とにかくどこでも人気。町内のブラジルレストランで、他県に住む日系ペルー人たちから「町長さん?」と声をかけられた。口コミで評判が広がっているらしい(撮影/今村拓馬)

自由奔放な青年時代を送り 高校も大学も中退した

 もちろん賛否両論ある。だが政策の是非の前に不思議なのが、本人のキャラクターとやっていることのギャップである。冒頭の発言のように相当にフランクで、その人生も順風満帆とは言い難い。彼はいったい、どのような経緯で現在の政治姿勢に至ったのだろうか。

 村山は1962年に大泉町で鉄工所を営む家に生まれた。父親は特攻隊帰りで、終戦は特攻隊の出撃基地があった鹿児島県・知覧で迎えたという。

「父親は非常に厳格な人で、愛情を受けたという記憶がありません」

 と、村山はいう。一方、母親は地元で長く民生委員を務めており、世話好きで優しい人だったらしい。

 ちなみに大泉町は戦前・戦時中と「ゼロ戦」で有名な中島飛行機の工場があった。現在も大泉町に味の素、スバル、パナソニック(旧・三洋電機)などの大規模工場があるのは、そのなごりである。

 そうとう自由奔放な青年期だった。地元高校に進学し、2年生のときに「学校内の代表取締役に就任しました」。しかし修学旅行の2日前に「旅先でトラブルを起こしかねないから」と校長らに頼まれて退学。そのまま町内で住み込みのアルバイトをして暮らしていたが、当時付き合っていた彼女の父親から「高校も出てない奴と娘を付き合いさせられない」と言い放たれて、私立高校の2年生に編入。そこは無事卒業して北海道の大学に進学するが、大都会・札幌の街は村山青年には刺激が強すぎた。勉学に身を入れることができず、ここも2年生で中退。さすがにすぐ地元に帰れず、成田空港内にある貨物の管理会社で2年間働いた。

 23歳のときにようやく地元に戻り、実家の鉄工所を手伝い始める。このころ、村山は自分には冷たい父親のもうひとつの顔を知る。

「家にどこの国出身かわからない人がしょっちゅう来て、飯を食っていくんですよ。父も嬉しそうに相手してね。なぜ父がそういう人たちに親切にしていたのかわからないですけれどね」

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