュールを書き込む人を見ますが、手帖など持っていると手帖のためにスケジュールを入れたくなって、その結果自分の人生をスケジュールだらけにしてしまうことで充足している人もいるかも知れませんが、こんな生き方をしていると短命に終わりそうです。  僕が仕事を早く片づけるのは、何もしない時間を沢山作りたいからかも知れません。また一日中スマホを見ている生活の人も時間を食いつぶすことに終始し、それを快楽と勘違いしているのではないでしょうか。  一見無駄な何もしない時間を食いつぶすとは負の行為に見えますが、逆に何もしない時間の圧力のようなものが、突然、創造の衝動となって、いても立ってもおれないほど創作意欲をかり立てる動機になることもあります。そのことを無意識が知っているために、何もしない時間を充電時間として、やがて起こる衝動を待っているのかも知れません。そう考えると無駄な時間こそ有効な時間ということになるのではないでしょうか。このような決断は頭が決めるのではなく、肉体が決めるのです。肉体は霊体ともつながっていますから知性より霊体というのが僕の思想(死想)であります。すでに鮎川さんの手元に先の〆切の原稿が2、3本入っているんじゃないかな? プレッシャーだと思わないで下さい。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰※週刊朝日  2023年5月26日号
金沢のレトロストリート「せせらぎ通り」「新竪町商店街」攻略法 観光で能登半島を支援したい
金沢のレトロストリート「せせらぎ通り」「新竪町商店街」攻略法 観光で能登半島を支援したい 定番スポットのひがし茶屋街。1階に出格子を構える茶屋建築が並び、風情あふれる昔の面影を見ることができる  ゴールデンウイーク真っただ中の5月5日に震度6強の地震に見舞われた能登地方。この地震は、コロナ禍以前の活気を取り戻しつつあった飲食店やホテル、観光施設に再び打撃を与えた。  気象庁は「一連の地震活動は当分続く」としており、地震への備えは必要だが、状況に配慮しつつ安全なエリアで観光を楽しむことは、現地を支援することにもつながる。  新幹線でも飛行機でも行けて、観光スポットが市内にギュッとまとまっている金沢は、短期間でも楽しめるお勧めの旅行先だ。特に、東京、名古屋、大阪といった大都市圏からは3時間以内で行けて、週末のショートトリップにぴったり。  そんな金沢市内に、個性豊かなお店が並びお散歩にピッタリのレトロストリートがあることをご存じだろうか?最新版の『ハレ旅 金沢・能登・北陸』から、王道の兼六園や金沢城公園、ひがし茶屋街などにちょい足しするスポットとして、レトロストリートを2本、紹介したい。 ●せせらぎ通り  まずご紹介したいのは、「せせらぎ通り」。金沢を代表する繁華街「香林坊」の裏通り的位置づけで、鞍月用水に沿って走る小道に、地元の人も行きつけにする名店のほか、和洋問わずさまざまなジャンルの飲食店やカフェ、雑貨店などが立ち並ぶ。鞍月用水は、藩政期初期から400年間にわたり、市民の生活に潤いを与えた用水路。名前の通りせせらぎの音を聞きながら、お散歩やショッピングを楽しみたい。 せせらぎ通りには、古い建物をリノベーションした店舗も多く、歩いているだけで楽しい。カフェをはしごするのもおすすめ  例えば、「SKLO room accessories(スクロ ルーム アクセサリーズ)」は、店主が自ら、チェコやドイツなど中欧諸国を回って買い付けたアンティーク雑貨や家具を販売するセレクトショップ。店内は、まるでヨーロッパのようなおしゃれな空間。商品は随時入れ替わるので、何度でも通いたくなる。  「サンニコラ 香林坊店」は、金沢に3店舗を構えるこだわり素材のチョコレート専門店。とろけるようななめらかさと口どけ、風味にこだわったチョコレートのほか、ケーキも人気だ。なかでも「ニコロン」は、県産食材で作ったマカロンショコラに極薄のチョコレートをコーティングした香林坊店限定の、ここでしか買えないお菓子だ。 「サンニコラ 香林坊店」のギフトボックス入り二コロン。5個入りと10個入りがあって、お土産にもいい  お香とアロマの専門店「アロマ香房焚屋」には、旅の最後に立ち寄りたい。お香の歴史や原料に精通した香司やアロマセラピストが、約1000種類に及ぶ香りの中から、好みに合ったものを選んでくれる。  ほかにも、大正時代の建物を改装した古本屋「オヨヨ書林 せせらぎ通り店」や、カフェを併設した「めがねのお店Mito」など、思わず長居したくなる店が並ぶ。 「めがねのお店Mito」は、街並みになじむかわいい黄色の建物。大人向けから子ども向けまで、幅広アイウエアがそろう ●新竪町商店街  二つ目の通りは「新竪町商店街」。もともとは古美術品や骨董品を扱う店が点在し、「骨董通り」と呼ばれていた通りだ。昭和にタイムスリップしたようなレトロな商店街に、おしゃれなショップやカフェなどが続々登場。新旧が共存した独特の雰囲気で注目を集める。気になるお店で買い物やカフェタイムを楽しんで。横道にもお店があって、不思議な魅力がいっぱいの商店街だ。 新竪町商店街は、初めて訪れてもどこか懐かしいレトロな雰囲気。時間さえものんびりゆったり流れているように感じるから不思議だ  そんな商店街にある「パーラーコフク」は、週末は昼酒も楽しめる、こぢんまりとしてアットホームな雰囲気の小箱酒場。買い物途中に気軽に一杯、というのもいい。自家製のスモーク料理やアンチョビなど、ビールやワインに合うおつまみのほか、パスタなど食事メニューもそろう。  飲食店で言うと、「ESPRESSO BAR ケサランパサラン」も人気だ。2種類の珈琲豆から選べるエスプレッソは豊かな味わい。ラテやカプチーノなど、コーヒー類はすべてエスプレッソメニューで提供している。アニメ「トムとジェリー」で、ジェリーが食べていたチーズにそっくりの「トムとジェリーのチーズケーキ」は大人気メニューだ。 「ESPRESSO BAR ケサランパサラン」のチーズケーキは、小さいころに誰もが「食べてみたい」とあこがれた、ジェリーの大好物そっくり  オリジナルのジュエリーのほか、カトラリーなどの生活道具も並ぶ、彫金師・竹俣勇壱さんのアトリエ兼ショップ「KiKU」や、オーナー自らが工房で制作したオリジナル革製品を中心に取りそろえるファクトリーショップ「benlly’s & job(ベンリーズ アンド ジョブ)」も外せないし、季節の加賀野菜や青果を販売する「八百屋松田久直商店」の手作りジャムも手に入れたい。  近くには、金沢三文豪の一人である室生犀星の生家跡に立つ記念館「室生犀星記念館」もある。直筆原稿や遺品を展示するほか、本人による詩の朗読も聞くことができるので、旅の最後に訪ねてみては。 (構成 生活・文化編集部 永井優希)
「早く老後になりたい」サカナクション・山口一郎の願い 「ずっと忘れられず、濃く愛されるものを」
「早く老後になりたい」サカナクション・山口一郎の願い 「ずっと忘れられず、濃く愛されるものを」 山口一郎さん(撮影/岡田晃奈)  結成して16年目を迎えたロックバンド・サカナクション。新型コロナウイルス禍で行動が制限されるなかでも、オンラインライブなどを通して精力的に活動を続けてきた。  今年3月、ボーカル、ギターを務める山口一郎さんは初の単著を発売。デビュー前にインターネット上に書き綴った散文をこのタイミングで単行本化した背景には、父親の強い勧めがあった。著書への思いや突発性難聴、群発性頭痛などの病とともに生きることで得たもの、「早く老後になりたい」と語った真意まで、インタビューした。 *  *  * ――初めての単著『ことば:僕自身の訓練のためのノート』を発売しました。デビュー前にインターネット上に書き綴っていた散文をまとめたものですが、なぜデビュー前のものをこのタイミングで出そうと思ったんですか。  経緯をお話しますと、本を出すことを強く勧めてきたのは父親だったんです。僕は2000年くらいから、ある種のトレーニングとしてインターネット上に言葉を書き続けてきました。それを父親が見つけて、「眠らせておくのはもったいない」「書籍化できないか」と言い始めたのがきっかけです。  最初は書籍化に反対していました。幼少期からたくさんの本に囲まれて育ってきたので、そういった先生方と同じ土俵に自分が並ぶというのはおこがましいことだと思っていました。ただ、父親の熱意があまりにもすごくて。「青土社さんからどうしても発売したい」と言うんですよ。 ――出版社まで明確にイメージされていたと。  僕も『ユリイカ』という雑誌をよく読ませてもらっていたので、青土社であれば販売してもいいかなと思いました。でも、僕はまったく関与しません、とも言いました。青土社と父親とで完成させてほしいと伝えたんです。なので、ここに載っている詩のセレクトは一切やっていません。ただ、装丁だけはやらせてほしいと、サン・アドの葛西薫さんにお願いして、デザインしてもらいました。 ――それで、先日代官山蔦屋でお父様との対談イベントをされていたんですね。  そうなんです。僕、ちっちゃいころから英才教育ではないですけど、父親から「1カ月でこれだけの本を読め」「次はこれだ」って読書教育を受けていたんですね。僕にとって父親と母親はある種の先生みたいな存在で、その父親に昔書いた詩をいいと言ってもらえたことがすごくうれしかった。それも出版に踏み切った動機としてありますね。 ――読書教育を受けてこられて、書店に行けば当時読んだ文豪たちと同じように山口さんの本が並んでいます。本づくりを通して、本へのこころもちは変わりましたか。  今は電子書籍もあるじゃないですか。僕は1980年代生まれなので、思春期をオフラインで過ごしたんですよ。ちょうど二十歳ぐらいからインターネットが出てきて、音楽の聴かれ方も書籍の読まれ方もどんどん変化していった。もともと物質としての本の質量みたいなものがあるとは思っていたんですけど、今回改めてその質量みたいなものを感じ取れました。あと、初回限定版は全部活版印刷なんですよ。 ――ファンクラブ会員限定で発売したものですよね。ページの印刷も活版なんですか?  全部活版印刷で、すごくないですか。いいですよね。こうしてこだわると、本の質量みたいなものが増えるじゃないですか。音楽もやっぱりそうで、某音楽番組に出演したときに、ひな壇に座って周りを見渡したら、自分たちで曲を作って自分たちで歌っているミュージシャンが僕らだけだったことがあるんです。  もちろんそれぞれボーカリスト、歌手として音楽の質量を持っていらっしゃるんですけど、自分で作って歌う質量というのは異質で、他とは違った重みがあると感じたことがあります。そう考えたときに、たとえば活版印刷で書籍にして、父親が発売したいと思ったというストーリーも含めて、一つの重みみたいなものを感じられたのはよかったなって思います。 AERA 2023年5月1ー8日号より  ――今回、AERAでは「本と映画」を特集して、山口さんにもご登場いただきました。思い出深い本の一つに、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』を選んでいますが、初めて読んだのはいつですか。  音楽でやっていくか迷っている時期があって、そのときです。デビューが26歳で、東京に出てきたのが30歳とかで、すごい遅かったんです。本当にプロとして生きていけるのか、葛藤の時期が他のミュージシャンよりすごく長かった。  僕、北海道の小樽出身なんです。東京にいるとなんとなく夢を追い続けられると思うんですけど、地方にいると年齢的なことであったり、「いつまでふらふらしているんだ」みたいなことを言われがちで、すごく悩んでいた時期がありました。そのとき、すごく大切にしている友人が『アルケミスト』をプレゼントしてくれたんです。僕が悩んでいることを察知してくれたわけではないと思うんですけど。生活の作用として起きていくことが運命に近づいているというか、自分のなかで起きているいいことも悪いことも必要なものなんだって感じる内容で、もうちょっと音楽を続けてみようかなって思えるようになった。今も大切な一冊です。  以前、テレビ番組でこの本が好きだって紹介したことがあったんです。そうしたら、パウロ・コエーリョからツイッターでDMがきて。すごいありがたかったです。 ――それはうれしいですね。ちょうど今、『アルケミスト』を読みはじめたところなんです。  これから読まれていったらわかると思うんですけど、「あのときのあれは自分にとっての善作用だったのかなぁ」って思えるというか。すごく悩まれているときであったり、自分の人生について考えているときがあるなら、きっとそこにうまく滑り込んでくる本だと思います。 ■突発性難聴で「耳が増えた」 ――読み進めるのが楽しみです。山口さんは突発性難聴と群発性頭痛を公表されていますが、病とともに生きていくなかで、生活の支えはありますか。  僕、耳両が聞こえたときは音楽に関して、本当に完璧主義者だったんですよ。一瞬のスキも妥協も許さず、全部自分が管理して、自分が納得いかない部分はなくすっていうか。ちゃんと管理したかったタイプなんです。  でも片耳がほとんど聞こえなくなって、どうしても人に頼らなきゃいけなくなった。そのときに今いるメンバーに対して頼れるようになったっていうか、任せられるようになったんですけど、「自分の耳が増えた」という感覚がありましたね。失った分、ほかに耳が増えたというか、それはすごくいい作用だったなって思いました。 ――失ったけど増えた。  なかったものを許せるようになったというか。自分にはわからなくなったわけですから。人に任せること、きちんと伝えることも大事になったし、失った分、増えたものもたくさんあるなと思いました。  群発性頭痛に関してはただ単につらいだけなので、増える減るもないですけど。ただ、自分なんかよりもっと苦しい生活をしている人はたくさんいて、そういう人たちも精いっぱい生きているわけじゃないですか。ましてや自分はミュージシャンとして生活できていて、すごく幸せだと思うんですよね。なので、群発性頭痛はそういった思いで乗り越えていこうと思っていますけど……。ただ、ほんとつらいんで(笑)。小人が目の裏をね、こう針でずっと突っついている感じなんです。 ――想像しただけで気絶しそうです。  本当にでも、それぐらい痛いんですよ。初めて発症したとき、フォークでずっと太ももを刺していましたから。それぐらい、もうどうにもならない痛み。頭痛薬も効かない。