81歳の母の畑仕事を手伝うため、東京に住む林は2週間おきに愛知県の実家に通う。凝り性の父が広げた畑は150坪。「受け継いだ母が耕すのも大変。『これがしたい!』と思ったら、一直線の父でした」(林)(撮影/松永卓也)

 2003年に、F1の開発スタッフに抜擢(ばってき)される。その頃、レースは苦戦続きで、トヨタ本社から派遣された「空気の流れ」のエンジニアとして、林は翌年、ドイツに渡る。自分の提案が実戦のレースで採用されるなど実績も出し、チームの入賞も経験。苦手意識が強かった英語も克服する。

 帰国後は、量産車開発のマネジメントに携わる。各部門の専門職を束ねて一つの車をつくる、花形の部署だ。チーフエンジニアを補佐して既存車のモデルチェンジを統括。だが、数年経つと「自動車の作り方がだいたいわかってきた。社外の世界を覗(のぞ)いてみたい」と挑戦を渇望するようになる。

 その頃、転機が訪れる。孫正義が、自身の後継者を育成する「ソフトバンクアカデミア」を開講。11年から社外にも門戸を開いたのだ。林は、約1万人の中から、外部からの1期生として合格する。外部1期生は、現在LINEヤフーアカデミア学長の伊藤羊一、リンクトイン日本前代表の村上臣ら、そうそうたるメンバーが揃(そろ)う。

トヨタからソフトバンクへ Pepper開発で奮闘

 孫から毎回、経営課題や新事業のお題が出される。それを元に、孫の見守る中で受講生がプレゼン。受講生同士で評価し合う、勝ち抜き戦だ。

「アカデミアは『コミュニケーション道場』でした。だって、皆は自然体でパッとしゃべっても場を沸かせられるツワモノばかり。正直ビビります」

 林は、人と差別化するため、毎回、プレゼンの事前準備を周到にして、勝ち抜くプレゼンにするための方策を「考え倒した」。その結果、林は年度末の表彰で、初年度からグローバル部門の2位に選ばれる。その場で孫から声がかかった。

「きみ、来年からウチに来ないか」

 大勢が見守る中、林は「ハイ!」と即答した。

 外部1期生でコミュニケーションデザイナーの齋藤太郎(現dof代表)はいう。

「その瞬間、皆が『おおー!』とどよめいた。林さんだけご指名で、しかも天下のトヨタ様からベンチャーに行っちゃうんだ、みたいな。アカデミアからの転職第1号だったし、Pepper(ペッパー)プロジェクト自体が孫さんの肝いりだったから、世の中的にもエポックメイキングだったと思う」

 林は14年間勤めたトヨタを辞め、12年にソフトバンクに入社。東京で服飾専門家に全身コーディネートを頼み、初めてスーツをオーダーした。

「武装したんですよ。新橋の本社では、皆がスーツでしゅっとキメていた。そこに技術畑の僕が愛知から出てきて、『誰だよ、お前』みたいな空気が漂う中にポッと入る。そこでプロジェクトを率いなきゃならないっていう不安は大きかった」

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