「藤堂高虎のように、生涯に七度とも八度ともいわれるほどに主君を替えた武将もいました。しかし、それは決して不義不忠でも、そしられることでもなく、当然のこととして、むしろ讃えられたのです」(江宮氏)

 時代劇では、よく「忠義」とか「○○恩顧の大名」などの言葉が登場するが、そうした感覚を持っていたのはごく一部の人だけ。「武士道」というのも、戦国の世が終わって、徳川氏が天下を統一した江戸時代になってから、武士たちに課せられ、浸透した概念なのだ。

「だからこそ石田三成の豊臣政権(秀吉と秀頼)への忠義心は、戦国時代には珍しい概念として映ったはず。私たち現代人には、それがいっそう清々しく感じられるのでしょう」(江宮氏)

 そんな三成の「義」は、どのようにして育まれたのだろうか。彼の生涯をおさらいしながら探ってみたい。

■文武両道の父から、薫陶を授けられた

 石田三成は1560年(永禄三年)、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の郷士であり、村長だった石田正継(藤左衛門)の三男として生まれた。幼名を「佐吉」といった。

 二人の兄のうち長兄は早くに亡くなり、家を継いだのは次兄・正澄だった。石田家は京極氏に代々仕官していた土豪(地方豪族)であったが、主家の滅亡後は村でひっそりと暮らしていた。

「三成の父、正継は武道に通じ、自分の屋敷にも弓矢を稽古するための的場を作っていたそうです。さらには立花(生け花の様式の一つ)・和歌・古典にも造詣が深く文武両道でした。三成はそんな父の薫陶を受けてか、学問を好み、落ち着きのある少年に育ちました」(江宮氏)

 正継は三成を近在の大原村にある観音寺という寺に入れた。僧にするつもりではなく、一流の教育を受けさせるためである。当時、武家の子弟が一時的に寺へ入り、エリート僧から学問を教わることはそう珍しいことではなかった。幼き日の上杉謙信や織田信長、徳川家康も寺院で学問に励んでいる。

 三成は幼少期から中国の儒教の経典である四書五経(「大学」「中庸」「論語」「孟子」・「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」)を読み、次第に精通した。寺でも学問に励み、才覚に磨きをかけたことはいうまでもない。

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「三献茶」に見る武功派武将との差異