ガーデンパーティーでは、若手や外国人の教師と話し込む場面も多い。工藤が教師になりたてのころ、聖光では労使が対立し組織が停滞していた。当時を反面教師に教員との対話を重視している(写真/倉田貴志)

 当時、2学年下で聖光祭の運営委員を共に務め、現在は聖光の副校長である花家徹(66)は当時の工藤について「バイタリティーに溢(あふ)れていながら細かいことまでよく知っていて、みんなに仕事を割り振り引っ張るリーダーだった。今と少しも変わっていません」と語る。

 工藤は聖光卒業後、明治大学法学部に進学。教職課程を取り、教育実習で母校を訪れたのを機に、社会科の教員として聖光に戻った。

 クラス担任としてはまめに生徒や保護者と面談し、試験前には激励の電話をかけ、テストが満点だった生徒たちにステーキをおごった。高2、高3の時の担任が工藤だった20期生の河地茂行(60、東京医科大学主任教授)は「まだ先生も20代で、生徒と年齢も近くみんな兄貴のように慕っていた。人望はとても厚く、みんな困りごとを相談していました」と振り返る。

 河地は在学中に母親を病気で亡くしたが、工藤が葬儀に参列し、じっと自分を見ていたことをよく覚えている。医師を志した時も「向いているんじゃないか」と背中を押してもらうなど、人生の転機で支えてくれたという。

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 29期生で東大アメフト部監督の三沢英生(51)も、工藤を恩師と仰ぐ一人だ。「工藤先生は『愛』に溢れている」と熱く語った。三沢は「決して素行が良い生徒ではなかった」が、工藤の叱責は「仕方ない」と素直に受け入れられた。極め付きは受験前日、受験票を失くした三沢が慌ててそれを知らせると、工藤は対応に走り回ってくれた。結局、受験票は母親が神棚に置いたのを、失念しただけだったが。

「同じ話を何度も聞かされ『うるさいなあ』と思うこともありましたが、同時に愛情もひしひしと伝わってきた。それは今も私の中で生きていて、『愛』の大切さを学生に伝えています」

 一方で工藤は「高3の担任が学校の『最前線』であり、受験で結果を出せるかどうかが、学校の将来を左右する」という、自分の立場もよく理解していた。高3の担任を務めた時は、クラスの半数を現役で東大に合格させた実績もある。このときの合格者の中には三沢のほか、オイシックス・ラ・大地社長の高島宏平らもいた。

 工藤は長男としていずれは家業を継ぐつもりで、教師になってからも経営に関わっていた。三沢らを大学に送り出したのを節目に、教師を辞めようと考えていたところ、突然「事務長になってほしい」と打診される。財務や社会保険などの諸手続き、労働安全衛生などにも明るいことが、抜擢(ばってき)の理由だったようだ。

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