ようやく頭痛クリニックを見つけて、いろんな最先端の治療を受けるようになりましたけど、それまではただ単に耐えるだけだったからつらかったです。今は発作がきてもなんとか抑えられるようになりましたね。 ――病院にたどりつくまで、不安だし怖いしつらいですよね。  公表して、治療を受けてよくなったことで、群発性頭痛で悩まれている方からDMをたくさんいただくようになったんです。自分が受けている治療方法を教えてあげられるようになりました。それに、「たかが頭痛で仕事を休むなんて怠慢だ」って思われがちなんですけど、あの痛さって本当にすごいんです。それを知らせることができたのは、ちょっとは悩んでいる方の助けになれたのかなと思います。 ――昨年夏には休養を発表し、今は少しずつお仕事を再開しています。お休みされていた期間はどんなふうに過ごされていたんですか。  ただそこに椅子をおいて、日なたぼっこして、という感じです。コロナ禍で僕らすごく頑張っていたんです。SNSやYouTubeでいろんな配信をしたり、コロナ後にも残せる新しいコンテンツを発明しようとオンラインライブをしたり。普段の生活よりも忙しく働いていたせいか、コロナが落ち着いた頃にがくんとメンタルを崩してしまって。最初はただ単にだるいだけかなと思っていたんですよ。寝ても全然疲れが抜けなくて、起きるのがつらいことってあるじゃないですか。それのひどい状態なのかなと整体に行ったり、はりを打ったりしたんですけど、全然良くならなくて。あるときベッドから一歩も動けなくなってしまったんです。  それで、病院に行ったら「燃え尽き症候群ですね」ということを言われて。ただ、ひょっとしたらずっとそういう状況だったんじゃないかな、とも思ったんです。デビューして16年目なんですけど、この15年間で1カ月も休んでいなかったんですよ。年に何日かしか休んでいなくて、そりゃそうなるよね、と。仕事をセーブすることで自分というものを振り返れたし、こうして書籍を出すことができたのも新しい経験を積めるチャンスだなっていうか。 ――自分と向き合うこともできたんですね。  エンターテイメントっていうものを見直すこともできたんですよね。かつては、THE BLUE HEARTSや尾崎豊のようなミュージシャンが、本当につらい生活をしている人たちを救っていたと思うんですよ。昨今はエンターテイメントがすごく増えて、そういった人たちがどこに集まっているのか、何に救いを求めているのかを探究できていなかったんですよね。療養することで、そういう人たちがどこに助けを求めているのかを調べることができたり、そういうふうに時間を使ったりしました。 ■「音楽が居場所になっていない」 ――急激なスピードでエンタメも多様化していますもんね。答えは出ましたか。  今はみんなユーチューブに救いを求めているんですよね。旭川のいじめ事件で亡くなられた女の子も配信者に相談していたそうです。本当は音楽で救いたい存在なんですけど、音楽っていうものがそういう場所にいない理由であったり、つらい人たちを救うにはミュージシャンとしてどういう形があるのかとか、考える機会になりました。病気になってたくさんの方に迷惑をかけたし、自分にとってもすごく大きなことでしたけど、いろんなことを知れるチャンスがあったっていうのはよかったなって思っています。 ――ミュージシャンの方からの「音楽が居場所になっていない」という言葉はずしりときます。  音楽から求めるものが変わったって言ったほうがいいかもしれません。アウトプットが変わったのもあると思う。カセットテープからCDになって、サブスクリプションになって、アルバム全体やミュージシャンをではなく、一つの曲を好きになっていく。「タイトルも歌っている人も歌詞もわからないけれど、この曲が好き」っていう状態になっているわけじゃないですか。  世界で見ても、CDよりアナログレコードのほうの売り上げが上がっていたりとかして。サブスクリプションで古い音楽も新しいものとして聴ける時代がきていますけど、人への深度みたいなものは変化していってるんじゃないかなって思っているんです。その深度をどう復権していくか、音楽エンターテイメントとして考えていかないといけないところかなとも思いましたし、ライブビジネスというものが大きく求められていく時代がくるんだなというか。  音楽のオンライン映像コンテンツって、著作権の問題で全然広がらないんですよね。法整備が進めばいろいろと変化していくんじゃないかなって思っていて。リアルライブの感動とオンラインライブの感動って、舞台と映画くらい違うんです。リアルだけが素晴らしいっていうことでなくて、映像コンテンツも素晴らしい。違う感動もあるんだってことを訴えていければいいなと思います。 山口一郎(やまぐち・いちろう)/1980年生まれ。ミュージシャン。2005年にロックバンド「サカナクション」を結成。メジャーデビュー前に書き綴った言葉をまとめた『ことば:僕自身の訓練のためのノート』(青土社)が発売中(撮影/岡田晃奈)  ――映画などを倍速で見るのも珍しくなくなって、「タイパ社会」なんて言われたりもします。そうなると深度は伝わるのだろうかとも思ってしまいます。特集のなかでは、伊丹十三の「スーパーの女」(1996年)も好きな作品としてあげています。  僕、伊丹十三監督作品が全部大好きで、なかでも「スーパーの女」が好きなんです。今の時代では、イオンやジャスコが出てきて、スーパーって衰退していくものじゃないですか。「スーパーの女」では商戦や不正とかも描いたりしているんですけど、それがすごい面白くて。当時スーパーっていうものがいかに人々の生活のなかに根付いていたのかもわかる。何度も見ています。 ――どんなときに見たくなるんですか。  どんなときだろう。さびしいとき。さびしいときに見たくなりますね。伊丹十三作品、見られたたことありますか? ――「マルサの女」しかないんです。  見たほうがいいですよ。「タンポポ」もおもしろい。ラーメン屋の話で、伊丹十三は「ラーメンウエスタン」って言っていましたけど、全作品すごく面白いですよ。  伊丹さんは役者で、コピーライターで、イラストレーターでもあったんです。伊丹一三の名前で活動されて、マイナスをプラスに変えるんだと名前を十三に変えた。そして、51歳で映画監督になられた。僕は今42歳で、いつか自分も映画を撮ってみたいと思ってるんです。伊丹さんの監督デビューと同じ年齢で、山口”十”郎にして撮ったら面白いかな、なんて考えたりします。 ――そのときは取材させてください。  ぜひぜひ(笑)。それもやっぱり名だたる映画監督の方がいるなかで、自分ごときがおこがましいって今は思うんです。撮るときになったら勉強して、しっかりと経験して、挑戦したいです。 ――山口さんはどんな映画を撮られるんでしょう。理系的なものを発揮されるのか、でも感覚的なものも大事にされているし。  どうなんでしょう。まず経験を積まないといけないと思っています。今は簡単に撮れるし、編集できるじゃないですか。いくつか自主制作で作ってみたり、一度大学とかに行って学んでみるのもいいかなって思っているんです。  ただ、そうできる状況にミュージシャンとして持っていかないといけないですよね。今はまだ療養中で、いろいろと考える時間がありますけど、完全復帰して今までのようなスケジュールになったなかで、はたしてそう考えられるかっていわれると。早めに老後を過ごしたいですよね(笑)。 ――老後ですか?  僕、40代で老後になりたいんですよ。そのために今がんばっているって感じですけど。早く老後になりたい。 ――老後に映画を撮りたい、と。  はい。早くドロップアウトしたいんですよ。 ――世の中がそれを許さないかもしれません。  サブスクリプションですごくいいなと思うのが、CD文化のときってデイリーやウィークリーでどれくらい売れるかっていうのが勝負だったんですよ。でも、サブスクリプションはどれくらい長く売れ続けるかが指標になる。一曲がすぐに売れなくても、10年かけて100万枚売れればよかったりするわけですよね。  そう考えると、本当にいいものを作ろうというマインドで音楽と向き合えるというか。今評価されるものじゃなくて、5年後10年後に評価されればいいっていうものを作るときのマインドって全然違うんですよ。僕らは年齢的にもちょうどそういうマインドに移り変わるタイミングだったので、時代がちょうど合ってきたというか、ラッキーだなって思っています。  今売れるもの、今流行るものって作っていくと、どうしても忘れられちゃうんですよね。ずっと忘れられず、濃く愛されること。当たり前なんですけど、それがしやすい時代が来たような気はしているので、早く老後を迎えられそうだなと思っています。 ○山口一郎(やまぐち・いちろう)1980年生まれ。ミュージシャン。2005年にロックバンド「サカナクション」を結成。メジャーデビュー前に書きつづった言葉をまとめた『ことば:僕自身の訓練のためのノート』(青土社)発売中 (構成/編集部・福井しほ) ※AERAオンライン限定記事
医師が提案する抗がん剤を断りたい ステージ4患者「そこまでしなくても」【医師との会話の失敗例と成功例】
医師が提案する抗がん剤を断りたい ステージ4患者「そこまでしなくても」【医師との会話の失敗例と成功例】 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  病院に行き外来で主治医にいろいろ聞こうと思っていても、短い診療時間でうまく質問できなかったり、主治医の言葉がわからないまま終わってしまったりしたことはありませんか。短い診療時間だからこそ、患者にもコミュニケーション力が求められます。それが最終的に納得いく治療を受けることや、治療効果にも影響します。今回は、86歳の前立腺がんステージIVの患者が医師から提案されている抗がん剤治療を断りたいと考えています。医師との会話の失敗例、成功例を挙げ、具体的にどこが悪く、どこが良いのかを紹介します。  西南学院大学外国語学部の宮原哲教授と京都大学大学院健康情報学分野の中山健夫教授(医師)の共著『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版)から、抜粋してお届けします。 *  *  * 「失敗例:エピソード1」と、「成功例:エピソード2」を順番に紹介します。 『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版) 【患者の背景と現状】  Hさんは86歳の男性で、前立腺がんステージIVの患者です。妻は昨年亡くなりました。長い間サラリーマン生活をし、定年まで仕事一筋でがんばりました。幸い3人の子どもはそれぞれ家庭を持ち、7人の孫と2人のひ孫にも恵まれ、入院前は一人で生活していたHさんを訪れ、にぎやかで楽しい時間を過ごすことができました。  前立腺がんはかなり進行した状態で見つかったので、手術は困難です。これまで放射線治療を行ってきました。がんの進行をある程度抑えられてはいるものの、今後治療を継続しても根治する可能性があるかは疑問です。  Hさんは、今かかっている病気以外に特別に健康上の問題があったわけでもなく、仕事にも、結婚生活や家庭にも満足した生活を送ってきました。振り返ってみると幸せな人生だったとHさんはもちろん、周りの人たちも思っています。  医師からはまだあきらめないで、一日でも長く生きることを目標に治療を継続することを提案されています。一方のHさんは「先生や他の方々には十分がんばってもらったし、自分としてはもう……」という気持ちです。 【エピソード1】 医師:Hさん、今日はどうですか。血圧や脈拍には異常はないし、顔色もいいですね。 Hさん:ええ、まあ。 医師:このまま、もうしばらく放射線治療を続けて、今後抗がん剤治療も始めて、少し様子を見てみましょうか。 Hさん:あ、いや。もうそこまでしなくても……。もう十分尽くしてもらったし、私はいつでも、です。もうすぐ90歳にもなるし、抗がん剤は苦しいと聞きますし、治療はもうあまり……。 医師:最近は高齢の方のがん治療も進んで、Hさんより上の方でも治療を受けられていますよ。薬の副作用を抑える薬もありますし、まだ望みはあります。それに最近では免疫療法もかなり効くようになってきましたし。 Hさん:いやあ、もう、そんなにしてもらわなくても。もっと若くて、先がある人のために医療費を使わないと、もったいない。 医師:じゃあ、もう少し検査をして様子を見てみましょうか。 Hさん:うーん……。 【このときの医師の気持ち】  前立腺がん自体は治すことができなくても、上手に付き合いながら一日でも長く、子どもさんの家族と楽しく過ごしてもらえるようにするのが医療者の務め。確かに治療にはいくらか辛さがともなうかもしれないが……。  一昔前まではがんは治らない病気と考えられてきたけど、今では新しい薬や治療法が日進月歩で開発されている。まだできることは多い。治療法があるなら、それをやらない理由はない。Hさんは「もういい」と口では言っているけど、本当はもっと生きたいと思っているだろう。Hさんの気持ちに寄り添いながらも、医療者としてあきらめないで、最善の治療法を考えて実施しよう。Hさんはもちろん、家族の皆さんもきっと喜んでくれるはずだ。 【解説】  医師法には、医師は患者の診察や治療を拒むことができないという応召義務が定められています。しかし、そんな法律には関係なく、病気で苦しんでいる、しかも自分の病院、施設に治療を求めて来た患者は、たとえ患者本人が「もういい」と言ったとしても、少しでも病気を治して、元の生活に戻れるよう手を尽くそう、と医師は考えることでしょう。  患者は、医師はそんな気持ち、態度で患者と接し、病気に立ち向かおうとしている、ということを認識する必要があります。もちろん、Hさんの気持ちの伝え方に問題があって、医師との対話がHさんの意図、希望通りに進められなかったのはすべてHさんの責任、というのは酷でしょう。  それでも、医療者にとっての治療と、患者にとっての治療とは同一ではない、ということを考え、理解しておくことも大事です。生きることの目的、そして治療を受ける目標は何か、という点に目を向けることが大切です。痛みや苦しみに耐え、一日でも長く生きることが最も大切なのか、それとも少し短くはなるかもしれないが、楽に生きるほうが大切なのかを考え、決めるには究極の目的力が求められます。  医師も良いと考える助言や提案をする務めを担っていることを理解したうえで、その目的力を発揮して最終的な判断ができるのは、患者自身である、という役割力も必要です。 