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8回予定の抗がん剤 6回目でリンパ腫が消えたのに続けるべき?【医師との会話の失敗例と成功例】
8回予定の抗がん剤 6回目でリンパ腫が消えたのに続けるべき?【医師との会話の失敗例と成功例】 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 病院に行き外来で主治医にいろいろ聞こうと思っていても、短い診療時間でうまく質問できなかったり、主治医の言葉がわからないまま終わってしまったりしたことはありませんか。短い診療時間だからこそ、患者にもコミュニケーション力が求められます。それが最終的に納得いく治療を受けることや、治療効果にも影響します。今回は、悪性リンパ腫で手術を行い、抗がん剤治療を受ける会社社長。8回予定の抗がん剤を6回目まで受けて、検査でリンパ腫が消えていることが判明。もうやめてもいいのでは?と考えます。医師との会話の失敗例、成功例を挙げ、具体的にどこが悪く、どこが良いのかを紹介します。  西南学院大学外国語学部の宮原哲教授と京都大学大学院健康情報学分野の中山健夫教授(医師)の共著『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版)から、抜粋してお届けします。 *  *  * 「失敗例:エピソード1」と、「成功例:エピソード2」を順番に紹介します。 『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版) 【患者の背景と現状】  Gさんは、66歳男性、会社社長です。日頃から健康管理には気をつけていて、毎年の職場健診に加えて、1泊の滞在型人間ドックも受けています。ある日、片方の睾丸が大きくなっていることに気づきましたが、痛みもないためしばらく放置。2カ月経っても元に戻らないため、かかりつけ医に相談したところ、「すぐに精密検査を」と言われ、紹介状を書いてもらって総合病院を受診。その結果悪性リンパ腫の診断を受け、睾丸の手術を行い、その後薬物治療を開始しました。  その抗がん剤治療は、入院し、最初の3日間の検査後、4日目と5日目に合計約8時間の点滴による投薬。その後は約20日間、感染防止のため入院生活を送るというものでした。退院後は10日ほど自宅で静養し、再び次の治療のため入院。それを8回繰り返すという計画でした。  男性は点滴終了後、脱毛、倦怠感、吐き気、食欲不振、便秘、それにしゃっくりが止まらないという副作用はあったものの、3、4回目までは「たいしたことはない。このくらいだったら8回でも9回でも」と感じ、医師や看護師にも「ほかの人もこの程度なの? みんなものすごく大変って言うけど、僕はそれほどでも」と豪語し、気分が良い日には院内を2時間程度歩くなど、「元気に」闘病生活を送っていました。  ところが、5回目、6回目となると、投薬後の回復に急に時間を要するようになりました。そして、6回目が終わった時点での検査でリンパ腫が消えていることが判明しました。 【エピソード1】 Gさん:先生、7回目と8回目の治療は必要ないのではないでしょうか。 医師:次の治療はあまり気が向かない、ということですね。リンパ腫は確かに消えたように見えますが、良くない細胞が残っている可能性があるので、予定通り8回行う必要があります。 Gさん:まあ、そうなのかもしれませんが。でも、会社のことも気になるし、そろそろ復帰しないと……。それにリンパ腫が消えているんだったら、もう治療は必要なさそうだし。副作用、結構大変ですよ、我慢してましたが。 治療中の体調や気持ちは変化するもの。患者は正直に、素直に体の状態や気持ちを医療者へ伝えることがよりよい治療に結びつく イラスト/浜畠かのう 『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版)より 医師:やっぱりそうでしたか。でも、1回目を始める前にいろんなことを考えて8回と決めていたわけですし、最後まで、というのは私たちの考え方なんですよ。 Gさん:でも、リンパ腫が消えてるのにあと2回、というのはどうも気合が入らないような、ですね、はい。 医師:そうですか。分かりました。これ以上、無理にと言うことではないですし、いいですよ、しなくても。 Gさん:本当ですか? よかった! 医師:ただ、一つだけお伝えしておきます。もし、再発したら、そのときは残りの7、8回目だけ、というわけにはいきませんよ。もう一度、最初からになります。 Gさん:そ、そうですか。分かりました。ちょっと家族や会社の者とも相談して、考えます。 【このときの医師の気持ち】 ここまでがんばったからこそ悪性リンパ腫がほぼなくなるところまで来られたのに。しかも、あんなに「たいしたことはない」と言って元気そうにしていたのだから、もう2回の治療を受けてほしかったところだ。でも、最後は患者さん自身が選ぶことなので、やりたくないものを無理にするわけにはいかない。再発した際、また最初からということははっきり言ったので、すべきことはした、というところだろう。 【解説】  抗がん剤治療は経験した人でなくては分からない体の辛さに加えて、特段何もしないで3~4週間入院し、退院してまたすぐに病院に戻るという、社会から切り離されたような疎外感にも耐えなければいけません。Gさんは口では「たいしたことはない」と言っていましたが、本音は決してそうではなく、毎回耐えられない苦しさと絶望感に悩まされていました。その分、検査の結果がんが消えていると知り、「もうこれ以上苦しい薬物治療を受けたくない、受ける必要もない」という気持ちだけが前面に押し出されて、医師とのやり取りがこのようになっています。何のために治療を始め、どうなればいいと考えるのか、また医師との信頼関係に悪い影響を与えかねない、という意味で「目的力」が不足したのがエピソード1です。うれしい気持ちが強かったのでしょうが、後先のことを考えずにそのときの気持ちを口にしたという点で、「発信力」にも問題があったと言えます。 【エピソード2】 Gさん:がんが消えてると聞きました。よかった! これまでの治療が効いた、ということですね。 医師:確かにそうです。これで6回目が終わったので、あともう一息。7回目と8回目、がんばりましょう。 Gさん:え? 治ったんだったら、もう薬物治療は必要ないのではないんですか? 医師:そう考えられないこともありません。あくまでもGさん次第ではありますが、一つ大切なことを申し上げると、もし、もしですよ、再発したら、そのときは残りの2回だけ、というわけにはいかないんですよ。最初からやり直しで、場合によっては8回でも終わらないかもしれません。 Gさん:そうなんですか。でも、これまで半年以上会社はほったらかしで、そろそろ戻らないと…… 医師:それはよく分かります。しかし、Gさんはついこの前まで「副作用は思っていたほどたいしたことはない」って言われていて、私たちもGさんを見て、「思ったより元気にされているな」っていつも話してたんですよ。 Gさん:まあ、少しでも体力をつけて、いつでも仕事に戻れるようにと、少し無理もしていました。そして、「副作用はたいしたことはない」って言ってたのも自分を元気づけるためで、本当はかなり辛かったんです。お恥ずかしい話ですが、この5回目と6回目のときは「もう、いや。早く家に帰りたい」と泣きたくなるような気持ちでした。 医師:そうだったんですね。よく我慢してがんばってこられました。だからこそあと2回、目には見えないがん細胞をたたいて、徹底的に治療をしておいたほうがよいと、私たちGさんの治療を担当した全員が思っています。今は薬も良くなっていて、10年前だったらこの治療は無理だったくらいですよ。 Gさん:(しばらく黙って考えて)分かりました、先生。プロの判断を信じてあと2回、がんばります。 【この時の医師の気持ち】  予想していたよりずっとGさんが元気そうにしていたけど、実はやはり辛かったんだ。確かにこれまでの同じ薬物治療を受けてきた患者さんよりはとても体力もあって元気そうに見えたけど、かなり我慢していたことがGさんの口から直接聞くことができてよかった。7、8回目の治療を今回はしない、という選択肢もあるけど、これだけ一生懸命苦しい治療に正面から向き合ってがんばってきたGさんの今後のことを考えると、ここはもう一歩踏ん張って治療を受けることを納得してくれて、そしてわれわれを信頼してくれていることも確認できた。これからも親身に、そして全力でGさんの治療に当たっていこう。 【解説】  Gさんはエピソード1と比べると、1回の発言で一つのことだけに絞って医師に自分の気持ちを伝えている、という違いがあります。「何のためにこのメッセージを発しているのか」という目的力が強く働いたため、医師とのコミュニケーションの焦点が明確で、一つひとつの用件を順番に果たしている、という違いがあります。そうすると、医師も論点を絞って一段ずつ階段を上るように、そして患者とともに上るように努力することができます。短い発言の中にあれもこれもと、多くの内容を込めると、どんな場合でも問題を直視して解決することが難しくなります。  また、Gさんは自分の感情を正確に認識し、これまで態度には出さなかったかもしれないが、実は肉体的にも精神的にも辛く、やっとの思いでここまで来たことを正直に、素直に示していることにも説得力を見いだことができます。エピソード2の最後は「おまかせ」というメッセージを発していますが、何も考えずに「お医者様に丸投げ」ではなく、自分で考えた末、医療者たちを信頼したうえで任せる、という強い意思を確認することができます。 ※『治療効果アップにつながる患者のコミュニケーション力』(朝日新聞出版)より 宮原 哲/西南学院大学外国語学部教授 1983年ペンシルベニア州立大学コミュニケーション学研究科、博士課程修了(Ph.D.)。ペンシルベニア州立ウェスト・チェスター大学コミュニケーション学科講師を経て現職。1996年フルブライト研究員。専門は対人コミュニケーション。ヘルスコミュニケーション学関連学会機構副理事長。 主な著書:「入門コミュニケーション論」、「コミュニケーション最前線」(松柏社)、「ニッポン人の忘れもの ハワイで学んだ人間関係」、「コミュニケーション哲学」(西日本新聞社)、「よくわかるヘルスコミュニケーション」(共著)(ミネルヴァ書房)など。 中山健夫/京都大学大学院医学研究科健康情報学分野教授・医師 1987年東京医科歯科大学卒、臨床研修後、同大難治疾患研究所、米国UCLAフェロー、国立がんセンター研究所室長、京都大学大学院医学研究科助教授を経て現職。専門は公衆衛生学・疫学。ヘルスコミュニケーション学関連学会機構副理事長。社会医学系専門医・指導医、2021年日本疫学会功労賞。 主な著書:「健康・医療の情報を読み解く:健康情報学への招待」(丸善出版)、「京大医学部で教える合理的思考」(日本経済新聞出版)、「これから始める!医師×患者コミュニケーション:シェアードディシジョンメイキング」(医事新報社)、「健康情報は8割疑え!」「京大医学部のヘルスリテラシー教室」(法研)など。
歯のかみ合わせのズレ 原因は「かぶせもの」の調整ミス?顎関節症? 歯科医が原因別治療法を解説
歯のかみ合わせのズレ 原因は「かぶせもの」の調整ミス?顎関節症? 歯科医が原因別治療法を解説 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) かみ合わせの違和感が生じる代表的な原因には、補綴治療や顎関節症によるものがある。歯を失ったり、欠けてしまった部分を詰める充填物やかぶせものなど補綴物の高さの丁寧な調整や、顎関節症の治療で症状の改善が期待できる。 *  *  *  かみ合わせの違和感が生じる原因として、誰にでも起こる可能性があるのが、詰めものやかぶせものなどの補綴治療によるものだ。神奈川歯科大学病院総合診療科特任教授の玉置勝司歯科医師によれば、補綴物などが高い場合、かみ合わせるときに、他の歯よりも先に歯があたってしまったり(早期接触)、歯を左右にギリギリと横に動かしたときに歯が引っかかったり(咬頭干渉)することがあるという。 「こうした結果、特定の歯に力がかかって、その歯がダメージを受けてしまう。歯周病など悪い歯では、病気がさらに進行してしまいます」(玉置歯科医師) ■解析ソフトを使ってかみ合わせを調整  なぜこのようなことが起こるのか。玉置歯科医師は、こう説明する。 「どんなに精度の高い補綴物を作っても、かみ合わせは高くなるので、ほとんどの場合、高さの調整が必要になります。この調整がうまくいかないことがあるのです」  かみ合わせの調整は一般的には「咬合紙」を使う。厚さ20~30マイクロメートル(マイクロメートル=1マイクロメートルは1ミリメートルの1千分の1)のカーボンシートで、歯と歯の間に挟んで上下にカチカチ、左右にギリギリと動かすと、上下の歯が接触する部分、つまり強く当たるところに赤色や青色がつく。  歯科医師は色のついている部分を削り、調整する。しかし、咬合紙は唾液などで濡れてしまうと歯に色がつきにくく、調整がうまくおこなえないこともあるという。  また、口の中の感覚が敏感な人の場合、わずかなかみ合わせのズレにも違和感が生じやすい。玉置歯科医師のところにはこうした患者が多く紹介されてくるという。  この場合、「咬合接触分析装置」を使う方法でうまくいくことがある。やわらかいシリコーンのペーストを患者自身のかみ合わせの位置で90秒間、かんでもらい、硬くなったものを写真で撮影する。 かみ合わせの違和感データ  画像をパソコンに取り込み、専用の解析ソフトで分析すると、かみ合わせの接触部に色が表示され、とくに高いところが判別できる。  具体的には上下のかみ合わせの状態が0マイクロメートル(歯が接触している状態)~200マイクロメートル(非接触の状態)の間で色分けされ、可視化される。 「患者さんの感覚と、この接触状態の色を確認しながら、かみ合わせの調整をおこないます。画像を見せて『ここが高いですよ』と説明できるので、納得して治療を受けてもらうことができます」(同)  ただし、装置が導入されているのは大学病院や一部の歯科医院に限られる。必要に応じて、かかりつけの歯科医から、大学病院などに紹介してもらうといいだろう。 ■顎関節症を治すとかみ合わせも戻る  顎関節症によってかみ合わせの違和感が生じることもある。顎関節症は顎関節や咀嚼筋の痛み、開口障害(口が開かない)、顎関節の雑音(顎が鳴る)を主な症状とする病気だ。  原因は一つではなく、「生まれつきの顎関節や筋肉の弱さ」「心理的ストレス」「外傷」「姿勢の悪さ」「歯ぎしりやくいしばり」「上下の歯を接触させる癖」「カラオケや口を使う楽器演奏」など複数の要因により起こると考えられている。  みどり小児歯科院長で昭和大学客員教授の和気裕之歯科医師によれば、咀嚼筋の強い緊張など「筋肉の問題で起こるタイプ」と、下顎骨と側頭骨(こめかみの骨)の間にあり、クッションの働きをしている関節円板がずれたり、顎関節が変形するなど「器質的な変化で起こるタイプ」の大きく二つに分類される。 「咀嚼筋の過緊張や関節円板の位置が変化した結果、かみ合わせの違和感が生じることがあります」(和気歯科医師)  顎関節症を治すと、かみ合わせも元に戻り、違和感も改善することがほとんどだという。 「ただし、顎関節症と似ている病気はとても多いため、まずは、問診を含めた詳しい検査が大事です」(同) 自己牽引療法  問診では顎関節症の引き金になる要因を探る。また、関節円板や骨の異常を確認するため、顎のX線検査をおこなったり、ケースによってはCTやMRIなどの画像検査が必要だ。 「顎関節の痛みは関節リウマチや細菌感染が原因の感染性顎関節炎でも起こるため、血液検査を受けてもらうこともあります」(同)  顎関節症の治療は運動療法がメインになる。顎関節症の治療のゴールは、痛みをやわらげることと、口が開けられることであり、顎関節や咀嚼筋を積極的に動かすことで、顎の周囲の血流がよくなり、その両方が改善する。  主な運動療法は歯科医師がやり方を教え、日常生活の中で患者自身がおこなうセルフケアになる。手指を使って動かなくなった顎を引っ張る「自己牽引療法」がその代表だ。  また、咬筋や側頭筋をほぐすマッサージも効果がある。夜間の歯ぎしりの習慣がある場合はマウスピースを使うなど、顎に負担をかける生活習慣を改善していく。これらは「顎関節症治療の指針2020」(日本顎関節学会)に沿った治療だ。 「かつて顎関節症はよくわからない病気といわれていましたが、研究が進み、誰にでも起こる身近な病気だということがわかりました。自然によくなることも少なくありません。このため、手術を含む外科的な治療は最初におこなうべきでないことが治療指針にも明記されています」(同)  かみ合わせの調整も同様で、運動療法などをおこなっても、よくならない場合に治療を検討する。 「顎関節症の症状が強いときにかみ合わせを調整すると、顎の位置が戻ったときに、新たなズレが生じます。このようなことがないよう、顎関節症に詳しい歯科医師に相談してください」(同) (文・狩生聖子) ※週刊朝日2023年5月19日号より
病と貧困に対する「自己責任論」の怖さ 『妻はサバイバー』著者と精神科医・松本俊彦氏が語る、偏見と差別の内面化がもたらす負の連鎖
病と貧困に対する「自己責任論」の怖さ 『妻はサバイバー』著者と精神科医・松本俊彦氏が語る、偏見と差別の内面化がもたらす負の連鎖 オンラインイベントにのぞむ、(右から)永田豊隆記者、松本俊彦さん、司会の松尾由紀・朝日新聞ネットワーク報道本部次長=2023年3月21日、東京都中央区、塚本和人撮影  摂食障害やアルコール依存症で闘病する妻の姿を記録した、朝日新聞記者・永田豊隆さんによる渾身のルポ『妻はサバイバー』。2022年4月の発売後、多くの反響が寄せられました。今年3月下旬には、この本が問いかけるものを専門家の視点も交えて考えたいと、朝日新聞のオンラインイベント「記者サロン~『妻はサバイバー』の記者、精神科医・松本俊彦さんと語る」を開催。松本さんから宿題をもらった思いだと明かしたイベントの様子を、著者の永田さんにご寄稿いただきました。 *  *  * 始まりは結婚4年目、2002年に妻の摂食障害が明らかになったことでした。過食嘔吐や自傷行為、大量飲酒がやまず、精神科病院に入退院を繰り返し、アルコール性認知症になるまでの約20年間を描きました。  妻のサポートと記者の仕事のはざまで救いになったのが精神科医・松本俊彦さんの本でした。『薬物依存症』(ちくま新書)など一連の著作には回復に向けたヒントがあるだけでなく、専門である薬物依存症や自傷行為への偏見を事実によって反証する力強さを感じました。  その姿勢に共感して、「妻はサバイバー」を書く際はオンラインで取材にご協力をお願いしました。記者サロンが企画された際には、ゲストとして真っ先に松本さんが浮かびました。  収録当日、リアルで初めて対面。精神科医療のあり方、トラウマと回復、人とのつながりと孤立などについて、松本さんは豊富な臨床経験をもとに解説してくれました。  とくに力がこもったのが、精神疾患に向けられる偏見や差別に話がおよんだときでした。  精神疾患による苦しみは症状だけにとどまりません。偏見がつきまとい、当事者も家族も差別にさらされます。私も妻の救命治療を拒否されたり、人混みの中で嫌悪感に満ちた視線を浴びたり、「甘やかすからだ」と見当違いの説教をされたりしてきました。  人種やジェンダーをめぐってよく指摘されるように、現実からかけ離れたステレオタイプは偏見や差別を強化します。依存症患者に対する「意志が弱い」「人格破綻者」「快楽におぼれている」といったイメージはその類いです。違法性の問題もある薬物依存症はとりわけ強い偏見の目で見られがちです。 収録後に記念撮影する(左から)永田豊隆記者、松本俊彦さん、司会の松尾由紀・朝日新聞ネットワーク報道本部次長=2023年3月21日、東京都中央区、塚本和人撮影  松本さんは「自己治療仮説」という米国発祥の理論を紹介して、くぎを刺しました。  自己治療仮説は、依存症の本質が快楽ではなく苦痛にあると考えます。松本さんは「快感がご褒美となるのではなくて、その行動をとると苦痛がやわらぎ、『やめられないとまらない』状態になる」と解説しました。  裏付ける統計もあります。一例をあげると、幼少期の過酷な体験(小児期逆境体験)の影響に関する米国での調査(1998年)では、複合的な体験者は一般の人と比べてアルコール依存7.4倍、薬物注射10.3倍などリスクが上がります。根底にある苦痛を示す結果といえるでしょう。  こうした側面を知れば、人格や意志の問題にしてしまうことが偏見そのものだとわかります。