あれ、これ、私のことじゃね?
そう、武田氏が様々な角度から指摘する様々な欺瞞を、今度は自分自身のなかに感じ始めるのだ。これが先ほど私が述べた、自らの痛みと向き合わざるを得ない時間、の本意である。
例えば、本書の概要説明にはこんな一文が登場する。
「『どっち』?との問いに『どっちでもねーよ!』と答えたくなる機会があまりにも多い日々」
わかる。とてもよくわかる。私の場合はその活動柄、「ラッパーなの? ポッドキャスターなの?」との問いにやたら遭遇するわけだが、「いや、どっちもだろ」としか言いようがなくて回答に窮す。なぜ人はわざわざ区分したがるのだろうか。その度に不思議でならない。が、不思議だと毎回思っているくせに、別のシチュエーションになれば、今度は私が音楽活動をしている友人に「で、結局来年は何をやりたいの?」だなんて無邪気に問いただしていたりもするわけだから、ひとりの人間の倫理意識などまったく信用ならない。
あるいは、こんな一文も。
「注目され始めた物事に対して、すぐに意味を過剰に投与して現象化させようとする人への警戒心が足りないように思う」(19章 「偶然は自分のもの」より)
その通りだ。かつて、私の生き方に興味をもったという編集者から“スラッシャー”特集への出演をオファーされた時のこと。興味を持っていただけるうちが華とは思うが、その妙に浮わついた新概念で十把一絡(ひとからげ)にされるのは耐え難く、丁重にお断りをしたのを思い出す。生き方を見せるだけで持ち上げてもらえるなら、肩書を増やせば増やした者勝ちになる、そんな風潮にも賛同し難かった。余談だが、その特集で私と並んで出る予定だった“スラッシャー”著名人は、現在“パラレルキャリアワーカー”を名乗るインフルエンサーとなっているようである。嗚呼、スラッシャーよ、どこへ。
ことほど左様に、新しい現象をすぐにでっちあげようとする人への警戒心は強めた方がいい。それは自分の経験上疑いようがない。だが、では今度は、そんな私の、最新のTBSラジオ出演時の発言を引用してみる。