夫である幸弘は、絢のおなかの子どもが死産したという事実を義理の父・世彰に電話で伝えた時のことを鮮明に覚えている。
「その時、すまんと言った後、言葉が続きませんでした。私も絢も父に責任があるとは全く思っていませんし、その後、幸いにも私たち夫婦は次の命を授かることができました。それでも、父は今でも野村家のお墓に一人で手を合わせに行っていると聞いています」
世彰は後に自著『生涯投資家』の中でこう綴っている。
「病室で泣きじゃくる娘を見て、私は心がえぐられるような、言葉にできない悲しみと、自分の子どもであるがゆえこのような経験をさせてしまったのかもしれないという申し訳なさが湧き上がってきた」
失意のどん底から浮上するきっかけとなったのが、前出の大西が絢に紹介した駒崎弘樹(40)だった。駒崎は障害児保育事業を運営する認定NPO法人フローレンスの代表理事を務める。絢は自分の子どもを失ったことで、駒崎が手がける子どもや母親を取り巻く「目に見えない社会課題」を、本当の意味で解決する側に回りたいと思ったという。16年、絢は父が創立した村上財団の代表理事となる。
「確かに権力による理不尽な仕打ちなのですが、誰かを責めても呪っても、失われた命は戻らない。であるならば、社会の根本的な課題の解決に尽力している人を支援することで、私の気持ちも回復するかもしれないと思いました。絶対に被害者にはなりたくなかったのです」
8月のある日、絢の姿は東京・世田谷の保育園にあった。「障害児保育園ヘレン経堂」。ここは駒崎が新たに立ち上げた保育園で、障害を持つ子どもや日常的に医療介助が必要な「医療的ケア児」を長時間、預けることができる日本初の保育園だ。
通常、保育園では胃や腸に必要な栄養を直接注入する「経管栄養」や、痰などの異物をチューブを使って外部に吸引する「気管内吸引」を必要とする子どもの受け入れはしていない。こうした医療的ケア児の介助は資格を有する専門職員を雇うことが法律で定められている。では、病院などの療育施設はというと、子どもの受け入れはできても、保育園のように長時間、子どもを預かることはできない。結果、母親に就労の意思があっても、事実上、子どもの預け先がないので働くことができないのだ。「障害児は家庭で保育すべき」という社会の無言の圧力も母親を追い詰める。駒崎から話を聞いた絢は、ある思いがこみ上げてきたという。
「もしかしたら、死産した子も、障害を持って生まれてきていたかも知れない。そう思うと、自分に何ができるんだろうかと考えました。そして、全ての子どもと母親が生きやすい日本の社会を作ることを支援しようと思ったのです」