恥もプライドも捨てて…
自力で商売をしようと、大相撲大阪場所で佃煮の卸販売をしたこともある。原価200円の佃煮を300円で販売したが、「高すぎる」と言われ250円に値引きさせられた。ワンルームの狭い部屋で300個の佃煮をていねいに包装し、難波にある大阪府立体育会館まで届けた。
「うまくいかないんですよ、何をやっても。昔は『吉兆』のブランド力があり、バックヤードや舞台もそろっていたので、思ったことは大体形になりました。しかし、看板やブランドを失えば、こんなもんです。逆に、『船場吉兆の息子』というレッテルはいつまでもはがれなかった。生きていくには、料理の道しかなかったんです」
尚二さんは、外食業専門のコンサル会社を立ち上げた。社長も社員も尚二さんひとり。恥もプライドも捨てて、『船場吉兆』時代のつてを頼って挨拶回りをしていった。事件をきっかけに離れていく人もいれば、手を差し伸べてくれる人もいる。ひと月経ったころには、小さな仕事がぽつぽつと入り始めた。
「皆さん、私をなんとか引っ張り上げてやろうという思いだったのでしょう。だからこそ、できることを一生懸命やりました」
意外だったのは、当時の知り合いの多くが、尚二さんを好意的に受け入れてくれたことだった。
「情けない話ですが、あの『ささやき女将会見』のお陰で、私らのことを微笑ましく見てくれる人が多かったんです。命を取られへんかったから、まだ生きるチャンスがあると思えました」
もはや「吉兆の三代目」は通じない。泥臭く汗をかき、頭を下げる日々が2年ほど続いたある日、尚二さんに転機が訪れる。
運命の再会
ある日、知り合いの不動産会社から一本の電話を受けた。
「大阪の難波でお寿司屋さんが閉店するんやけど、湯木さん、誰か居抜きで継いでくれる人知らへん?」
飲食店のコンサルとして少しずつ顔を広めつつあった尚二さんに、誰か紹介してくれないかという相談だった。
「1週間くらい人に当たってみたんですが、該当者は見つかりませんでした。そこでとりあえず、不動産屋の知人と一緒にそのお寿司屋さんへ行ってみることにしたんです。そしたらなんと、その寿司屋の大将が古い知り合いやったんです」
寿司を握っていたのは、船場吉兆が健在だった頃、行きつけのワインバーでソムリエをしていた「西さん」だった。
――湯木さんがうらやましいです。僕本当はね、ずーっと飲食店をやりたかったんですわ。いつか、寿司屋でもやりたいなあって思ってるんですよ――
ソムリエだった西さんは、寿司職人になっていた。数年間店を続けたのち、「もう十分夢は叶った。今後は孫の面倒を見ながらゆっくり暮らしたい」と、店を居抜きで使ってくれる人を探していたのだ。そして西さんの一言が、尚二さんを「料理人」に引き戻すことになる。
「ここで飲食店やりませんか?湯木さんやったら、安く譲りまっせ」