
■当時の情景が鮮やかに思い浮かぶ李富子さん
その後も新田さんはサハリンに通い続けた。気になる人がいた。金さんが亡くなったひと月後に出会った李富子さんだった。運命のつながりのようなものを感じた。
「富子さんはすごく記憶の解像度が高いというか、お話を聞いていると、当時の情景がぱっと思い浮かぶんです」
李さんはユジノサハリンスクの北40キロ、かつて内淵炭鉱のあった街、ブイコフに住んでいた。
朝鮮人の父とロシア人の母を持つ李さんは29年、樺太の北遠古丹(現サハリン・ポレチエ)で生まれた。歴史好きの李さんはこう語った。
<吉野山千本桜…鎌倉の八幡宮。靖国神社にも行ってみたいし、昔の楠木正成とか見たいから、それだったから日本に行きたかったわけさ。学校時代から、いずれは内地へ行ってこれ全部見ないばだめだって…>(同)
新田さんの作品には李さんの部屋に飾られたひな人形が写っている。
「このひな人形は私が日本から送ったものなんです。富子さんは気持ちのうえでは日本とすごく関わりが深いんですが、日本を訪れることは難しかった。何か懐かしい日本のものを部屋に置くことで気持ちが和めばなと」
李さんは訪れたことのない日本への望郷の念を述懐した。
<日本時代に生まれて、日本の学校出たから、やっぱり日本のほうに気持ちがあったべさね。日本の人がた、みんな引き揚げて行くのに、わちたちは行かれないから、モスクワの大使館(在モスクワ日本大使館)にも日本に行かせてくれって手紙を書いて送ったんですよ。そしたら日本人でないから行かれないって…>(同)

■コロナ禍で会えないうちに世を去った
新田さんはサハリンを訪れると、ユジノサハリンスクを拠点に各地を取材した。
「取材に行くたびに富子さんの家に立ち寄りました。お話を聞きに行くっていうか、お昼ちょっと前にうかがって、ご飯をごちそうになることが多かったです。写真も撮るんですけれど、取材っていう気持ちではなかった」
李さんは写真を撮ることをなかなか許してくれなかった。レンズをにらんでいる写真もある。
「『まーた撮ってる』って。写真って、撮られても気にしない方と、嫌だなと思われる方がいらっしゃいますが、富子さんは後者だったのでかなり苦労しました。ぼくは何げない写真を撮りたかったので、そういうところをねらった。それで、よくけんかというか、言い合いになったりしたんですけどね」と、新田さんは懐かしそうに話す。
最後に李さんに会ったのは18年。その後、20年3月にサハリンを訪れるつもりだったが、コロナ禍であきらめた。そして、李さんは昨年夏に亡くなった。
「いま思うと、あのとき無理してでも行っていればよかったな、と思いますね。容易には帰って来られなかったかもしれないですけれど」
コロナ禍で会えないうちに、写真を撮らせてもらったおばあさんたちが次々と世を去った。自分の作品が色あせて見え、もう全部やめてしまおうとも考えたこともあった。新田さんの不器用な生き方と彼女たちの姿が切なく重なる作品である。
(アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】新田樹写真展「続サハリン」
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