「彼がケガして1週間ぐらい(試合を)休んだことがありました。あのときは『オレ、千葉の生まれだから、泳げないわけないじゃん。大阪(出身者)には負けないぜ』と言うので、高輪プリンスのプールで勝負することになったんです。それで、“よーいドン!”で飛び込んだら、すぐ足に肉離れを起こしてしまって……。上(球団)のほうへは言ってないです」。
確かに「水泳の勝負で足を痛めた」とありのままに報告できるものではないが、前出のスライディング練習の状況説明も細部にわたってリアルで、作り話には思えない。
スライディングの時点で足に違和感があったにもかかわらず、練習後に無理してプールで泳いだため、決定的に悪化させてしまったという推理も成り立つが、“真相”を知る者はすでにこの世にいない。
大学時代、「東の長嶋(立大)、西の難波(関大)」と並び称された大型三塁手・難波は、巨人では同じポジションゆえに長嶋の陰に隠れてしまったが、野球ファンの間では今でも“長嶋のライバル”として語り継がれている。
そのライバル関係について、難波は次のように回想していた。
「長嶋とは話も合って、年がら年中“今日はどこ行こうか?”と行動も一緒でした。谷川岳にスキー場ができたばかりのころ、グラビアの撮影で5日くらい滞在したんですが、彼は『オレにスキーやらしたら違うぜ』と言いながら、列車が清水トンネルを抜けて一面雪景色になったら、『こんな雪見たの初めてだよ』って面食らっていました。そんな(おおらかな)物の考え方や何事にも動じない性格はプロ向きでした。技術的にもアマチュア時代から彼のほうが数段上。それに比べて、僕はプロとしてやっていくには、ハングリーではなかった。でも、偶然同じ時期に長嶋がいて、今でも“ライバル”と言われて、比べられるのは、素敵なことじゃないかな。普通だったら“そんなのいたの?”ってなってもおかしくないところですからね」。
話は59年に戻る。長嶋がスタメンに復帰したのは、8月29日の国鉄戦(後楽園)。まだ右足は完治にほど遠い状態だった。