およそ80棟の建物が並ぶ県営いちょう団地
およそ80棟の建物が並ぶ県営いちょう団地
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左が在日本ラオス協会会長のチャンナコン・チャンスッドさん。右から2番目が事務局長の新岡さん
左が在日本ラオス協会会長のチャンナコン・チャンスッドさん。右から2番目が事務局長の新岡さん
ベトナム食材店「タンハー」は団地内のベトナムコミュニティーの中心的存在だ
ベトナム食材店「タンハー」は団地内のベトナムコミュニティーの中心的存在だ

 神奈川県・愛川町の山中を歩いていると、黄金の仏塔がこつぜんと現れる。傍らには寝釈迦(ねじゃか)だけでなく、ナーガ(蛇神の像)の姿まである。

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 隣接する建物に入ると、そこはまさに東南アジアだった。仏壇には、小さいが美しい金のご本尊が祀(まつ)られている。鮮やかなオレンジ色の袈裟(けさ)をまとったお坊さんが座る。巨大な銅鑼(どら)。四方の壁にはぐるりと、ブッダの一生を描いた絵物語が貼られている。おみくじもある。部屋の端のストーブだけが、温かいアジアではないことを示している。

 ここは在日本ラオス文化センターだ。日本に住むラオス人たちの心のよりどころとなっている。おもに日曜日、神奈川県を中心に日本各地に住むラオス人たちが集まってきて、世間話に花を咲かせる。

「これ食べてみてよ。おいしいよ」

 豚のひき肉をタピオカで包んだサクー・サイムーは、タイやラオスでは定番の甘いお菓子だ。日本に住んで20年以上になるというラオス人女性たちが、手作りしたものを持ち寄る。ときには文化センターのキッチンで本格的なラオス料理をつくったりもする。故郷の味をさかなに、話ははずむ。近所の寄り合いというか、親戚同士のつきあいというか、和んだ緩い空気が流れる。

 お寺に集まってくるラオス人の多くが、難民だ。ベトナム戦争、ポルポトの支配、ラオス内戦……インドシナが荒廃した時代、多くの人々が国を出ざるを得なかった。とりわけベトナムのボートピープルの姿は日本人にも衝撃を与えた。

「1980年から、日本は正式にインドシナ難民を受け入れるようになったんです。ラオス人では私が第1号」

 と語るのは、新岡史浩さん。ラオス名をレック・シンカムタンというが、いまは日本国籍を取得している。在日本ラオス協会の事務局長を務める。

「日本政府は当時、難民受け入れ機関として『アジア福祉教育財団』をつくりました。その傘下として、神奈川の大和市に『定住促進センター』があったのです。ここでは日本政府の支援で、日本語を3カ月勉強させてもらい、仕事も紹介してもらった。日本で生きる基盤をつくることができたのです」

 この大和を拠点に、たくさんのラオス人が巣立ち、自立していった。だからいまでも大和周辺の相模地方では、ラオス人がたくさん住んでいる。綾瀬、厚木、秦野、平塚……日本全体でおよそ2500人のラオス人が暮らすが、うち半数が神奈川在住だ。そんな彼らがどうしてもほしかったものが、お寺だ。

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