福岡市で6月末に行われた陸上日本選手権の男子100メートル決勝。1位サニブラウン、2位桐生、3位小池。9秒台の記録を持つ3人が表彰台に立った。当日は雨にもかかわらず1万人の観客がスタンドを埋めた(撮影/今祥雄)
福岡市で6月末に行われた陸上日本選手権の男子100メートル決勝。1位サニブラウン、2位桐生、3位小池。9秒台の記録を持つ3人が表彰台に立った。当日は雨にもかかわらず1万人の観客がスタンドを埋めた(撮影/今祥雄)

■高校で一躍有名人に 友人がさりげなくガード

 そんな桐生の言動が不思議だった。陸上短距離選手は、その競技の特性から哲学的な思考の選手が多い。伊東浩司(こうじ)(49)、朝原宣治(のぶはる)(47)、為末大(ためすえ・だい)(41)など日本陸上界をリードしてきた歴代の選手は、1000分の1秒を縮めるために筋肉の囁きに耳を澄ませ、鋼のような精神で自分を律し、身体以上に脳に汗をかいて技を磨いてきた。そんな姿から短距離走の選手は、「走る哲学者」と形容され、内省的な話題に触れることが多かった。

 一方の桐生は、陸上の話題は少なく話はあちこちに広がる。先日も目を輝かせながらこんなことを力説していた。

「今興味を持っているのは芸人の『千鳥』。話術が巧みなんです。僕はほとんどテレビを見ないので、何かしながらユーチューブで芸人さんたちの声だけ聞いているのですが、表情や仕草を見なくても、言葉だけで耳を傾けたくなるような人に惹かれますね。松本人志さんも面白い。僕は今、コミュニケーションスキルを磨きたいと思っているんですよ」

 陸上じゃないのかい!と突っ込みたくなるものの、気持ちいいほどの開けっ広げぶりは、桐生の魅力の一つでもある。オリコンが17年に調査した「好きなスポーツ選手ベスト10」に桐生が陸上選手では初めて男性部門の10位にランクイン。成績だけでなくこの明るさが、多くの人の心を掴んでいるのだろう。だが、屈託のない表情を手に入れるまで、実は心が千々に乱れるほどの艱難辛苦(かんなんしんく)を経験していた。

 京都・洛南高校3年生だった13年春、桐生は織田記念大会100メートル予選で、10秒01という歴代2位の記録をたたき出した。それまでの日本記録は1998年のアジア大会で伊東浩司が記録した10秒00。高校生が日本記録に僅差で迫ったため、桐生の名は一晩で全国区になった。学校や家にもメディアが押しかけ、街を歩けば見知らぬ人から声を掛けられた。実家のある滋賀県彦根市から京都まで往復3時間かけて通学していた桐生にとって、電車の中は貴重な睡眠時間。その時間が奪われつつあった。

「声を掛けられれば笑顔を返さなければいけない。まだ高校生だったから笑顔が引きつっていたかも。ただ、同じ滋賀から洛南に通っていた友人3人が、行き帰りにさりげなくガードしてくれたり、僕の名を違う名前で呼んだり気遣ってくれた。高校の先生や友人らも普段と同じように接してくれ、あの時はつくづくいい高校に入ったと思いました」

 一躍有名人になり、環境の変化に戸惑っただけではない。最も辛(つら)かったのは、試合のたびに漏れる観客席からのため息だった。高校3年夏のインターハイで100メートル、200メートルを大会新で制し、リレーでも勝ち高校3冠を達成しても、会場からは祝福よりため息が届いた。14年に日本選手権で優勝した時も同じ。桐生は、9秒98を記録した17年秋までの4年半、試合に出るたびに会場からのため息を聞くことになる。

「僕は“かけっこ”で常に一番でいたい。9秒98を出すまで、その間何十回と優勝しましたけど、喜んでもらえなかった。メディアの人には優勝しても『調子悪いんですか』と聞かれるし」

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