【エピソード2】  時間が限られている回診のときではなく、Hさんから「先生とお話がしたいので来てもらえないか」と頼んで、病室に来てもらった。 Hさん:先生、お忙しいところわざわざ来てくださってありがとうございます。 医師:そんなことはありませんよ。いつでもおっしゃってください。で、どうしましたか? Hさん:この前おっしゃっていた今後の治療ですが……抗がん剤や放射線はもういいと思っています。 医師:え? あれ、この前はもう少し様子を見ようということで、分かってもらっていたかと…… Hさん:先生のお気持ちは、ありがたいのですが……。私なりによく考えてみました。 医師:……。 Hさん:今まで80年以上、いや90年近く生きてきて、いろんなことがありました。仕事が忙しくて、でもやりがいのある仕事だったので一生懸命打ち込んで、妻や子どもたちをそれなりに支えてきたつもりです。もちろん家族からの応援や、忙しくて十分に家族と時間を過ごせないことを我慢させたという、ある種の犠牲があったからこそ最後まで仕事を続けることができたと思っています。 医師:そうでしたか。Hさんの以前のことは、あまり伺っていませんでしたね。 Hさん:定年後は、妻と、実はいろいろとありましてね、お恥ずかしい話ですが。「え、お前そんなこと考えてたのか」とか、妻は妻で「私、あなたがこんな人だとは思わなかった」なんて、いろいろありました。でもね、先生、そんな、下手すれば熟年離婚にもなりかねない事態を乗り越えて、再びいい夫婦になれたと今では思っています。妻は去年亡くなりましたが……。で、子どもたちも本当に「親はなくとも子は育つ」と言う通り、立派に育ってくれて、楽しい家庭を築いてくれました。 医師:ときどきお見えになるお孫さんや小さなひ孫さんたち、Hさんと楽しそうにしていますよね。見ていて、本当にうらやましいです。うちの子たちもあんなになれるか、心配ですよ。 Hさん:ありがとうございます。先生にそう言ってもらえると、本当にうれしいですよ。でも、妻が先に逝ってしまったときは「なんで?」「どうして俺が先ではないんだ?」と気持ちの整理ができませんでした。 医師:そうでしょうね。 Hさん:……で、今後のことなんですが、頭がしっかりしている今、自分で決めておきたいんです。幸せな人生なんて、答えが一つではないので分かりませんが、少なくとも自分で決めた生き方であれば、人を恨んだり、後悔したりすることはないはずです。ただ、痛くて苦しむのはいやなので、緩和ケアはお願いしたいのですが、がんを治したり延命したりするための治療はもういい、と考えています。 【このときの医師の気持ち】  今考えてみると、Hさんとは、これまで病気、薬、治療、副作用など、当然と言えば当然だが、医師と患者という関係、文脈で、病気に関することしか話題にしなかった。しかし、今回じっくり話を聞いてみて、「同じ」病気でも人によっては受け止め方、がん告知後の気持ち、治療に対する態度、考え方が微妙に、あるいは相当違っていることがあらためて実感できた。  もっと若くて、家族のため、会社のため、地域のためにまだまだ力を尽くしたいし、少々苦しい治療でも、それを乗り越えれば先がある、という人と、Hさんのようにこれまで後悔もあるが、概ね幸せな人生を送ってきた、という人では病気の種類や進行度が同じでも、同一と考えることはできない。   Hさんの辛さや、これまでの人生という長い歴史における今回の病気には、Hさんにしか分からないことがたくさんある。その本人が熟考の末、「治療はこれまで」と決断したのだから、医師としてそれを尊重すべきだろう。今後は、痛みや苦しさをできるだけ抑える緩和ケアを中心とした方針に切り替えることにしよう。 【解説】  Hさんは今の気持ちはもちろん、これまでの人生を振り返り、楽しかったこと、辛かったこと、そしてこれからどうしたいのか、という希望を簡潔に、しかし言葉に重みを持たせて語った結果、医師を納得させることができました。この「語り」には、自分の考えを相手である医師に理解、納得させる役割が当然あります。同時に、語るという発信の行為を準備する過程で、人生を振り返り、気持ちを整理し、どんな順番で、どのような言葉を使って医師に伝えようか、十分に考え、そしてそれを伝えたことによってカタルシス効果を生むことができています。  カタルシスとは「心の浄化」で、精神的な新陳代謝を指します。思っていることを言葉という「乗り物」にのせ、口に出し、外に運ばせて初めて自分の考えとして姿を現し、Hさん自身が気持ちを確認したり、あるいは初めて気づいたりすることができます。このように患者の語りを通して、その患者が病気をどうとらえ、そして今後どうしたいか、ということを明確にし、その意図や希望を考慮して行う医療をNBM(ナラティブに基づく医療)と呼び、近年注目されています。  Hさんが家族のことや、これまで医師には伝えなかった気持ちを吐露した結果、医師も「うちの子たち……」と、Hさんと同じ深さの個人的な話をしています。「自己開示の返報性」が表れ、Hさんと医師は患者と医療者以前の、「人と人」の関係を築いています。  がんという病気に屈するのが悔しくない人はいないでしょう。しかし、がんに侵され、治療を受けたにもかかわらず、根治はおろか、改善もしない状況においてまで、自分では大切なことを決められないということほど、人間の尊厳を奪う状況はありません。患者が目的力、役割力、認識力、そして発信力を総動員して自分の気持ち、希望などを表しているのですから、医療者もそれを理解して患者のメッセージを正確に、適切に認識するよう努めるべきでしょう。 ※『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版)より 宮原 哲/西南学院大学外国語学部教授 1983年ペンシルベニア州立大学コミュニケーション学研究科、博士課程修了(Ph.D.)。ペンシルベニア州立ウェスト・チェスター大学コミュニケーション学科講師を経て現職。1996年フルブライト研究員。専門は対人コミュニケーション。ヘルスコミュニケーション学関連学会機構副理事長。 主な著書:「入門コミュニケーション論」、「コミュニケーション最前線」(松柏社)、「ニッポン人の忘れもの ハワイで学んだ人間関係」、「コミュニケーション哲学」(西日本新聞社)、「よくわかるヘルスコミュニケーション」(共著)(ミネルヴァ書房)など。 中山健夫/京都大学大学院医学研究科健康情報学分野教授・医師 1987年東京医科歯科大学卒、臨床研修後、同大難治疾患研究所、米国UCLAフェロー、国立がんセンター研究所室長、京都大学大学院医学研究科助教授を経て現職。専門は公衆衛生学・疫学。ヘルスコミュニケーション学関連学会機構副理事長。社会医学系専門医・指導医、2021年日本疫学会功労賞。 主な著書:「健康・医療の情報を読み解く:健康情報学への招待」(丸善出版)、「京大医学部で教える合理的思考」(日本経済新聞出版)、「これから始める!医師×患者コミュニケーション:シェアードディシジョンメイキング」(医事新報社)、「健康情報は8割疑え!」「京大医学部のヘルスリテラシー教室」(法研)など。
子どものアトピー性皮膚炎発症に「幹線道路からの距離」が影響 距離延びるとリスク低下 米国最新調査
子どものアトピー性皮膚炎発症に「幹線道路からの距離」が影響 距離延びるとリスク低下 米国最新調査 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) アメリカの最新調査で、幹線道路からの距離がアトピー性皮膚炎の発症リスクに影響を与えていることが示唆されました。アトピー性皮膚炎は、遺伝的要因や免疫異常などが関与していることが広く知られていますが、近畿大学医学部皮膚科学教室主任教授の大塚篤司医師は「今回の調査は興味深い発見」と話します。その内容について、大塚医師が解説します。 *  *  *  アレルギー疾患は身の回りにある環境要因に大きく左右されます。例えば、都市部では大気汚染が問題となっており、これが喘息(ぜんそく)を含むさまざまな病気の発症に関与していることが疑われています。そんな中、アレルギー疾患と大気汚染に関する新たな調査結果が報告されました(文献1)。アトピー性皮膚炎の発症リスクにも大気汚染が関係しているかもしれないという内容の報告です。  アトピー性皮膚炎は、遺伝的要因や免疫異常などが関与していることが広く知られていますが、今回の調査ではさらに興味深い発見がありました。なんと、幹線道路からの距離がアトピー性皮膚炎の発症リスクに影響を与えていることが示唆されたのです。  今回のアメリカの調査では、アトピー性皮膚炎の患者7384人と非患者7241人の計1万4000人超の医療記録が分析されました。その結果、幹線道路からの距離が10倍延びるごとに、アトピー性皮膚炎の発症リスクが21%低下することが明らかになりました。さらに詳しく見ていくと、幹線道路から1000m以上離れた場所に住んでいた子どもは、500m圏内に住んでいた子どもと比べて、アトピー性皮膚炎の発症リスクが27%低いことがわかりました。つまり、大気汚染がアトピー性皮膚炎の発症に影響を与える可能性があるということです。  アトピー性皮膚炎は、乾燥やかゆみ、繰り返す湿疹などの症状が特徴的で、患者にとって日常生活に大きなストレスを与える病気です。アトピー性皮膚炎の発症には、皮膚のバリアー機能の低下が重要な要素とされており、さまざまな外部要因が影響を及ぼしていると考えられています。また、皮膚のバリアー機能が正常の場合でも、なんらかの原因でアレルギー症状が誘発され、かゆみを引き起こすこともあります。  大気汚染は、排気ガスや工場から排出される粒子状物質(PM2.5)などが原因となります。これらの物質がアトピー性皮膚炎のかゆみを引き起こすという報告は、これまで動物実験レベルでありました。今回の報告では、人間においても幹線道路沿いに住むことで、大気汚染が皮膚に与える影響が大きくなると考えられます。  この調査結果は、アトピー性皮膚炎の予防や治療において、大気汚染への対策が重要であることを示しています。例えば、住む場所を選ぶ際には、大気汚染の少ない環境を優先することが望ましいでしょう。また、部屋の換気や空気清浄機の利用など、生活の中でできる対策も重要です。  さらに、政策面でも大気汚染対策が求められます。自動車の排ガス規制や工場排出ガスの規制強化、公共交通の利便性向上や緑化政策など、地球環境と人々の健康を守るための取り組みが不可欠です。  大気汚染はさまざまな健康問題に影響を与えていることから、総合的な対策が必要です。個人や地域はもちろん、世界各国が一丸となって環境問題に取り組むことが重要であると、改めて認識させられる調査内容だと思います。 文献1:J Allergy Clin Immunol Pract. 2023 Mar 21;S2213-2198(23)00305-7.
ICUでもストレッチ…全身の筋肉で「心不全」を回避させる「心臓リハ」
ICUでもストレッチ…全身の筋肉で「心不全」を回避させる「心臓リハ」 ※写真はイメージです (GettyImages)  中部地方在住の岡田陽子さん(仮名、79歳)が突然、胸の違和感に襲われたのは、昨年6月のことだった。 「心臓がバクバクして息苦しくなったと思ったら、グワーッと体が熱くなって目の前が真っ暗に」  2~3歩進んだところで意識がなくなった。その直前、「このまま死ぬかもしれない」と思ったという。  同居する家族の通報で救急搬送された後、病院で応急処置を施され、2日後にペースメーカーを体内に埋め込む手術を受けた。ペースメーカーというのは、電気信号を送ることで心臓の拍動を助ける医療機器だ。  術後に聞いた病名は「完全房室ブロック」という不整脈の一種。医師からは「この状態で助かったのはすごい。多くの人は亡くなっている」と聞かされた。  実は陽子さん、10年ほど前に不整脈と診断され、内科的な治療(アブレーション)を受けていた。以来、定期的に医師に診てもらっていたのだが──。陽子さんは言う。 「毎回、『正常』って言われていたので、大丈夫だと思っていた。心臓以外は健康そのものだったから、過信していた」  心臓は血液を全身に届けるポンプの役割がある。そのポンプ機能が低下した状態を「心不全」という。具体的にはどういう状態をいうのか。  日本循環器学会と日本心不全学会は、「心臓の機能が悪いために、息切れやむくみが起こり、年とともにだんだん悪くなって、生命を縮める病気」と定義している。  心臓の加齢現象ともいえる心不全になる人は、高齢化が進むに伴い増えている。心不全の原因となる高血圧も、血管の加齢現象である動脈硬化によって起こるため、増加を後押ししている。  近年のめざましい医療技術の進歩も増やす要因の一つとなっている。神戸市立医療センター中央市民病院院長の木原康樹医師は言う。 「かつては助からなかった心筋梗塞(こうそく)や狭心症、不整脈や心臓弁膜症といった病気が、手術や内科的な処置で救命できるようになった。例えば、急性心筋梗塞は3人に1人が死ぬ病気だったが、今では死亡率が3%。10分の1に減っている」  ただ、心臓を患って治療しても心臓の筋肉(心筋)は再生しない。つまり、残った心筋を駆使して全身に血液を送らなければならないため、当然、心不全になりやすくなる。 「高齢者の病気というと、認知症やがんなどのイメージがあって、心不全といわれてもピンとこない。しかし、心不全の5年生存率は50%程度です。その予後をのばすためにも病気について正しく知って、“心臓をいたわる”ことが大事です」(木原医師) 週刊朝日 2023年5月26日号より  心臓は、心筋という筋肉がリズムよく収縮することによって、血液を全身に送り出すポンプ機能を持っている。この力が低下すれば、血液が全身のすみずみまで巡らなくなるため、多くの臓器や組織が栄養不足、酸素不足に陥り、さまざまな健康問題が起きてくる。  では、心不全はどのように進行するのか順を追ってみていきたい。まずは高血圧や弁膜症、心筋梗塞など何らかの循環器疾患を患うと、それらがきっかけで心臓の機能が低下する。このときに起こってくるのが、「坂道や階段を上るときに息が切れる」「日常的に疲れやすくなる」といった症状だ。  そして、すでに弱った心臓に過労や過食、不眠などが加わると全身状態が一気に悪くなり、呼吸困難や失神、チアノーゼ(皮膚などが青紫になる現象)、浮腫(ふしゅ)などが起きる。