ところが残念ながら、今でも「本人が痛い目にあわなきゃ治らない」などと考える人が医療や福祉の現場にすらいます。  こうした偏見は当事者に深刻なダメージを与えます。松本さんは「(社会の偏見は)セルフスティグマ、つまり自分たちに対する偏見をもたらす」と指摘しました。  スティグマは「烙印」と訳されます。差別や偏見で社会的にマイナスの意味づけをされることです。「セルフスティグマ」は当事者がスティグマを内面化して、自分の価値を低く考えてしまうことをさします。  松本さんによると、それは「『どうせ俺なんか』『こんなクズな俺はお医者さんに診てもらう価値がない』となって、助けを求めた方がいい局面で助けを求めなくなる」という結果をもたらします。  依存症は「否認の病」といわれます。病気だと認めない。病院に行きたがらない。入院したがらない。その間、本人だけでなく家族も苦しい思いを強いられます。  この否認についても、松本さんは「一般に否認とか治療抵抗といわれるものも、実は偏見を内面化したものでできあがっている」と解説します。  こうして社会の偏見はセルフスティグマとなって当事者を支援から遠ざけます。やっと支援につながったときには心身ともに重症化しているうえ、それまでの過程で家族との関係が険悪になったり、仕事を失ったりして、生活環境が悪化しています。当然、治療はより困難になるでしょう。 永田豊隆著『妻はサバイバー』(朝日新聞出版)※Amazonで本の詳細を見る  それでも支援につながった人は希望を持てます。しかし、実際にはそうなる前に命を落とす人も多いはずです。  セルフスティグマの話を聞いて、私は既視感をおぼえました。  2000年代半ば以降、私は貧困問題の取材を続けてきました。段ボールの寝床で野宿生活者が語る半生に耳を傾け、母子世帯のアパートでギリギリの暮らしぶりを見聞し、炊き出しに並ぶ若い世代に派遣切り体験を聞きました。  社会的な背景と関係なしに貧困に陥った人などいません。労働者派遣法などの規制緩和、雇用保険や年金など社会的安全網の不備、高額な教育費・住宅費といったこの国の課題が、どの当事者の状況からも浮かんできました。  一方で、ネット上であがる記事への反応は違いました。 「努力が足りない」「頑張れば何とかなるはずだ」「若いのに生活保護なんて甘えてる」。貧困が自己責任であるという前提に立ち、生活保護制度の利用をあたかも恥や罪のようにさげすみ、本人の自助努力を促す内容が大半です。  そして、取材した当事者の多くは、こうした自己責任論を内面化しているようにみえました。 「働いて何とかしなければ」「生活保護だけは嫌だ」。水光熱費を滞納しても、治療代を払えなくなっても、住まいを失っても、生活保護制度の利用をかたくなに避けて過剰とも思える「自助努力」を重ねる。そんな人に多く出会ってきました。  こうして貧困問題においても、社会の偏見に端を発するセルフスティグマが当事者を支援から遠ざけます。やっと支援につながったときには、ネットカフェ生活や野宿で心身とも疲弊したり、多重債務に陥ったり、受診を手控えて持病を悪化させたりして、暮らしの立て直しはいっそう難しくなっているのです。  依存症も貧困問題も、実は一部の人しか支援にたどりついていない点でも共通しています。例えばアルコール依存症の推計患者54万人(2018年・厚生労働省研究班調査)のうち医療機関にかかっているのは約10万人にすぎません。生活保護基準以下の貧困層のうち実際に生活保護制度を利用している割合は、厚生労働省の統計から2~4割程度とみられています。  助けを必要としている人の大半がその入り口にたどり着けずにいる。その原因の一端は、社会が当事者に向ける偏見や差別の目にあると私は思います。 「この状況を変えたいが、容易ではない」。回復の希望を教えない学校での薬物乱用防止教育の問題点にもふれて、松本さんは難しさを打ち明けます。  セルフスティグマを当事者の責に帰すことはできません。変わるべきは当事者ではなく、当事者を追い詰めている社会の側です。  誰もが「助けて」と言える社会にするには、社会にある偏見を地道になくしていくしかありません。それはジャーナリズムの重要な役割の一つです。私は宿題をもらった思いで収録のスタジオを後にしました。 ※記者サロン「『妻はサバイバー』の記者、精神科医・松本俊彦さんと語る」は5月31日(水)まで配信中(申込締切5月31日20時)。申込はこちらより https://ciy.digital.asahi.com/ciy/11010392
入管法改正案に「人を殺す法律」と批判の声 真に求められる対策とは
入管法改正案に「人を殺す法律」と批判の声 真に求められる対策とは 仮放免で暮らすクルド人の若者。働くことができないので夢も持てない。いつトルコに帰されるか、考えると怖くて仕方がないと話した(撮影/伊ケ崎忍)  難民認定の申請中でも、外国人の送還を可能とする入管法改正案。一度廃案になった改正案が、なぜ再び審議されるのか。「廃案に」との声が各地で上がる。AERA 2023年5月15日号から。 *  *  * 「帰れば、捕まるか殺されるかもしれません」  埼玉県南部の川口市。この街で、家族5人で暮らすクルド人の若者(21)は不安を口にする。 「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人。トルコやシリアなど中東地域に暮らすが、少数民族として長く差別と弾圧を受けてきた。  トルコで生まれ育った若者も、さまざまな差別を受けてきた。身体にはナイフの切り傷が残るが、街中を歩いていて突然、トルコ人から切り付けられた痕だという。迫害を逃れ、12年前に先に父親が来日し、3年後に母親やきょうだいと後を追った。 ■4千人超帰るに帰れず  家族は全員、一時的に入管への収容を解かれた「仮放免」の状態だ。在留資格がないので、働くことも入管の許可なく県外に出ることもできない。健康保険にも入れず、治療費は全額自己負担。生活保護などの社会保障も利用することができない。日本で在留資格を持って働いている親戚から借金などをして何とか生活している。  若者は「難民」として認めてもらい、仕事をして普通の生活をしたいと望む。だが、難民申請すれば強制送還される心配があるので、していないという。 「(難民申請)したいけど、怖いです」(若者)  出入国管理及び難民認定法(入管法)改正案の審議が4月13日、国会で始まった。最大の狙いは、「3回以上の難民申請者の送還を原則可能にする」ことだ。現行法には、難民保護の観点から「難民認定の申請中は強制送還しない」という規定がある。だが、何度も繰り返される難民申請は送還逃れの「乱用」だとし、3回目以降の難民申請を認めず申請中でも送還が可能になる。政府は、「在留が認められない外国人を速やかに退去させ、入管施設での長期収容をなくすのが目的」と説明する。  だが、入管問題の改善に取り組む指宿(いぶすき)昭一弁護士は、改正案は「人を殺してしまう法律だ」と厳しく非難する。  在留資格を持たず日本で暮らす「非正規滞在者」は約7万人(今年1月時点)いるが、退去を命じる「退去強制令書」が出れば、約95%は退去に応じ帰国している。残り約5%が、国に帰れば迫害を受けたり家族が分離したりするなど、帰るに帰れない人たちだ。昨年末時点で4233人いて、出入国在留管理庁は「送還忌避者」と呼ぶ。現在、入管施設に収容されているか仮放免の状態にある。 各地で入管法改正案反対の声が上がる。4月上旬、都内で開催された、大学生らでつくる団体「Moving Beyond Hate」による強制送還反対を訴えるデモ(撮影/編集部・野村昌二) 「帰るに帰れない人たちは、送還されれば生命が危険。入管庁は、何度も繰り返す難民申請を送還逃れの『乱用』というが、何ら証明していない。迫害を受ける危険のある国へ送還してはならないとする、日本も批准している難民条約に定めた『ノン・ルフールマンの原則』にも反する」(指宿弁護士) ■難民認定率0.7%  そもそも改正案は一昨年の通常国会にも提出された。だが、スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が名古屋入管で収容中に亡くなり、世論の批判が集中し廃案に追い込まれた。今回の改正案は、廃案となった改正案の骨格を大枠は維持している。  そこまでして入管が送還忌避者を帰国させたいのはなぜか。指宿弁護士は、「基本的に入管のメンツ」と指摘する。 「そのメンツは、特別な思想に支えられています。それは、外国人は危険な存在であって徹底的に管理しなければならず、強制送還に応じないような外国人を日本に置いてはおけないというもの。人権上の問題があろうが絶対に帰国させなければという、ゼノフォビア(外国人嫌悪)に基づく考えです」  実際、日本の難民認定のハードルは高く、国内外で「難民鎖国」と批判を浴びてきた。NPO法人「難民支援協会」の調べでは、主要7カ国(G7)の難民認定率(21年)はイギリスが63.4%、カナダは62.1%、アメリカは32.2%。対して、日本はわずか0.7%だ。この歴然とした開きに、在日クルド人を支援する団体「在日クルド人と共に」(埼玉県蕨市)代表理事の温井立央(たつひろ)さんは、「保護されるべき人が保護されていない」と批判する。 「現在、日本には約2千人のクルド人が暮らしていて、ほとんどの人が難民申請を行っています。トルコに送還されれば命の危険にさらされ、差別や迫害を受ける人も少なくありません」  だが、日本政府は、親日国のトルコ政府との友好関係を崩したくないという外交上の理由から、日本に住むクルド人を難民として認めてこなかったといわれる。これまでトルコ国籍のクルド人で難民認定されたのは1人だ。温井さんは言う。 「保護を求めている人は保護すべきであって、外交に左右されてはいけない。入管とは違う別の第三者機関が、人権という視点に立って認定するべきです」 ■独立した認定組織を  求められる対策は何か。  指宿弁護士は、入管法改正案は「廃案」にして、「難民の認定は国際基準に基づき行うことが重要」と語る。 AERA 2023年5月15日号より 「日本の難民認定は、難民側にあまりにも高い立証責任を課しています。『灰色の利益』という言葉がありますが、疑わしきは申請者の利益として保護すべきです。そのためには、絶大な裁量権を持つ入管から独立した難民認定組織をつくらなければいけません。日本はあまりにも人権問題に無頓着すぎる。国際的な基準やルールを顧みない政策を続けていれば、国際社会から取り残されます」  移民政策に詳しい国士舘大学の鈴木江理子教授は、改正法案が成立しても、帰れない事情のある人は死に物狂いで抵抗するので、送還忌避者の問題は解決しないと見る。 「生きることすら困難な状況に追い込まれ、子どもたちの夢が奪われている現状を改善するためには、排除ではなく、適切な難民認定審査(難民保護)と人道的な観点からの在留特別許可が必要です」  在留特別許可とは、人道的な視点から法務大臣が特例的に在留を許可する措置のこと。在留資格が付与され、日本で正規に滞在することが可能になる。 「その上で、外国人を管理の対象としてではなく、権利の主体として位置づけることが大切です」(鈴木教授) ■生きる権利がある  在留資格がないというだけで「不法」とされ、一切の権利がないかのように扱われ、国から出ていけと言われる。人権とは、国籍や在留資格にかかわらず保障される「人間としての権利」である。日本も締結している国際人権規約には、国籍を問わず外国人と自国民とを同じに扱う「内外人平等の原則」がある。管理を目的とする現行の入管法のみでは不十分であり、外国人の権利を明記した基本法を制定することが重要だ。さらに、基本法に照らして、入管法を「改正」することと、難民を保護する新たな法律を制定することが必要と、鈴木教授は説く。 「ある国の人権とは、最も弱い立場にある人にも認められる権利です。外国人の権利をないがしろにする国は、自国民の権利も軽んじます。外国人の権利を保障することは、国民の権利の向上にもつながり、社会にとって大きなメリットです」  4月28日、改正案は衆議院法務委員会で可決された。今後は参議院などでの審議が続く。  非正規とはいえ、暮らしているのは外国人である前に、一人の人間だ。  ナイジェリア人のエリザベスさん(50代)は声を震わせ訴える。 「何で逃げてきた外国人に差別をするのでしょうか」  母国での女性性器切除(FGM)の強制などから逃れ、33年前に来日。仮放免で暮らし、2度目の難民申請中だ。母国に送還されれば殺される、日本で穏やかに暮らしたいと話した。 「私たちも人間です。私たちも生きる権利があります」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年5月15日号
若者を追いつめる日本の政治に下重暁子「責任は私たちにもある」
若者を追いつめる日本の政治に下重暁子「責任は私たちにもある」 下重暁子・作家  人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子さんの連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「選挙」について。 *  *  *  統一地方選の後半戦が終わった。相変わらず投票率が低く、たしか、市町村議選と町村長選では今までで最低だったとか。  各党別に見れば、維新の躍進が目立つ。特に保守王国の和歌山での衆院補欠選挙で女性の新人が当選。これで奈良県知事に続いて勢力を伸ばした。  私は、大阪で十年近く過ごしたことがあるが、奈良・和歌山は文化や経済圏は大阪に近い。  京都や神戸は独立した感じがするが、奈良や和歌山で維新が増えることに違和感はない。  維新の良さは、言葉がわかること。日常語なので、永田町言葉のようなよそよそしさがない。  次に数からいえばまだまだだが、女性が増えたこと。東京でも区長に女性3人が当選し、区議でも予想以上に増えた。生活目線の政治を欲している人々の数が多くなっているからだろう。  政治を身近なものと感じたい人々が、社会の変化を求めている証拠でもある。投票日に投票所へ行くと、若い人の姿が多かった。カップルや子供連れ、お年寄りの手を引く姿も目立った。  まだまだ捨てたものではない。自ら立候補という形で政治に参加しようという知人女性もいる。その芽を摘んではいけない。政治に関心を持って、自分も社会を構成する一員としての責任を果たしたいという若者の希望に応えられる社会であって欲しい。  なぜこんなことを言うかといえば、今回の選挙戦、和歌山の漁港で岸田首相に手製とみられる爆弾を投げつけた男は、実によく選挙制度を勉強していた。  昨年の参院選に自ら立候補を試みたが、被選挙権の年齢に達していないこと、三百万円の供託金が必要なことで断念したという。政治に関心を持ってもそれを表現出来ない焦立(いらだ)ちが感じられる。  安倍元首相の国葬に世論の多くが反対しても、閣議決定という、声の届かぬ所で物事が決まっていくことへの怒り。私たち庶民の抱く感情とそれほどかけ離れていない。  それなのに、一人で爆弾を準備し、聴衆という同じ選挙民をも傷つけかねない行為に出ることは一般庶民の考え方とあまりにかけ離れている。なぜ彼がそういう行動に出たのか。たった一人で。  かつてこうした行動に出る者は、考えを同じくする同志や、仲間との共謀が多かったが、今は一人でやる。その方法しかないと彼を追いやった絶望感を思うと、そら恐ろしい。思いつめたその方法論から、引きもどしてやることがなぜ出来なかったのか。  うまくいけば選挙制度への疑問を提起し、世の中を変えていくかもしれなかった若者を、一人過激な方向に追いやってしまった責任は、私たちにもあるのではないか。  奈良の安倍元首相殺害の犯人も一人だった。そうした追いつめられ孤立した若者は数多くいる。その一人一人が膝をかかえて何を考えているのか。  罪は許されるものではないが、その心を理解できなければ、また同様な事件を生むことになるのは間違いない。 下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中※週刊朝日  2023年5月19日号
70歳のアクションスター、リーアム・ニーソン アルツハイマー病の殺し屋を演じて得た境地
70歳のアクションスター、リーアム・ニーソン アルツハイマー病の殺し屋を演じて得た境地 Liam Neeson 1952年、イギリス・北アイルランド生まれ。代表作に「シンドラーのリスト」「フライト・ゲーム」、「96時間」シリーズなどがある/撮影:James Mooney  映画「シンドラーのリスト」などで知られる演技派俳優のリーアム・ニーソンさん(70)。50歳を過ぎてからアクション作品への出演が増え、人生の苦みと渋みをたたえた”大人のヒーロー像“で数々のヒット作を生み出してきた。最新作「MEMORY メモリー」(5月12日公開)では、なんとアルツハイマー病を発症した殺し屋を演じている。どんな思いで演じたのか。 * * *  完璧な仕事をする殺し屋として裏社会を生きてきたアレックス。その日も任務を終えて車に戻った彼は、愕然とする。 「車のキーは一体どこだ?」  演じるリーアム・ニーソンさんは「ユニークな設定に惹かれたんです」と話す。 「本作のオリジナルで2003年に公開された『ザ・ヒットマン』(エリク・ヴァン・ローイ監督)を知って、おもしろいと思いました。ヒットマンが登場する映画は数多く作られてきましたが、アルツハイマー病を患い、病と闘いながら仕事をする殺し屋というのはなかったですからね」  引退を決意したアレックスは、これが最後と決めて仕事を引き受ける。だが、ターゲットの一人はまだ幼い少女だった。 「アレックスはずっと罪を犯してきた、いわば悪人です。しかし彼は『絶対に子どもは殺さない』という信念を貫いてきた。そこで彼はなぜ少女が殺されるような状況になったのか、背景にあるものを探り始めます」  混濁していく記憶と戦いながら、アレックスは背後にある人身売買組織の存在を突き止める。 「彼は『これは間違っている、正さなければいけない』と考え、そのための行動に出ます。しかしその『悪』には自分自身も含まれている。これはある種、贖罪の物語でもあるのです。僕は自分が演じるキャラクターには、たとえ悪人であろうと、どこかに道徳的な側面を見つけようとするんです。今回のアレックスもそうでした。彼の行動にはギリシャ悲劇のようなヒロイズムがある。そこが気に入っています」  アレックスが部屋番号や電話番号を腕に書いたり、重要な情報をメモリースティックに入れたりして記憶障害と戦う姿はリアルで切なくもある。さらに同じ病で記憶を失いつつある兄をホスピスに訪ねるシーンは、短いながら美しく心に残る。 「MEMORY メモリー」 5月12日(金)からTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開。(C)2021, BBP Memory, LLC. All rights reserved. 「アルツハイマー病については入念なリサーチをしました。ドキュメンタリー番組なども見ましたが、実は同じ病を患っている友人がいたんです。その経験を少しアレックスの人物描写に取り入れることができました」 「友人を見舞い、彼と多くの時間を過ごすうちに、彼が僕のことを忘れてしまっていることに気づいてはいたんです。昔の話をしたりすると、やっぱりわかってしまうんです。でも彼は人をがっかりさせることを絶対にしたくない性格の持ち主で、そのことに気づかせないように振る舞っていました。僕はすごく彼らしいなと思ったのです。たとえ病を患っていても、その人はやはりその人なのだなと。この映画で兄とのシーンを演じながら、そんなふうに心を動かされたことを思い出していました」 「友人は最近、残念ながら亡くなりました。ですが僕はある意味、ほんの小さな形ではありますが、彼をしのび、その何かを映画に残すことができたのかもしれないと思っています」  同時に病をことさらに強調することはしたくなかったとも話す。 「この映画は基本的にはアクション・スリラーです。こうした作品はテンポやペースが大事。病の要素が極端にそのペースを乱すものになってはいけない。やりすぎないようにマーティン・キャンベル監督とも話し合いながら、なるべく抑制の効いた形で表現することを心がけました」  さすが数々のアクション作品に主演してきたリーアムさんらしい。70歳にしてキレのあるアクションは衰え知らずだ。 「映画の主役を任されるような役者は、ある程度のフィジカルをキープしなければいけないと思っています。朝早くから自分を待っているスタッフが100人いたりしますからね。ただ、そこまでハードにジムに通う必要はないと個人的には考えています。僕がやっているのはパワーウォーキング(フォームを意識した早歩き)、ダンベル運動や基本的な腹筋や腕立て伏せなど。それらを1週間に5~6日、30分ほどこなすくらいです。それに休息を取ることも重要です。十分な睡眠と、ある程度の健康な食生活を心がけています」 「MEMORY メモリー」 5月12日(金)からTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開。(C)2021, BBP Memory, LLC. All rights reserved.  イギリスの北アイルランドに生まれ、ベルファストの劇団で演技を学んだ。舞台俳優としてキャリアをスタートさせ、28歳で映画デビュー。09年にはおしどり夫婦として知られた妻で俳優のナターシャ・リチャードソンさんを亡くす試練もあった。人生のさまざまを乗り越え、これまでに100本を超える作品に出演。近年はユニセフの親善大使としても活動している。 「親善大使を務めていることを誇らしく思っています。それが演じる役の道徳心や正義感に反映されているとすればうれしいし、そうであってほしいとも願っています。ユニセフの活動には敬意を抱いているんです。例えばユニセフで1ドルを募金した場合、そのうちの95セントがサポートを必要としている子どもたちやその母親などにちゃんと届きます。ほかのチャリティー団体だと募金の40%ほどしか必要としている人に届かないこともありますから」 「僕の人生のターニングポイントは1980年にジョン・ブアマン監督の『エクスカリバー』に出演したことです。それをきっかけにロンドンに引っ越して4年半ほど暮らし、その後アメリカ、ロサンゼルス移って4年ほど、さらにその後ニューヨークに移り、いまも住み続けています。『96時間』でアクション作品に挑戦し始めたのは55歳のときですから、我ながらがんばったと思います(笑)」 「僕は人生には『ウィンド・オブ・チェンジ』(変化の風)が吹くときがあると考えています。その風が吹くと、次のステップに行かなければならないという気がするんです。その思いが自分を動かしてきました。いまのところ風が吹くことはもうないんじゃないかな、と思っていますが、どうでしょうね」  シニアの星の、さらなる進化に期待大だ。 ※週刊朝日オリジナル記事 (フリーランス記者 中村千晶)
