「養母は骨盤カリエスという病で寝たきりになったので、日中は養父が養母の看病をし、私は農家さんに農作業を手伝いに行って、日々の食べ物を頂戴してくるという暮らしでした。山に登って山菜を取り、汁物に入れることもありましたっけ」
生活は、経済的にいつも困窮していた。でもだからこそ、絶望を認めてはいけない。認めれば、もっと深い絶望の谷に落ちて、這い上がれなくなる。小林さんはいつもそう、自分に暗示をかけていたという。
「とにかく、まず生きる。そんな気持ちがとても強かったのです」
小林さんが東京に戻ったのは20歳の時。子どもの頃から演劇の世界にあこがれを抱いていた小林さんは、舞台のメイクを手がける人間になりたいという夢を持ち続けていたのだ。昼は保険の外交員として働き、夜は美容専門学校へ。そして小林コーセー(現・コーセー)に入社する。
「夢を叶えるためには、組織で徹底的に技術を磨くことが大事だと考えたのです。昭和30年代はまだ一般の女性たちはお化粧をそんなにしない時代でしたからね。メイクを変えるだけでいかに顔の印象が変わるか、というのを店頭でたくさんのお客様のお顔にして差し上げて、私は自分の技術を磨いていきました。1日に50人くらいメイクしていた時期も」
その当時から小林さんのメイクの方針は、「自然な印象を生かす」ということだった。
「彫の深い欧米人のような顔に憧れる人たちも多かった時代ですけれど、元々の顔の造作が明らかに違うわけですから。自分が持っているものの状態を最大限いい状態にすることの方が大事だと思ったんですよ。これが、多くの女性たちに受け入れてもらえたようです」
化粧品の売り上げもダントツとなった小林さんは、東京本社勤務になる。そして結婚。29歳の時に長女も出産。30代になってようやく、すべてが上昇気流にのったかのように見えた。だが、小林さんの人生にはまたしても、とんでもないトラブルが降りかかる。
香港出張のため、夫が運転する車で空港に向かっていたところ、交差点で運転操作を誤ったトラックが車に激突。車は半分に押しつぶされ、小林さんの夫と妹は重傷で病院へ。