風邪やインフルエンザなどの感染症、誤嚥(ごえん)性肺炎といった病気、水分の過剰摂取などでも同様のことが起きる。  このときに適切な治療をすればいったんは回復するが、比較的安定している時期と、状態が悪くなる「急性増悪」を繰り返しながら悪化していく。木原医師が指摘する。 「心臓の機能は十何年という年月をかけてゆっくりと低下していきます。するとその状態に慣れてしまい、『疲れやすい、元気がないのは年のせい』とか、『むくんでいるのは体質』と思ってしまう。まさか、それらの症状が自分の心臓の状態と関係しているとは思わないのです。まずは、かかりつけ医に相談してください。その上で検査を受けてもいいと思います」 ■治療は薬物療法、食事療法の二つ  心不全の治療は、薬物療法と食事療法の2本柱で進められる。心不全をもたらす要因の一つが高血圧であるため、薬は降圧薬を中心に使っていく。食事療法では栄養バランスのよい食事と水分、塩分の管理が必要となる。このほか、心筋梗塞や弁膜症などの基礎疾患が原因で心不全になっているような場合は、手術や内科的な処置が検討されることもある。 榊原記念病院の心臓リハビリテーション室。日光が当たって明るくジムのよう(筆者撮影、協力:榊原記念病院)  慢性心不全(ゆっくりと心不全が進行していく状態)は、専門病院と地域のかかりつけ医との病診連携が重要になる。広島県ではそうした連携を10年ほど前に始めた。「心臓いきいき推進事業」として広島大学病院の心不全センターを中心に、県内七つの「心臓いきいきセンター」がハブとなり、地域のクリニックと連携して患者を支えている。  この事業を始める前後で心不全患者の入院日数、在院日数を比べると、後者は半分以下になり、医療費も大幅に減った。 「心不全の急性増悪では入院が必要になるだけでなく、患者さんの命が短くなっていく。急性増悪を起こさせないことが心不全のカギとなる。広島県のような取り組みを全国に広げていくのが課題です」(同)  一方、心不全に対する「心臓リハビリテーション(心臓リハ)」というリハビリが注目されている。日本でいち早く取り入れた榊原記念病院(東京都府中市)を取材した。 携帯型のモニタリング装置。患者の心電図波形や心拍数がわかる(筆者撮影、協力:榊原記念病院)  同院の心臓リハビリテーション室は病院入り口のすぐ横にある。大きな窓から庭が一望できる明るい室内で、心不全患者が自転車エルゴメーターをこいだり、ストレッチをしたりしている。トレーニングウェアに汗をにじませながら体を動かすその光景は、スポーツジムと何ら変わらない。違うのはスタッフが看護師や理学療法士といった医療従事者であることくらいだろう。  院長の磯部光章医師は心臓リハの効果について、「手術や薬は医者が主体。患者さんに選択権はあるけれど、基本的に受け身です。でも、心臓リハは患者さんが能動的に参加しないと成立しない。元気になる“なり方”が全然違うんです」と話す。  同院では運動や食事、投薬・生活指導、就業支援からなる包括的なリハビリをしている(今回の記事では運動に焦点をあて、心臓リハ=運動リハとします)。  磯部医師が説明する。 「心臓リハは“心臓を強くするためのリハビリ”ではありません。むしろ、弱った心臓に負荷をかけないようにするためのリハビリです」  脳卒中や整形外科的な病気の治療後にする一般的なリハビリと異なるのは、“機能回復が目的ではない”点だ。繰り返すが、心筋は再生できないだけでなく、手足の筋肉のように鍛えることもできない。磯部医師によると、心臓のポンプ機能を助けるのが全身の筋肉(骨格筋)だという。 「例えば、ふくらはぎは“第二の心臓”と呼ばれていますが、足の筋肉がしっかり収縮することで、血液を心臓に押し戻してくれます。ほかの筋肉も同じです。実際、坂道や階段を上ったときに筋力があるのとないのとでは、心拍数の上がり方が全然違います」 ■安全なリハには運動処方が必要  とはいえ、心不全の人が「よし、筋肉を鍛えよう!」とやみくもに動いてしまうと、それこそ心停止となりかねない。  そこで、その人の心肺機能や全身状態から、どこまで心拍を上げるのが適正か、これ以上上げてはいけないラインはどこなのかを、「心肺運動負荷」という検査でチェックする。患者は主治医から運動療法の処方箋(せん)(=運動処方)をもらい、それにしたがって安全に、かつ効果的に筋肉を鍛えるのが心臓リハだ。  同院の心臓リハの対象は、心臓の手術を受けた患者全員。あるいは心不全の治療を受けている患者だ。本人が希望する場合に限られるが、入院時から始めて、退院後も最長150日間は保険診療の範囲で受けることができる。その後は自費で続けることも可能だ。リハビリテーション科長で理学療法士の堀健太郎さんが話す。 「当院では心臓の手術をしてICU(集中治療室)にいるときから可能な範囲で体を動かします。ベッドの上でも、ドレーン(術後に一時的に入れる排液用の管)や人工呼吸器を装着していても、ストレッチや手足の体操などをしていきます」  心臓リハで筋力を付け、心臓の負担を減らすことがなぜいいのだろうか。磯部医師が言う。 「心臓の機能が回復し、急性増悪を予防することができる。つまり、二次予防(病気になった人がさらに悪化しないための予防)のためのリハビリなのです」  まだ同院のように積極的に心臓リハを取り入れている施設は少ない。興味がある人はどうすればいいか。磯部医師は言う。 「まずは安全にリハビリをするために、主治医に運動処方を作ってもらいましょう。それを持ってスポーツジムなどに行くことをお勧めします。例えば、当院と提携しているスポーツジムでは、心疾患について教育を受けたインストラクターがいるなど、高齢者が安全に体を動かせる環境が徐々に整いつつあります」 (ライター・山内リカ)※週刊朝日  2023年5月26日号より抜粋
「シン富裕層」が今でも“自宅投資”を成功させている理由 13年間で2億5000万円値上がりしたケースも
「シン富裕層」が今でも“自宅投資”を成功させている理由 13年間で2億5000万円値上がりしたケースも ※写真はイメージです(Getty Images)  都心の駅近に1億円のマンションを購入すると10年でその価値が2倍に。そこで新たにローンを組んで2億円のマンションを買ったところ、3年後には3億5000万円に! そんな夢のような不動産投資を実現させている富裕層が日本にもいる。バブル時代の“土地転がし”とは違う才覚を持つ彼らは「シン富裕層」と呼ばれ、不景気でも着実に資産を増やしている。2万人以上の「シン富裕層」と関わってきたコンサルタントの大森健史さんが、その実態を解説する。(朝日新書『日本のシン富裕層-なぜ彼らは一代で巨万の富を築けたのか』から一部抜粋・再編集) *  *  * ■自宅を買うときに「資産」として考えられるか  自宅投資で資産を増やしたタイプのシン富裕層は、「『住宅の価格はいつか下がる、バブルは必ずはじける、暴落する』と怖がっている日本人が多いよね」とよく話しています。  日本人はバブル崩壊のトラウマが強いようです。しかし長期的に見れば、物価というものは必ず上がるもの、上がらなければさまざまな問題が生じるもの。  物価の比較というのは難しいですが、たとえば太平洋戦争開戦直後に就役した戦艦大和は、建造費1億4503万円、当時の国家予算の4・4%を投じて造られたといいます。一方、2020年3月に就役した最新鋭イージス艦「まや」の建造費は1720億円、迎撃ミサイルのランチャー(発射機)などを装備した場合のイージス艦の建造費は2隻で5000億円見込みと報じられています。強引にこれを単純比較すると、この80年で物価はおおよそ1200倍から1700倍程度になった計算となります。  平成の約30年間、デフレで物価が上がらなかった日本が、異常なだけだったのです。  私の知人の商社マンは、「都心マンションの購入を繰り返すことで、確実に資産を増やし続ける」という自宅投資の手法にたまたま気づいたことで、資産を大いに増やしました。彼は通勤の負担を軽減するために、かつ、いざ売ることになったときに売りやすいだろうという理由で、都心の駅近という好立地な場所に1億円でマンションを購入し、10年が経ちました。  住宅ローン減税が終わるのを機に、自宅を売りに出してみたところ、購入時の約2倍の値段で売れたのです。その売却益は御夫婦で3000万円(最大6000万円)の特別控除を利用し、かつ特別控除を上回った売却益についても10年超所有軽減税率の特例で14.21%(譲渡益税+住民税+復興特別所得税込)の課税のみとなったそうです。 ■アパート投資より自宅投資  そこで新しくローンを組んで、さらにグレードが高く、好立地の2億円ほどのマンションを買いました。またその3年後には、そのマンションの同じような間取りが3億5000万円で売りに出ていたそうです。住宅ローンを返済しつつ、マンション価格が上昇しているので資産がどんどん増えている好例といえるでしょう。  アメリカの投資家であり実業家のロバート・キヨサキさんは、日本でもロングセラーとなった『金持ち父さん 貧乏父さん』で、自宅は「浪費」の代表格である、それよりも投資用不動産を購入し、毎月一定の家賃収入を得られるようにすべきだと説きました。  しかしこれは、国の税制と、自宅の場所、地価の動向によると言えそうです。  日本では長らくアパート投資が流行していますが、業者から買う物件は価格が割高です。更に賃料収入は課税対象となり、ローンの金利負担もあるため、DIYリフォームや客付けによほどの自信がない限りたいして利益は残せません。減価償却費の活用を目的にしている投資家も多いようですが、空室リスクや修繕費もそれなりにかかるため、物件を市場価値より大幅に安く買えたり、土地から仕入れて、完成後に利益が出るような価格で売れる利回りに仕上げるような知識や経験がないと大きな利益を残すことは難しいでしょう。  シン富裕層のクライアントの中でも特筆すべきスキルを有する方がいました。その方が言うにはとにかく都心部の区分所有を安く仕入れて、お洒落に安くリフォームし、20%程度の利益を乗せて売却するビジネスを個人でやっているという方でした。もちろん宅建士の資格は自身でお持ちで、売上規模を聞くと個人と言うには大きすぎるくらいでした。不動産DIY好きなので、DIYリフォームの情報商材ビジネスもやっているそうで、一定の売り上げがあるとのことでした。  自宅投資で儲かったことのある私のクライアントは、「まだロバート・キヨサキのやり方を信じているの?」と、この考え方を冷めた目で見ています。数億円かけて地方の古いアパートやマンション一棟買いをして、人に貸して毎月数十万円を得つつ、自分は都心まで1時間以上かかるようなところに安いアパートを借りて住むなんて、意味がわからないよね、というスタンスです。不動産価格が上昇しても地方や郊外では家賃を簡単に上げられません。元々好立地の土地を相続したのであれば、賃料収入を得ることを目指してもいいでしょうが、普通のサラリーマンにとっては、ハイリスクローリターンという見方となるようです。  だったら、自分自身が都心の一等地に住むほうが、日々の生活の質も上がっていいじゃないか、ということなのです。  自宅投資は、独身者や子どものいない夫婦は簡単ですが、子どものいる夫婦の場合は少々難しくなります。子どもを転校させるかどうかという問題が出てくるからです。  経験を積んだ玄人顔負けの自宅投資家ともなると、子どもの小中学校の学区縛りの中で、自宅投資をやり込んでいます。徒歩10分圏内で、3~5年おきくらいに引っ越しを繰り返し、資産を増やしている人も少なくありません。その場合は値上がりの利益額に応じて3年3000万円の自宅非課税制度か住宅ローン減税のどちらかを活用するか、5年以上住んで長期譲渡所得課税(20.315%)を使うほうがいいか、状況に応じて使い分けるのです。 ■自宅投資は場所選びが重要  ただしこの自宅投資は、日本全国の誰にでも勧められるものではありません。日本は人口減少時代に突入し、田舎に行けば行くほど、不動産価格は右肩下がりとなり、購入時以上の価格で売却することは難しいからです。  それでも、やり方はあります。ある自宅投資家と話していたときに盛り上がった話なのですが、毎年3月下旬に国土交通省が発表する「公示地価」で、3年以上連続して地価が上がっている場所に、自宅を買うという方法です。なぜ3年か? 株価と同じで連続して値上がりしている場所は普遍的な評価が高まっているので継続的に値上がりする可能性が高いということが理由でした。以前なら会社に出勤が必要なので、会社から離れた場所に住めませんでしたが今は違います。ワーケーションや二拠点暮らしが注目される中、環境がよく、地価が上がっているところに住むということもできるのです。地価が上昇しているとなると、わかりやすいところでは都心3区の中央区・千代田区・港区などが挙げられます。その他にも、外国人に人気のある、沖縄や京都市の中心市街地、リゾート地である北海道のニセコ町や富良野、長野県の白馬村などや、地方都市でもチャンスはあると思います。これらの地域は、多くの外国人が値上がりを期待して投資用不動産を買っているほど人気のエリアです。  そこで私も、新規事業として、FIREを目指す人向けに沖縄やニセコや白馬など、公示地価が上がっている地域に、低金利の住宅ローンで自宅を購入し、3年以上自分で住めばいいよ、という生活を楽しみながらできる資産形成方法もあることを伝えていきたいと思っています。 ●大森健史(おおもり・けんじ)  1975年生まれ。大阪府出身。大学卒業後、国際証券株式会社に入社し、個人・事業法人・財団法人等の資産運用のコンサルティング業務を担当。留学・旅行業界を経て、ビザ申請や海外生活設計のアドバイザー業務に携わる。2004年6月に家族・親子・退職者・会社経営者・投資家らのロングステイなどのサポート企業として株式会社アエルワールドを設立し、代表取締役に就任。海外移住や長期滞在に関する相談実績は2万人を超える。グローバルに金融資産と居住生活をどうアロケーションするのかなど、投資家・資産家向けの海外生活コンサルティングにも精通し、サポートを行っている。
健康診断で「コレステロール値が高い」 女性は閉経後に高くなりやすいのはなぜ? 理由を医師が解説
