サービス利用当初は、はじめに無条件で付与される知恵コインを切り崩して、カテゴリーマスターに質問を投げかけていたのだが、無論その度に貯金は目減りしてゆく。ところが、その頃にはすっかり質問狂と化していた私を止められる者はもはや誰もいなかった。ほとんど物欲中毒者のそれと同じである。
そして、とうとう。とうとうその時はやってくる。初夏、受験の天王山を前に、私の知恵コインは底を突いた。知恵袋資本主義社会とてユートピアではない。原資を持たない者には容赦ない。私はその日限りで、質問の権利を失った。あれほど親しかったカテゴリーマスターたちが自分以外の誰かに優しくしている。それを遠くで眺めるしかなかった私の額に伝う汗を、夏の陽はよく照りつけた。私は、恋より先に嫉妬の感情をYahoo!知恵袋から教わっていた。
原資を集めるしかない。今までは使うばかりだった知恵コインを稼ぐにはどうしたらいいか。答えは明白だ。自分が回答者側にまわれば良いのだった。そうと決まれば話は早い。私は自分が答え得るカルチャージャンルや俗っぽいジャンルの質問を見つけては片っ端から回答していった。「次売れるバンドは?」「なぜプロ野球選手は女子アナと結婚するの?」「2ちゃんをみてる人についてどう思いますか?」。知恵袋内で量産される、玉石混淆のクソほどにくだらない質問を、資金のためと言い聞かせながら、感情を殺して次々と倒していった。
どう考えても、その時間で勉学に励んだほうがいいのだが、私の愚かさは底抜けだった。なんせ、そんなゲーム感覚の討伐を繰り返すうちに、件のカテゴリーマスターになってしまっていたのだから。愚か、というかその空虚さがむしろいじらしい。
そして、私はその回答行脚の過程で、ある傾向をつかんでいた。
断定は売れる。
とりわけ、論理を明示した断定はよく売れる。論理の妥当性如何を問わず、とにかくこの世界では強い言い切りに値段がつく。私はそれを理解しながら、知恵コインを稼ぎ続けていた。つまり、私は「わかりやすさ」の価値を齡17歳にして肌で覚えた人間なのである。