「あの緑の、ほら、オレんちの裏側にある、夏になるとでっかいクワガタが捕れる、でも、ときどきマムシも出たりしておっかない、ほら、坂道だらけの、あれ」みたいな長い説明は「山」でいいわけでして、その前に私は「オレんち」の場所を知りません。
「山」という言葉から想起される山は人それぞれだとしても、「こういうのを山という」という最大公約数な概念は少なくとも共有されています。また違う山を見ても「山」だとわかります。このように言語は、応用可能な約束ごととして機能しています。「言語化できる」とは「共有できる」なのです。
運動はかなり性質が異なります。運動はまず言語化ができません。ホームランの打ち方を「サッとボールを視て、バットでズバッととらえれば、スコーンと場外まで飛んでいく」と説明されたとして、なんかリズミカルな感じは伝わってくるものの、それを発しているのは「スコーンと場外まで打球を飛ばせるスキルのある人」です。身体、構え方、視ている景色、積み上げた経験値はみんな違うので、「サッ」「ズバッ」「スコーン」に込められた運動は他者とは共有できません。初めてバットをもった人が自身なさげにバッターボックスに立って「ズバッ」と打っても、同じ運動が出てくることはないのです。ですから圧が強めの指導者に「こうやって、こうやれば、こうなるだろ!」と言われたとして、「あの、もってる材料が違うんで、僕の場合はそうならないんです」という返答は、基本的に正解となるわけです。
このように「言語化できない学習」は常に肉体性を伴うため、「共有できない」のです。そして言語化できないものは、そのレベルが向上すればするほど、「その人にしかできない」オリジナリティを帯びます。「言語化できる/できない」とは、「人から切り離せる/切り離せない」に近いともいえるでしょう。
言語化できる/できない学習 習得過程における両者の違い
それでは「言語化できる学習」と「言語化できない学習」には、その習得の過程においてどのような違いがあるでしょうか?
言語化できる学習は、記憶するときに顕在意識でとらえることができます。「何もせずに2次方程式を理解した」「朝起きたら突然、安土桃山時代に異常に詳しくなっていた」「一度も観たことない映画のセリフを全て暗記していた」ということが無いように、どこかで、情報に触れる、情報に向かう、内容を理解する、記憶する、そういった瞬間があります。