国内でもトップクラスのアーティストの衣装を手がけ、仕事は拡大するが、葛藤も生じていく。アイドルグループの衣装を一手に受けたときだ。
「同じものを大量に作るのは充実感がなく、ずっとやっていても満足できないだろうと気づいたんです。自分が求めるのはお金や規模じゃないと」
もっと広い世界へ出て、好きな人たちと仕事をしたい――。その足掛かりになったのは18年秋、東京コレクションで「VOGUE」イタリアが若手デザイナーを発掘するプロジェクトを行い、副編集長のサラ・マイノにプレゼンできる機会があった。サラは小泉の作品をインスタに載せ、海外のデザイナーや女優などフォロワーが増えていく。
ドレスの量産はしない、一着ずつ心を込めて作る
かたや日本のファッション界では、「何をしたいのかわからない」と酷評する人たちもいた。見返してやりたいと奮起した小泉は、翌年1月に十二単のような巨大なラッフルドレスを制作。そのドレスがさらに信じがたい幸運を招いたのだ。
深夜、一通の英文メールが届いた。「一緒にファッションショーをしましょう」。世界的なスタイリストで「LOVE」マガジン編集長のケイティ・グランドからのメッセージだった。ケイティはインスタで小泉のドレスを知り、すぐに連絡をしてきたという。「何ルック、用意できる?」と聞かれ、「20着くらいかな」。「OK」と、わずか数分のチャットでの約束だった。
本当なのか……と半信半疑ながらも、翌日からドレスを作り、手持ちの服も集めて3週間後にニューヨークへ送った。小泉は予定もわからぬまま妹と渡米し、ケイティらと対面する。ケイティは小泉のショーのために、一流のヘアスタイリストやメイクアップアーティストを揃えて待っていた。
「うわっ、ヤバイな、と思いつつ、驚いている暇もなく準備が始まって……」
19年2月のNYファッションウィーク初日。小泉はマディソンアベニューの「マーク ジェイコブス」の店で初のショーを開催。人気モデルやセレブリティーが、カラフルなドレスでランウェーを彩った。アメリカでは無名だった小泉は海外メディアで取りあげられ、一夜にしてモード界の注目の的に。「シンデレラボーイ」と称賛された。
「あれだけのダイナミックさと美しさを迷いなく表現できるのは、若い子では稀な才能でしょう」
NYで小泉のショーを観ていたのは、コミュニケーションエージェンシー代表でマーク ジェイコブスのPRを担う内田メグだ。長年、海外のラグジュアリーブランドと関わり、若手デザイナーの支援をしてきた内田は、小泉に期待を寄せる。
「日本で評価され、海外へ飛び出して成功したデザイナーはたくさんいますけれど、彼の場合は世界で評価されて自分の道を切り開きました。最初からグローバルに活躍し、誰に対しても垣根がない。ボーダーレスの象徴でもあると思います」