「由緒正しき三代目」の裏に
料亭のお座敷でのインタビューは2時間以上に及んだが、背広姿の尚二さんは、しっかりと背筋を伸ばし、真摯に答えてくれた。彼は現在日本料理店4店舗、食品販売店1店舗、合計5店舗を経営している。
今後、この店で船場吉兆を目指すのかと聞くと、尚二さんは考え込んだ。
「思いはあります。しかし、この店を船場吉兆のような料亭にするのは、無理ですわ。失ったものが計り知れませんから。『吉兆』を名乗るために必要な多くのものを、私は失ってしまいました」
確かに、船場吉兆は失われ、もう戻らない。では、尚二さんが得たものはなんだろう。それは、失ったものに匹敵する何かだろうか。先ほどから育ちの良さの陰に見え隠れしている、負けん気の強さを見てみたくなって聞いてみた。
「尚二さんにとって、船場吉兆の事件はあってよかったんじゃないですか?」
一瞬ののち、「由緒正しき料亭の三代目」の顔が崩れた。
「……何をおっしゃるんですか⁉ そんなん、あるわけないやないですか! 勘弁してくださいよ~」
大きくのけぞった拍子に、正座していた足が崩れた。しかし、手で胸を押さえ、急激に上がった息を整えていくうちに、尚二さんの目に強い光が戻っていく。
「確かに、そうですねえ……。あの事件がなかったら、おもしろ味に欠けた人生になっていたかもしれませんね」
老舗のプライドもブランド力も、働く場所すら失っても、両親や兄のように料理界から目を逸らさなかったのは、この負けん気の強さと商魂があったからかもしれない。
やはり気になる「ささやき女将」の現在
最後に、誰もが気になる「ささやき女将」、佐知子さんのいまについて聞いてみた。2019年に夫を亡くしたが、88歳になる現在でも病気もなく健康で、一人暮らしをしているのだという。
ささやき女将・佐知子さんとはどんな人かと聞いてみると、尚二さんは言いにくそうに「まあ……甘えん坊ですわ」と苦笑いを浮かべた。
「今は耳が遠くなって、もうささやくことはできませんが、気の強さは健在です。この間、ちょっと怪我して入院したんですが、入院すると身の回りのことをみんなやってもらえるでしょう? それが楽で、病院に居ついちゃって。病院の先生から、はよ帰ってくれって私のところに連絡が来ましてね、慌てて連れて帰ってきたんですわ」
佐知子さんは、筋金入りのお嬢様であり、最盛期の船場吉兆を切り盛りした敏腕女将でもある。かくしゃくとした小柄な母に、あれやこれやと振り回される尚二さんが目に浮かび、口元がほころんだ。これじゃ将来老老介護ですわ、と苦笑いする尚二さんはいま、数十年を経て、母・佐知子さんとの当たり前の親子関係を取り戻している。
(宮﨑 まきこ:フリーライター)
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