浸水直前の自宅の様子

 幸いにも自宅は町の端にあり、まだ水は来ていなかった。家族は普段通りの朝を過ごしており、母はお化粧の最中だったという。

「何メートルもの高さに水が来てるで!」

 スマホの写真を見せて避難を促したが、家族は相変わらず「ここには来んよ」の一点張り。

 丸畑さんは一度、自宅を出て近くを車で走り、さらに浸水地域が広がっていることを確認して写真に収め、再び自宅に戻った。

「ホンマや……」。母と弟は、その写真を見て水が近づいてきていることを悟り、ようやく避難を決断。丸畑さんが車で送った。

 午前10時ごろ、自宅に戻ると、すでに水が周囲に流れ込んできていた。丸畑さんは水の中をじゃぶじゃぶと歩き、家に入った。

 だが……。

 父はまったく動かない。その場面が冒頭のやり取りである。

水が床下に達してようやく

 切迫した口調で、必死に逃げようと諭す息子に対し、父は耳を貸そうともしない。うんざりした表情で、自宅は標高何メートルに位置しているから安全だとか、独自の「知見」を盾に抵抗を続け、堂々巡りが続いた。

「水が勢いよく流れ込むといった状況ではなく、じわじわと水かさが増していったんです。変化がゆっくりだったことも、父が危機感を抱けなかった一因だと思います」(丸畑さん)

 そんな父がやっと観念したのは、水が床下に達した時だった。

 丸畑さんの父は当時、50代後半。頑固な性格だが、災害への危機意識が低い人ではなかったという。

「この地域は台風被害がめったにありませんが、父は、ちょっとした風でも物が飛んだら危ないからと、家の周りに置いているものを全部、屋内に移動させるような人でした。面倒くさい人だと思ったこともあるほどです」と丸畑さんは語る。

 なぜ、そんな丸畑さんの父が、正常性バイアスに陥ってしまったのか。

 災害心理に詳しい関西大学社会安全学部の元吉忠寛教授によると、人間はそもそも、自分の考えと事実が違うときに不快感を覚える「認知的不協和」の状態を嫌う性質があるという。

 災害時での「認知的不協和」を分かりやすく言えば、普段は「危険な目にあうのは嫌だ」と考えているのに、現実には危険が迫ってしまっている状況である。

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「見えない危険」に対し逃げようと判断する心の仕組みを持っていない