ここまで書けばもうお分かりだろう。
なぜ私がこんなに長々と罪の告白をしなければいけなかったのか。そう、私は本書『わかりやすさの罪』の解説の大役など務めるにふさわしくない人間なのである。「わかりやすさ」を糾弾するどころか、供給していたわけなのだから。もちろん、(自分の名誉のために付記するが)先述の知恵袋内討伐RPGは受験期限りですっかり飽きて辞めてるわけだが、そういう「わかりやすい」断定言葉だったりを無闇に放流していたことの記憶は消えないから、いずれにしても腹が据わらない。
「わかりやすさ」そのものに罪はない。だが、その効果を自覚しながら他人の感情の誘導灯として使ったり、物事の複雑さを無効化させるまやかしとして使うなら、罪とまでいわずとも邪(よこしま)だよねくらいの言葉は与えられてしかるべきだろう。いやはや、青春の愚行に時効はあるのだろうか。
その意味で、私にとって本書を読む時間は、すなわち自らの痛みと向き合わざるを得ない時間でもあった。そして、勝手に巻き込むわけではないが、多かれ少なかれそう感じている読者は多いのではないかとも推察する。なぜか。
本書の論旨は、「わかりやすさ」偏重社会に対する長い長い違和感の表明に尽きるだろう。今日のメディアのスタンスから、政治家の発言、タレントの胡散臭さにいたるまで私たちが無意識に感じている「なんかいやな感じ」を武田氏は見事な嗅覚でとらえ、曖昧になかったことにされてきた霊的なものの存在に、言葉によって輪郭を与えてしまう。我々読者は、その瞬間に、いずれもの違和感に心当たりを覚える。あたかも「それ私も言おうと思ってた」だなんて訳知り顔をしながら。
ところが、武田氏の真の凄み、と同時に恐ろしさはその先に待っている。本書を読み進めるうち、我々は社会に潜む違和感に対する解像度を加速度的にあげてゆく。それまではいい。楽しく知的な読書体験だ。自分を抑圧してきた不可視なものへの強気な姿勢も整ってくるだろう。NewsPicksにだって小粋なコメントを寄せてみたくなるかもしれない。が、ある閾値(いきち)を超えた時、その威勢の良さに暗い影が差す。