―――もともとは教員志望だったのですね。

 中学のとき社会の先生にあこがれて、教員になろうと千葉大の教育学部に進学したのです。大学卒業時に、“記念受験”のつもりだった新聞社からも内定が出て、新聞記者と教員のどちらを選んだらよいか迷ったときも、ゼミの先生に相談しました。「新聞記者に決まっているだろう」と即答でした。「実社会でもまれて、3年か5年くらいしてから教員を目指せばいい。逆はないぞ」と。3年か5年どころか、35年かかってしまいましたが(笑)。

―――芝浦工業大学柏を、どのような学校にしていきたいと思っていますか。

 本校は、建学の精神「創造性の開発と個性の発揮」そのものの、自由でのびのびした学校です。この校風は、これからの教育の理想であると思います。それをさらに推し進め、好奇心が旺盛で、自ら問いを立てて学ぶ生徒を育てていきたい。そのためには、先生の意識も変わらなければなりません。先生方には、生徒をリードするのではなくサポート役に徹してほしいとお願いしています。

 リーダーシップだけではなく、自分は何ができるかを考えて行動できるフォロワーシップも大事だと思っています。今年の3月に、法政大学大学院政策創造研究科で修士(政策学)を取得しました。社会人大学院で、授業にはいろいろなバックグラウンドを持った人たちが参加していたのですが、プロジェクト学習などで役割を分担すると、みなさん実にポジティブで「私はこれができます」と、すぐに決まるのです。そういう人が集まる組織は強いと思う。

―――大学院にも通われていたんですね。

 教育の視点から地方創生のことを考えられないかと。今、地方は衰退し、人口が減少し、大学は経営が厳しくなり、中高の統廃合も進んでいます。大学が地元で地域密着型の教育や研究を行えば、地場産業が生き残り、地元で働く人材の確保にもつながると考えました。

 両親が岐阜の田舎出身で、小学校から高校まで、夏休みと冬休みには丸々田舎の祖父母の家で過ごしていました。祖父の山で枝打ちをしたり、薪を焚きつけて風呂を沸かしたり、冬はつきをしたりしました。夏には肥を汲んで畑にまき、白菜の種をまきました。りっぱな白菜に育って、冬には祖母がそれで白菜漬けを作ってくれる。そんな豊かな経験をさせてくれた田舎がさびれていくのを見るのは悲しくて、何か恩返しができないかと思ったのがきっかけです。

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