健康診断で「コレステロール値が高い」 女性は閉経後に高くなりやすいのはなぜ? 理由を医師が解説 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 健康診断でそれまで毎年、「異常なし」だったのに、閉経したら「コレステロール値が高い」と指摘されるようになったという女性は多いようです。コレステロール値が高くなる原因はさまざまですが、閉経後に高くなったという場合、女性ホルモンの一種である「エストロゲン」が関係している可能性があります。更年期医学が専門であり、更年期・老年期の女性のヘルスケアについての研究と啓発に取り組む愛知医科大学産婦人科学講座教授、若槻明彦医師に、閉経後の高コレステロール血症について聞きました。 *   *   * ――そもそも、コレステロールとはどのようなものなのでしょうか。  コレステロールは体内に存在する脂質のひとつで、細胞膜やホルモンを作る材料となるもの。悪いものというイメージがありますが、体にとって必要なものであり、通常は適切な量を保つよう体内で調整されています。それが、何らかの原因で過剰になったり、不足したりすると「脂質異常症」といわれる状態になります。 愛知医科大学産婦人科学講座教授、若槻明彦医師  コレステロールは、リポたんぱくと結合して血液中に溶け込んでおり、コレステロールを全身に運ぶLDLコレステロールと、体内の血管に蓄積されたコレステロールを肝臓に運ぶHDLコレステロールに分けられます。LDLとHDLとは、それぞれのリポたんぱくの頭文字をとったもの。LDLコレステロールは過剰に蓄積すると動脈硬化が起こりやすくなるため「悪玉コレステロール」と呼ばれ、HDLコレステロールは体内のコレステロールを回収するため「善玉コレステロール」と呼ばれます。  脂質異常症には、LDLコレステロール、HDLコレステロール、中性脂肪(トリグリセライド)の異常があり、LDLコレステロールが増えすぎた状態を「高コレステロール血症(高LDLコレステロール血症)」といいます。脂質異常症は動脈硬化の原因となり、動脈硬化が起こると心筋梗塞(こうそく)や脳梗塞など生命にかかわる病気を発症するリスクが高くなります。 ――コレステロール値の上昇が、エストロゲンと関係しているのですか?  脂質代謝には女性ホルモンのひとつである「エストロゲン」が、密接に関わっています。エストロゲンは、妊娠に備えて子宮内膜を増殖させる働きや、肌や髪のはりを保つなど、女性らしい体を作るための働きがよく知られていますが、それ以外に骨や血管の健康を維持する働きもあります。また、体内のLDLコレステロールを減らし、HDLコレステロールを増やすことで動脈硬化を予防することもわかっています。  閉経してエストロゲンが減少すると、女性の体の中で脂質代謝の大きな変動が起こります。LDLコレステロール値は、若年期には男性のほうが高い傾向がありますが、50歳以上になると女性のほうが高くなり、閉経後の女性の約半数が高コレステロール血症になるという報告もあります。中性脂肪もやや増加し、反対にHDLコレステロールは減少傾向になります。 (令和元年国民健康・栄養調査報告;厚生労働省)  その機序もすでに解明されています。LDLは粒子として血管内にありますが、エストロゲンが減少すると、まずLDLの粒子が増えます。加えて、中性脂肪が増加することで、LDLの粒子が小さくなるという変化が起こります。LDLの粒が小型化することで血管壁に蓄積しやすくなり、より動脈硬化が起こりやすくなります。つまり、エストロゲンの減少により、LDLは量と質のどちらにおいても動脈硬化を起こしやすくなると言えます。 ――エストロゲンの減少とコレステロール値の上昇には、どのようなリスクがあるのでしょうか  世界的にみると、日本人の女性の心臓病は少ない傾向があります。しかし、心臓病による死亡率のデータをみると、若年層では男性のほうが高いものの、50歳を超えると女性も増加し、男女差がなくなっていきます。もちろん、コレステロールだけが原因とは言えませんが、エストロゲンの減少もかなり関与していると考えられます。  ほかにも、エストロゲンの減少は、骨量を低下させて骨粗しょう症のリスクを高めるなど、更年期以降の女性の健康に影響を及ぼす要因となります。日本の女性の平均寿命は男性より長く、世界でもトップクラスと言えます。しかし一方で、平均寿命と健康寿命の差、すなわち介護が必要な期間は女性のほうが長いことがわかっています。寝たきりや要介護の原因はさまざまですが、動脈硬化による脳血管疾患や骨折なども多くの割合を占めています。 ――コレステロール値が高い場合、どのような治療をおこないますか?  LDLコレステロール値が140ミリグラム ⁄ dl以上の場合、「高LDLコレステロール血症」と診断されます。治療について、動脈硬化性疾患予防ガイドラインでは、まず生活習慣の改善を基本としています。健康的な食事を心がける、アルコールを控える、適正体重を維持する、禁煙するなど、生活を見直してもLDLコレステロール値が目標のレベルまで減少しない場合は、スタチンなどによる薬物療法を検討します。  一方で、更年期障害の治療として、エストロゲンを補充する「ホルモン補充療法」をおこなうことで、更年期症状の改善に加え、LDLコレステロールの減少、HDLコレステロールの増加といった脂質の改善や骨量の増加などの効果が得られることがわかっています。  ホルモン補充療法は、更年期のホットフラッシュやのぼせ、不眠など、つらい症状を軽減することを目的におこなうものであり、更年期の症状がない人に対してLDLコレステロールを減らすことだけを目的におこなうことは推奨されていません。  コレステロール値が高くなる原因は、食事や生活習慣、家族歴などさまざまであり、エストロゲンの減少だけで起こるものではありませんが、女性の脂質異常症は、男性のそれとは少し機序が異なる、女性特有のしくみによって起こる病気とも言うことができます。 ――コレステロール値が高い場合に、婦人科を受診するという選択肢もあるのですか?  健康診断でコレステロール値が高いと指摘された場合、まずは内科を受診するのもひとつの選択です。ただし、閉経期を境として女性の体にはさまざまな変化が起こること、それにより高コレステロール血症や骨粗しょう症など、女性の健康寿命に影響をおよぼす病気が起こりやすくなることを理解しておき、更年期に何らかの症状や不調がみられた場合は婦人科を受診するという選択肢があることも知っておいていただきたいと思います。  日本女性医学学会のホームページでは、思春期から老年期まですべてのライフステージの女性のヘルスケアを担う医師として学会が認定する「女性ヘルスケア専門医」のリストが掲載されています。  更年期障害、高コレステロール血症、骨粗しょう症など、閉経期以降の女性にみられる病気は、ホルモンが影響するという意味ではすべて関連しあっていると考えられます。それらの病気をトータルにみられるのが婦人科の強みです。  高コレステロール血症も骨粗しょう症も自覚症状がありません。動脈硬化が進んで心筋梗塞や脳梗塞を起こしてから、あるいは骨粗しょう症が進んで骨折してからでは遅いのです。健康寿命延伸のためにも、できれば更年期症状がみられる閉経前後の時期から、LDLコレステロールを含む脂質の状態や骨量などを定期的にチェックしていけることが理想です。そのような『予防医学』が今後さらに重要になると想定され、日本女性医学学会でも積極的に取り組んでいきたいと考えています。 (文・出村真理子)
クロちゃんが「人を見る時はまず『疑い』から入る」と語るワケ "女友達"に裏切られた悲しい過去 
クロちゃんが「人を見る時はまず『疑い』から入る」と語るワケ "女友達"に裏切られた悲しい過去  (右から)高橋みなみさん、クロちゃん、サンミュージックマネジャー・オオゼキさん、お笑いコンビ・ワンワンニャンニャンの菊池さん。クロちゃんが「自慢の友達」だと語る3人。「クロちゃん三銃士」と名付けているらしい(撮影/小黒冴夏)  安田大サーカスのクロちゃんが、気になるトピックについて"真実"のみを語る連載「死ぬ前に話しておきたい恋の話」。今回のテーマは「人間関係」。元AKB48の高橋みなみさんと一緒に買い物をしたり、後輩芸人と散歩に出かけたりなど、友人・知人との交流の様子を頻繁にSNSなどで公開しているクロちゃん。交友関係はとても広そうに見えるが、意外にも心を許せる友人は少ないという。クロちゃんが「人を見る時はまず『疑い』から入る」と話す理由とは? *  *  *  ボクは基本的に人見知りだ。テレビなどに出ているボクの姿から、みんながどんなイメージを持っているのかは分からないけど、誰とでも器用にしゃべれるようなタイプじゃない。たまに「クロちゃんってよくしゃべるね」と言われることはあるけど、それは、人見知りを自覚しているからこそ、無言や無音の時間が怖いから、ただ頑張ってしゃべっているだけ(笑)。  だから、大人数のコミュニティーというのも、あんまり好きじゃない。若手の頃は、いろんなお酒の席に連れていってもらったけど、家に帰ると、いつも、すごく疲れていたのを覚えている。ボクは、基本、八方美人だし、人に嫌われたくない人だから、そういう場面では、うその自分を全力で演じてしまうんだよね。これ、きっと共感してくれる人けっこう多いんじゃないかな。あれって、しんどいよね。  そこまで仲良くない後輩芸人から、たまに「飲みに連れていってください」と言われることもあるけど、あれも、実は、けっこう苦手。飲みに連れていったとしても、「本当に楽しんでくれているのだろうか」と気になってしまって、まったくその場を楽しめないからね。「全然楽しくなかったのに無理やり連れまわされた」とかって、後で悪口を言われるんじゃないかとか、変にマイナスな方向で考えてしまったりもするし。 「後輩相手なんだから、ドンと構えて、堂々とえらそうにしておけばいいじゃないか」なんて意見をたまに言う人もいるけど、ボクは、そういうのがまったくできない。年下に対して、えらそうにするのって、中学校くらいの時の部活動を思い出して、なんか嫌なんだ。同級生とかに、よくいたでしょ? 下級生が入ってきた瞬間に、いきなりえらそうにしだす人。少し前まで上級生に文句ばっかり言っていたくせに、自分が上級生になると、もっと理不尽なことをやりだしたりとか(笑)。ああいうのは、ほんと、かっこ悪いよね。自分が下級生だったころに嫌な気持ちになった経験があるんだから、冷静に考えれば、そんな態度はとれないはずなのに、不思議だよね。人に嫌われたくないボクからすると、まったく理解できない行動だったよ。  こんな感じで、ボクは、人見知りという性格だけじゃなく、人に対して「やたらと気を使ってしまう」という側面も持っている。というか、この側面はかなり強い。だから、人間関係は普通の人よりもかなり狭いし、友達の数も少ない。さらに、その中で、心が許せる人は……なんて絞っていったら、数人しかいない。  なぜ、ボクが、そこまで人に対して、異常に気を使ってしまうのか。  それは、ボクが人のことを簡単に「信用しない」からだと思う。  ちなみにだけど、もともとのボクは、そういう性格ではまったくなかった。人に対して警戒心を抱いたこともなければ、誰でもすぐに信用してしまうような真逆の人間だった。でも、年齢を重ねてきて、いろんなことを経験するうちに、だんだんと、今のように変わっていったの。  はっきりと自覚したのは、大人になってからだけど、子どものころの経験も、少なからず影響はしているだろうと思う。ボクは、昔から、この「高い声」のせいで、周囲から変な目で見られてしまうことが多かったんだよね。普通に生活していても、どうしても目立ってしまって、他者からの嫌な目線を感じることは少なくなかった。一時期は、女の子よりも高い声だったし、からかってくる人も当然いて、嫌な思いをしたことは何度もある。  だから、無意識に、人と自然に距離をとるというか、人のことを「よく見る」子どもだった。今、振り返ると、その時から、少人数の友達といるほうが気楽だった気がする。  その後、大人になってから、裏切られたり、だまされたりしたことが何度か続いた時期があった。なかでも、人を信用できなくなった決定的な出来事といえば、友達だと思っていた女の子にだまされたことかな。ボクは友達だと信じていたんだけど、どうやら、その女の子は、最初から、仕掛け人という役割で、ボクに近づいてきたみたい。 「一緒にご飯を食べよう」と誘われたから、ボクはただついて行っただけなんだけど、数日後、ある週刊誌に、ボクが「お持ち帰りに失敗した」というようなフェイク記事が出たんだよね。これは、かなりショックだった。けっこう泣いたし(笑)。その友達を信用していた分、あまりにつらくて、これから、一体どんなふうに人と付き合っていいのか、まったく分からなくなった。  気づけば、ボクは、人を見る時、まずは「疑い」から入るようになった。人間関係で、もう二度と傷つきたくないって思ったからね。あの瞬間を思い出すと、今でも、少しつらくなる。  でも、今にして思えば、ああいう経験ができて良かったかもしれないと思えたりもしている。  さっきも伝えたように、ボクは、もともと誰でも信じやすい人だったし、相手を受け入れちゃうと警戒心がゼロになっちゃう人だから、そのぐらい注意していたほうが、きっと、ちょうど良いんだよね。こういうお仕事をしていると、怪しい人物が近づいてくることはけっして珍しいことじゃないし。  それに、たしかに、いろんな経験を経て、人間関係は狭くなっているかもしれないけど、狭いからこそ、他の人には負けない、濃い絆みたいなものが今は築けていると思っている。  この連載でもちょくちょく登場する、たかみな(高橋みなみ)、後輩芸人の菊池(ワンワンニャンニャン)、サンミュージックのマネージャーのオオゼキさんは、とくにそういう絆を感じることができる自慢の友達だ。ボクの場合は、このぐらいの人間関係がちょうど良い。あまり幅広くても、きっと気持ちが分散されていくだけのような気がするからね。  人にだまされるのはもうこりごりなボクだけど、この3人だけは、もう逆に「だまされてもいいや」ってくらい、信じている。この3人なら、「もうだまされたボクが悪い」ってくらいにね(笑)。  ちなみに、この3人に共通しているのは、ボクに対して、ちゃんと「文句が言える」ってこと。人に対して「疑い」から入るボクからすると、これは非常にありがたい。しっかりと本音をいってくれているんだなっていうのを実感できるから、すごく安心するんだよね。  だから、ボクには、幅広い人間関係なんて別に必要ないんだ。人見知りでも、人を簡単に信用できなくても、全然かまわない。  正直、人間関係って広げようと思えば簡単に広げられると思うんだ。本心じゃなくても、適当に、相手の喜ぶようなことを言っておけば、それで成立したりするからね。でも、そんなのはボクには必要ない。  心を許せる人とだけ過ごせれば、ボクは十分幸せだからね。  人を信用することがなかなかできない分、一度、信じたら、とことん信じる!  それが、ボクが、人間関係で、最も大切にしていることだしん。 (構成/AERA dot.編集部・岡本直也)