パンデミックで一時鎖国状態となった日本に、今もっとも必要なのは「外の刺激を得る機会」だ 今こそスタンフォードに学ぶべき多様な思考フレームとは
パンデミックで一時鎖国状態となった日本に、今もっとも必要なのは「外の刺激を得る機会」だ 今こそスタンフォードに学ぶべき多様な思考フレームとは キャンパスの象徴的な教会 Memorial Churchの周りは教室やオフィスで、雲を書き忘れた絵のような青空は「できるよ感」を漂わせる  なぜ、スタンフォードは常にイノベーションを生み出すことができ、それが起業や社会変革につながっているのか? 書籍『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』では、スタンフォード大学で学び、現在さまざまな最前線で活躍する21人が未来を語っている。本書より、カーネギー国際平和財団シニアフェローの櫛田健児がスタンフォードで学んだことについて、一部抜粋・再編し前後編でお届けする。 *  *  *■今の日本に必要な外の刺激を得る機会  著者が伝えたい一番のメッセージは、パンデミックでしばらく鎖国状態となってしまった日本に対して、「外の刺激を得る機会」を求めることの大切さである。これから日本が抱える数多くの課題に向き合い、新しい価値を作り出すには、「アウェー環境」で猛烈に刺激を受け、新しいことや、今とはまるで異なる世界観や人脈を作って次につなげていくことが必要だと考えている。  スタンフォードはトップ大学としての世界の人材の良いところ取りの好循環と、シリコンバレーの中枢としてエコシステムと補完する関係の好循環という二つの好循環に恵まれていて、特に刺激的で転換点になりやすい。他のところがスタンフォードの仕組みや取り組みだけをまねしても、エコシステムの中心にいなければ、本書で述べられているようなエリック・シュミットから直接話を聞いて刺激される体験や、ピーター・ティール本人との会話で背中を押されるような経験はなかなかできないし、ここまで刺激的なクラスメイトや同僚に会えるとは限らない。  同時に、エコシステムの中心にいる恩恵があるからこそ、もしかしたらスタンフォードが大学として抱える問題が見えなくなったり、もしかしたら制度や取り組みが世界一でなくても、人材と資金の流れがあるから結果として大成功したりしている側面もあるかもしれない。  スタンフォードは、企業派遣の客員研究員の制度なども含めると、なんらかの形で携わることのハードルは、多くの人が考えているほど高くない。デザイン思考の企業向けブートキャンプや、さまざまな企業研修に取り入れられる要素もあれば、個別の教授や研究者を招いて話を聞いたり、研修を受けたりすることも可能である。 前学期、多様なスタンフォードの学生を教えた教室の様子  しかも本書でのメッセージである「外に身を置いて大きな刺激を受ける」というものは、あえていうと、スタンフォードではなくてもよいということも伝えたい。もちろん、スタンフォードは大学とシリコンバレー・エコシステムの両方の循環があるので刺激も転換点になるポテンシャルも高いが、今の日本でいろいろなところで感じる閉塞感を見ると、スタンフォードではなくても、一刻も早くもっと多くの人に外の世界を感じてほしいと切実に思う。 ■オンラインの世界における物理的プレゼンスの重要性  現在も著者が非常勤講師として授業を一本教えさせてもらっているスタンフォードが2022年1月から対面の授業を再開して改めてわかったことだが、コロナでもっとも機会損失となっていたのは多様な人々とのディープな触れ合いだった。  オンラインミーティング越しにはなかなか伝わらない熱量がある。多くの人が入り乱れて会話できる場から生まれる発見や印象的な一言が驚くほど大きなモチベーションとなることもある。本書にもそういった経験が結構見受けられる。コロナ禍でフルリモートになった状態でも少人数のセミナーを教えたが、その2年間でさまざまなZoom越しのディスカッションを促すノウハウなども教員として身についた。  しかし、学生同士の横の会話も限られ、議題以外の会話はなかなか生まれる余地がなかった。しかし、対面に戻ると授業がはじまる前の教室内では東京オリンピックに参加した学部生と日本の外交官、韓国の外交官と米国陸軍のエリート・レンジャーの会話などが自然に起こり、それぞれの異なる世界観が交わる会話が発生した。オンライン越しでいろいろ工夫しても起こらない化学反応が見受けられたのだ。  時代はなんでもフルリモートに向かっているのではなく、スタンフォードや各トップ大学が行ったようにいち早く対面の接触を可能にし(最初は学生には週2回のコロナ検査などが義務づけられた)、オンラインで行えることの長所を引き出しながらも、対面を大切にするからこそ伝わるものをフルに活用する方向となっている。 未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装※Amazonで本の詳細を見る  日本人のほとんどが日本にしかいられなかったコロナ禍の2年間で、いつしか考え方が単一的になり、同調性が求められるマスクとソーシャルディスタンスの生活で失われたもの、それはまったく異なる思考フレームを持ち寄っていろいろな物事を深く考える機会だったのではないだろうか。  実際に今、シリコンバレーにふたたび訪問を始めた日本の大企業や研究者たちは情報の感度が決して低いわけではないのにもかかわらず、ここ数年で、さらに進化を遂げたシリコンバレーのエコシステムや、驚くほど普及しているEV(電気自動車)と充電インフラの現状を経験して世界観が大きく変わっている。日本国内で得られる情報と現状のギャップにショックを受けている方々が数多くいるところを著者は目の当たりにしている。  やはり物理的に異なるところに身を置き、さまざまな新しい世界観や思考フレームに浸かることで、新しい突破口やパラダイムシフトが生まれ、モチベーションが湧く。いったん過去の話に戻って、著者が学部生として得たスタンフォード経験を例に出すとさらにわかりやすい。 ■スタンフォード学部生経験で受けた刺激  日本育ちの著者はまず学部生としてスタンフォード大学に進学した。インターナショナルスクールに通っていたため、高校までのカリキュラムはそもそもアメリカの大学入学向けに構成されていたので、第一志望だったスタンフォードに受かったのはうれしい限りだった。青空が広がり、都会とかけ離れた感覚のキャンパスは一年中大好きなスポーツもできるので、前年にはじめて見たときから惚れ込んでいた。  学部生として経済学、東アジア研究、国際関係を専攻したが、1990年代の後半はドットコム・バブルのまっ最中だった。寮から起業する学生や、夏のインターンシップに参加したら車をもらったという話など、学生たちの間でも「これはバブルだね」という感覚はあった。  同時に、シリコンバレーとはあまり関係ない学生がほとんどだったという印象を受けた。実際、コンピューターサイエンスを専攻している学部生は2010年から2020年の間に2.5倍以上になっていると学生新聞のStanford Dailyの調査結果がある。 櫛田健児さん  社会科学の分野ではちょうど2000年ごろにシリコンバレーのエコシステムについての研究が相次いで出版されはじめたが、ほとんどの学生は無縁だった。人文系はなおさらである。工学部の学生は就職先としてシリコンバレー企業に入る人もいたが、Googleはまだパロアルトの小さなオフィスにあり、Appleもスティーブ・ジョブズが戻ってきたばかりであまりイケている感じはしていなかった。  その後、卒業生たちの行方をたどると、飛躍したシリコンバレーのエコシステムで大活躍した人が多いが、在学中は大学全体がシリコンバレー熱に燃えているという感じではなかった。ただ、世界選抜のものすごい人たちがさまざまな人生経験からの視座をもとに積極的に授業でのディスカッションに参加したり、学部生はほぼ全寮制の生活で、夜更けまでさまざまな世界や人生についての議論を重ねたりしていく刺激は計り知れない。 ※「後編」へつづく 櫛田健児カーネギー国際平和財団シニアフェロー。シリコンバレーと日本を結ぶJapan-Silicon Valley Innovation Initiative@Carnegieプロジェクトリーダー。キヤノングローバル戦略研究所インターナショナルリサーチフェロー。東京財団政策研究所主席研究員。スタンフォード大学非常勤講師(2022年春学期、2023年冬学期)。1978年生まれ、日本育ち。スタンフォード大学で経済学、東アジア研究それぞれの学士号、東アジア研究の修士号修了。カリフォルニア大学バークレー校政治学博士号修了。スタンフォード大学アジア太平洋研究所でポスドク修了、リサーチアソシエイト、リサーチスカラーを務めた。2022年1月から現職。主な研究と活動のテーマは、(1)Global Japan, Innovative Japan、(2)シリコンバレーのエコシステムとイノベーション、(3)日本企業のシリコンバレー活用、グローバル活躍、DX、(4)日本の政治経済システムの変貌やスタートアップエコシスムの発展、(5)アメリカの政治社会的分断の日本への紹介など。学術論文、一般向け書籍やメディア記事、書籍を多数出版。
“革命僧”がステージ4のがんに「死へと向かうプロセスは自分の人生総決算のネタ」
“革命僧”がステージ4のがんに「死へと向かうプロセスは自分の人生総決算のネタ」 4月18日、長野県松本市の自宅で本誌の取材に応じた高橋卓志さん  仏教界の慣例を打破し続け「革命僧」とも呼ばれた僧侶の高橋卓志さん(74)が、進行した大腸がんと闘病中だ。3度の手術に耐え、現在は抗がん剤治療を続ける。数々の「いのち」と向き合ってきた高橋さん今、どんな日々を送っているのか。 *  *  * 「いま僕は死の淵の回廊を巡っていて、いつ死の闇の中へダイブしてしまうかもわからないという心境です。そういう状況の中で初めて死が『一人称化』されてきました」  長野県松本市の自宅を訪ねると、高橋卓志さんはこう語り始めた。言葉からは切迫感が伝わるが、表情は穏やかだ。  高橋さんは、生・老・病・死にからみつく苦しみ(四苦)を抜き去ることが仏教の一丁目一番地と捉え、最も厄介な「死苦」に関わることを自らの使命としてきた。「いのちを支える」「死を支える」をモットーに、友人である医師の鎌田實さん(諏訪中央病院名誉院長)と手を携え、多くの末期がん患者を支援してきた。ベッドわきで死への不安や恐怖に耳を傾け、看取りにも立ち会ってきた。 「これまで多くの死に接してきましたが、あくまでも『三人称(他人)の死』として、自分は安全なバリアの中にいるような関わり方でした。しかし昨年9月、大腸がんの腹膜への転移が見つかり、ステージ4と診断された時、自らの命の危機を実感せざるをえなかった。初めて自分の死と、他人の死が重なったのです」  高橋さんの半生は破天荒なものだ。寺の経理はブラックボックスの中にあると指摘。住職を務めていた神宮寺(松本市)の経理や葬儀の明細をすべて公開し、お布施にも領収書を出した。葬儀も葬儀社のホールを使用せず、寺で行った。経費を節減する一方、故人や遺族の意向をくんだ手作りの葬儀を挙げてきた。このため神宮寺の葬儀は、一般の葬儀社が提示する費用よりずっと安く抑えられた。 「死へのプロセスは不安や不快に満ち、痛みやつらさを伴います。ところが、多くのお坊さんたちはそこには目を向けず、死後の儀式のみに関わる“死のセレモニー屋”と化しお布施をいただいています。だから、世間から『坊主丸儲け』と非難され、仏教界への不信感が高まっているのです」 2011年8月、神宮寺で震災と原発事故について語る高橋さん  寺が家業化しているとして世襲批判も展開。高橋さんは2018年5月、神宮寺の住職を退職し、フリーランス宣言。寺を血縁関係のない当時の副住職に託し、妻の実家がある京都に拠点を移した。 「いのち」と向き合い、社会活動にも積極的に関わった。日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)事務局長として、原発事故後の医療支援活動に携わった。子どもの甲状腺がんや白血病の治療などが目的で、信州大学医学部附属病院の医師に協力を呼びかけ、1991年から96年までの間に36回にわたって現地入りした。  高橋さんは、今度はがんと闘いながら日々どんなことを考えているのか。  血便や便秘などの症状が表れ、S状結腸がんが見つかったのは21年3月。京都府内の病院で大腸内視鏡検査を受けて発見されたが、手術はこれまで通い慣れた諏訪中央病院(長野県茅野市)で受けることにした。医師からは「ステージ2のがんで取ってしまえば問題ない」と言われ、安心していたという。実際に腹腔鏡手術を行った後、わずか1週間で退院できた。 ■絶食17日も無効 コロナで孤独感  その後、順調に回復したが、10月半ばにひどい便秘に苦しめられた。病院で処方された下剤も効かない。便が出ない代わりに、腸液だけが排泄される状態だった。 「CT検査を受けると、S状結腸がんを取って吻合した部分の下から13センチほどの腫脹(腫れ)が腸管を塞いでいることがわかりました。わずかな隙間が腸液の通り道になっており、便はそれより上にぎっしりとたまっている状態でした。病名は虚血性腸炎で、持病の糖尿病で虚血を起こし、腫脹を生んだと考えられるそうです。多くは一過性なので、絶食で腸を休ませることになりました」  だが、17日間の絶食を経ても、腫れは改善しなかった。67キロあった体重も、53キロまで減った。 「寝ている間も腸液は失禁状態でした。点滴のスタンドをガラガラと引きずりながら、オムツにパッド、ティッシュペーパーを抱えて1日に30回以上トイレに行く始末でした。病室のベッドや床を汚すのは本当に情けなかった。そんな状態が続いて気が滅入りました。新型コロナの影響で面会はできず、妻が来ても着替えを置いていくだけ。松本から息子や孫が8時間かけて見舞いに来ても結局会えず、駐車場から電話をかけてきて『じいじ、頑張って』と。孤独感に苛まれました」  一方で、内視鏡検査で肛門から2センチ上の直腸に初期がんが見つかった。2度目の手術も諏訪中央病院で受けることに決め、転院することになった。12月に実施した手術で、直腸とその上部にある虚血性腸炎による腫脹部分を切除。肛門を閉鎖して人工肛門(ストーマ)を造設した。  手術前に発症した急性胆嚢炎の影響で、術後も40度近い熱が続いた。合併症として感染が起こる可能性があることを理由に、手術後の痛み止めに使われる麻酔が中止された。高橋さんは全身の激しい痛みに何日も苦しんだ。毎晩、眠ろうとしても眠れず、天井を眺めているだけだった。トイレに行こうともがきながら起き上がると、窓際に白いベッドがぼんやりと浮かび上がった。 「どこかで見たことがあると思ったら、スイスの自殺ほう助組織『エグジット』の施設内で見た、死に逝く部屋のベッドでした。14年、僕は仲間とともに自殺ほう助が合法化されているスイスや、安楽死が認められているオランダを訪れました。自分が不治の病気に侵され、苦痛の限界に達した時にどうするのか。安楽死の選択はあり得るのか。そんなことを考える旅でした。幻覚を見たのは身体的な苦痛に加え、恐怖や不安感から精神的に参ってしまったからです。自死が頭をよぎりました」  翌日、精神科の医師の診察を受けると「反応性うつ病」と診断されたという。術後4日目の未明にはこんなアクシデントに見舞われた。深夜2時ごろ、睡眠剤を服用して眠りについたが、明け方になって下半身に冷たさを感じて目が覚めた。 「触ってみると、ものすごい量の便でした。2カ月近くまともな排便がなかったため、便の圧力がストーマの袋を破って一気に流れ出たのです。夜勤の看護師さんたちが『あ、出たわね』と言いながら手際よくきれいに処理してくれました。この時、僕は30年前に死んだ父のことを思い出しました。父は亡くなる10日ほど前に便秘が続いたため、浣腸してもらい便が山のように出たのです。処理をしてくれている看護師さんに『ごめんね。臭いだろう。これがホントの糞坊主って言うんだよ』と笑った。僕にも同じことが起きたんです」  22年元日に退院し、京都の自宅に戻った。2月以降、徐々に日常生活を取り戻していくと旺盛な活動意欲が蘇った。8月には、かつてHIV感染者の就労支援などに携わったタイ・チェンマイ郊外のファリン村を訪問。人口6千人ほどの小さな村だが、高齢化が問題になっていた。 「ファリン村で日本の訪問介護やデイサービスのような事業ができないかと考え、現地のパートナーであるファリン寺の住職と介護戦略について話し合いました」 「いのち」をテーマに筑紫哲也さん(右)と対談した高橋さん(高橋さんの公式サイトから) ■死へのプロセス 快く過ごすには  10月から半年間くらいチェンマイに滞在する計画を立て、住む家も決めていったん帰国した。だが、9月の定期検診で腫瘍マーカーが上昇していたため、高性能診断装置PET‐CTを受けた。その結果、がんが腹膜に転移し、あちこちに散らばる「腹膜播種」の状態だった。 「ステージ4ですが、担当医の先生は『根治を目指す』と言ってくださり、僕もその意欲を持たなければと思いました。いまこそ、僕がかつて末期がん患者さんたちと向き合う中で行ってきたこと、語ってきたことが正しかったのかどうか、身をもって判定できます」  もう一つ、高橋さんが闘病生活でテーマにしていることがある。 「死までのプロセスを、いかに快く過ごしていくか、ということ。この実践がいままでの人生総決算のネタになると考えています。尊厳を保持した死を求めるなら、不快を快に転換する方法を考える必要があります」  10月に行った手術では4カ所の転移巣を切除し、11月末から全身治療として抗がん剤を投与することになった。諏訪中央病院への通院が必要になるため、京都から松本に戻ることを決意。手術前に物件を決め、退院後、抗がん剤治療が始まるまでに引っ越すという強行スケジュールを敢行した。 「メチャクチャ大変でしたが、これも快さの追求の一つです。68年間住んだ故郷に戻り、子どもや孫たちも近くに住んでいる。家からは北アルプスの常念岳も見えます。これらは何よりも快く強力な抗がん剤です。死へのプロセスにある不快を少しでも快に転換することは、QOL(生活の質)の獲得につながる。その結果、豊かで穏やかな死への着地がかなうかもしれない。そんな『快い死への道のり』を探す実践を、自分自身のがん治療の中で試してみたい」  生命を賭した挑戦は、これからも続く。(本誌・亀井洋志)※週刊朝日  2023年5月19日号
「運賃下げられたら休憩する」…タクシー運賃にダイナミックプライシング導入もドライバーや事業者の本音とは?
