越前国守就任に至る十年間は、寒門の悲哀を実感したはずで、そうしたなかにあって、和歌に長じた式部丞の官職は、為時の名誉とするところだったのだろう。出仕後、彼女もそれを通称とした。「紫」については、諸説あるものの、当時宮中でも話題とされた以下の話が一般的とされる。
道長のブレーンの一人、公任が「あなかしこ、この辺に若紫やさぶらふ」といって、式部の局を訪れたとの話があり、それに由来するらしい。「若紫」は「源氏」の作者たる式部の別称の観もあったようで、それに因むという。他に「日本紀の御局」とも評され、中級ランクの女房ながら、好評を博していたらしい。
式部の出仕については、道長からの要請の結果だったとしても、彼の当該期の“文”への傾斜は注目に値する。「寛弘」段階の道長の文道への執着は強く、詩歌の作詠会のみでも、二十回前後に及んだという。『文選』『白氏文集』などのへの関心も強かったことが『御堂関白記』からもうかがえる。そうした権門のサロンに、式部の父為時は中級貴族として顔もだすこともあり、それが機縁となったらしい。
寛弘年間(一〇〇四〜一〇一一)は、後宮世界で式部が彰子に仕えた期間に重なる。そして、道長もまた四十歳代の絶頂期であり、両者の間で時間の共有がなされた段階だった。式部一家にとっても、末弟の惟規が蔵人に任ぜられたり(寛弘四年)、前年には父為時が東三条第の花見の宴に列席したり、さらに式部自身についても『源氏物語』が話題となるなどの時期だった。彼女の三十代後半の頃のことだ。前述の公任が式部の局を訪れたのも、寛弘五年(一〇〇八)の、この時期のことだった。