メーカー勤務40代夫婦が500万円投資で資産5億円 新世代の「シン富裕層」になるための心構え
メーカー勤務40代夫婦が500万円投資で資産5億円 新世代の「シン富裕層」になるための心構え ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  一代で巨万の富を築く、新しい世代の富裕層「シン富裕層」が増えているという。実家がそれほど資産家なわけでもなく、どれだけ稼いでもさほど物欲もない。これまでとは性格も稼ぎ方も全く違う、新しい富裕層は「シン富裕層」と呼ばれている。では、どうやったら「シン富裕層」になれるのか。今まで2万人以上の「シン富裕層」と関わってきたコンサルタントの大森健史さんに心構えを解説してもらった。(朝日新書『日本のシン富裕層-なぜ彼らは一代で巨万の富を築けたのか』から一部抜粋・再編集) *  *  * ■富裕層は欲のなさそうな人ばかり  さて、自分がお金持ちになるにはどうすればいいのか、という実践編に入っていきます。  まず株式投資に関しては、「欲をなくす」よう、精神力を鍛えるしかありません。お坊さんのような無の境地に入るのです。投資は「お金を増やしたい」という欲があって始めるわけですから、真逆の矛盾することをしなければならないということです。  株は、下がっているときに買い、上がっているときに売る。単純なことですが、考えれば考えるほど、欲に負けたり、恐怖に負けたりしてしまいます。それに打ち克つ精神力が必要なのです。とは言ってもなかなか難しいので、経験を多く積むことが大切で、経験を積んでいる最中に大きく損をしないことも重要となります。  投資で成功しているシン富裕層は、本当に肩の力が抜けた、欲のなさそうな人たちばかりです。「300万円損しちゃったけど、もうちょっとしたらここでさらに買っておいたほうがいいかな」くらいの冷静さが必要で、「しまった、この100万円があればマンションの頭金になったのに!」などと後悔する人は、株には向いていないのです。私は投資アドバイスやコンサルティングもしていますが、自分自身の投資に関してはどうしても欲が消せないため、大成功するわけなんてない、と思っています。それをわきまえていると無駄に大きなリスクをとらないので、そういう意味では自分を褒めてやりたいと思います(笑)。  一般的なアドバイスとしては、ひと言で言うと無一文にならないよう、リスクの大きすぎない投資をいくつか行いながら、自分の勝ちパターンを見つけるまで頑張りましょう、としか言えません。投資による自己破産はできないので、レバレッジをかけ過ぎないことが重要です。  他によくあるアドバイスとして、「S&P 500(Standard & Poor’s 500 Stock Index:S&P ダウ・ジョーンズ・インデックスが算出している、アメリカの代表的な株価指数)の投資信託で、ひたすら毎月積み立てよう」というものがあります。しかしこの投資方法は、負けはしないけれどさほど勝ちもしないと思います。理由は皆が良いという投資は既に遅いからです。 ■投資手法をロジックで固めておく  欲を消せない人が、もうひとつ取れる手法としては、信者のように信じ込むことです。  金融マンが一生懸命に勉強して、投資の手法をロジックで固めるのは、頭で考えて決めておかないと、どうしても感情に負けてしまうからです。買付額や売買のタイミングなど、すべて事前に数字とロジックで決めて、その後は決めたことを行動に移すことが重要で「急落したので、今なら割安だ」と考えて買わないことです。  投資で勝ち続け、何億も稼いで「シン富裕層」になれるほどの人とは、欲から解放された人か、ロジックを信じて実行し続けられる人なのです。とは言っても、相場が過熱するとまた新しい理論が出てくるのでロジックと言ってもこれだけ知っていればいいという単純なものではありません。 「信じ込む」力がすさまじいなと感じるのが、暗号資産に投資をしている人たちです。信じている誰かに任せて、あるいは依存して、それがたまたま成功しているパターンの方も多いのです。戦国時代、一向一揆の信徒たちが「南無阿弥陀仏」と唱えながら、信長軍に突っ込んでいったようなものでたまたま上手くいったのが、暗号資産のアルトコインの中でも草コインなどでシン富裕層になった人たち。  暗号資産のなかでも特にアルトコインは値動きが激しいですから、高値のときに売って利益を確定しなければなりません。下がってしまえば資産が大きく目減りしてしまいます。しかし、彼らは「値動きはしょうがない。でも持ち続ければ、絶対に上がる」と信じ込んでいます。だからこそ、10億、20億、100億……とひたすら忍耐強く持ち続けることができたのです。  暗号資産でシン富裕層となった人たちの中で、これまでで最も資産が大きかったのは、アメリカのフィンテック企業リップル社が提供する暗号資産「リップル」の時価総額が、最大で1000億円ほどになった20代後半のスポーツマン風の方でした。  彼自身はプロスポーツ選手にはなれず、会社勤めもしたことがなかったものの、プロになったかつての先輩たちにベンツなどの高級外車を販売するなど、優良顧客の御用聞きのような立ち位置で仕事をしていて、年収数千万円以上の収入を得たときもあったとのことでした。それを全額、リップルにつぎ込んだそうです。  今から10年ほど前の、まだまだ海のものとも山のものともつかないとされた暗号資産の中でもアルトコインにそんな大金をつぎ込む時点で、普通の感覚では出来ません。買った後はそのまま放置していたといいますがその後、そのときのお金が何万倍にもなったというわけです。彼もリップルのことを「忍耐強く信じていた」ということなのでしょう。  他にも、夫婦で話し合って暗号資産に投資をしていた40代夫婦は、数年前にとあるアルトコインに500万円を投資し、それが今や5億円ほどになったため、夫婦でリタイアしドバイに行きたいと相談に来られました。夫婦ともに上場企業のメーカーに勤めており、小学校低学年の子どもも1人いて、海外で英語教育を受けさせたいという希望もありました。  500万円で購入したアルトコインが、一時は10 万円程度まで暴落したこともあったそうです。それでも、彼らはまったく不安ではなかったと言います。「この暗号資産は必ず上がると思っていました。明日1円になったとしても、全然心配はしていません。いずれ必ず上がりますから」と。このように、暗号資産ドリーム型は、暗号資産をとことんまで調べて、将来の値上がりを宗教のように信奉できるのです。 ■信じる力が強い「億り人」のすごみ  この夫婦は、誰かからこの暗号資産の良さを聞きつけて、自分たちでもあれこれ調べながら投資することを決めたそうです。出回り始めたばかりの暗号資産は、日本国内でテレビCMを流すような取引所では取り扱っていないことがほとんどで、海外の銀行にわざわざ口座をつくり、海外の取引所で購入をすることになりました。買える人が少ないうちに買うことで、価値が大幅に上がりやすいわけです。  その海外の取引所が将来的にどうなるか誰にもわからない中で、数百万円を投資するのは、なかなかの勇気がいります。失敗すれば500万円がゼロになるかもしれない。でもそうしたリスクを取って、未知のものである暗号資産に投資をしたということなのです。  私もコロナショックの頃、1ビットコインの価格が90万円のときに1つ、しばらくして75万円になったときに1つ、ビットコインを買ってみたことがあります。もっと安くなったらさらに買い増しをしようと思っていたものの、日に日に下がってついには50万円となったのを見ていると、もっと下がるのでは?と怖気づいてしまって買えず、2021年春にようやく200万円くらいまで上がったときに売ってしまいました。結果的にはプラスになったからいいのですが、2021年秋に1ビットコインが750万円を超えたときには、「なんであの値下がりしたときに、もっと買わなかったんだろう」「なんでもっと売るのを我慢できなかったんだろう」などと後悔したものです。これが凡人の思考で、大きなリスクを取る行動ができず、変に余力を残してしまうのです。  億を超えるまで、何があっても信じて持ち続けられるというのは、億り人たちのすごみです。  信じる力が強い彼らは、自分に暗号資産のノウハウを教えてくれた人にも、強い信頼を寄せています。暗号資産をどういうふうに売買すればいいのかわからないため、ノウハウを教えてくれる人にどこまでもついていくのです。  彼らは誰よりも早く暗号資産の可能性を知り、そこに賭けたことで巨額の資産をつくりました。これからの時代はこのように、新しい情報をいち早く知っているかどうかで大きな違いが出るというケースが、もっと増えていくことでしょう。ただしその情報は本当に玉石混交ですから、繰り返しますが、こうすれば100%稼げるなどという夢のような話はありません。  読者のあなたにお勧めできることとすれば、ひとりでコストをかけずに自分の得意分野を使って情報商材ビジネスをするか、さらにそうした小さいビジネスを、複数同時に行うか、株式投資をリスク管理し経験を積みながら行うか、などです。運に任せて暗号資産に賭けるのは、ハイリスクハイリターンだということは肝に銘じておきましょう。 ●大森健史(おおもり・けんじ)  1975年生まれ。大阪府出身。大学卒業後、国際証券株式会社に入社し、個人・事業法人・財団法人等の資産運用のコンサルティング業務を担当。留学・旅行業界を経て、ビザ申請や海外生活設計のアドバイザー業務に携わる。2004年6月に家族・親子・退職者・会社経営者・投資家らのロングステイなどのサポート企業として株式会社アエルワールドを設立し、代表取締役に就任。海外移住や長期滞在に関する相談実績は2万人を超える。グローバルに金融資産と居住生活をどうアロケーションするのかなど、投資家・資産家向けの海外生活コンサルティングにも精通し、サポートを行っている。
JPX山道裕己CEO「日本株1株から買えない」「プライム市場多すぎ」の疑問に回答<独自取材>
JPX山道裕己CEO「日本株1株から買えない」「プライム市場多すぎ」の疑問に回答<独自取材> 2023年3月まで東証社長、4月からJPX CEOの山道裕己氏(撮影/写真映像部・高野楓菜)  2023年4月。東京と大阪の2大取引所を運営するJPX(日本取引所グループ)の代表に、東京証券取引所の社長だった山道裕己氏が就任した。アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より山道氏のインタビューをお届けする。  重責を担う山道氏が取締役としてJPXに迎えられたのは2013年6月。野村證券時代に、欧州や米国の現地法人のトップ、花形の投資銀行部門専務を歴任したキャリアを買われた。 「外国人投資家の売買シェアは東証で60%ほど、先物取引に特化した大阪取引所で75%。日本の投資家はもちろん、海外へも日本株の魅力を伝える必要があります」  海外に目を向ける山道氏の土台を作ったのは父親かもしれない。山道氏の父は、自動車のマツダで営業部長を務め、監査役にもなったエリートだ。 「父は1924(大正13)年生まれですが、英語が話せたんです。就職活動前の私に『これからは海外だ、世界を股にかけるビジネスマンになれ』と言っていました」  山道氏は京都大学法学部卒。1976年春、大学4年生になる直前にはすでに銀行や商社の内定があった。今風に言えば「就活強者」。  当時の就活は、人材関連会社から送られてくる分厚い企業案内集が必須アイテムだった。付録の資料請求はがきを送ると、企業側が学生にコンタクトしてくる。 「案内集の野村證券のページに『インターナショナル・フィナンシャー・ノムラ』と大書きしてありました。ノムラは国際金融を担っているってことです。今の基準では、明らかに誇大広告だと思いますが(笑)」  野村證券の大阪支店に行ってみると、あっさり採用された。京大で体育会合気道部に所属し、部活とアルバイトに明け暮れる生活を送っていた山道氏を含めて、野村の新入社員は体育会が多かった。 「当時は人事部次長で後に社長、会長に上り詰める鈴木政志さんから『厳しい支店長とやさしい支店長のどちらがいい?』と尋ねられました。うっかり『厳しい支店長に鍛えてもらいたい』と言ったら想像以上に厳しくて。横浜駅西口支店に同期4人が配属されましたが、2年後に残ったのは僕だけ」 二日酔いで留学試験に合格し、ペンシルべニア大学でMBA(経営学修士)を取得   支店では1年上の先輩に助けられた。当時は野村をもじって「ノルマ証券」の異名を取るほど、営業目標達成の圧力が強かったが、山道氏は天性の営業力と人当たりのよさで顧客から好かれた。  チャンスが訪れたのは入社3年目。社内留学生の選抜試験があった。「世界で活躍できる」と率先して手を挙げたが、試験当日の体調はボロボロだったそうだ。 「試験前日に『留学なんてしなくていい』と言う先輩の深酒に付き合わされ、ひどい二日酔いで。でも、なぜか合格しました」  米国東部の名門、ペンシルべニア大学ウォートン校で2年学び、MBA(経営学修士)を取得した。  ウォートン校同期の日本人は15人前後。後に三井住友フィナンシャルグループの社長、会長になる國部毅さんや、社長として新生銀行再建を指揮することになる当麻茂樹さんらもいた。今でもゴルフなどを通じて旧交を温めている。 「新人時代の激務のあとに留学したので、現地では心身ともにのびのびしていました。第二の青春でしたね。  人事部から、社費留学生は出発時に独身なら帰国不可、結婚もダメと言い渡されましたが、僕は構わず日本に戻って現在の妻を米国に連れ出し、帰国時には子どもがいました(笑)。そんな僕が後に人事部長になったわけで、野村は鷹揚(おうよう)というか懐が深い」  山道氏の型破りなキャラクターのルーツを探るべく、幼少期にさかのぼろう。生まれは広島市。広島駅の南東、父親の勤務するマツダ本社にも近い黄金山(おうごんざん)や比治山(ひじやま)周辺が、山道少年の遊び場だった。 「悪ガキでした。いたずらが過ぎて母が小学校の先生に呼び出されることもしばしば。20メートルはあろうかという崖を登ったりして。よく落ちなかったなぁ」  小学5年生のとき、父の転勤で兵庫県宝塚市に転居。