
ミスタージャイアンツ、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが6月3日、肺炎のため亡くなった。享年89歳。昭和のプロ野球を代表するスターを偲んで、「プロ野球B級ニュース事件簿」シリーズ(日刊スポーツ出版)の著者であるライターの久保田龍雄氏に“忘れがたきミスター伝説”を振り返ってもらった。(文中敬称略)
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プロデビュー以来、連続試合フルイニング出場を続けていた長嶋茂雄の記録が途切れたのは入団2年目、1959年8月18日の阪神戦(後楽園)。この日の長嶋は、明らかにいつものミスターとは別人だった。
“異変”は、1回の打席で村山実のフォークを空振りした直後、尻餅をついたシーンから始まった。
1対3で迎えた6回の守りでは、吉田義男の三塁線への当たりを二塁打にしてしまい、三宅秀史の三塁右へのゴロも、ふだんなら簡単に処理できるはずなのに追いつけない。無死一、三塁から犠飛と長打で2点を失った。
さらにその裏、長嶋は無死一塁で三ゴロに倒れ、全力疾走にほど遠い緩慢な走りで併殺を取られてしまう。そして、ついに7回の守備から同期入団の難波昭二郎と交代し、ベンチに下がった。この瞬間、連続試合フルイニング出場は「220」でストップした。
試合後、長嶋は、前日多摩川グラウンドでスライディングの練習中に右足くるぶしを捻挫していたにもかかわらず、我慢して出場したことを明かした。
台風7号の襲来で、グラウンドの表面の土が流されて、コチコチになっていたため、別の場所から土を持ってきて練習したが、ホームスチールの練習の際に、右足がベースに届く前に土の柔らかい部分にめり込んで、痛めてしまったのだという。
「右足を痛めて全然動けなかった。何とか最後までやりたかったんだが、ダメだった。やはり初めから休んでおけば良かったかもしれない」。
トレーナーから「思い切ったプレーができるようになるには、1週間はかかる」と宣告された長嶋は、翌19日から4試合を欠場。同25日の中日戦でプロ初体験の代打として戦列復帰をはたしたが、さらに2試合を欠場し、スタメン復帰まで計11日を要した。
実は、このケガは練習中のアクシデントではなく、“遊び”が原因だったとする証言もある。筆者は長嶋の巨人監督復帰が決まった92年秋、前出の難波を取材した際にこの秘話を聞かされた。