「運賃下げられたら休憩する」…タクシー運賃にダイナミックプライシング導入もドライバーや事業者の本音とは? ダイナミックプライシングは、タクシー業界で浸透するのだろうか  時間帯や天候など需要に応じてタクシーの運賃を上げたり下げたりする制度「ダイナミックプライシング」が、今月から国土交通省によって導入された。  この仕組みは申請があったタクシー事業者が対象で、通常の運賃と比べて5割引きから5割増しの範囲で価格を変動させることができる。料金が適切な水準かどうかについて、国土交通省に3カ月ごとに報告することが求められるという。また、この制度は配車アプリを利用した時のみ適用され、目的地までの確定料金が表示される。  配車アプリでタクシーを利用することが多い都内在住の自営業の男性(46)はこの取り組みを歓迎する。 「タクシー料金は以前からもっと柔軟に設定すればいいのにと感じていました。例えば、雨の日や電車がない深夜だったら、多少割高でもタクシーに乗りたい。料金を一律にする必要はないんじゃないですかね」  タクシー事業者の反応はどうだろうか。全国のタクシー会社に問い合わせたほか、ドライバーにも話を聞いたところ、効果を疑問視する声は少なくない。  千葉県内のタクシー会社は「ダイナミックプライシングを導入する予定はありません。そもそも変動する運賃が適切な水準なのか判断が難しい。利用客が負担を感じたら申し訳ないですし、収益が下がるようだと会社の経営は死活問題になる。もう少し具体的な収益プランを示してほしいです」と話す。  福岡県のタクシー事業者は「ウチは導入しません。まだ世間に浸透していないのが大きな理由です。お客さんは配車アプリで料金が確定してから利用しますが、深夜に酔っ払って乗ってきて『料金が高い』とクレームをつけてくるトラブルがないとも言い切れない」と懸念する。  横浜市でタクシードライバーとして30年働く男性(55)も否定的だ。 「コロナ禍でタクシーの需要が下がって売り上げが落ち、人員削減で運転手が不足している。日中のお客さんが少ない時間帯に乗車運賃が下げられたら、申し訳ないけどドライバーは収益が少ないから一斉に休憩するよ。こっちも生活がかかっているからね。この制度は近場で乗り降りするお客さんより、遠距離でお金を落としてくれるお客さんのメリットが大きいと思う。個人的にはドライバー、近距離移動のお客さんには優しくないと感じてしまう」 繁華街で列をなすタクシー  ダイナミックプライシングは、旅館・ホテルの宿泊代、飛行機の運賃、レジャー施設、スポーツ観戦のチケット代などでも導入されている。利用客が集中する休日は宿泊代、飛行機運賃が高くなる一方で、平日は料金が安くなる。東京ディズニーリゾート、ユニバーサルジャパンも時期や曜日によってチケット価格が変動し、プロ野球の各球団、Jリーグのクラブチームが需要に応じて座席価格を変動制にしている。  日本発の価格専門のコンサルティング会社である、 プライシングスタジオ株式会社のプライスコンサルタント・辻佑介氏が解説する。 「ダイナミックプライシングは米国でいち早く導入され、ボーリングの利用料金やスーパーの品物の値段にも取り入れられています。日本でも5年ほど前から旅行、テーマパーク、 スポーツイベント業界を中心に導入されるようになりました。スポーツチケットが分かりやすいですよね。注目度の高い試合で料金が高くても買いたいと思うファンがいる一方で、平日の安い料金の日に観戦したいファンもいます。利用客の多様なニーズに応え、一律の価格で行っていた場合の売上の機会損失を防ぐだけではなく、少し高い値段を支払ってでも観戦席を確実に確保したい、といったような顧客のニーズに応えることで、顧客理解を得られやすいという可能性も秘めています」  サービスを提供する企業、利用客の双方がウィンウィンになる制度に見えるが、運用はことのほか難しい。ダイナミックプライシングを導入しているプロ野球チームがチケット価格を変動価格で設定したところ、「料金が高すぎてびっくりした。観戦に行きたくても無理」、「ファンを大事にしているとは思えない」など、ネット上で炎上することもあった。  辻氏は、変動価格の料金設定について警鐘を鳴らす。 「料金の上限・下限をいくらにするのか、といったような料金設定をすべてAI任せにすると、利用客の感覚などを加味して料金に対するコントロールが効かせられないため、極端に高すぎる・安すぎると感じさせる料金になる可能性があります。極端な料金によって利用客に不信感を抱かせてしまった場合、商品は買ってもらえないと想定されますし、最悪の場合には企業に対する信頼を失う恐れもあります。企業側はダイナミックプライシングによって、売上目標の達成を目指すことはもちろん、利用客にどのように感じさせる価格を実現したいのか、といったように、自社・顧客など様々な視点に立ってダイナミックプライシングを実現する目的を定めることが非常に重要です。この部分は企業によって事情が変わってきます。『自社内だけだと、どうしても社内の目線が強くなってしまう』というお悩みを最近よくお聞きするのですが、そのような場合には、社外の目線を取り入れるという意味でも、専門家と協力して変動価格の料金設定をすることを検討しても良いと思います」  タクシー業界のダイナミックプライシングについてはどうか。 「状況次第では、高い料金を払ってでも乗りたいお客さまはいらっしゃると思います。例えば、深夜や雨の日でタクシーがなかなか乗れない場合に、料金が多少高くなっても確実に乗れるならば気にされないようなケースです。一方で、平日の午前などに料金が安い時間帯が設定されるとすると、通勤時などに手軽に乗るお客さまが増える可能性もあると思います。ただし、変動価格の料金設定にあたり、『雨の日のタクシーにいくらまで払えるのか』といったような顧客の目線を加味しなければ、提示した料金が極端に高いと感じられて、そもそものタクシー利用率が下がる恐れもあります」と評価した上で、こう続ける。 「タクシーの利用率が下がった場合に、ダメージを受けるのはタクシー事業者とドライバーの皆さまです。地域によって初乗り料金は違うし、利用客の傾向も異なると思います。現場のドライバーの声、タクシー事業者の考え、顧客のニーズなど様々な要素に優先順位をつけて複合的な視点で目的を定めて運用することが重要です。ダイナミックプライシングを導入したからといってプラスアルファが生まれるとは限りません。問題は定めた目的に沿ってどのように 運用するかです」  ダイナミックプライシングは、タクシー業界に浸透するのだろうか――。 (今川秀悟)
石山アンジュ×荒川和久 異次元の少子化対策でも人口は激減 安心・安定のための生き方とは
石山アンジュ×荒川和久 異次元の少子化対策でも人口は激減 安心・安定のための生き方とは 社会活動家の石山アンジュ氏(左)と独身研究家の荒川和久氏  少子化対策をどんなに頑張っても、日本の人口減少を止めることはできない。これまでの価値観や制度が通じなくなっていく中で、私たちはいかにして安定、安心を得ることができるのか。社会活動家の石山アンジュ氏と、独身研究家の荒川和久氏が新しい生き方や社会のあり方について意見を交わした。【後編】 記事前編「石山アンジュ×荒川和久 伝統的な家族観ではもう限界 非婚・子なしでも子育てにかかわる家族とは?」から続く *  *  * 荒川 出生率を増やすという議論は、1億2千万人という今の日本の人口規模にとらわれている感じがあります。いまの人口を維持するためには、1人の女性が最低5人産む必要がありますが、不可能でしょう。  国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2100年には日本の人口は6000万人程度になります。出生率を増やす議論とともに、人口が減少した新しい状況にどう適応するかも考えていかないといけません。 石山 少子化対策で人口が増えようが、減ろうが、何が人生に豊かさをもたらすのか、ということを考えないといけないと思っています。それは単純に経済の成長率であったり、人口数ではないですね。 荒川 幸せに生きる、という意味では、人とのつながりをいかに確保するか、がいま問われていると思います。  地域コミュニティや職場コミュニティが失われて、孤立して生きるような状況が多くなっています。 石山 会社とか町内会といったコミュニティが、なし崩し的に溶けて、人と接点を持つ機会が、狭まってしまったと思います。  コミュニケーション能力が高かったり、SNSでつながれる人は接点を持ち続けられますが、そうではない人も少なくありません。 荒川 体育会系の人たちの間では昭和的なコミュニティが残っていたりしますけどね(笑)  ただ、コミュ力がないと社会で生きずらくなるというのは何とかしないといけないと思います。 荒川和久(あらかわ・かずひさ) 独身研究家、コラムニスト。大手広告会社において、企業のマーケティング戦略立案やクリエーティブ実務を担当。その後、「ソロ経済・文化研究所」を立ち上げ独立。ソロ社会論および非婚化する独身生活者研究の第一人者として活躍。新刊に『「居場所がない」人たち』『知らないとヤバい ソロ社会マーケティングの本質』 石山 独居老人が増えて、孤独死や鬱も社会問題になっていると感じますね。 荒川 いまの高齢者の方々は、仕事人間だった人が多いんです。  会社勤めで友だちがたくさんいると思っていたが、退職後に本当の友達がいなかったと気づくことも多いです。そうすると、話す人が妻だけになって、依存するようになるんです。「妻唯一依存症」ですね。妻の買い物にもついていくようになるんです。 石川 趣味とかがあればいいんですけどね。それがないから、妻に依存してしまうのでしょうか。 荒川 そうですね。だから、私は職場という「所属するコミュニティ」があるうちに、「接続するコミュニティ」もできるだけつくっておきましょう、と勧めています。  例えば、趣味のメンバーと接続したりすることです。ネット探してトークイベントに参加したり、自治体の読者会にいくというのでもいいと思います。  私は所属するコミュニティを「居場所」、接続するコミュニティを「出場所」と呼んでいます。出ていくことで「出場所」はつくることができます。  趣味とかがない人には、仕事を続けることを勧めています。少なくとも、仕事を通じて、人との接続はしやすくなりますから。 石山 シェアリングエコノミーも解決策の一つになると思います。消費という行動で、人とつながることができるからです。  コミュ力がなくても経済活動でつながることができる。人とつながることのハードルはかなり下がると思っています。 荒川 若い人たちが、多様な体験を喪失していることも気になっています。  いま出産や子育ては特権的な行為になってきています。例えば、東京23区で出生率が高いベスト3は、中央区、港区、千代田区で、平均所得が高い区です。  他方で、かつて出生率のベスト3の常連だった江戸川区、足立区、葛飾区は、15年をピークに急減少しています。これらの区は平均所得も低く、家賃相場や住宅購入の相場も安い地域です。 石山アンジュ(いしやま・あんじゅ) 社会活動家、Public Meets Innovation(PMI)代表理事、シェアリングエコノミー協会代表理事、デジタル庁シェアリングエコノミー伝道師。テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」や複数の報道番組などでコメンテーター、新しい家族の形「拡張家族」を広げるなど幅広く活動。PMIでまとめたミレニアル世代による提言書『昭和平成の家族モデルを超えた、多様な幸せを支える社会のかたち』(https://pmi.or.jp/thinktank/millennial_paper/family/white_paper.pdf )。著書に『シェアライフ―新しい社会の新しい生き方』 荒川 平均所得と出生率の関係を見ると、正の相関がある。つまり、所得の高い人たちは子どもを持つことができて、所得の低い人たちは子どもを持ちにくいということです。 石山 どういう影響があるのでしょうか。 荒川 所得の高い家庭の子どもたちは、同じような人たちが集まるコミュニティで成長することになります。  山手線内の内側に住んで、私立の幼稚園に通い、そのままエスカレーターで名門の大学を卒業し、大企業に就職し、高年収を稼ぐ。周りも同じような境遇の人たちで占められる。いわば世襲型の同類縁のようなものです。  驚いたのが、先日、とある新入社員の方と話したんですが、販売や飲食などのアルバイトをしたことがない、というんですよ。家庭教師を1回やったくらいだと。  接している世界が狭い。いろんな人たちと出会う体験を失っているんです。 石山 それは子どもの多様性を育むうえで、良くないですね。同級生とか、近所の人、たまたま知り合った人、色んな人から実体験を通じて学んでいくのが理想ですが、そういった機会を失っているんですね。  同じような危惧を抱いたことがあって、10歳下の子と話したとき、親がマンション暮らしの核家族で育ったことで、地域とつながるという感覚がないんですよ。周りに住んでいる人たちとつながる経験がまったくないんです。 荒川 アンジュさんのシェアハウス(※)に来る若者はどんな動機があるのでしょうか。※シェアハウス「Cift(シフト)」のこと。血縁や制度によらない「新しい家族のかたち」をつくっている。記事前編より 石山 お金の価値観について変わってきていて、このグローバル時代に、日本で1千万円稼いでも、為替とかインフレの影響とかで、価値が目減りしてしまう。自分の力ではどうにもできない。お金が一番の価値ではないと思う人も多くなっていると思います。  生きていく中で、人とのつながりが大切と思う人も増えてきて、そこでシフトなどに注目する人が増えているのだと思います。人に何かを頼むということは、自分でコントロールできますから。 荒川 これまでの価値観では生きていけないことを感じ取っている若者もいるわけですね。 石山 若い人たちにとって、安心、安全のステータスが変わってきているなと感じています。特に、コロナ以降、リスクと共存する社会というのが前提になっていると思います。  今は大企業でも倒産する、何が起こるかわからない時代。そういう時代だからこそ、複数の選択肢を持っているということが、安心や安定につながります。  例えば、この仕事がなくなっても、じゃあこっちの仕事とか。子どもを預かってもらいたいときに、親や施設だけではなくて、相談できる人やグループがあると安心ですよね。  人とつながることで、自分のアイデンティティも見えて、安心もする。そういうライフスタイルを選んでいるように思えます。 荒川 社会が変わっていくことは確実ですし、どこかで大きな変化があるという前提で、選択肢を複数持っておく必要がありますね。  自分の生き方を一本道のように考えていると、そこから外れたときに悲劇を見る。結婚しなければいけない、子どもをもたなければいけない、金持ちにならなければいけない、ということはありません。 石山 日本は宗教的な意識が薄れてきた結果、「私は良い人間であるか」と自分の良心に問う機会を弱めてしまったと思います。  その結果、お金が大きな尺度になって、すでにある仕組みや制度に頼るようになってしまったところがあると思っています。  そういうものが必要ないと言いませんが、それが本当に自分の人生を豊かにするのか、自己の良心に問うというのがもっと大事だと思うんです。  実は、私がシフトで実践しようとしているのは、そういった意識の修行です。誰かと意見がぶつかったとき、自分が何か悪くなかったか。すぐに別れるのではなく、どうしたらこの人とずっと一緒にいられるか。わかりあえない人同士が、家族というフィルターを通して、どこまで向きあえるか修行しています。 石山 例えば、シェアハウスのメンバーで誰か交通事故にあったとき、どこまで治療費を出せるか。1千万? もっと? 強要はしませんが、そういうところまで話しあえる関係が必要だと思います。 荒川 シフトのようなコミュニティって、昔は日本にもあったんだと思います。江戸時代の長屋に似ているかなと。有象無象の人が一緒に暮らしている。一緒に洗濯をしたり、食事を作ったり。自分ができることを交換し合う関係ですね。  シェアリングが根付く民俗的な土壌は日本にあるのだと思います。 石山 そうですね。お隣さんに「おしょうゆ貸して」というコミュニティは少し前までありましたし、今はシェアリングエコノミーがそうした関係を可能にしてくれています。 荒川 必要に応じて集まったり、助け合ったりする「接続するコミュニティ」というのも大事だと思っています。  刹那的にでも人とつながって、自分の気持ちや考えを伝えあう。そして、新しい自分を発見する。そういうことの積み重ねで、人生の満足度は変わってくると思います。 (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
歩行がままならない住民、認知症になる人も…老朽化マンションが抱える「もうひとつの不安」
歩行がままならない住民、認知症になる人も…老朽化マンションが抱える「もうひとつの不安」 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  建ててから長い年月が経過したマンションは、設備の老朽化に加え、そこで暮らす住民も高齢化していく。歩行がままならずに災害時の避難が難しくなったり、判断能力が衰えて管理組合の理事を引き受けられなくなったりする人が増えることになる。建物が古くなって修繕費がかさむようになっても、年金生活では修繕積立金の値上げに耐えられない人も出てくる。マンションはこれから、建物と住民の二つの高齢化に向き合うことになる。(朝日新書『朽ちるマンション 老いる住民』から一部抜粋) *  *  * ■「あの人、認知症?」募る不安 「あと5年もしたら、どうなっちゃうんだろう」  東京23区内にある分譲マンション。1人で暮らしてきた70代女性は、ときおり不安に襲われる。  女性が住む高層マンションは、1970年代後半に完成した。大手ディベロッパーによる大型開発が相次ぎ、首都圏などで盛んにマンションが建てられた時期だ。  それから40年余り。新築当時に入居した人たちは、軒並み70~80代になった。 「あの人、認知症なのかな」  住民を見て、そう思うことは珍しくない。 「部屋に帰りましょうか」  エレベーターの前でぽつんとたたずむ高齢者に声をかけ、部屋まで連れていった。 「部屋に誰かがいる」 「お風呂で音がする」  しかし、そう訴えられても、それ以上はどうしてあげればいいのかわからない。  隣の部屋にも、認知症と思われる人が暮らしている。近くに暮らす家族が、本人が1人で出歩かないように鍵でもかけているのか、姿を見かけることはあまりない。  火事のときなどに逃げられるのか、心配になる。  自らも数年前にがんを患った。幸い今は元気だが、再発の不安は消えない。 ■倒れたとき、見つけてくれる人は?  介護サービスも使っておらず、ふだん訪ねてくる人はほとんどない。急に倒れたとき、誰か見つけてくれるのだろうか。  女性が懸念しているのは、自らや住民たちの健康状態だけではない。  マンションは最寄り駅から徒歩5分。繁華街にも近く、立地はいい。  しかし、ハザードマップでは、河川の氾濫などで浸水が想定される地域にある。電気設備は1階にあり、浸水すればエレベーターも使えなくなるはずだ。  年に1度は防災訓練をしているし、車いすを利用しているなど、階段を使えない人のリストも管理組合が作っている。  しかし、人の助けがあれば歩くことができるのか、あるいは寝たきりなのかなど、詳細までは把握していない。  住民同士は没交渉に近い。顔をあわせたらあいさつするように心がけてはいるが、相手がどこの誰なのか、ほとんどわからない。 「そもそもこれだけ高齢者ばかりになって、いざというときに誰が助けられるのだろう、とも。防災が必要だといっても、何から手をつければいいんでしょう」  女性が住んでいるフロアでは、約15戸のうち半数は、高齢などの理由で輪番の管理組合役員を引き受けるのも難しくなった。 「住民の高齢化に対して、どうすればいいのか。手が回らないうちに、あっという間に高齢化が進んでいく印象です」  国土交通省のマンション総合調査(2018年度)によると、マンションに住む世帯主は60代以上がほぼ半数を占める。80年代までに完成したマンションに限れば、60代以上は4分の3以上にものぼる。 ■建物も高齢化、浮上する積立金値上げ  住民が年を重ねるのと同様に、建物そのものも年を重ねていく。  女性は、高齢者施設に入らなければいけなくなるまで、老後もできればずっとここで暮らしたいと思っていたという。  少なくとも築30年のころまでは、それで問題ないと考えていた。管理費なども高くはなかった。  しかし、少し前に急きょ共用部の修繕工事をするなど、不具合も目立ってきた。これから、水道管などでもトラブルが増えそうだ。 「人間が年をとると具合が悪くなるように、マンションもそうなんですね」  女性のマンションでは、今後の大規模修繕に向け、修繕積立金と管理費をあわせて月数千円値上げするという話が浮上している。  女性の収入は、忙しい時期にはほぼ毎日働く仕事と、公的年金をあわせて月10万円ほど。値上げは痛いし、いつまで働き続けられるかもわからない。かといって、今さら引っ越すわけにもいかない。  資材の高騰や人手不足で、さらに修繕費が上昇する心配もある。けれど年金暮らしの人が多いマンションでは、修繕積立金の値上げにも、おのずと限界がある。 「どこかで修繕をあきらめて、『マンションが朽ち果てても住み続けるよ』と言うしかなくなるんじゃないかな」  2020年末時点で、マンションのストック戸数は全国に675.3万戸ある。  かつての「住宅双六」では、賃貸マンションから分譲へ、そして一戸建てに住み替えれば「上がり」とされた。  1980年度には、マンション区分所有者のうち6割近かった「住み替え」を考えている人は、近年は2割にも満たない。一方、この女性のように「ついのすみか」として永住を考える人は、6割を超えるまでに増えた。  しかし、国交省の推計では、2020年で103.3万戸ある築40年超の「高経年マンション」は、20年後には404.6万戸へと急増する。  マンション総合調査によると、将来の大規模修繕に向けた修繕積立金が計画よりも不足しているマンションは、18年度時点で34.8%ある。 【朝日新聞デジタル連載 「高齢化するマンション」】
