1574年(天正二年)、十五歳になった三成は、近江長浜城主・豊臣秀吉に小姓として仕えるようになる。秀吉は当時、織田信長の一家臣であり、このときに初めて「城持ち大名」となり、長浜城を与えられ、三成のいる近江へ赴任してきた。

 この観音寺(諸説あり)に立ち寄った秀吉に対し、寺小姓をしていた三成が茶を出したエピソード「三献茶」は広く知られている。一杯目は飲みやすく、ぬるめに淹れた茶を多めに出し、二杯目は少し熱くして出し、三杯目はさらに熱めの濃い茶を出したと伝わる(『武将感状記』など)。

 こうした三成の機転や明晰な頭脳に目をつけた秀吉は、即座に三成を近習として臣下に加えることを決めた。この時に秀吉は、故郷の尾張などから三成とほぼ同年齢の若者を召し抱えていた。後の福島正則・加藤清正・加藤嘉明である。彼らは、学問や体系的な武芸を学んだわけでもなく、秀吉の家臣としての出発時点から、三成とは異なった道を歩むことになる。

「彼らは『武功派』と呼ばれるように主に戦場での槍働きで、武功を立てていきます。もちろん、それも秀吉への忠誠・忠義の示し方ではありました。三成も武将として数々の合戦に参加しましたが、次第に兵站(戦闘部隊のための軍需品・食糧・馬の供給)など裏方を担当することが多くなっていきました。そして秀吉の天下が定まる頃には、主に内政面で秀吉政権を支えたのです。現在でいえば福島や加藤が現場での肉体労働や営業マンとして体を張ったのに対し、三成は総務・人事・経理といった頭脳労働の専門家だったのです」(江宮氏)

 同じ忠誠・忠義でも、加藤・福島らと三成のそれは、手段という点から差異があったといえよう。もちろん秀吉には両者とも必要な忠義であったが、武功派には三成の忠義は「おべっか」「へつらい」と映る。秀吉の家臣としての出発点における、いわば「ボタンの掛け違え」のような両者の違和感は徐々に膨張し、秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」で破綻を迎える。

「それが秀吉の死後にいよいよ表ざたになり、とうとう『関ヶ原の戦い』で敵味方に分かれて戦う羽目になってしまったのです。『武功派』の加藤・福島を味方につけた徳川家康と、三成を支持する諸大名たちとの戦いですが、いわば盤石だった豊臣政権の内部分裂に他なりませんでした」(江宮氏)

 合戦の経過はここでは省くが、ご存じのとおり、東西両軍による天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」(1600年)は東軍・徳川家康が勝利し、西軍・三成は完敗した。3年後、家康は江戸に幕府を開き、日本に長き太平の世をもたらした。(取材・文/上永哲矢)

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.4』より。後編へつづく