この記事の写真をすべて見る
さまざまな思いを抱く人々が行き交う空港や駅。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界の空港や駅を通して見た国と人と時代。下川版「世界の空港・駅から」。第57回はパキスタンのペシャワール・カントンメント駅から。
* * *
パキスタンのペシャワールは好きな街だ。はじめて訪ねたのは、もう35年近く前になる。それ以来、4回ほど足を向けている。
この街の治安はいつも危うい。はじめてこの街にやってきたとき、隣国のアフガンスタンにはソ連軍が駐留していた。ペシャワールには、ソ連に反抗するゲリラ組織のオフィスがいくつもあった。夥しい数の難民が、ペシャワール郊外につくられたキャンプに暮らしていた。ほとんどが、アフガニスタンでいちばん多いパシュトゥーン人だった。
僕はまだ若く、貧しい旅行者だった。安宿で知り合った日本人と一緒に、よく難民キャンプを訪ねた。キャンプのテントのなかで、いつも食事をごちそうになっていた。
いくら貧しい旅行者でも、難民からごちそうになるのは……とは思うのだが、キャンプでは、彼らはいつも食事を出してくれるのだ。断るのも悪いし……そのうちに、昼食は難民キャンプという日々になってしまった。
その後、ソ連がアフガニスタンから撤退し、タリバンが政権を握る。それに対して、アメリカを中心にした国々の空爆がはじまった。そのときもペシャワールにいた。街の高級ホテルは、各国からやってきた報道陣で埋まっていた。
一時期、アフガニスタンの治安が安定した。はじめて入国したが、そのとき、アフガニスタンのビザをとったのがペシャワールだった。そこからカイバル峠を越え、アフガニスタンに向かった。
ペシャワールは、アフガニスタンへの入り口の街だった。いやアフガニスタンに通じる街といったほうがいい。
インドを植民地化したイギリスは、アフガニスタンとの戦争を繰り返し、1893年、デュアランド・ラインと呼ばれる国境を決める。その境界がいまのパキスタンとアフガニスタンの国境になっている。この境界はパシュトゥーン人の居住エリアをふたつに分断していた。反抗するパシュトゥーン人の勢力を削ぐ目的があったともいわれる。