“浪速のアンリ”と呼ばれたG大阪時代の平井将生
“浪速のアンリ”と呼ばれたG大阪時代の平井将生

 1993年に開幕したJリーグは、2022年で30年を迎えた。その間、大久保嘉人が歴代トップの191得点を挙げ、佐藤寿人、興梠慎三、中山雅史、前田遼一も「長く」活躍した中で150得点以上を記録している。その一方で、「短い旬」ながらも、優れた得点力を発揮した和製ストライカーたちも多くいる。

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 Jリーグ2年目の1994年シーズンに三浦知良(当時V川崎)と並ぶシーズン16得点を挙げたのが、G大阪でプロ2年目だった山口敏弘である。大阪の強豪・北陽高校のエースとして活躍後、近畿大を中退して21歳でJ参戦。優れた技術と身体能力を持ち、力強いドリブル突破からチャンスを作り、強烈なシュートでゴールを量産した。同年、ファルカン監督率いる日本代表に選出。翌1995年もリーグ戦で9得点を挙げ、加茂ジャパンでも2試合に出場した。だが、1996年以降は出番を減らし、1996年途中に京都に移籍して以降も結果を残せず。無所属期間を経て加入した広島でサイドアタッカーとして復活を遂げたが、2年半の所属でリーグ戦45試合に出場して4得点のみ。中盤もこなす器用さもアダとなってストライカーとしては大成しなかったが、アタッカーとしての能力は非常に高かった。

 同じG大阪で活躍した快足ストライカー・小島宏美も、強いインパクトを残した選手だった。東福岡高校で1年時からレギュラーとして選手権に3年連続で出場。G大阪でも高卒1年目から出番を得ると、高速ドリブルを武器に出番を増やし、3年目の1998年にリーグ戦34試合に出場して17得点をマーク。トルシエ監督から、シドニー五輪を目指すU-23日本代表、さらにはフル代表にも選出された。しかし、2001年以降はチーム内競争に敗れてベンチスタートが続き、2002年からは札幌、大宮、大分、神戸、岐阜と渡り歩いたが、結局2ケタ得点を奪ったのは1998年のみ。溢れる才能を活かし切れず、期待されたキャリアを歩むことができなかった。それでも抜群のサッカーセンスと爽やかな風貌で女性人気も高く、ピッチ上で“華のある”選手だった。

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浦和で活躍した“もう一人の野人”