在日韓国人の「兄貴」との付き合いでわいた疑問
知人の連帯保証人になって大借金を負ってしまったのもこのころだ。家業の手伝いだけでは間に合わず、自動車運転代行業も始めた。昼は鉄工所で汗をかき、夜は酔漢を乗せて車を走らせる。先行きの見えない苦しい時代だった。
ふとある日、近所に高級車が止まっている家を見つけた。「あれは誰の家?」と訊(たず)ねると、両親は答えずに「村山の息子だといえばわかるよ」という。夜に居酒屋でその家の人に「村山の息子です」と挨拶すると、ひどく驚かれた。
その人物は在日韓国人で、すでに亡くなっていた村山の12歳年上の兄の友人だった。よく村山の家にも遊びにきていたという。
「自分たち在日の子どもが遊びに行っても、他の友だちの家は中にも入れてもらえなかった。でもお前の家だけは上がらせてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、よくしてもらったよ」
彼はそう言って懐かしんだ。それは恐らくさまざまな国の人間の出入りを許していた父親、民生委員だった母親の気質だったのだろう。彼はそれから以降、「飲みに行こうよ。トシちゃんは煙草(たばこ)とライターだけ持ってくればいいよ」としばしば誘ってくれた。村山も彼のことを「兄貴」と慕うようになる。80年代後半、外国人登録証明書に指紋を押捺させる制度が、「まるで犯罪者扱いではないか」と反対運動が全国に広がっていた。村山もその抗議運動で東京・霞が関でのデモに参加している(現在この制度は廃止)。
「同じ町内で暮らしているのに、日本人とそれ以外って区別するのはおかしいんじゃないか。みんな助け合って暮らしていけばいいのに」
「兄貴」との付き合いの中で、そんな極めて素朴な疑問が村山の中にわき起こる。「外国籍の住民でも等しく町で暮らしていくべき」。本や教室で学んだ理念ではなく、過去の体験からくる信念である。信念だから叩かれてもへこたれない。
1997年、34歳のときに大泉町議会議員に初当選。以後、町議選を重ねるごとに当選順位を上げていき、議長就任。そのころには支援者も増えて、13年に町長になった。17年に施行した「人権擁護条例」についてこう説明する。