撮影:初沢亜利
撮影:初沢亜利
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 新型コロナで一変した東京の人々の暮らしを記録した初沢さんの写真集『東京 二〇二〇、二〇二一』(徳間書店)が「林忠彦賞」を受賞した。

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 写真集を開くと複雑な思いがした。桜が満開の誰もいない上野公園、立ち入り禁止の黄色いテープが張られた公園の遊具、閑散としたJR山手線の駅のプラットホーム。当初、それは新型コロナ感染への恐怖が生み出した非日常の光景だった。ところが、マスクをする人々の姿はすっかり見慣れた日常の風景となってしまった。何の違和感も覚えない。それがこの2年間だったのだろう。

■東京が現場になった

 初沢さんがコロナ禍の東京にレンズを向けるようになったのは、ある意味、偶然だった。発端はオリンピックイヤーを迎える東京の、都市としての変化を写そうとしたことだった。

「そろそろ自分の拠点である東京をもう一回、撮ってみるべきでは、と思っていたんです。でも、なかなか重い腰が上がらなかったですね」と、初沢さんは語る。

 東京を撮るのは実に20年ぶり。2000年から1年半、東京新聞で連載したフォトエッセー「東京ポエジー」以来である。

 振り返ってみれば10年以降、北朝鮮、沖縄、東北の被災地と、「東京から見た日本の周縁をずっとたどってきた」。それは10年間にわたる長い旅のようでもあったという。

撮影:初沢亜利
撮影:初沢亜利

 ただ、しばらくぶりに東京を撮り始めてみたものの、目新しさがあるわけでもなく、見慣れた街を撮ることの難しさを実感した。

 20年2月まではウオーミングアップ期間だった。それを過ぎると、「だんだんアンテナが張れてきたというか、見えてきた。何があってもぱっと反応して、カメラを向けてシャッターを切ることに慣れてきた。東京が現場になってきた」。

■忍び寄る新型コロナへの恐怖

 撮影が体になじんできた20年2月19日、コロナ禍を実感する出来事があった。新型コロナの感染が船内で拡大し、横浜港に停泊していたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」を取材後、横浜中華街を訪れたときだった。

「ほとんど誰もいない異様な光景で、ショックを受けました。そのころはコロナ禍がどれくらい深刻化するか、まだ誰も分からなかった時期だった。新型コロナが中国・武漢から広まったらしいことと、連日報道されていたダイヤモンド・プリンセスのニュースが結びついて、中国人がいそうなこの街から人影が消えたのでしょう。横浜中華街が日本でいちばん最初にコロナ禍に直面したように感じました」

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まなざしは社会学的