セクハラNG会話例「荷物は男性社員が運んでね」はアウト! 専門家が解説
セクハラNG会話例「荷物は男性社員が運んでね」はアウト! 専門家が解説 セクシャル・ハラスメントは、女性に女らしい行動や態度を強要することと認識している人は多い。実際はそれだけではなく、男性だからという理由で業務を指示することもセクハラに相当する。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う会食自粛が緩和され、アルコールを伴う接待も復活してくるだろう。セクハラはもちろん、アルコール・ハラスメントをしないためには、正しい知識をおさらいしておきたい。ハラスメント対策専門家・山藤祐子さん監修の『トラブル回避のために知っておきたいハラスメント言いかえ事典』(朝日新聞出版)から、セクハラやアルハラにあたらない指示・命令の言葉を紹介する。 *  *  * ■「男性のほうが女性よりも力があるんだから、荷物は男性社員が運んでね」と指示するのは絶対NG 「男性(女性)だから~」と性別で仕事を振り分けることは、性別による差別と「男女雇用機会均等法」の差別的取り扱いに該当する可能性があります。 こうした「男らしい・女らしい」行動や態度を強要したり、それにそぐわないことを非難したりすることを一般的にジェンダーハラスメントと呼びます。 OK例は「持てる人は一緒に運んでもらえますか?」です。男性、女性に関係なく、その人のもつ能力で仕事を振り分けたいもの。「できる人ができることをやる」のが、理想的な仕事の姿ではないでしょうか。 ■「お茶いれは女性の方が上手だから、〇〇さんお茶いれて!」と指示するのは絶対NG 「お茶は女性がいれるもの」という決めつけは、今や通用しません。性別で役割を振り分けることは「男女雇用機会均等法」が禁ずる、性別を理由とする差別的取り扱いになります。 例えば、同じ契約で雇う女性にはお茶いれをさせ、男性にはやらせないとなれば違法となるわけです。 OK例は「人気のお菓子を買ってきたよ! みんな、ひと息いれよう。お茶はセルフでね」です。理想は各自が好きなタイミングでお茶を楽しめばいいのではないでしょうか。 ■「たまには一杯付き合えよ。これも仕事のうちだよ」と命令するのは絶対NG 社内の飲み会は業務外。「これも仕事もうちだよ」」「おれの酒が飲めないのか」は、業務の範囲を超えた指示・命令にあたり、パワハラに相当します。 パワハラの中でもお酒が絡む事例は、俗にアルコールハラスメントなどと呼ばれ、マスコミでも取り上げられています。 「先輩の酒の誘いは断わらないもの」も要注意ワードです。  OK例は「和食のおいしい店があるんだ。お酒は無理しなくていいから、よければ付き合ってくれない?」です。お酒が飲めない人を食事に誘うときは、最初からお酒をすすめないことを伝えるのがベター。これなら相手も心やすく応じてくれそうです。 ■「〇〇社長のご機嫌をとるのは女性の役目だよ。隣に行ってお注ぎして」と命令するのは絶対NG スタッフをホステス代わりにして接待先の機嫌をとることは、業務上の必要性も相当性もないためパワハラとなります。 さらに、女性スタッフを接待先の社長の隣に行かせる指示は、意に反する性的な言動ともいえるので、セクハラといわれても仕方がないでしょう。 セクハラとは「相手が不快に感じる性的な言動により、相手に不利益を与えたり、働きづらくさせたりすること」です。セクハラは「男女雇用機会均等法」によって企業に防止措置をとることが義務づけられています。 OK例は「(管理職自ら)社長、私から注がせてください」です。そもそも接待とは、接待する側が一体となってもてなすもの。女性や若い人の前に管理職が率先して見本を見せるべきです。 ■「接待のときは、女性はスカートをはくものだよ。そんなの常識だろ」と命令するのは絶対NG 「女性はスカートをはくもの」という表現は、かつての男性社会にあった固定観念といえます。一発でパワハラというわけではありませんが、このような発言を繰り返していれば問題行為になるでしょう。 今ではパワハラやセクシュアルハラスメントに対する意識が高まっているので、こうした事例はすぐに社内の相談窓口などへ通報される可能性があります。 上司としてはつねに自分の言動が偏っていないか、振り返ることが必要です。 OK例は「TPO をわきまえた失礼のない、清潔感のある服装がいいね」です。性別を意識するものではなく、誰からも好印象を得られる身だしなみを助言するほうがいいでしょう。接待の場はあくまでも業務の一環。職場にふさわしい服装が求められます。 (構成 生活・文化編集部 岡本 咲)
「日本の遅れ」と「同調圧力」をスタンフォード現役教授が分析!日本の未来を切り拓くキーワード「バナキュラーライゼイション」とは
「日本の遅れ」と「同調圧力」をスタンフォード現役教授が分析!日本の未来を切り拓くキーワード「バナキュラーライゼイション」とは 中内啓光教授(左)と筒井清輝教授  世界に名門大学は数あれど、スタンフォードのブランドは際立っている。なぜ、スタンフォードは常にイノベーションを生み出すことができ、それが起業や社会変革につながっているのか。スタンフォード大学で学び、現在さまざまな最前線で活躍する21人が未来を語った新刊『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』より、スタンフォードで現役教授として活躍する中内啓光、筒井清輝両氏の対談の一部を抜粋で紹介する。 ※「日本とアメリカ『教育・研究・起業・リーダー育成』分野での驚くべき格差をスタンフォード現役教授が徹底分析」よりつづく *  *  *■バナキュラーライゼイションという発想 筒井:前回の記事で人材の循環性や流動性の話をしましたが、日本は敷かれたレールの上を歩いていくのがベストだと多くの人が考えている社会、アメリカは自分で新しいレールを敷いていくことに価値を見出す社会という違いがあります。その違いがスタートアップに人材が集まるかどうかに顕著に表れていると思います。  本書『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』に登場するスタンフォード大学出身の日本人には、いくつかの共通点があります。一つは自ら新しいレールを敷いてきたこと。全員、これまで述べてきたような日本的な考え方や教育のあり方にとらわれず、挑戦を大事にしてきた人たちです。つまり、コンフォートゾーン、自分の慣れ親しんだ世界、敷かれたレールの上から飛び出して新しいことにチャレンジして、今の地位を獲得しています。  もう一つは、価値観の多様性に加え、論理性を大事にしていること。スタンフォードには世界中から優秀な人たちが集まっています。それぞれの価値観は実に多様です。しかし、優秀な人たちなので論理的に話せばだいたいわかり合えます。それが同じ学生や同僚と長く続く関係を作るうえで大事になってきます。つまり本書に登場する人たちは、みんなスタンフォードで多様な価値観を受け止め、論理的に説明して相手を説得する技術を磨いたわけです。  強い積極性で新しい出会いを作るというのも共通点です。スタンフォード及びシリコンバレーのエコシステムのなかには、有名な研究者や有名な起業家がたくさんいます。そういう人たちにどんどん話を聞きに行って、アドバイスをもらうことが可能だし、とても大事なことです。本書に登場する人たちは遠慮しないで、全員が積極的にドアを叩いています。  全員から前へ前へ進む精神がすごく感じられます。この制度は変わらないだろうと思われているものを変えようとしたり、科学的には難しいだろうということを研究したり、とにかく常識を破ることに挑戦しています。それも大きなスケールで、世界を相手にして考えていたりする。いろいろな意味でスタンフォード出身者らしい発想、行動だと思います。 中内:なかには、スタンフォードで学んだことを日本で実践しようと思ったけれども、組織の壁に阻まれて起業できなかったという苦労人もいます。その点に関連して、筒井先生にぜひお聞きしたい。日本の社会はまだ「追いつけ」という発想が強くて、アメリカやヨーロッパの制度を日本に取り入れれば、社会が良くなると考えているケースが多く、特に行政官にはそういう人が多いと感じます。  しかし、失敗例がたくさんあるわけです。中途半端に欧米のシステムを理解して、それをそのまま日本の社会に持ち込もうとするからうまくいかない。先ほどのJIC(経産省が主導し2018年にできた官民ファンド「産業革新投資機構」)の話もそうでしょうし、たとえば、NIH(アメリカ国立衛生研究所)をまねしたと言われるAMED(国立研究開発法人 日本医療研究開発機構)など、見かけをまねしているだけで、中身はあまり有効なシステムになっているとは思えません。  欧米に限らず、他国の進んでいる制度、システムを日本に持ち込む際には、やはり社会的あるいは文化的な違いをよく理解したうえで、専門家がしっかりと吟味、あるいはアレンジして、日本の社会でもちゃんと通用するような形にして制度改革をしなければいけないと思います。こういう当たり前のことが、どうして日本にはできないのでしょうか。 中内啓光(スタンフォード大学医学部教授)/スタンフォード大学医学部 幹細胞生物学・再生医療研究所・教授。東京医科歯科大学高等研究院 卓越研究部門・特別栄誉教授、東京大学名誉教授1978年に横浜市立大学医学部を卒業。在学中にサンケイスカラシップ海外奨学生として1年間ハーバード大学医学部へ留学し、マサチューセッツ総合病院やブリガム病院等で臨床研修を受ける。1983年に東京大学大学院医学系研究科より免疫学で医学博士号を取得後、スタンフォード大学医学部遺伝学教室博士研究員として留学。帰国後、順天堂大学、理化学研究所、筑波大学基礎医学系教授を経て2002年より東京大学医科学研究所教授に就任、2008年より東京大学に新しく設置された幹細胞治療研究センターのセンター長並びに東京大学iPS研究拠点リーダーを務める。2014年からStanford大学教授を兼務。2022年3月で東京大学を定年となり4月より東京医科歯科大学高等研究院に移動し、引き続き日米両方の研究チームを率いて研究活動を行っている。大学院時代より一貫して基礎科学の知識・技術を臨床医学の分野に展開することを目指している。 筒井:日本は近代化後発国として、明治維新以降欧米の進んだ制度を取り入れて、大きな成功を収めてきました。ところがバブル期以降あたりから、日本型の政治経済モデルが成熟してきたなかで、自分たちの成功体験に囚われてか、外のモデルをうまく取り込むことが苦手になってきたのかもしれません。  たとえば、日本の企業は1990年代後半、アメリカをまねて成果主義の賃金体系を導入しようとしました。しかし、年功序列を完全に打ち破ることはできず、賃金体系は今もほとんど変わっていないという状況です。  実は、アメリカは相当特殊な国なのです。だから成果主義に限らず、アメリカでうまくいっている制度だからといって、それをそのまま日本にもっていってもうまくいかないことはたくさんあります。私のような社会科学者の仕事は、そういう制度改革の種を分析して、どういうふうに微調整を加えればうまく日本に根づくのか考えることだと思います。  他国でうまくいった制度を取り込むことの難しさは、なにもアメリカと日本の間に限りません。新制度論と呼ばれる社会学の分野での重要な知見は、外から取り入れたシステムはその国のそれまでの慣習や実際の社会的要請などとの間に齟齬を起こしやすく、「デカップリング」と呼ばれる制度と実践の乖離が起きやすいというものです。  たとえば、人権の仕組みです。第二次大戦後の国際社会では、人権が世界共通の普遍的なものだということで、世界のどこにでも同じ考え方をもっていかなければ駄目だという発想でずっとやってきました。それで多くの政府が国際人権条約を批准したり国内人権機関を作ったりするわけですが、ただ国際的な人権規範をそのまま当てはめようとするだけでは、社会のあり方が違う国・地域では、うまくいかないことが多いわけです。女性の権利や子どもの権利に対する考え方が違う国・地域で、国際基準を押し付けてもうまくいかない。そういうことがようやくわかってきました。  そこで、今よく言われているのは「バナキュラーライゼイション(vernacularlization)」というやり方です。バナキュラーとは「その土地の固有の様式」といった意味。つまり、人権という考え方を地元の言語にうまく落とし込んで、地元の人に受け入れられやすくするというものです。「シュガーコート(砂糖の膜で包んで飲みやすくする)」と言ったりもします。  たとえば、「この国は女性蔑視の酷い国だ、女性の権利を向上しろ」とアメリカ人がいくらうるさく言っても、ジェンダー関係についてアメリカと全く違う理解をもつ国はなかなか受け入れません。現地の女性自身も反発したりします。それをうまく地元の人たちが受け入れやすい言葉にするわけです。  その際は、地元のリーダーに受け入れてもらうことが大事です。地元のリーダーはたいてい年を取った男性です。「あいつが諸悪の根源だ」と既存のリーダーを排除するような発想をもちやすいのですが、発展途上国で成功した例を見ると、そういう人を説得したほうが結構スムーズに人権の改善が進んでいます。  日本の制度改革もそれと似ているところがあると思います。もちろん、「日本は後れているからこれを変えなければ駄目だ」と言って聞いてもらえる分野もあるでしょう。たとえば、経済の分野は「このままでは危ない」という実感をもっている人が多く、聞く耳をもつ人が増えてきていると思います。ただし、そうだからと言って、たとえば「老害で年を取ったトップが良くない」と強く叩き過ぎると、そこから反発が出て、うまくいくものもうまくいかなくなるでしょう。  要するに、制度としてこれはうまくいくだろうというものを適切に選び取って、日本の社会や政治、経済のあり方に根づかせる努力を重層的にしていく必要があるわけです。 ■日本を外から眺めないとわからないことがある 中内:これだけインターネットが発達して、SNSでいろいろな情報の交換ができるようになると、ずっと日本にいても、世界のことを十分理解できると考えがちです。しかし、本当はほとんどわかっていない。私自身、10年前にサバティカルでケンブリッジ大学とスタンフォード大学に半年ずつ滞在して、そのことを痛感しました。 筒井清輝(スタンフォード大学社会学部教授)/2002年スタンフォード大学Ph.D.取得(社会学)、ミシガン大学社会学部教授、同大日本研究センター所長、同大ドニア人権センター所長などを経て、現在、スタンフォード大学社会学部教授、同大ヘンリ・H&トモエ・タカハシ記念講座教授、同大アジア太平洋研究センタージャパンプログラム所長、同大フリーマンスポグリ国際研究所シニアフェロー、同大人権と国際正義センター所長、東京財団政策研究所研究主幹。専攻は、政治社会学、国際比較社会学、国際人権、社会運動論、組織論、経済社会学など。著書に、『人権と国家:理念の力と国際政治の現実』(岩波書店・2022年。第43回石橋湛山賞、第44回サントリー学芸賞受賞)、Rights Make Might: Global Human Rights and Minority Social Movements in Japan (Oxford University Press 2018:アメリカ社会学会三部門で最優秀著作賞受賞)、Corporate Social Responsibility in a Globalizing World (Cambridge University Press 2015、共編著)、The Courteous Power: Japan and Southeast Asia in the Indo-Pacific Era (University of Michigan Press, 2021、共編著)。  それまで毎年、何度も海外に出て、いろいろな国・地域を訪れていたので、世界の大学のことをよくわかっているつもりでした。ところが、実際に英米の大学で研究する、生活するという経験を1年間したことで、はじめて心の底から「日本の後れ」を理解できたのです。  ただ、今の若者たちには「日本はいい国だし、別に海外に出なくてもいいか」という風潮がすごくあると聞きます。  日本のマスコミはどこも同じようなニュースを流しています。しかも、日本の国民が喜ぶようなことしか発表しません。インターネット経由の情報にしても、いろいろなバイアスがかかっています。そういう情報環境では、どんどん井のなかの蛙状態になって、危機感がもてず、「日本はいい国」としか思えないのも、ある意味当然かもしれません。  しかし、先に述べたように、危機感がないと社会は良い方向に変わらないでしょう。だからメディアは日本の良いところだけでなく、悪いところも積極的に発信しないといけない。そして、若者たちは積極的に海外に出て世界の状況を実際に見聞きして、「日本の後れ」をよく理解してほしいと思います。 筒井:日本のメディアの体質は、いわば同調圧力の一種なので簡単には変わらないでしょう。たとえば、成功した人の足を引っ張るような言説がワイドショー的なメディアで受ける傾向は、かつてのホリエモン叩きなどの頃から、ずっと続いています。日本の社会では、相変わらず「出る杭は打たれる」わけです。  アメリカにも、たとえば、イーロン・マスクへの反発はありますが、ホリエモン叩きのように成功者に対するジェラシーがものすごく強いかというと、それほどではないと思います。 「日本の後れ」の理由としては、行政と民間に壁があって風通しが良くなかったことも挙げられるでしょう。専門知識をもっている官僚は、外の話をあまり重視しません。しかし新しい制度を作る時には、現場でやっている民間のステークホルダーたちの意見が大事になってきます。その風通しが悪いと制度改革は良い方向に進みません。  ただ最近は、官庁が民間の識者の意見をしっかり受け止める場面も増えていますし、専門の分野をもっている若手の政治家も増えてきています。それもあって以前よりは風通しが良くなっている傾向はあると思います。ステークホルダーたちと対話を重ねる「アジャイル・ガバナンス」の意識も出てきていると思います。  たとえば、スタートアップ税制の改革では、政府がちゃんと民間と対話しながら制度を直そうとしていることを、官僚の側からも民間の側からも聞きます。危機感をもつ人が増えれば、さらにいい方向に行くことが期待できます。 中内:外国にいると日本のことが非常に心配になります。残念ながら日本のなかにいる人にはそういう危機感がないように見える。そこが実に歯がゆいところです。  私がはじめてスタンフォードに留学したのは30年以上前です。そのころは日本人がたくさんいて、他のアジアの人はあまりいなかった。今はまったく様変わりして、日本人が非常に少なくなって、中国人とインド人が大勢います。中国から来た学生も優秀ですが、特にインド人は、IT産業が大学のまわりにあるので、学内だけでなく学外にもたくさんいて、非常に優秀です。  シリコンバレーには、世界中から優秀な人たちが集まっています。私は以前、日本人は優秀だと思っていましたが、最近は非常に自信をなくしています(笑)。日本人は言われたことをきちんと丁寧にやるという点では、今でも優秀です。しかし、たとえば大学で本当にイノベーティブなトップクラスのサイエンスをやっているかと問われると、まったく影が薄くなってしまいます。文化的な背景もあるとは思うのですが、とても残念なことです。  日本という狭い国から出て、いろいろな国を訪れ、いろいろな人に会い、いろいろな経験をする人がもっと増えてくれたら、日本の社会は少しずつ変わっていくと思います。数日の観光旅行では無理でしょうから、外国の学校でも会社でも何でもいいので、ある程度長い期間日本から出て、日本を外から見て、外国に人脈を作ってほしいと思います。 未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装※Amazonで本の詳細を見る 筒井:私も人材交流が日本の閉鎖性を打ち破る一番のきっかけになると思います。日本からの留学生を増やす、日本への留学生を増やす。留学生だけではなく研究者もそうです。  特に日本では社会の制度、システムは簡単に変わりません。若者たちのマインドセットを変えるのもそんなに簡単ではないでしょう。  しかし、リスクをいとわず、今ある壁をぶち破る気力のある若者は、必ず一定程度出てきます。そういう人たちをどんどん応援してほしい。やる気と才能のある若者が、たとえ失敗したとしても温かく見守ってほしいと思います。  もし、そういう若者たちがなにかで成功したら、日本人みんなが得をするはずです。日本だけでなく世界もそうです。すごい発明で世界が救われるかもしれないし、特許で日本全体が恩恵を受けるかもしれません。とにかく頑張っている人の足を引っ張らない日本社会になってほしい。そう願っています。 中内:サッカーや野球、バスケットボールなど、日本人選手が海外で活躍しています。彼ら彼女らは日本のプレゼンスを上げていると思うし、その存在は妬みの対象ではなく、若者たちにとって格好のロールモデルになっていると感じます。 筒井:科学もスポーツと同じ面があります。ここ15年ほど日本人がノーベル賞をかなり取っています。これは中内先生がおっしゃったように、かつて日本の研究者が大勢海外に出ていたころの成果といえるでしょう。裏を返すと、日本から海外に出て交流する研究者が減ると、重要な研究を発信できる日本人が減ってしまうということです。ビジネスも同じでしょう。やはり海外の舞台で挑戦してみることが大事だと思います。 中内:日本の若者には東京大学や京都大学を目指すのではなく、ぜひスタンフォード大学を目指していただきたい。優秀な人は優秀な環境で教育を受ければ、さらに優秀になります。日本で教育を受けることが本当にいいのかどうか。日本の超一流大学も常に考えないといけない問題でしょう。 筒井:多様な考え方に触れるという意味では、日本とアメリカの大学には大きな差があります。特にスタンフォードには選りすぐりの精鋭たちが集まっています。私たちが勤めている大学なので、どうしたって一番のお勧めになりますね(笑)。