高校はカトリック系の広島学院で学んだ。言わずとしれた名門だが、「いずれ広島に戻ることがわかっていたので中学校は広島学院の姉妹校である六甲学院中学校(兵庫県神戸市)に進学しました」。 「日本株の魅力を知ってほしい。市場改革はこれからも続く」(山道裕己JPX CEO)  受験も営業成績も国際派ビジネスマンになる夢も、自分の努力でモノにする。目標に対して必ず成果を残すのが山道スタイルなら、証券市場のさらなる活性化も期待できそうだ。  そこで山道氏に質問した。政府は資産所得倍増を掲げ、2024年にNISA(少額投資非課税制度)を全面刷新する。  株式やETF(上場投資信託)が最大1200万円買える成長投資枠もあるが、東証ETFに注目が集まっている。投資信託にないメリットは? 「ETFは株式と同様に取引所でリアルタイムに売買できるのが特長です。また、組み入れ銘柄の配当はすべて分配金として投資家に支払うルールがあります。透明性の高さは投資において重要です」  山道氏はコストの安さも強調した。たとえばS&P500の東証ETFには信託報酬(年率、税込み/以下同)0.077%のものが為替ヘッジの有無により計6本。TOPIX(東証株価指数)や日経平均株価のETFは最安が0.0495%。いずれも通常の投資信託より安い——まさに、立て板に水。優秀な営業マンだった山道氏の商品説明力は健在である。  現在、NISAの人気は米国株関連に集中している。日本の資金が米国へ流出していくようにも映るが、山道氏はどう見ているか? 「ここ数年の値動きで日本株より米国株に軍配が上がるのは事実です。しかし、アップルやマイクロソフトなどの巨大IT企業を除けば日米で極端に差が開いているわけではありません。 東証の上場企業は3803社(2023年3月末)。優れた技術を武器にBtoB(企業間取引)で高い世界シェアを獲得している企業、魅力的な商品・サービスで国際展開をしている企業は多いのです。 日本に住む人にとって日本株は身近で、情報も集めやすいはず。株式投資を通じて応援してほしいと思います」  JPXだけで解決できない問題もある。最低投資金額の高さだ。1株単位から買える米国株に対し、日本株は最低100株単位。株価1000円なら10万円が必要だ。 (編集部注:ネット証券等の端株サービスを利用すれば日本株を1株単位で買うことは可能。ここでは、日本株の一般的な最低投資単位について書いています)  山道氏は「多くの人がもっと手軽に買えるように、という声は認識しています」と言った。  欧米では1株につき1つの議決権があるが、日本では会社法の定める単元株制度により、1単元以上の株式を保有する株式にのみ、議決権等の権利が付与される。 「東証は毎年、最低投資金額の高い企業に対して『投資単位の引き下げに係る考え方および方針等の開示』をお願いしています。2022年10月には引き下げに向けた株式分割の実施を要請し、約30社が応じてくれています。  株価が高い銘柄を誰もが買いやすくしたいという気持ちは私にもあります」。  東証は2022年4月に市場1部、2部、マザーズ、ジャスダックの4市場を「プライム」「スタンダード」「グロース」の3市場に再編した。  だが、旧東証1部銘柄の84%がプライム市場を選択。上場基準に満たない企業まで「経過措置」の名の下にプライム市場へ移行させたことを批判する声があるが、どう考えているのか。  山道氏は、この質問にも逃げなかった。「先進国では最上位市場の銘柄数が最も多いのは珍しくない」と断ったうえで、「大事なのは銘柄数ではなく、上場基準の適合に向かって取り組んでいただくことです」と答えた。  2023年3月末現在の上場企業数はプライムが1834社、スタンダード1446社である。ここからは本誌の臆測だが、上場基準を満たしていない企業は中長期的に「退出」の方向に動くかもしれない。  東証ものんびりしているわけではない。外部有識者による「市場区分の見直しに関するフォローアップ会議」の議論を踏まえ、上場会社に対し、資本コストや株価を意識した経営の実践を要請した。  上場企業に対して求めた一連の対応は、次の通りだ。 ●まずは自社の資本コストや収益性を的確に把握する ●その内容や市場評価に関して、取締役会で現状を分析・評価する ●そのうえで、改善に向けた計画を策定・開示する ●投資家との対話の中で、これらの取り組みを継続的に更新する 「日本株は再評価の余地が大きい。企業経営者に、投資家と目線を合わせてもらうことが重要です」  現在、TOPIXの主要500銘柄の4割以上がPBR1倍を割っている。現金や土地などの資産価値が100円だったとして、株価は99円以下に「ディスカウント評価」されている状況だ。 「知られざる優良銘柄という言い方もできますが、企業側がIR活動にもっと力を入れる必要もあると思います。経営者は夢を語っていただきたい。成長しそうだと思う企業に投資家は注目します」  山道氏はJPXのトップとして今後も激務の連続が予想される。 「休日は仕事でもプライベートでもゴルフが多い」という。ちなみに好物は子どもの頃から食べていたお好み焼き。 「土曜の午後、小学校から家に帰り、祖母にもらった30円でお好み焼きを買うのが楽しみでした」  やはり焼きそばの入った「広島風」ですかと質問した。すると山道氏はちゃめっ気たっぷりに、しかし大真面目に答える。 「我々にとっては、あれが『お好み焼き』で、他に関西風がある感じです。『広島焼』と看板に書いてあったら、店主は広島人ではないぞと思って入りません(笑)」  なるほど、大変失礼しました。 「クレープみたいな薄い生地の上にキャベツを山盛りにして、豚バラでふた。イカ天やかまぼこ、天かすもパラパラ。卵。あっ、仕上げにオタフクソースをたっぷりね。よだれが出てきちゃったよ」  日本有数の国際金融マンの心の奥には、広島の山を駆け回り「正真正銘の」お好み焼き(30円)を頬張る少年が元気に生きていた。 ◯山道裕己(やまじ・ひろみ)/JPX(日本取引所グループ)代表執行役グループCEO。1955年生まれ、広島県出身。1977年、京都大学法学部卒業後、野村證券(現野村ホールディングス)入社。同社常務取締役などを経て2007年、野村證券専務執行役。2013年、大阪証券取引所(現大阪取引所)代表取締役社長。2020年、日本取引所グループ(JPX)COO(最高執行責任者)。2021年、東京証券取引所代表取締役社長。2023年4月1日、JPX代表執行役グループCEO(最高経営責任者)に就任 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋
【下山進=2050年のメディア第41回】手数は少なく、文字の力を強く。装幀家、緒方修一の「名人伝」
【下山進=2050年のメディア第41回】手数は少なく、文字の力を強く。装幀家、緒方修一の「名人伝」 緒方修一。渋谷で行われた「本chaばなし」のイベントで。  今は昔。  福岡の大学のデザイン科を出て東京でアルバイト生活を続けていた緒方修一(おがたしゅういち)は、新潮社のデザインアルバイト募集という広告をみつけ、応募していた。  実技の試験があった。  倉本聰の『北の人名録』という当時よく売れた新潮社の本、その表一のデザインを自分なりにするというものだった。机の上には、ある画家の絵を縮小したもの、タイトル、著者名、出版社名の様々なサイズの写植が版下台紙の横に糊やカッターとともにおかれている。  いったいどうしたらいいんだ? 田舎から出てきたばかりの緒方は途方にくれて、隣ですぐ作業にかかっていた女性の様子を盗み見た。すると彼女は、細いつややかな指でカッターをおさえながら、スッ、スッとその画家の絵をスライス状に切っている。やがて、それをコラージュのように段差をつけて並べ始めた。  東京のデザインをやっている人たちの技量にはかなわんと思った。緒方は、画家の絵を中央におき、その上にセンター揃えで、タイトル、著者名、版元名をならべて、受験生の中でまっさきに提出して、新潮社を出てきてしまった。到底採用されるとは思わなかった。  ところが、大勢うけていたデザイン志望の若者の中で、採用されたのは緒方ひとりだった。  後に出社をすると、こんなことを編集の幹部から言われた。 「歌わないことが大事なんだよ。デザインは」  いろいろといじくりまわす必要はない。その作品とタイトルが強いと思えばシンプルにそれを打ち出すだけでいい、というのがその編集幹部の言葉だった。  こうして新潮社の出版部の中のデザイン担当として様々な雑用をふくむ緒方の生活が始まるのだが、緒方はすぐに社員として登用された。1994年暮れには独立、今では、沢木耕太郎や高山文彦などの作家が指名する押しも押されもせぬ装幀家になった。  先日、緒方が注目する二人の装幀家を招いて、1時間だけ話をするという鼎談の会があったので、そのイベントの前に久しぶりに緒方に会った。 伊丹十三に書いてもらった題字を使った山口瞳の全集。装幀は緒方。山口は伊丹十三と宮本信子の仲人でもあったという。伊丹が尊敬していた書家の中村不折の書はたとえば「新宿中村屋」の題字と言えば思い出す人もいるかもしれない。  私も文藝春秋で出版に配属された時代に、まず本屋で目についたのが緒方の装幀の本だったこともあり、いくつもの本の装幀を緒方に頼んできた。会社にいる時に書いた私自身の二番目の作品『勝負の分かれ目』の装幀も単行本、文庫ともに緒方に頼んだ。  当時は漠然と、あがってきた装幀を「素晴らしい」という言葉でしか表現できなかったけれど、今回、話をしてみて、なぜ緒方の装幀が作家をひきつけ読者をひきつけるのか、言語化ができるような気がした。ということで書いているのが、この回。 1、手数は少なく  緒方は数年前から、宇都宮の大学のデザイン科で「装幀」について教えている。全12回の実技を含むコースだが、このコースで緒方がよく言うのは「サラリと手数を抑えたらプロの仕事になる」ということだ。デザインを勉強するとどうしても、あれもやりたい、これもやりたい、自分の作品にしたいとなってしまう。しかし、「装幀」は「作品」ではないというのが緒方の持論だ。装幀家が前に出ているような本はよくないし、売れない。あくまで陰に隠れているくらいがいいのだということを教える。それは、緒方が新潮社の装幀室という、製紙会社や印刷会社ともつきあい、編集と外部の装幀家をつなぎ、著者ともつきあってひとつの「商品」をつくりあげる部署で体得したことなのだという。「芸術」ではないのだ。自分が「歌って」はいけない。 2、文字の力を大切にする  緒方の装幀はタイトルの文字が強い。それは、緒方がタイトルこそがその本を訴求するもっとも大きな力と信じているからだ。  緒方は装幀に迷うと、鴬谷にある書道博物館を散歩がてらぶらりと訪れる。この博物館は戦前の洋画家でもあり書家でもあった中村不折(ふせつ)のコレクションを見ることができる博物館だ。緒方は中村不折のことを故伊丹十三から教わった。緒方が伊丹の書く字が好きで、山口瞳の全集の題字を頼みにいったとき、「緒方君、中村不折を知っているか? 僕は彼の真似をしているんだ」と伊丹から言われたのがきっかけだった。  その文字の力を使い数秒で書店店頭で目にとまるようにする。だから、帯の文句がだらだらとたくさん書いてあったり、「○○××推薦!」と他の本につけても成立してしまうような有名人頼みの帯原稿を見るとがっかりする。その本でなくてはならない言葉を選べよと思う。 3、一人の共感が得られればいい  共感を得ることができるか、というのは大事な視点だ。しかし、緒方はそれは40人のクラスだったらば1人でいいのだという。39人が無視してもひとりが共感すればいい。大勢の共感を得ようと思うと失敗する。 4、芸術家へのリスペクトを  ある画家との仕事が自分にとっての転機になったという。その画家は心を病んでいた。自分との仕事が再起のきっかけになればとの思いもあったが、それは果たせなかった。が、緒方が関わったその装幀の装画だけは、緒方の目の前で描いた。筆を持つ手が震えていた。  その仕事がなぜ、緒方にとっての転機となったか、緒方はうまく説明ができなかったが、私はそれを芸術家へのあくなき尊敬だと感じた。装幀家はその芸術家の繊細な魂をそれでも「商品」にしていくのだ。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※週刊朝日  2023年5月26日号
60代はまだ若手 カツオ漁の町の暮らしでわかった生涯現役の秘訣
