彼は多くの辞典類を参ずると、賀茂祭での舞人を務めるなどの経験も豊かで、中級官人の典型でもあった。その点では和歌を詠じ、道長以下の権門とのチャンネルを有する中級貴族なりの“貴族道”の体現者だった。そんな文人にして芸術家肌の気質に、彼女は反応したのかもしれない。型にとらわれない自由な字面も、そうした気質が垣間見られそうだ。受領任官にともなう都鄙往還の経験も共通する。年長者ならではの信頼感が、彼女の“雪融け”をうながした可能性は否定できない。

 結婚後、両人には娘賢子が誕生する。式部にとって、妻として母として最良の時節が訪れた。宣孝も「宇佐使」や「平野使」の勅使を勤めるなど、多忙を極めた。権門の道長にも信頼されたようで、“使える貴族“として活躍した。けれども幸せは長くは続かなかった。所労も重なったためか、長徳三年(一〇〇一)四月、宣孝は死去する。式部三十二歳の頃だった。

宮中への出仕─三十代後半

 夫宣孝死去の数年後、彼女は宮中へと出仕する。寛弘二年(一〇〇五)、三十六歳の頃だ。出仕する直前に内裏が焼失、一条天皇及び彰子は道長の東三条殿に遷っており、式部はここに出仕した。その後、一条内裏へと皇居が移り、式部の生活もここが拠点となる。彼女が仕えた中宮彰子が一条天皇に中宮として入内したのは、六年前のことだ。

 彰子は式部出仕の二年後に皇子敦成親王(後一条天皇)が誕生。すでに皇后定子は没しており、彰子は天皇との間に第一皇子敦成、続いて翌年にも敦良親王(後朱雀天皇)が誕生し、道長の外戚の立場は盤石さを加えていた。

 ちなみに『源氏物語』の起筆は式部の出仕以前のこととされる。諸説あるなかでも、宣孝の死去後程ない時期とされている。彼女にとって、宣孝の死が筆を執る契機となったようだ。多感な彼女が多様な経験をした三十歳前半は、『源氏物語』執筆の契機も潜んでいたのかもしれない。その辺りは定かではない。実名を香子との指摘もあるが、詳細は不明だ。出仕の当初は「藤式部」を名乗った。女房名は一般的に父祖や夫の官職を付すことが慣わしとされる。「式部」はいうまでもなく、父為時の「式部丞」に因む。

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紫式部の紫は「若紫」からか