藤原道長と紫式部は“権門”と“寒門”と身分は異なれど、四歳ほどの年齢差で同じ世代を生きた。道長は、光源氏のモデルとも目されているほど「貴族道」を体現した人物だ。そして光源氏を生み出した紫式部も、宮廷という小宇宙にあって「女房」世界を象徴した。彼らの接点は「貴族道」と「女房」という王朝時代に特化されるべき局面での出会いにあった。紫式部が道長の娘彰子のもとに出仕したのは、寛弘二年(一〇〇五)の三十代も半ばの頃とされている。「かりに道長と式部に色恋沙汰があったとすれば、権門と寒門の化学変化の表れともいえなくもない。」と歴史学者の関幸彦氏は言う。同氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、関氏の考える藤原道長と紫式部の関係性について紹介する。
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「長保」の年号は、式部の三十代前半に重なる。越前から単身都に戻った式部は、ほどなく当時山城守に任ぜられた宣孝と結ばれる。「長徳の大疫癘」もこの時期には下火になりつつも、不安は続いた。そうしたなかで長保二年(一〇〇〇)十二月、一条天皇の皇后定子が没した。一方、その前年には道長の娘彰子が入内しており、道長の順風と式部の幸福な一時期とが重なるようでもある。ただし、宣孝との結婚は二年ほどで終わりをむかえる。文字通り、死が二人を分かつことになる。
宣孝は再婚でもあり、式部との年齢差はそれなりにあったという。その出自は藤原北家高藤流に属した。両人は血縁的には無関係ではなく、式部の祖父雅正の妻方の流れに宣孝は属した。いわば遠い「いとこ」になる。『尊卑分脈』その他によれば、備後・周防・山城・筑前の国守を歴任、その家系も典型的な受領クラスに位置した。
『石清水文書』には、大宰少弐時代の正暦三年九月に宣孝本人の署名が見えている。宣孝は二年前に筑前守に任ぜられていたが、その字面は必ずしも端正ではない。何とも遍と旁が整わない、アンバランスな感じだ。“字は体を現わす”の喩でいえば、器用なタイプではなさそうだ。