
「智貴の才能はすごかったですね。周りと全然違って、作品も独創的でカッコ良かったです。ふだんは天然ボケというか明るくて、たまに鋭いツッコミをする感じ。読書家でいろいろ教えてくれ、考え方が面白いんです。やりたいことがはっきりしていて、妥協しない。手も人一倍動くし、私がドレスのフリルに苦戦していたら、智貴は『やってあげる!』と可愛いフリルをつけてくれました」
高3の頃、小泉は高校生のためのファッションコンテストに応募。生地から染めたグレーとネオンイエローのグラデーションのドレスで入賞した。
美大でデザインを学びたかったが、私立は学費が高くてあきらめ、実家から通える国立の千葉大学で美術教育を専攻。サークルで服を作り、知人のスタイリストを手伝い始めた。モデルや歌手の衣装を手がける現場は刺激的で、エンターテインメントの世界で仕事をしたいと思うようになった。
「就活サイトも登録したけれど、高校時代に付き合った大学生が読んでいた『絶対内定』という本があり、自分の生き方を自己分析したらサラリーマンは向いてなかった。リーマンショックで大企業も潰れるのを見て、安定などないと思い、スタイリストのアシスタントになろうと決めました」
そんなとき思いがけないチャンスが訪れた。自分が作った服を友だちに着せてクラブへ行くと、スナップ写真が雑誌に載った。大胆な配色でヘビ柄を組み合わせたボディーコンシャスなワンピース。それを見た原宿のセレクトショップから連絡があり、店に置いてもらえることになったのだ。
大学4年の6月、小泉は自身のブランド「トモコイズミ」を立ち上げた。衣装の仕事も受けるようになり、当初は技術も伴わないので洋裁本などで学びながら、制作をこなしていく。駆け出しの頃は理不尽な扱いに悔しい思いもしたが、「ムカつく、クソッ!」と、逆に火がついた。
ガガやサラ・マイノと世界が注目をはじめる
スパンコールやメタリックな素材を使い、斬新な工夫をこらす衣装の仕事。一方で、小泉は自分をよりアピールできるものは何かを模索していた。
「SNSの時代は人が一つのものに向ける興味が分散するじゃないですか。いろんなことを少しずつやっていてもあまり意味がない。一つのことに特化して、得意分野がはっきりわかるデザイナーというのが生き残るための方法なのかなと思って」
ある日、小泉はサンプル作りのために、東京・日暮里の生地店を訪れる。そこで数多くの色が揃う安価なポリエステルオーガンジーを見つけた。軽くて柔らかで、色もきれいなオーガンジーを使ってみたいと思う。フリルをいろいろ試作する中で、独自の「ラッフルドレス」にたどり着く。
世界的に認知されるきっかけになったのが、16年にレディー・ガガが来日したときのこと。音楽業界の友人から、ガガのスタイリストが面白いデザイナーを探していると連絡があった。小泉がラッフルドレスを数点預けたところ、その1点がガガの目に留まる。彼女が小泉のドレスを着た写真をインスタに載せたことで、大きな話題を呼んだ。