人生100年時代は「筋力」が財産 「指輪っかテスト」で転倒・骨折リスクをチェックしよう
人生100年時代は「筋力」が財産 「指輪っかテスト」で転倒・骨折リスクをチェックしよう シニアの身体づくりは、親子で考え、取り組むことをおすすめします ※写真はイメージです (c)GettyImages  日本人の寿命は延びて、人生100年時代ともいわれるようになりました。誰もが健康な身体で自立した生活を送り、長い人生を自分らしく暮らしていきたいと願っています。健康寿命を延ばし、要介護状態にならずに過ごしていくためには、どんな取り組みをするとよいのでしょうか?  そのカギとなるのが、立ち上がるときや転倒防止に欠かせない「筋力」です。年齢を重ねた親と子が一緒に考え、取り組んでいきたい「シニアの筋トレ」についてお届けしていきます。連載1回目は、近年よく耳にするようになった【フレイル】について紹介します。 *  *  *  日本は、世界でもトップクラスの長寿国です。ですが「平均寿命」と「健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)」には、男性で8.73年、女性で12.06年(2019年厚生労働省データ)のひらきがあることをご存じでしょうか。つまり、長生きができても人生最後の10年前後は、思うように日常生活が送れず、支援や介護が必要になるというのです。  日本の高齢化は急速に進んでおり、現在、総人口のうちの約3割を65歳以上の高齢者が占めています。今後も高齢者の増加が進み、とくに75歳以上の後期高齢者が急増していくため、この平均寿命と健康寿命のひらきは、大きな社会問題となっていきます。厚生労働省は2040年までに健康寿命を3年以上延ばすことを目標に掲げていて、国をあげた国民の健康づくり運動と介護予防事業が推進されているところです。 ■すすんで要介護になりたい人はいない 「できるだけ介護の要らない元気な身体で、長生きしたい」  誰もがそう願っている中で、いま注目されているのが「フレイル」です。これは、「加齢により心身の活力(筋力、認知機能、社会とのつながりなど)が衰えた虚弱な状態」を表す言葉で、英語の「frailty(フレイルティー、虚弱・衰弱)」がその語源となっています。つまり、「健康な状態」から徐々に体が弱って、日常生活でサポートが必要な「要介護状態」になるまでの間が「フレイル」なのです。 東京大学 高齢社会総合研究機構 飯島勝矢先生 フレイル予防ハンドブックから引用  フレイル研究の第一人者である東京大学高齢社会総合研究機構長および同大未来ビジョン研究センター教授の飯島勝矢先生は、次のように話します。 「多くの人が健康な状態から、フレイルの段階を経て、要介護状態に陥ると考えられています。知っておいてほしいことは、フレイルは早く介入して対策をおこなえば、元の健常な状態に戻る可能性があるという点です。誰もが老化の坂道を下っていきますが、ゆっくり下るのか、転げ落ちていってしまうのかは自分次第。フレイルを見過ごさずに、早く気づいて正しく予防や治療をすることが大切です」  フレイルには、三つの要素があります。一つ目が筋量・筋力の低下(サルコペニア)や運動器の機能低下(ロコモティブシンドローム)などの「身体的フレイル」、二つ目がうつ、認知機能低下などの「精神・心理的フレイル」、三つ目が地域や人との交流がなくなる「社会的フレイル」です。これら三つは、それぞれが影響し合っています。  たとえば、年をとると誰もが体力や筋力が低下したり、足腰が痛くなったりして、日常の買い物や外出が面倒だと感じるようになってきます。そして、人と接する機会が減ったり、食生活のバランスが崩れたりすることにより、ますます体が衰え、さらには判断力・認知機能といった頭の働きも低下するという悪循環が起きて、さらにフレイルが進行してしまうのです。東京大学高齢社会総合研究機構がおこなった高齢者に対する大規模調査の結果から、フレイルの進行を予防するためには、これらの三つの側面から総合的に対応する必要があることがわかっています。 ■筋量・筋力の低下はフレイル進行の一番の危険因子  その中でも、筋量・筋力が低下する「サルコペニア」は、フレイルが進行する一番の危険因子だといわれます。筋肉量は20歳をピークとして、年齢とともに減少していき、80歳になると60%程度まで低下することが知られます。実際に、サルコペニアであると考えられる人の割合は、65~70歳で5~13%、80歳を超えると11~50%を占めるとの報告があります。  飯島先生は、「サルコペニア対策はフレイル予防の一丁目一番地」と話し、大規模研究データを元に、高齢者が簡単に筋肉量を自己チェックできる「指輪っかテスト」を開発しました。これは、ふくらはぎの一番太い部分を簡易的に測るものです。両手の親指と人さし指でふくらはぎを囲んだとき、指で作った輪っかよりふくらはぎが細くてすき間ができるようなら、サルコペニアである可能性が高いと判定され、転倒・骨折のリスクが高い状態になっていると考えられます。 「骨折、転倒」は、要介護・要支援の原因の13.0%を占めています(厚生労働省、2019年調査データ)。手の大きさは体格にある程度比例するので、指輪っかテストは特別な機器がなくても、ふくらはぎの筋肉量が体格に比べて維持されているかを自己評価できます。次にやり方を紹介するので、筋肉量が十分かどうか、ご家族で一緒にチェックしてみましょう。 ■指輪っかテストのやり方 1.両手の親指と人さし指で輪を作ります2.次に、「利き足ではないほう」のふくらはぎの一番太い部分を、力を入れずに、1で作った輪っかで軽く囲んでみましょう 東京大学 高齢社会総合研究機構 飯島勝矢先生 フレイル予防ハンドブックから引用  指で作った輪っかでふくらはぎを囲めない状態なら、サルコペニアの危険度は低いと考えられます。輪っかよりふくらはぎが細くてすき間ができている状態だと、危険度が高くなってきていて、転倒や骨折などのリスクが高まっていくことがわかってきています。 「指輪っかテストで隙間ができる人は赤信号です。囲めない人に比べて、要介護新規認定リスクは2.0倍、死亡リスクは3.2倍に高くなることが研究から明らかにされています。簡易チェックは場所を選ばずに実施できるので、ぜひ活用してください」(飯島先生) 東京大学 高齢社会総合研究機構 飯島勝矢先生 フレイル予防ハンドブックから引用  また、フレイル度を判定するための「フレイルチェックテスト」というものもあります。食事や運動、社会参加に関連する22項目の質問から構成されており、すでに全国93の自治体に導入されて実施されています。介護予防に関する知識とその重要性を理解してもらうための啓発活動だけでなく、自身が気づき行動してフレイルを予防するために、専門研修を受けた一般市民からなるフレイルサポーターの運営によるフレイルチェック測定会を実施する自治体が増えています。  正式版のフレイルチェックテストは、一般の人が個人で判定するのが難しいため、フレイルの簡易チェック版として開発された「イレブン・チェック」を、次に紹介します。11項目の質問に答えることでフレイル度をセルフチェックできるので、試してみましょう。 東京大学 高齢社会総合研究機構 飯島勝矢先生 フレイル予防ハンドブックから引用  結果はどうでしたか? このチェックで、日常生活での自分の弱点に気づけたことでしょう。 「フレイルチェックの合計青信号数が多いほど、 要支援・要介護認定者は少なくなります。フレイル予備軍、もしくはフレイルに該当する人も、赤信号を減らし、青信号を増やせるように心がけていくことこそが重要です」(飯島先生)  できるだけ早くフレイルへの変化に気づいて、生活習慣を見直し対策を講じることが、健康寿命を延ばすための第一歩です。今後この連載では、効果的な運動、筋力トレーニング、食事や栄養など、いろいろな方面から赤信号を青信号に変える方法や取り組み例を紹介していきたいと思います。 (取材・文/坂井由美) 【取材した専門家】東京大学高齢社会総合研究機構長および同大未来ビジョン研究センター教授 医学博士 飯島勝矢先生 東京大学高齢社会総合研究機構長および同大未来ビジョン研究センター教授 医学博士 飯島勝矢先生
「進化」の反対は本当に「退化」なの?「教科書が正しい」と思っている人が陥る思考の罠
「進化」の反対は本当に「退化」なの?「教科書が正しい」と思っている人が陥る思考の罠  人は知らず知らずのうちに思考の枠にはまってしまうものだ。「探究型学習」の第一人者である矢萩邦彦さんは、著書『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)の中で、自らの「思考の枠」を知るために「対義語」の例を挙げていいる。それはいったい、どんなものなのか。本から抜粋して紹介したい。 *  *  *  同じ意味の言葉を「同義語」、反対の意味の言葉を「対義語」といいます。ものごとを比べたり、選択したり、その判断を誰かに説得力を持って伝えるためには<軸>が必要です。「寒い」の対義語は「暑い」で、そのふたつの状態をつないだものが軸になります。<軸>のイメージが共有できれば格段に伝わりやすくなります。   一方で「お金か友情か?」みたいな問いは、あまり意味を成しません。同軸上に乗せられるようなものではないからです。「私と仕事、どっちが大事なの?」とか「芸術と地球環境と、どちらを保護すべきか?」のような問いも軸がないうえに抽象度もそろっていないので、ナンセンスです。  お金がないと生活できないけれど、友情はなくてもなんとかなる、といわれてもモヤモヤするのは軸がイメージできず論理的に判断できないからなんです。共有しやすい軸を設定するためには、対義語が有効です。   では、「進化」の対義語は何でしょうか?どの世代に質問しても「退化」という回答が大半です。本当にそうでしょうか。まず、前提から確認していきたいと思います。 「進化」はもともと生物学の用語で、生物が環境に合わせて望ましい状態に変化していくことを指します。たとえば、地殻変動で深海に移り棲んだ生物が、光が届かないために目の機能を維持するとエネルギーのムダが多いので目が「退化」したとします。  でも、それって環境に適応した結果ですから「進化」ですよね。より望ましい状態へ変化したわけです。   つまり「退化」は、「進化」の一種なんです。だとすると、「進化」の本来の対義語はなんでしょうか? 考えられるのは「停滞」や「不変」「不易」などです。環境が変化しているのに、適応しない、変化しない、そういう状態を指す言葉のほうがしっくりきます。   ではなぜ、ぼくたちは瞬発的に「退化」だと思ってしまったのでしょうか? そこには、ぼくたちの自由な思考を邪魔しているあるものが関係しています。  その代表が教科書です。国語の教科書や資料集などで、「進化」の対義語は「退化」だと習っているんですね。しかし、そもそも「進化」というのはダーウィンの『進化論』が日本に紹介された際につくられた生物学の造語です。  それを、なぜか国語という教科のなかで、深く考えずに覚え込んでしまっているのです。国語のテストで「進化」の対義語を「停滞」と解答すればバツになってしまいます。学校の影響力というのは案外大きいもので、この問いを理科を教えている先生にしてみても、「退化」と答える人が多いのです。   では、改めて前提を整理して「進化」の対義語を考えると、「国語においては退化で、生物学においては停滞や不変」ということになります。前提が変われば当然、答えも変わる可能性があるわけです。そういう視点を持っておくことも、さまざまな分野をつなげて学ぶリベラルアーツの基礎だといえます。   もうすこし考えてみましょう。 「平和」の対義語はなんでしょうか? 国語の教科書的には「戦争」です。でも「平和」はもっと広い、社会的なテーマですね。世界平和を目指す最も大きな組織の一つ国際連合は、「戦争」「紛争」はもちろん、「貧困」や「格差」、「差別」や「植民地」をなくすことを目的としています。つまり、それらはすべて「平和」の対義語だといえそうです。  もちろん、もっと身の回りに目を向けて、「いじめ」や「虐待」、「犯罪」や「事故」などもそうですね。戦後、日本国憲法やいまの教科書のもとができたころには、誰もが「戦争」状態でないことこそが「平和」だ、という感覚だったことは想像できますが、時代によっても対義語は変わっていく可能性があります。   文化人類学者レヴィ=ストロースは、「人間は常に二項対立を使って思考する」と言っています。つまり、ぼくたちがものごとを考えるときには、対義語のような対立する概念を軸にしているというんですね。  対義語は、意味の全体が正反対になっているように見えるのですが、じつは意味のほとんどは同じで、ある部分だけが反対になっています。反対の意味ではなく、同じ意味のある部分が反対なんです。だから軸にできる。  たとえば、「太い」「細い」という対義語は、両方とも線の幅や棒状のものの断面積について表す言葉です。「進化」「退化」「停滞」も生物の環境による変化について、「平和」「戦争」「貧困」「差別」も世の中の状態について考えるための軸だといえます。  ここで大事なのは、軸の両端はなだらかにつながっているということです。ものごとにはたいてい<あいだ>があります。戦争でなければ平和だということではありません。どのような前提と条件のときに、どんな軸で考えると、どのような状態か、というふうに分析することで、理解したり、記述したり、誰かに伝えやすくなったりするわけです。 矢萩邦彦(やはぎ・くにひこ)/「知窓学舎」塾長、実践教育ジャーナリスト、多摩大学大学院客員教授。大手予備校などで中学受験の講師として20年勤めた後、2014年「探究×受験」を実践する統合型学習塾「知窓学舎」を創設。実際に中学・高校や大学院で行っている「リベラルアーツ」の授業をベースにした『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』(朝日新聞出版)を3月20日に発売 (構成 教育エディター 江口祐子/生活・文化編集部)
月経による女性の日常生活に及ぼす不都合 寝込むほどの激しい月経痛に襲われた女医が考えたこと
月経による女性の日常生活に及ぼす不都合 寝込むほどの激しい月経痛に襲われた女医が考えたこと 山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを、女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は「月経が女性の日常生活に及ぼす影響」について、NPO法人医療ガバナンス研究所の内科医・山本佳奈医師が「医見」します。 *  *  *  先月のある日の夜ことです。「これ以上我慢できない……」と思ってしまうほどの下腹部痛に襲われました。10数年ぶりに経験した、ひどい月経痛です。  その日の午前中から月経が始まり、次第に月経に伴う下腹部痛、つまり月経痛がひどくなっていきました。薬局で購入した痛み止めを内服するも効かず、座っているのが辛くて寝込んでしまう程でした。  そもそも、月経痛はどうして起きるのでしょうか。月経中に増殖する子宮内膜には、子宮の収縮を促すプロスタグランジンという物質が含まれています。このプロスタグランジンの分泌過剰によって子宮収縮の増強がもたらされる結果、痛みを引き起こしてしまうと言われています。  月経痛をはじめとした月経にまつわる不都合についての調査報告があります。ヨーロッパ 6カ国 (オーストリア、ベルギー、フランス、イタリア、ポーランド、スペイン) の 18 歳から 45 歳までの女性 2883 人を対象に行ったオンライン調査によると、対象者のうち45.8%がホルモン配合避妊薬を使用しており、54.2%がホルモン配合避妊薬を使用していませんでした。そして、ホルモン配合避妊薬を使用している女性群に比べて、使用していない女性群では、月経期間がより長く(5日vs 4.5日)、月経量がより多い(16% vs 8%)ことがわかりました。  また、ホルモン配合避妊薬を使用している女性群も、使用していない女性群も、どちらも骨盤痛、腹部の膨満感やむくみ、気分の落ち込みやイライラを訴えていましたが、その割合はホルモン配合避妊薬を使用していない女性群で有意に高かったといいます。そして、選択できるのであれば、両群の57%の女性が、月経間隔を長くすることを選ぶと回答しました。そう希望する理由として性生活、社会生活、仕事、スポーツ活動などが挙げられたといいます。 (写真はイメージ/GettyImages)  実は、14年前(20歳を過ぎた頃)にも、同じようなひどい月経痛に襲われたことがあります。その時も、起き上がることができなくなるほどの痛みに襲われました。藁にもすがる思いで婦人科を受診し、その時に初め低用量ピルの存在を知りました。教えてくださった婦人科の先生の勧めもあり、内服を始めました。  低用量ピルを内服して数カ月には生理痛は消え、月経に伴う倦怠感や胸の張りなどもほとんど感じなくなりました。低用量ピルは、21日間毎日飲み続け、7日間休薬しなければなりません。毎日内服するということは、想像以上に難しいもので、特に、社会人になってからは、飲み忘れてしまう頻度が次第に増えていきました。  4年ほど前のある日のこと。毎日飲まないといけないという大変さに加え、2500円ほどの低用量ピルを購入するための毎月の出費と生理用品代が、あと10年以上も続くと思うと、なんだか嫌気がさしてしまい、10年ほど続けていた低用量ピルの内服をやめてしまったのでした。  生理用品も数百円から手に入るものではありますが、初潮から閉経までに必要な生理用品代を考えると、結構な出費になることは間違いありません。2022年3月23日に発表された厚生労働省の調査によると、8.1%の女性が、経済的理由などで生理用品の購入・入手に苦労した経験があると回答し、20代以下では12.9%が苦労したことがあると回答したことがわかりました。理由としては、自分の収入が少ない(37.7%)、自分のために使えるお金が少ない(28.7%)といった回答が多く、生理用品を入手できなかった際の対処として、交換頻度や回数を減らす(50.0%)、トイレットペーパーなどで代用する(43.0%)という回答だったといいます。  生理に関する貧困問題は、最近始まったものではありません。しかしながら、コロナパンデミックが生理的な貧困を悪化させた可能性があることが、近年の調査により明らかとなっています。  2022年11月に掲載された米国のセントルイス大学のHunter氏らが、18 ~ 49 歳の女性1,037 人を対象に行ったオンライン調査によると、対象者の30%が新型コロナウイルス感染症の流行によって生理用品を入手するのが難しくなったと回答し、29%が過去1年間に生理用品の購入に苦労し、18%が生理用品がないために仕事を休んだと回答していたといます。 「月経なんて来なかったらいいのに……」と久しぶりに思ったものの、まだ10年以上、私は月経痛と付き合っていかないといけません。低用量ピルの内服を再開するか否か、考え直さないといけなくなった今日この頃です。 山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師。医学博士。2015年滋賀医科大学医学部医学科卒業。2022年東京大学大学院医学系研究科修了。ナビタスクリニック(立川)内科医、よしのぶクリニック(鹿児島)非常勤医師、特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所研究員。著書に『貧血大国・日本』(光文社新書)
