歴史上の人物を冷徹な目で見、推理小説で人の心の繊細な動きを考察し、特異な視点から真実を求めて行こうとする安吾には、競輪は、「八百長」によって支えられているものと映ったに違いなかったのである。
■ついに「八百長」を告訴する
さて、昭和26(1951)年9月16日、坂口安吾は、妻の三千代と友人である福田蘭堂を連れて伊東競輪場(現・伊東温泉競輪場)を訪ねた。
もちろん、「八百長」を観るためである。
第7回伊東競輪第一節第一日目の第12レース。
「ゴール前、内の中川に外の武田が猛然と追い込んできたが、前車輪一つの差が縮まらず、そのままゴール、──と安吾には見えた。ところが発表された着順は一、二着が逆であった」(『別冊新評 裸の文学史』)
安吾は、その日は黙って帰ったが、やはり釈然としなかったのだろう。
翌日、奥さんに写真判定のための写真を借りに行かせ、一着二着の写真がすり替えられたとして、9月20日に静岡県地方検察庁沼津支部に赴き、告訴状を提出する。
9月21日の毎日新聞には大きく「伊東競輪判定写真ごまかす 坂口安吾氏が告訴 “この目で見た不正” 一、二着背番号入替え」という見出しで報じられた。
9月21日の朝日新聞には次のように記されている。
「通産省では坂口氏の告訴を重視。同日直ちに自転車振興会石坂管理部長に真相調査を命じ問題の一、二着となった武田勝義、中川重彦両選手と小池静岡振興会理事長を二十一日招致することになり、同理事長の持っている同レースの判定写真の原板によって真相を究明するという」として、優勝した武田選手の談話も載せている。
「写真の通り一着の背番号『3』は私だ。ゴール前三十メートルで私は中川選手を抜いた。腰を下げない私の悪いクセもそのまま写っている。偽物写真をとろうとした事実もない」
はたして、真実はどうだったのか──。
9月22日、朝日新聞朝刊は「坂口氏の思い違い」という見出しで記事を載せる。
「坂口安吾氏の伊東競輪告訴事件について通産省車両部では、二十一日銀座の自転車連合会で小池静岡振興会理事長と武田勝義選手を呼び、告訴内容を調査、静岡振興会に不正の処置はなく、坂口氏の思い違いであると断定した」