60代はまだ若手 カツオ漁の町の暮らしでわかった生涯現役の秘訣 名物のカツオのタタキ  65歳で「若手」と言われる生涯現役の町がある。高知県西部に位置する海辺の漁師町を訪ねた。400年以上前から“カツオの一本釣り”が盛んだ。気張らず自然体に、現役で働き続ける秘訣とは。その暮らしぶりに迫った。 *  *  * 「ここは定年という概念がない。70代、80代でバリバリ働きゆう人がどっさりおるし、90代でも働きゆう人がおる。だから60代っていったら、ヒヨッコみたいなもんよ」  高知市から車で約1時間ほどの場所にある、海辺の漁師町、中土佐町・久礼(くれ)。港で水揚げされたばかりの新鮮な魚が並ぶ久礼大正町市場を中心に、昔ながらの街並みが続く。市場では、その日とれたばかりの生のカツオが食べられるとあって、県内外から多くの人が訪れる。  初鰹の時期を迎え、市場が特に活気付くこの季節。市場の食堂で刺し身に舌鼓を打っていたら、冒頭の会話が聞こえてきた。  確かに周りを見渡せば、生き生きと立ち働くシニア世代の姿が目立つ。みんなテキパキとよく動き、よくしゃべり、よく笑う姿が印象的だ。働く人々に、現役の秘訣を聞いてみたくなった。 「健康の秘訣? そりゃカツオとニンニクやろ」  こう言って笑うのは、地元の味を全国に届けようと2007年に久礼大正町市場の商店主ら4人で企業組合を立ち上げ、現在組合の会長として商品作りや販売などを行う川島昭代司さん。企業組合の名称は「企画・ど久礼もん企業組合」。土佐弁の「どくれもん」(素直じゃない人の意味)に、町の名前である久礼をかけたネーミングで、カツオのたたきや加工品などをネットで販売するほか、食堂も切り盛りする。これら加工品や食堂のメニューなどを考案し、76歳にして今も現役で組合を引っ張るのが川島さんだ。  川島さんは、中学卒業後、15歳で漁師の道に入り、28歳までカツオ一本釣りの船で漁師をしていた。釣り上げた20キロのマグロが目に直撃するという災難を機に、漁師の道を断念せざるを得なくなった。しかし、漁師をやめた後に「大酒飲みという趣味と実益を兼ねて」夫婦で始めたスナックは、今も町の人に愛される大切な場所だ。川島さんは企業組合の仕事と並行し、夜7時から夜中0時ごろまでスナックを開ける。 企業組合会長の川島昭代司さん(76)  加工品の仕込みがある日の川島さんの朝は、それから2時間後、夜中の2時というから相当早い。主力商品の一つが、カツオの焼き節にニンニクを利かせた「漁師のラー油」だが、これらの仕込みは今も、川島さんが自ら行う。朝9時ごろから行う瓶詰め作業までに焼き節を冷ましておく必要があるため、大鍋を使った仕込み作業の開始は、必然的に夜中からとなる。まとめて千個分ほど仕込むときには、大鍋で何度も繰り返し、仕込みを重ねる。 水揚げされたカツオ 「昔、カツオ船に乗りよったときから料理が好きで、コック長の代わりに食事を作ったこともけっこうあった。カツオはダシがよく出るき、カレーとか八宝菜に、肉の代わりに入れてもうまい。そういうカツオの使い方が、組合の商品作りにもいきちゅうがよ」(川島さん)  過去には自分の音楽CDを出したこともあるほど音楽好き。仕事の合間には、パソコンで音楽を作ったり、ギターを弾いて歌ったり。ITスキルも高く、「趣味で専門学校の夏期講座で習った」というデザインソフトを使いこなし、ポスターやチラシも自分で作るから驚きだ。 「元気でおるには、目的があるというのが大事やと思う。これをやらな、あれをやらなと予定や段取りを考えゆううちが花やね」と川島さん。体の不調はほとんどないが、数年前から少し喘息が出るようになった。 「まあ、たばこを1日2箱吸いゆうき、喘息にもならあ(笑)。でも毎日、うまい魚を食べゆうき十分元気。漁師の友達からもらう、ほんの2~3時間前に釣れたばかりのビリビリのカツオをニンニクで食べるのが最高やね。まだまだ道半ばで続けていきたいき、元気でおらないかんね」(同) ■1日でも休むと相場感がずれる  お次は71歳にして、一年のうち、「休みは元日だけ」という驚異の営業スタイルを貫く松沢章夫さん。「八百虎」の屋号で、母親から受け継いだ青果店を営む。松沢さんの一日は、毎朝6時半ごろに、隣町にある市場に仕入れに行くことから始まる。毎日欠かさず市場に行くのが松沢さんの鉄則。無論、状態の良い青果を仕入れるためだが、仕入れ値の相場を常に知っておくためでもある。 青果店を営む松沢章夫さん(71) 「毎日、値段を確認せんと、自分の相場感がずれてくる。1日休んだだけでも、前日の値段がわからんなるき休めん。そうやって積み重ねて初めて見えてくるもんがあるがよ。それに毎日通う中でこそ、いいものを見極める目も養われるきね」(松沢さん)  店先には、旬の野菜や果物がずらり。4月はいちごや文旦、山菜類などが店先にひしめいていたが、今は初夏に旬を迎える柑橘・小夏の最盛期だ。朝10時から昼2時ごろまで、妻と二人で店を切り盛りする。全国に客を持つが、長い客は20年以上の付き合いだ。 「ちゃんとうまいのを選んで売ったら、また次につながって、なじみになってくれる。そうやって店の信用ができていく。信用を得るには、しっかりした物を扱わないかん」  瞳の奥をキラッとさせながら、楽しそうに語ってくれる松沢さんだが、好物の酒の話になると、さらに饒舌になる。 「休みやったら朝から酒ばっかり飲んで座りゆうき、店を開けちょき」と周囲から言われ、元日だけが休みという営業スタイルに落ち着いたとは本人談。新型コロナウイルスが広がる前までは、毎晩家で熱燗を5合飲んでから近所のスナックに飲みに行くのがお決まりのコース。外で酒を飲めなくなったコロナ禍を“酒量を減らす良いチャンス”だと捉え、今は毎晩の熱燗を3合にまで減らした。飲み方も、コップ酒でグイグイ飲むスタイルから、お猪口でちびちび飲むスタイルに変化した。 「体の不調もなく元気なのは、毎晩の“アルコール消毒”のおかげやね」(同)  魚を食べない日はないというのは、松沢さんも同様。いい魚が入ったら、市場の魚屋から声がかかる。今の時期は毎日、カツオ三昧。その日の鮮度や気分によって、刺し身で食べたり、タタキにしたりと“地の魚”を存分に楽しむ。 「ここの空気とか人の感じ、全てが自分に合う。真面目な話、本当の健康の秘訣は、“水が合う場所におること”やと思う。それに店を通じて、いろんな人との出会いがあるき、毎日退屈せん。このまま80歳までは続けたい」(同) 100年続く店の暖簾を守る本井友子さん(83) ■何かしてないと落ち着かない  久礼の名物としても知られ、暑い季節には店先に行列ができるのが、大正10年創業の“ところてん”の老舗店「高知屋」。ところてんといえば、地域によって食べ方が異なることでも知られる。関東は酢醤油+青のり+和がらしが一般的だが、関西では甘い黒蜜をかけてデザート感覚で食べるのが主流だ。  一方、ここ高知では、冷やしたカツオだしに地元産の生姜を添えて食べるのがお決まりだ。「高知屋」のところてんもしかりで、こだわりの鰹節にじゃこ、醤油、そして四万十川源流域の伏流水で作ったカツオだしのつゆは絶品。だしの利いたつゆごとザブザブッとかきこむ同店のところてんは、100年にわたる久礼の夏の風物詩としても知られている。  そんな同店の2代目で、83歳にして現在も店に立つのが本井友子さん。現在は3代目となる息子さんが店を継いで切り盛りしているが、本井さんも手伝いを続けている。 「じっとして、ようおらん(じっとしていられない)性分ながよ。今は腰が痛くて、立って仕事するのがしんどくなってきたけど、どれだけ腰が痛くても、何かしてないと落ち着かんき」(本井さん)  23歳で同店に嫁ぎ、夫の実家の家業である店を手伝い始めた。夫は漁師で、一度漁に出ると8~9カ月は帰ってこない生活。そこで近くに住む妹と一緒に、3人の子育てをしながら長年にわたって店を切り盛りしてきた。夏場の繁忙期は、夜中の1~2時から仕込みを開始。子育て中は、深夜から仕込み作業をして、夜が明けたら配達に行き、そのまま子どもの部活の試合を見に行って、店に戻って営業するなど、休む間もない生活だった。 「忙しかったけど、それが楽しかった。いっぱい働いて、いっぱい遊んで、いっぱい飲んで(笑)。昔は忙しい中でも、週4~5日は外で飲むのを欠かさんかったけど、今は自家製の果実酒をコップに1杯。とにかく体いっぱい動いてきたき、後悔はないね」(同)  今も少しでも隙間時間を見つけると、畑仕事をしたり外に出かけたり、何かを始めたり。80歳を過ぎた今も、じっとしている時間はほとんどない。 菓子を作る西村勝己さん(80)  一緒に店を切り盛りする娘さんも、「こっちが疲れるぐらい動きます」と苦笑する。本井さんに「ゆっくりしたいと思うことはないんですか?」とつまらぬ質問を向けると、「全然ない」ときっぱり。 「ゆっくりしよったらイライラするがね(笑)。とにかく仕事が好きやし、仕事ができゆううちが楽しい。今も腰さえ痛くなければ、もっともっとやりたいし、あれもこれもしたいという気力はある。死ぬまで動き続けたいね」(同)  大正町市場の入り口に位置し、半世紀を超えて愛されてきたのが1950年創業の手作り菓子の店「西村甘泉堂」。2代目店主の西村勝己さん(80)が、先代から受け継いだ味を守り、丹精込めて日々さまざまな菓子を作り上げる。特に夏場になると、秘伝の手作り蜜のかかったかき氷を求め、多くの人が訪れる菓子店だ。昔懐かしい手作り菓子は、店のみならずスーパーや道の駅などでも販売されている。 ■リラックスして一生懸命が大切  西村さんの朝は、まだ外が真っ暗い夜中の2時から始まる。毎日4時半ごろまで仕込みをし、その後朝食を食べて6時ごろから配達へ。7時ごろに帰宅し、1時間ほど新聞を読んでコーヒーを飲みながら一息つく。その後、9時に店をオープンし、夕方4時まで店に立つ。寝るのは夜8時。仕込みは80歳の今も、西村さんが一人で全て行っている。 「自分でも年齢を聞いたら気絶しそうになるけど、ありがたいことに全く体の不調がない。いまだにお客さんに呼ばれたら、走って出ていくもん。この80年間、一度も入院したことがないし、体を壊したこともない。特段、健康について考えたこともないし、歩いたり体操したりの健康法も特にしてないけどね。母も95歳まで現役で働いて、99歳まで生きたき、その遺伝もあるかもしれんね」(西村さん)  学校を出た後、18歳から47歳まで東京のホテルで洋食を作りながら働いた。初代にあたる父親が亡くなったのを機に、店を継ぐことに決めた。洋食一本でやってきたため、菓子については門外漢。そこで高知に戻ってからは、母親と職人の背中を見ながら必死に菓子作りを覚えた。今も新たな味を出すことはせず、昔ながらの味を徹底して守り続ける。  例えば高知の郷土菓子でもある「中菓子」。飴とセンベイの中間という意味から名付けられた菓子で、小麦粉、砂糖、水飴を配合して作られる、どこか懐かしい味わいだ。小麦粉のケンピも、今も同店で作り続けられる味の一つ。東京から高知に戻り、洋食から菓子の世界に転身して33年。「あのとき、継ぐ決心をして良かった」と満足げにほほ笑む。 「勤め人と自分の店をやるのと、両方を経験して思うのは、いい仕事をするには、ある程度リラックスすることが大事ということ。もちろん緊張感も必要やけど、気を使ってばかりやなくて、周囲の人と調和してリラックスした上で、一生懸命やる。それが何よりの長生きの秘訣で、仕事を続けていけるコツやないかな」(同)  年齢をものともせずに、淡々と、そしてイキイキと働き続ける“カツオの国”久礼の現役なシニアたち。そこには巷にあふれる健康法などに頼らぬ、それぞれの現役哲学があった。長い人生いろんなことがありながらも、「まだまだ、もっとやりたい」と明るく前を見据えるその姿には、コロナの影響など微塵も感じさせないエネルギーが満ち溢れていた。(フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2023年5月19日号
朝なかなか起きられないのは「起立性調節障害」? 怠けではなく子どものSOSのサイン
朝なかなか起きられないのは「起立性調節障害」? 怠けではなく子どものSOSのサイン ※写真はイメージです(写真/Getty Images) ゴールデンウィークが終わり、張りつめていた緊張の糸が緩みがちになる5月。朝なかなか起きられなくなる子どもが急増するのがこの時期だが、無理やり学校に行かせようとすると逆効果の場合も。学童・思春期の子どもによくみられる「起立性調節障害(OD)」は、自律神経の機能障害が原因の病気だ。「怠けている」と誤解して不登校を招かないために、必要なことを児童精神科医に聞いた。 *    *  *  朝なかなか起きられない、ふらつきやめまいがある、午前中は気分が優れず午後になると元気が出てくる、といった症状が表れる病気を「起立性調節障害(OD)」と呼ぶ。  起立性調節障害は学童・思春期の子どもに多いと言われ、軽症例を含めるとその有病率は小学生で約5%、中学生で約10%。しかし、保護者から「仮病」「ただの怠けだ」と誤解された結果、治療にはつながらず不登校になる例も少なくない。  精神科、心療内科、児童精神科のけいクリニック院長、山下圭一医師は起立性調節障害の主な原因について、自律神経の乱れを指摘する。 「自律神経は体の機能を活性化させる交感神経、リラックスさせる副交感神経の2種類の神経からなり、この二つの神経のバランスが保たれることで人間の体は正常に働きます。しかし、自律神経に問題が起きると、循環器系の調節がうまくいかなくなります。そのため、立ち上がったときに身体や脳への血流が低下し、めまいや立ちくらみ、動悸(どうき)などの症状が表れるのです」 精神科、心療内科、児童精神科のけいクリニック院長、山下圭一医師  自律神経の乱れは季節や気候の変化、ストレス、生活リズムの乱れ、日常の活動力の低下などによって引き起こされるという。 ガイドラインでは、以下のうちいずれかの症状が三つ以上当てはまる場合、起立性調節障害の検査を実施することが推奨されている。 ■春から夏は起立性調節障害に悩む子どもが急増する  起立性調節障害は中学校入学以降、急激に増えると言われる。その理由は、肉体の成長に自律神経の成長がなかなか追いつかないからだ。さらに、山下医師は冬に比べて春から夏にかけて悪化しやすいと説明する。 「暑い時期は汗をかくので体内の水分量が減り、血圧が下がります。また、曇りや雨の日は低気圧の影響で副交感神経が優位になりやすく、体の不調が表れやすくなります。これは気圧が下がることで空気中の酸素濃度が低下し、活動性を抑えることが原因と言われています。さらに、精神的な要因を挙げると、4月はまだ新学期が始まったばかりなので気を張っていますが、5月を過ぎると疲れやストレスを感じる子どもが増える傾向にあります」  そのため、対策としては水分や塩分を摂取する、軽い運動をするといった方法が有効だ。 「水分は1日1.5リットル、塩は1日10~12gを目安に摂取しましょう。運動は1日15分から30分程度の散歩で十分です。また、起立性調節障害は朝が一番つらいので、血圧が急激に下がらないよう、頭を下げた状態で起床することも大切です」  病院では薬物療法として血圧や心拍数を調整する薬などを処方するが、前提としてこうした生活習慣の改善が必要となるようだ。個人差はあるが発症後1年で約半数、2~3年後には8割の人が回復するという。 ■家族の寄り添いが何よりの薬  山下医師によると、神経質で周りに気を使う性格の子どもほどストレスを抱え込み、起立性調節障害になりやすい傾向がある。そして、この病気で最も障壁になるのは、家族の理解が得られないことだと山下医師は言う。 「起立性調節障害は午後になると体調がよくなり元気なことも多いため、『怠けている』と誤解されやすい病気です。実際に、来院されたときにはすでに家族関係が悪くなっている患者さんも大勢います。しかし、起立性調節障害は自分の意思ではコントロールできません。頭ごなしに叱るのではなく、『病気である』という認識を持って、お子さんのつらい気持ちに寄り添ってあげてほしいと思います」  かかりつけの小児科へ行き、検査をすることで病気の有無は判明するだろう。しかし、起立性調節障害の疑いがなかったからといって問題はないとは言い切れない。体の変化には子どものSOSが隠れているもの。普段と違う言動に気付いたら、まずは安心感を与えてあげることが大切なようだ。 (文/酒井理恵)

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