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々 大竹淑恵さん=理化学研究所(埼玉県和光市)の自室のデスクの前で  理化学研究所(理研)に勤める物理学者の大竹淑恵さんは、中性子(ニュートロン)という粒子を使って、橋や道路などのインフラの内部を「透視」する技術の開発をリードする研究者だ。自ら「遅咲き」という。30代後半から心身の不調に悩まされ、研究が軌道に乗ったのは50代に入ってから。60歳になって2度目の結婚に終止符を打ち、食生活を一新し、トレーニングにも励むようになった。これからも大好きな物理の研究を元気に続けたいからだ。今は仕事に、趣味に、充実した日々を送る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編:「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野】から続く *  * *――小型の中性子線装置をつくるプロジェクトはいつ始まったのですか?  2008年ぐらいから検討が始まりました。その前の2004年に私は肺塞栓を起こして死にかけたんです。そのとき「苦しい」と電話をかけたのが17歳年下のネットで知り合った男性で、すぐに彼が救急車を呼んで病院まで付いてきてくれたので死なずに済んだ。それで、彼と2度目の結婚をしました。事実婚でしたけど。 ――ちょっと待ってください。1度目の結婚はいつでしょうか?  早稲田の同学年の人と博士課程2年のとき。私は女子学院の出身で、早稲田の理工学部は男の子ばっかりだったので過ごしにくかった。入学早々に付き合う人ができて、大学生活がラクになりました。彼は建築史を専攻し、大学院から東京大学に進みました。美術のこととか、文学のこととか、たくさん教えてもらいました。  2人とも学生のときに結婚したので、健康保険はお互いの親の保険でした。茨城高専に就職したのは、とりあえず健康保険を持てる身分を得なきゃと思ったこともあるんです。 ――へえ~。  就職したらすぐ夫を扶養家族にしました。だけど、向こうはどうも博士号を取らない様子。短大などで教えたりしていましたが、私が国際会議に行ったりすると、もうバランスが取れず、というか彼の精神的安定が得られず、家庭内がひどい状態になりました。  私は日本の男性社会の中にいるよりヨーロッパで実験したり議論したりしているほうがよっぽど楽しいと思っていましたが、彼は私が海外出張するのをとても嫌がった。子どもはできなかったし、彼が東京から遠い大学で職を得たのをきっかけに別れました。そのあと、割とすぐに彼が結婚したので、私はホッとしました。  でも、よく考えたら、何も健康保険のことを私が考えなくてもいいんですよね。「自分で考えろ」でいいはずなのに。私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃう。2度目も同じことをやったんですね(笑)。 ――2度目の結婚はいつですか?  45歳ぐらいです。ぜん息で夜眠れなくて、明け方からパソコンで論文を読み、合間にチャットをしていて知り合ったんです。たまたま彼は埼玉県の所沢市に住んでいた。「近いね」と言って会うようになり、2004年に救急車事件が起きた。運び込まれた病院の先生が母に連絡を取り、「彼氏っていう人と運ばれてきました」と伝えたそうです。  肺塞栓で酸素が足りなくなって心臓が相当に肥大していたようですが、薬だけで治っていきました。ところが、今度は母に進行した乳がんが見つかり、私が退院した次の次の日に手術をした。それで母の付き添いでまた病院通いです。 ■母と祖母、兄の看護と介護で駆け巡った ――お母さまは仕事をされていたのですか?  はい、高校の英語教師でした。父は高校の数学教師でした。母は一人っ子で、私たちは東京の初台で母の両親と同居し、私と兄は祖父母に育てられた。兄は子どものころにリウマチ熱にかかって、体が丈夫でなく、就職しても長続きしませんでした。  両親は私が高校生のころに我孫子に家を建てて祖父母の家から出ましたが、兄は初台に残った。祖父が亡くなったあとは、祖母の面倒を独身の兄が見てくれた。でも、収入がないので、一時期、私がその家の地代を払っていました。  2009年の1月に祖母が103歳で亡くなり、同じ年の9月に母が77歳で亡くなりました。その2年余りあと、兄が54歳で亡くなった。兄は病気がちだったので、私が大学病院に連れていったりしていましたから、母のがんがわかってからの数年は母と祖母、そして兄の看護や介護で大変でした。一番ひどいときは、3人が別々の病院に入って、3カ所を駆け巡った。  正直に言うと、2012年に兄が亡くなったとき、これは仕事に専念しなさいと神様に言われたなと思いました。 ――何とも言葉がありません。大変な苦労の連続でしたね。  いやいや、周りの人にすごく恵まれていました。だから仕事を続けることができた。  17歳年下の彼は受けた教育も家庭環境も全然異なる人でしたが、ものすごくよく本を読み、勉強する人でした。母は結婚にずーっと反対していましたけど、私は2005年から一緒に住み、2006年に教会で結婚式を挙げました。  私はクリスチャンなので、1度目も教会です。最初の離婚のとき、名字が変わることで論文の著者として嫌っていうほどの面倒な経験をしました。それもあって、2度目は事実婚を選んだ。でも、自分が信じている神様の前で誓ったので、私にとっては「結婚」です。 ■60歳を超えてようやくわかったこと ――まあ、命の恩人だったわけですからね。  そうなんです。それは大きいですね。あと、何だろうなぁ。あんまり皆が寄ってきてくれないんですよ。大学院のころから、「物理をやっています」と言うと途端に男性は2、3歩奥に行っちゃう。  先日、理研で昔秘書をやっていた年配の方に言われたんですけど、「先生はさぁ、男の人の前で甘えるとか、抜けをつくるとか、可愛く見せるとか、そういうことを覚えなさい」って。今更そんなこと言われてもねぇ(笑)。 ――それで2度目の「結婚」はどうなったのですか?  家族が亡くなってから、祖父母の家と実家を手放して中古マンションを買ったんです。私が研究者になることを後押ししてくれて、研究者であることを喜んでくれていた家族が残してくれたものだから、肉親すべてを失った私の生活がスムーズになる形にしたくて。  彼はIT関係の仕事をしていました。でも、根本的な価値に関わるいろんな話は合わなかった。車が欲しいと買って、ローンが払えなくなって代わりに私が払ったこともあった。結局、生活に必要なお金のほとんどを私が払っていました。駄目なんですよね、こういうことをしちゃ。60歳を過ぎてようやくわかりました(笑)。  コロナ禍になって一緒にいる時間が増え、家事の負担が私に集中してきて、「理不尽だ」という思いがようやく膨らんできた。それに2020年に60歳になったことも大きい。理研は60歳が定年で、その後は雇用形態が変わる。そのタイミングで「もう人の面倒を見るのはいいや」と思ったんです。 ――別れようと決意した。  ええ。中学時代からの友人でマンションを買うときもお世話になった司法書士に相談し、教会の牧師にも相談しつつ、行動方針を決めて、直接彼に話をしました。祖母、母、兄が逝ったときにはパートナーとして支えてくれた人でしたが、出ていってもらいました。 ――理研の契約は60歳を超えると1年ごとですか?  いえ、プロジェクトリーダーとして5年契約を結びました。5年でさらに使いやすい、できれば「世界初の可搬型」を開発し、社会の役に立てるようにしたい。それだけでなく、サイエンスの研究も展開したい。宇宙や量子コンピュータ―につながる物理の基礎に関わるサイエンスです。その研究に小型中性子源システムでアプローチするのは私の念願で、2年前から始めました。これで成果を出すのが私の悲願です。 勢ぞろいした理研の中性子チームのメンバー=2022年12月、大竹さん提供  そう思ってくると、別の課題に気づきました。それは私自身の「体力」。研究開発を加速させるには「老化」という足元の課題を克服しなければならない。何かしたいと思い、パーソナルトレーナーを探しました。非常にいい先生が見つかって、トレーニングを受けながら食生活も変えました。  それまでは、時間が取れないから食に対する時間と労力を極力省き、99%外食かコンビニかレトルト食品でした。60歳を過ぎてから、人間、ちゃんと食材を調理して食べて、体も大事にして、という基本を教えてもらって、実践しているところです。今やこのトレーナー先生の週2回のトレーニングがストレス軽減となり、すべての生活リズムの要になっています。 ■物理と音楽、根本的に好きなことを ――良かったですね。  はい。良かったといえば、私は両親が高校教師で良かった。高校時代、聖歌隊の隊長をやりませんか、という話があったとき、音楽を専門に勉強していない私がやると大学に現役合格できないと悩んだんですが、2人とも「10代のこの時期でないとやれないことがある」と背中を押してくれた。それで高2のときは音楽ばっかりやって、とても楽しかった。  お陰で浪人して、物理が好きでしたけど、受験勉強ではない物理ばかりやってしまったので、早稲田に合格したときは一生分の運を使ったと思いました。その後に出会った早稲田の先生も素晴らしかった。  実は6年ぐらい前から、高校時代の後輩が聖歌隊のときの先生に習いたいと言ってきて、私も月に1回、一緒にレッスンを受けるようになりました。コロナで中断しましたけど、再開したところです。  物理と音楽、これが私の根本にある大好きなことです。物理研究を進めて工学分野の多くの方たちと一緒に共通の目標に向かって仕事を進めつつ、サイエンスの研究に自分たちの装置で取り組めて、さらにプライベートでは音楽も再開できて、恵まれているなぁ、と実感しています。 大竹淑恵(おおたけ・よしえ)/1960年東京都生まれ。1989年早稲田大学大学院理学研究科素粒子・原子核理論専攻博士課程修了、同年茨城工業高等専門学校就職。1993年から1年間京都大学大学院・素粒子物性研究室研究員、1995年3~8月フランス・ラウエランジュバン研究所研究員、1996年から理化学研究所研究員。播磨研究所、和光キャンパス延與放射線研究室、社会知創成事業ものづくり高度計測技術開発チーム副チームリーダーを経て、2013年から光量子工学研究領域光量子基盤技術開発グループ(2018年より改組し、光量子工学研究センター)中性子ビーム技術開発チームチームリーダー。2020年からニュートロン次世代システム技術研究組合T-RANS理事長。2023年から日本中性子科学会会長。
「どこに行っても変な人はいる」 グーグル首席デザイナーが語る人間関係ストレスから自分を守る自己暗示
「どこに行っても変な人はいる」 グーグル首席デザイナーが語る人間関係ストレスから自分を守る自己暗示 上司や同僚のせいで生じるストレスは、すなわち、お金を稼ぐストレスだ(※写真はイメージです/gettyimages)  49歳のときに米グーグルのNo.1デザイナーになった韓国出身の女性がいる。彼女の名は、キム・ウンジュさん。韓国で勤めていた会社を27歳で辞めて、渡米。簡単な英語のフレーズすらまともに話せない状態で始まったアメリカ生活だったが、その後はモトローラやクアルコムなどでキャリアを積んだあと、グーグルに入社。25年間で10回の転職経験をした彼女がグローバル企業で身につけたこととは――。著書『悩みの多い30歳へ。世界最高の人材たちと働きながら学んだ自分らしく成功する思考法』(CCCメディアハウス)から、ここでは「人間関係からストレスを守る方法」を紹介する。 *  *  *  職場のストレスの80%は、人間関係によるものではないかと思う。職場にかぎらず、ストレスのほとんどが人との関係から生まれる。人間が社会的動物である以上、避けられないことだ。人間関係について書こうと決めたものの、何度も迷った。人それぞれ置かれた状況があまりにも違うし、私はそれほど処世術に長けているわけでもなく、妙案があるわけではないから。でも、“ストレスマネジメントの方法”についてはぜひお伝えしたいことがある。  会社員の退職理由調査では、常に「上司や同僚との衝突」が上位圏に入っている。私も25年間、かなりたくさんのおかしな人々に出会った。さまざまな会社で働いた結果、「どこに行っても変な人はいる」というのが私の結論だ。私も他の誰かにとっては変な人かもしれない。  月給は「技術と専門性に基づいて職務を遂行する能力」に対して支払われていると誤解されがちだが、そうではない。「成果に対する報酬」だ。成果を出すには、自分だけがうまくやればいいというものではなく、周囲の人々と協力して働く必要がある。つまり、月給は「他人と一緒に働くときに消耗するエネルギーや時間、感情労働の対価」というわけだ。そのうち、50%以上を占めているのは“感情労働の対価”ではないだろうか。上司や同僚のせいで生じるストレスは、すなわち、お金を稼ぐストレスなのである。お金を稼ぐというのは本来、大変なことだ。 キム・ウンジュさん(写真/本人提供)  人間関係のストレスに対処する、私なりの方法は2パターンある。1つは「自己暗示」をかけること、もう1つは「状況終了」という方法。この2つに共通しているのは、自分でコントロールできるという点だ。長年、人間関係に思い悩みながら気づいたのは、「他人を変えるのは不可能」だということ。不可能なことを可能にしようとあがくと、怒りや恨みが生じる。そんなふうに過ごすよりも、自分にできること、自分が変えられることに力を注いだほうがいい。  自己暗示をかける 1.「私は自分の職業を愛している」。これが最も重要なポイントだ。ストレスに打ち勝つには、仕事がもたらすやりがいと楽しみがなければならない。もし仕事がおもしろくないなら、今の業種が自分に合っているのかどうかをまず見つめ直してみる必要がある。 2.「今の会社は、やりたい仕事を実現する多数のオプションの中の1つに過ぎない」。会社と人生を同一視しないこと。あなたはいつでも羽ばたくことができる。勤め先の言いなりにならないためには、ここじゃなくてもお金は稼げるという自信と能力が必要だ。耐えるしかないというのと、耐えることを選択するということには大きな差がある。 3.「会社は労働を提供してお金をもらう場所に過ぎず、何かを教えてもらう場所ではない」。教えてもらうことが目的なら、学校やカルチャーセンターに行こう。 4.「他人に大きな期待をしない」。多くの場合、期待が失望を生む。はじめから期待しなければ、失望することもない。上司が自分より多くのことを知っているだろうという期待、役員ならそれなりのビジョンを抱いているだろうという期待、開発者は自分の仕事を知り尽くしているはずだという期待……。こうした期待は抱かないほうが精神衛生上いい。 5.「“ここで学ぶことはない”という言葉は、自分の学習能力が足りないという意味でもある」。学ぶというのは能動形の動詞だ。おのずと「学ばれる」ことはない。同じ場所で同じ経験をしても、学びを得て成長する人とその場で足踏みばかりしている人がいる。うっぷん晴らしやヤケ酒が必要なときは1日限定にして、次の日からまた前進しよう。 6.心の整理整頓術で、その日の感情を仕分けする。会社で傷ついたこと、イヤだった言葉、あるいはうれしかった言葉を分類し、捨てるものはすぐに捨てて、とっておくものはじっくり噛みしめて自尊感情を高める。あなたは大切な存在だから。 状況終了  自己暗示がうまくいっていても、聖人君子でもないかぎり耐えられない限界がやってくることがある。どうしても許せない“極端に嫌なポイント”は人によって異なる。夕食のとき、中学生の双子の娘にいちばん嫌いなタイプの人を聞いてみたら、ヘナは「ネガティブな人」、ユナは「遠回しに話す人」だという(考えたこともない答えだった。斬新だ。ふふ)。 『悩みの多い30歳へ。世界最高の人材たちと働きながら学んだ自分らしく成功する思考法』(CCCメディアハウス)  私は怒鳴ったり、皮肉を言ったり、悪ふざけをしたりする人はうまくかわすことができる。そんな相手と話すときは、コメディ映画を観ているつもりでやり過ごす。一方、どうしても許せないのは、話を遮られること。気になることは尋ねなければ気が済まず、話したり書いたりしながら考える習慣を持つ私のような人間にとって、「黙ってじっとしていろ」という言葉は、息をするなと言われるようなものだ。私はおせっかいで、他のみんなが面倒だとか怖いからという理由で見て見ぬふりをしていることにあえて切り込んでいくタイプ。それは、私を現在のポジションまで引き上げてくれた長所であると同時に、その速度を遅らせた短所でもあった。  この25年間に、上司が理由で職場を変更したことが二度ある。一度は退職を選び、もう一度はチームを異動することによって状況を終了した。  人生においては、どちらのほうがいいかという選択ではなく、どちらなら耐えられそうかという選択を迫られることがある。会社に残ってダメ上司に耐えるのか、退職して荒野をさまようのかを選ぶように。このまま耐え続けても魂が削られるだけだと判断したら、さっさと「損切り」をしたほうがいい。耐え抜く根性も重要だが、状況に合わせて断ち切る勇気と判断力も重要だ。それは負けではなく、放棄でもない。自分を守る方法だ。 *  *  *  ときどき「きみ、変わったね」と怒る人がいる。実際は、その人が変わったのではなく、自分が知らなかったことを知っただけなのに……。円筒は上から見れば円形だが、横から見れば四角形だ。自分でも自分のことがよくわからないのに、他人のことを何もかも知ることなんてできない。人を判断しようとするのをやめよう。人間関係において可能なのは、自分をコントロールすることだけだ。 キム・ウンジュさん(写真/本人提供) ◯キム・ウンジュ韓国出身のGoogleの首席UXデザイナー。Googleの核心部署である検索と人工知能チームの首席デザイナーとして働き、2020年には社内の「今年のデザイナー賞」を受賞した。25年で10回の転職を経験。1998年に27歳で渡米。イリノイ工科大学(IT) デザイン大学院修士課程を修了し、モトローラ、クアルコムなどでキャリアを積む。2013年、韓国に帰国してサムスン電子で円形スマートウォッチの開発を主導。2018年、47歳で米シリコンバレーのGoogle本社に入社。
日本とアメリカ「教育・研究・起業・リーダー育成」分野での驚くべき格差をスタンフォード現役教授が徹底分析
