■試合の度に届くため息 大舞台で勝てない試練の時
桐生の心の乱れは、身近な人にも降りかかる。大学に入学して間もなく、「チーム桐生」コーチで東洋大学教授の土江寛裕(つちえ・ひろやす)(45)に「あなたは僕に9秒台を出させる自信がないのか」と食ってかかった。短距離選手としてアテネ五輪に出場し、早稲田大学大学院で走りに関する研究で博士号を取得した土江は、いわば理論派。科学的根拠のない数字は口に出せなかった。土江が言う。
「その頃の桐生は、大学の寮に入って環境が変わった上、9秒台への期待などにイライラしていた。でも、桐生に抗議され僕も目が覚めた。僕はそれまで理詰めで彼に接していたけど、桐生の感覚を大事にしようと思い直した。だって、桐生が足を踏み入れた世界を知っている人はいませんから」
練習を車に例えるなら、土江がハンドルを握るのではなく、桐生が運転席に座り自分は助手席で桐生のハンドル捌(さば)きを手伝うスタイルに変えた。
桐生はその頃、最も身近な人に当たるほど追いつめられていたと言える。世界のスプリント界は黒人選手の天下。そこに黄色人種が入り込む隙はないように見えた。事実、伊東が10秒00を記録して以来、身体を鍛え技を磨いた日本人アスリートが幾人も「10秒の壁」に挑戦し、その度にはね返される現実を見てきた私たちには、「やはり日本人は9秒台を出すのは無理なのか」と諦観すら漂っていた。それが15年後に高校生が最も近づいたとなれば、誰もがその歴史的瞬間を今か今かと待ちわびてしまう。だがそんな期待は鋭利な刃となって、桐生の心を切り裂いていたのだ。
陸上界からは「本番に弱い」の声も囁かれた。日本随一のスピードを持ちながら、日本選手権や世界選手権の大舞台ではなかなか勝てず、リオ五輪の100メートルでは予選で敗退。一方リレーでは屈指の速さを見せ、国際舞台で日本に多くのメダルをもたらした。桐生が述懐する。
「知らず知らずのうちに周りを気にしていたのかも。期待されるのは嬉しいんです。注目されるのも歓迎。ただ試合の度にため息が届くと、何か自分が悪いことでもしているような……今考えれば自縄自縛していたんです」
日本人初の9秒98は、その4年半にたまった心の澱(おり)を一瞬にして洗い流し、純朴な桐生の心根をむき出しにした。しかし桐生は、肝心の試合をよく覚えていないと笑う。
「僕は基本的に、試合が終わるとレース内容はすぐに忘れることにしているんです。その試合で終わりじゃないんで。9秒98を出してから取材をたくさん受け、メディアのみなさんからああだったこうだったと言われ、またビデオを見せられたりするので思い出すくらいです」
17年秋のインカレ(日本学生陸上競技対校選手権大会)。大学生最後の大会となる試合だったが、夏の世界選手権でハムストリングを痛め、1カ月近くトップスピードの練習をしていなかった。100メートル直前まで試合に出場するかどうか決めかねていた。だが、4年間の締めくくりを棄権で終わらせたくない、とスタート台に立った。