撮影:新田樹
撮影:新田樹
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 新田さんが初めて「カレイスキー」のおばあさんたちと出会ったのは、旧ソ連崩壊から5年後、1996年春だった。

 ロシア・サハリンの州都ユジノサハリンスク(豊原)の街を歩いていると、日本語が耳に入った。

「日本の方ですか?」。新田さんは思わず声をかけた。「いいえ、私たちは戦争の前にここへ来た朝鮮人です」。

「単に日本語をしゃべれる、というより、おばあさんたちが日常的に日本語で会話していることがショックでした」

 その衝撃が彼女たちを撮影するいちばん大きな原動力となった、と新田さんは振り返る。

 終戦間際の45年8月8日、旧ソ連は日本領だった樺太(サハリン)南部に侵攻した。当時、そこには日本の民間人約38万人と、植民地だった朝鮮半島出身者が数万人いたといわれる。戦後、日本人の大半は引き揚げたが、朝鮮半島出身者とその配偶者である日本人はこの地を離れることはかなわなかった。彼らはロシア語で「カレイスキー」と呼ばれる。

 新田さんがバザール(市場)を訪れると、花を売っていたカレイスキーのおばあさんたちに日本語で話しかけられた。サハリンでの厳しい生活を打ち明けられた。その背景に日本が関わったことを思わずにはいられなかった。

「ホテルに帰った後、ほんとうにどうしようか、考えました。重い歴史の話を聞くということは、その人ときちんと向き合うことじゃないですか。でも、あのときは一歩も踏み込めなかった。自分にはその覚悟がなかったんです」

撮影:新田樹
撮影:新田樹

■福島で世界を感じさせたモスクワ放送

 67年、福島県会津若松市で生まれた新田さんが旧ソ連やロシアに憧れを抱くようになったきっかけは小学生のとき、祖父に買ってもらった赤いトランジスタラジオだった。不意にスピーカーから不思議な抑揚の声が流れてきた。「こちらはモスクワ放送局です」。それは海外向けに60言語以上の外国語放送をしていた旧ソ連の国営ラジオ局だった。福島から遠く離れた世界の存在を感じさせたモスクワ放送は新田少年の記憶に深く刻まれた。

 やがて新田さんは上京し、東京工芸大学で写真を学んだ。スタジオ勤務やアシスタントを経て96年に独立するとロシアへ旅立った。旧ソ連崩壊後、混乱の続くロシアを写すことを写真家としての最初の仕事にしたかった。「アシスタント時代にためたお金でやれることをやろうと」意気込んでいた。

 しかし、現実は厳しかった。

「最初のロシアは挫折でした。出国したとき、もう2度と来ないだろうな、と思いました。残念なことに、自分が掲げていた理想と、撮れたものがまるで違った」

 新田さんが撮りたかった写真とはどのようなものだったのか?

「今枝弘一さん。あんな写真が撮れればなと」、口にする。今枝さんは旧ソ連が崩壊する現場を驚くべき行動力で訪ね歩いた写真家だった。ペレストロイカ(改革)の影に生きる人々を写した作品は世界的にも優れたフォトルポルタージュとなった。

「でも、ぼくにはそこまでのガッツがなかった。ただ野良犬みたいに街をぶらぶらして写真を撮ることしかできなかった。サハリンのおばあさんたちに出会っても、それに取り組む粘りのようなものを持っていなかった」

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消えたカレイスキーのおばあさんたち