日本とアメリカ「教育・研究・起業・リーダー育成」分野での驚くべき格差をスタンフォード現役教授が徹底分析 中内啓光教授(右)と筒井清輝教授  世界に名門大学は数あれど、スタンフォードのブランドは際立っている。なぜ、スタンフォードは常にイノベーションを生み出すことができ、それが起業や社会変革につながっているのか。スタンフォード大学で学び、現在さまざまな最前線で活躍する21人が未来を語った新刊『未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装』より、スタンフォードで現役教授として活躍する中内啓光、筒井清輝両氏の対談の一部を抜粋で紹介する。 ※「欧米の名門大学の中でも異質 スタンフォードの凄さは『人材』と『資金』のエコシステムにあり」よりつづく *  *  *■日本の平等主義がイノベーションの足かせになっている 筒井:大学発のイノベーションという点で、中内先生の分野において、現在の日本の大学の研究レベルはどんな感じでしょうか。 中内:アメリカのVC(ベンチャーキャピタリスト)のなかには、少数ですが常に日本の大学に目を向けている人がいます。彼らは「日本は、シーズ(種)の数は少ないけれども、クオリティーは高い」といっています。つまり、日本の大学にいる研究者は、非常によくデータを蓄積していて、信頼性の高いデータに基づく特許やアイデアをそこそこもっているというのです。  アメリカの大学には、あまりたいしたエビデンスがなくても会社をスタートさせる研究者がたくさんいます。お金がふんだんにあり、たとえ失敗しても許される(ベンチャー精神に富む)社会だからそれが可能なのかもしれません。でも日本はそういう状況ではありません。だからこそ大学のなかにシーズが残っているという言い方もできるのかもしれません。 筒井:よくいわれるのは、日本は新しい科学技術はいろいろ生み出すけれども、それを社会実装するのに時間がかかり過ぎて、その間にアメリカや中国などに取られて追い抜かれてしまっている。科学技術力自体はそれなりにあるのに、それを使って産業移転して儲けることが非常に苦手といった指摘です。 中内:いいアイデア、シーズがあっても、それを世界レベルのビジネスに展開できる人材が非常に少ない。今の日本は間違いなくそういう状況だと思います。 筒井:アメリカの投資家は、よく「日本は宝箱だ」といいます。日本はいろいろなおもしろいものが結構安く手に入るから。 中内:ただスタンフォードで、医学部の産学連携プログラム「スパーク(SPARK)」やスタートアップ支援組織の「スタートエックス(StartX)」の話を聞くにつけ、おもしろいアイデアをもっている人が本当にたくさんいるんだなと感心します。シリコンバレーで一旗揚げてやろうと考えている人が世界中から集まってくるので、やはり量的には圧倒的に負けている気がします。 筒井:スケールも大きな話が多いでしょう。関連して制度面での日米の違いはどうですか。スタンフォード大学には、スパークやスタートエックスのほか、特許のライセンス化機関「OTL(Office of Technology Licensing)」が何十年も前からあったりします。これもいわば制度的なものです。あるいは医薬品などの認可のスピード感の違いもよくいわれます。 中内:医療分野では「100%の安全」を望むのが日本人の考え方です。なにかあると、日本のメディアは徹底的に叩くし、官僚など行政に携わる人たちも非常に保守的です。国民的な特性が制度面に反映しているので、なかなか簡単には変えられないと思います。新しい医療には必ずリスクがともないます。そのリスクとベネフィット(便益)を理解したうえでなにか新しいことをやる。そういう考え方がもう少し一般化しないとこういった状況を変えるのは難しいでしょう。  日本の政府は「新しい医療を推進しよう」などと盛んにいっています。総論はそうなのですが、各論に入るとまったくそうではない。実際に厚労省やPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)に行くと、たいしたサイエンスのバックグランドのない人にわけのわからない書類をあれこれもってこいといわれ、研究者は非常に消耗してしまいます。時間もかかるし、そのうちに資金がショートして、スタートアップの会社なら潰れてしまうわけです。 筒井清輝(スタンフォード大学社会学部教授)/2002年スタンフォード大学Ph.D.取得(社会学)、ミシガン大学社会学部教授、同大日本研究センター所長、同大ドニア人権センター所長などを経て、現在、スタンフォード大学社会学部教授、同大ヘンリ・H&トモエ・タカハシ記念講座教授、同大アジア太平洋研究センタージャパンプログラム所長、同大フリーマンスポグリ国際研究所シニアフェロー、同大人権と国際正義センター所長、東京財団政策研究所研究主幹。専攻は、政治社会学、国際比較社会学、国際人権、社会運動論、組織論、経済社会学など。著書に、『人権と国家:理念の力と国際政治の現実』(岩波書店・2022年。第43回石橋湛山賞、第44回サントリー学芸賞受賞)、Rights Make Might: Global Human Rights and Minority Social Movements in Japan (Oxford University Press 2018:アメリカ社会学会三部門で最優秀著作賞受賞)、Corporate Social Responsibility in a Globalizing World (Cambridge University Press 2015、共編著)、The Courteous Power: Japan and Southeast Asia in the Indo-Pacific Era (University of Michigan Press, 2021、共編著)。  アメリカはまったく違います。新しい治療をいち早く患者に届けることが優先です。もちろん、安全性も大事だけれども、効果が見込めそうな新しい治療法なら多少のリスクはしょうがないと合理的に考えます。日本との大きな違いは、こうした国民の合理的な考え方だと思います。 筒井:日本は、たとえば「狂牛病が出たら全頭検査」という国です。そういう発想は簡単には変えられないでしょう。そういう意味では、日本よりもアメリカでやったほうがいいと考える医療分野の研究者、スタートアップ、あるいは大企業も増えていくのでしょうか。 中内:たとえば、ノーベル賞を取った本庶佑(ほんじょ・たすく)先生のがん治療薬「ニボルマブ(製品名オプジーボ)」や「ペムブロリズマブ(製品名キイトルーダ)」は、日本の製薬会社の製品ですが、まずイギリスやアメリカで認可され、製品化されてグローバルに展開されて、日本でも使われるようになりました。  医療分野は必ずしもお金が儲かればいいという世界ではありません。先ほどいったように、新しい治療ができたらできるだけ早く人々に還元されたほうがいいと考えます。だから安全性の確認が合理的かつ迅速にできるシステムがあるところで製品化されるわけです。  しかし、日本の制度はあくまで安全第一。結果的には海外経由のほうがいち早く患者さんの手に届きます。そうだとしたら、自分たちの取り分は多少減っても、アメリカでやったほうがいいと考える人たちが増えて当然でしょう。私もその一人ですが。 筒井:シリコンバレーのエコシステムがあるのだから、そこにプラグインしてしまえばいろんなことがやりやすくなる。そういう発想は日本の政府にもあります。大学発イノベーションの目利きをシリコンバレーのVCに頼むとか、シリコンバレーに5年で1000人規模の日本人起業家を派遣してエコシステムに入り込んでもらうなどのスタートアップ政策が動き出しているところですね。   ただ医療と違い、ビジネスの分野だと、日本に税金が入らないのであれば政府が投資する意味はないという意見もあります。 中内:それは内向きの考え方で、私はあまり賛成しません。経産省が主導して2018年にできた官民ファンドの「産業革新投資機構(JIC)」は、アメリカにいる優秀な目利きを集めて日本のアイデアを評価してスタートアップをどんどん作っていこうという発想だったと思います。しかし、あっという間にうまくいかなくなった。日本の国際性の後れ、メディアの勉強不足、システム作りのまずさを感じます。 筒井:産業革新投資機構はすごく可能性があったと思います。けれども幹部の報酬が高すぎるということがメディアで問題になって、中心メンバーが総入れ替えになってしまった。世論が足を引っ張る日本の悪しき平等主義が顕在化してしまったケースだと思います。現在進められているスタートアップ政策に、この経験が生かされているといいですね。 ■日本ではなぜリーダーが育たないのか 筒井:制度面など、日本をどう変えたらいいかという議論において、この悪しき平等主義は大きく立ちはだかる壁になります。たとえば、定年制。なにもしなくてもその年齢まで会社にいられて、やる気のある若い人がなかなか上に行けない。あるいは定年が来たら、どんなに仕事ができる人でも即刻、会社を去らなければいけない。年齢が主要な評価基準になる悪しき平等主義です。  結局、個人の能力や業績を正確に評価できないシステムに問題があるのでしょう。つまり、学校の教育制度を含め人材育成のシステムが根本的に変わっていかなければいけないと思います。中内先生は日本の教育制度において、一番ネックになっているのは何だと感じますか。 中内:筒井先生のご専門でしょうが、やはり日本の文化、社会構造的に、一般の人がもっている教育に対するイメージ、あるいは教育制度に対する期待が他の国とは違っている。そしてやや時代遅れであるという感じがします。 中内啓光(スタンフォード大学医学部教授)/スタンフォード大学医学部 幹細胞生物学・再生医療研究所・教授。東京医科歯科大学高等研究院 卓越研究部門・特別栄誉教授、東京大学名誉教授1978年に横浜市立大学医学部を卒業。在学中にサンケイスカラシップ海外奨学生として1年間ハーバード大学医学部へ留学し、マサチューセッツ総合病院やブリガム病院等で臨床研修を受ける。1983年に東京大学大学院医学系研究科より免疫学で医学博士号を取得後、スタンフォード大学医学部遺伝学教室博士研究員として留学。帰国後、順天堂大学、理化学研究所、筑波大学基礎医学系教授を経て2002年より東京大学医科学研究所教授に就任、2008年より東京大学に新しく設置された幹細胞治療研究センターのセンター長並びに東京大学iPS研究拠点リーダーを務める。2014年からStanford大学教授を兼務。2022年3月で東京大学を定年となり4月より東京医科歯科大学高等研究院に移動し、引き続き日米両方の研究チームを率いて研究活動を行っている。大学院時代より一貫して基礎科学の知識・技術を臨床医学の分野に展開することを目指している。  日本は同調圧力が強いと言われます。日本の教育制度では、みんなで仲良く暮らせる社会を作るんだという発想がすごく強い。また妬みの文化でもあるので、多くの親は自分の子どもがあまり目立たず、まわりに迷惑をかけずに学校生活を送ってくれることを願っているように見えます。その辺の意識から変えていかないと、日本の教育制度は変わらないと思います。  一流の国に追いつけ追い越せでやっていた頃の日本は、いわゆる平等主義に基づくチームプレイが重要だったのでしょう。しかし今やグローバル・エコノミーのなかで互角に戦っている国です。その状況のなかで、三流国家にまで逆戻りしつつある印象です。それを食い止め、成長していくためには、やはりクリエイティブな人材を育てなければいけない。クリエイティブな人は個性が強く、同調性のないケースが多いと思います。そこを一般の人もよく理解し、欠点のない子どもを育てるのではなく、子どもの長所や個性を生かす教育を重視するよう、見る目を変えていかないと、教育制度も簡単には変わらないでしょう。 筒井:教育社会学でそういう研究はたくさんあります。幼稚園や小学校のレベルから集団のなかでまわりの子どもと協調的に立ち回ることがとても重視される。社会に出ても自分の会社や研究室で人間関係をうまく運ばせることが一番大事となっている。まさに同調圧力がすごく強調される社会なので、「出る杭は打たれる」という感覚がずっと子どものころから植えつけられているというわけです。  実際、教育の中身も個性を発揮する、他の人と違うことをやるといったことが大事にされていません。大学入試もAO入試(総合型選抜)が増えてきてはいますが、相変わらず共通テストで画一的な知識の習得が強調されています。  アメリカでも多くの親が自分の子どもをいい大学に入れたいのは同じです。ただ、そのために親がなにをするかというところが違います。日本では、塾に通わせて画一的なテストでいい点を取るスキルを高めることが中心です。  一方アメリカでは、スタンフォードの入試もそうですが、SAT(大学進学適性試験)の点数を見ない大学がすごく増えています。アメリカの大学入試ではなにを問われるか。「今までにあなたはなにをやってきましたか」「あなたは人生でなにを成し遂げたいですか」「そのために大学の4年間はどう役に立ちますか」といった問いに対して、しっかり説明できないと大学に入れません。だからアメリカでは、中学生ぐらいからそういうことを考え始めるケースが多いです。  アメリカの子どもは、日本のように塾に行くだけではなく、なにか事業的なことをはじめたり、バイオリンやバスケットボールなどに打ち込んで成果を出そうとしたりする。親も子どもの自主性を重視してサポートします。日本とは教育のあり方が根本的に違い、それに最も大きな影響を与えているのは受験制度だと思います。 中内:アメリカの大学は入試にすごく時間も労力もかけます。一方で、日本の大学は試験の点数で合否を決めるほうが客観的でいいと、単純に済ませている印象です。アメリカの大学は「なにが客観的なのか」というところから問い直し、いろんな面からその個人を見て判断します。大学教育の成果に大きな違いが出てくるのは、ある意味当然でしょう。 筒井:こうした教育の影響で、リスクに対する考え方にも違いがあります。減点主義の入試制度に象徴される日本ではリスクを回避する個人の生き方、社会のあり方が強くなり、昭和の頃は良かったが、今の時代に必要な教育や研究、産業の発展に相当マイナスに働いていると思います。加点主義で個性やそれぞれの長所を伸ばそうとするアメリカでは、リスクをおそれず新しいことに挑戦する人が育ちやすいと思います。  中内先生は、日本にいる研究者とアメリカにいる研究者の違いについて、特に起業に関して、どの程度リスクを取るのか、どの程度我慢できるのか。その辺の差を実感されていると思うのですが。 未来を創造するスタンフォードのマインドセット イノベーション&社会変革の新実装※Amazonで本の詳細を見る 中内:やはり非常に違います。同調圧力の強い日本はリーダーシップをもっている人材が育ちにくい傾向があると思います。アメリカはそもそも多様性に富む国なのでそれをまとめていくことが大変だということもあるでしょうが、小学校からリーダーシップに注目した教育が行われています。たとえば、人前で話をするのもその一つで、リーダーシップがあるかどうかの大きな評価のポイントになります。強いリーダーシップのおかげで、個人としても全体としてもリスクをおそれず、行動できるわけです。  日本はリーダーを育てるというところに、あまり労力をかけていない。だから、良いリーダーがなかなか出てこなくて、問題解決に非常に時間がかかったり、責任回避のために先延ばしの繰り返しになったりする。研究者、あるいは政治家を見るまでもなく、あらゆる分野でリーダーシップの不在を感じます。だからリスク回避の行動が個人的にも社会的にも続くのだと思います。  日本のリスク回避やリーダーシップの不在は、アメリカ以外の国々と比べても顕著でしょう。たとえば、私のスタンフォードの研究室には、大学院生やポスドクが日本を含め、世界中からやって来ます。日本の一流大学出身者は、言われたことはきちんとこなすし、頭もいいし、良い人が多いです。しかし、非常に迫力不足。自分で課題を見つけて周りの人を巻き込んでバリバリやっていくタイプがほとんどいません。  一方、日本以外の国々から来ている人たちは、みんな目が輝いている。やる気十分で、一旗揚げてやろうという強烈な意気込みを感じます。  こうした違いには、日本の社会が非常に安定している影響があると思います。いわれたことだけやっていれば大丈夫、右のものを左に置けばオーケーというリスク回避の風潮が、若い人たちにも蔓延しているのでしょう。良い国であることはたしかですが、問題は今の日本の豊かで安定した生活が厳しい世界経済の競争のなかでこの先も続くのかということをどれくらい多くの人が認識しているのでしょう。そういう危機感がないこと自体、大きな問題だと思います。
通信障害でスマホ不通が心配…回線トラブルに備える「副回線サービス」の仕組みと注意点とは?
通信障害でスマホ不通が心配…回線トラブルに備える「副回線サービス」の仕組みと注意点とは? 半年から1年に一度は携帯電話の通信障害が起きている※写真はイメージです  ここ数年、携帯電話回線が不通になるトラブルが相次いでいる。昨年7月、2日間に渡って発生したKDDIの回線トラブルや、やはり昨年12月に発生したNTTドコモの回線トラブルが記憶に新しいところだが、その他にも、過去5年間だけでも、半年から1年に一度、どの事業者も長時間の通信障害を起している。  その対策として3月末から運用が始まったのが「副回線サービス」だ。メリットとデメリットを解説する。 *  *  *  もはや携帯電話は生活インフラ。通話やメール、メッセージなどが使えないことは、従来以上に深刻な課題を生む。急病などで緊急通報をしたくとも、携帯電話が不通ではそれも困難になる。  そこで大手携帯電話事業者は、総務省とも話し合ったうえで、1つの解決策を提示することになった。  それが「副回線サービス」と呼ばれるものだ。KDDIは3月末に、ソフトバンクは4月にスタートしており、NTTドコモも開始を検討中、とされている。 ■トラブル回避に「別会社の回線」を用意  回線が不通となるトラブルは、いつ発生するかわからない。もちろん、自らが巻き込まれるのは、ごく稀なことではある。だが、近年のシステム複雑化はトラブルの元とも言える。携帯電話事業者はトラブル回避に万全を期しているが、トラブルをゼロにすることはできない。便利になって携帯電話回線への依存度が高まる一方で、トラブルの影響も大きくなりやすくなった。  また、日本は災害の多い国でもある。その結果として、被災地やその周辺で一時的に通信・通話が行えない、というトラブルもある。これもまた、予測して回避するのは難しい。  だとするならば、「トラブルはいつか起きるもの」と考えて対処すべき、ということになるのだが、具体的にはどうすればいいのだろうか。  答えは簡単。「トラブルを起こしていない回線事業者を使う」だけだ。大規模災害を除くと、回線トラブルは特定の事業者のみで発生する。となると、例えばKDDIがトラブルを起こしたのであれば、NTTドコモやソフトバンクの回線を使えばいいということになる。  そこで出てきたのが「副回線サービス」、というわけだ。  自分が使っている回線でトラブルが発生した場合、別の会社の回線へと切り替えることで通話や通信を可能にするのだ。  現在このサービスは、KDDIとソフトバンクが提供している。価格はいずれも月額390円。トラブルが起きた時に「副回線側」に切り替えることで、通話やメールなどが行えるようになる。KDDIの利用者が回線トラブルにあったら、ソフトバンクの回線を、ソフトバンクの利用者がトラブルにあったらKDDIの回線を利用できるというものだ。 ■副回線サービスに絡む2つの課題  とはいえ、副回線サービスには、気をつけなければいけない点が複数存在する。  1つ目は、2つの回線を扱えるスマホでなくてはいけないこと。 電話番号などを書き込んだ「SIMカード」を2枚差す、もしくは「eSIM」というネットワーク経由でSIMカードと同じ情報を書き込む仕組みを持った仕組みを搭載しており、2回線が使える機能を持っている必要がある。  マニアックな機能に思えるかもしれないが、すでに意外と一般的な機能になっており、iPhoneをはじめとして、ここ2年ほどの間に発売されたスマホの場合、対応済みの場合が多い。もちろん、すべてのスマホが対応しているわけではないので、確認が必要だ。  2つ目は「コスト」。毎月390円かかる上に、メーンの回線の「通話し放題」「データ使い放題」などの割引は適用されない。通信速度も最大300kbpsまでに制限されている。それは、トラブル時に多くの人が一斉に副回線へと切り替えた際、切り替えた先の事業者が混雑で「共倒れ」になることを防ぐための施策でもある。あくまで一時的な利用のためのものという位置づけだ。 ■格安回線も活用できるが「多少の知識」が必要  実のところ、もうひとつの回線の用意自体は難しいものではない。要はメーン回線以外の事業者を追加で契約し、同じスマホの中に入れておけばいいのだ。  最近は毎月数百円という低価格なプランも増えているので、それらを新しく契約すればいい。「副回線サービス」には通信速度制限があるが、自分で事業者を選んで回線を追加するなら、その制約はない。  ただ、安価なプランをもうひとつの回線として選ぶ場合には、多少の知識が必要になる。  現在、低価格な回線は「MVNO(仮想移動体通信事業者)」という事業者から提供されることが多い。有名なところでは、OCNモバイルONE、IIJmio、mineoなどが挙げられる。これらの事業者は、携帯電話回線自体はNTTドコモ、KDDI、ソフトバンクのどれかから借り受け、その上でサービスとして携帯電話事業を行っている。安価で自由度の高いサービスを提供しやすく、月額数百円で使えるものも多い。 回線を借りている関係上、携帯電話事業者の回線品質やトラブル状況に依存する。例えば、NTTドコモ回線をメーンに使っている人が、NTTドコモから回線を借りているMNVO事業者を契約したとしても、「トラブル回避用の副回線」にはならないわけだ。  だから、契約するMVNOがどこの回線を使っているかを把握してから契約する必要がある。  また別の話として、楽天モバイルの場合、面倒な部分もある。原理上は楽天モバイルを副回線として使うこともできるが、楽天の場合まだエリア展開の広さに問題もある。そのため楽天自体の電波が届かない場所では、KDDIの回線を借りている。だから、楽天がKDDIのトラブルの影響を受ける可能性もあるわけだ。  1台のスマホに2つの回線を入れるのはそれほど難しくはないが、トラブル回避用にするには多少の知識は欲しい。その点、KDDIやソフトバンクの「副回線サービス」は、それぞれの事業者をメーンに使っている人ならば、自分のスマホで使えるかを確認して契約すればいいだけなので、多少ハードルは下がるだろう。  回線が切れることへの対策がどうしても欲しい場合、多少勉強するか、それも事業者に委託するかのどちらかが選べる……と考えるのがいいだろう。  どちらにしろ、月額で数百円がかかることには変わりない。その点を考えた上で、契約を検討して欲しい。 西田宗千佳(にしだ・むねちか) ITジャーナリスト。1971年、福井県生まれ。IT、通信産業、電機会社などの分野を中心に、新聞、雑誌、ネットメディアなどに執筆活動をしている。著書に『世界で勝てるデジタル家電』、『デジタルトランスフォーメーションで何が起きるのか 「スマホネイティブ」以後のテック戦略』、『メタバース×ビジネス革命 物質と時間から解放された世界での生存戦略』など。

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