維新後まもなく、公望は邸内に家塾立命館を創始したが、塾名が当時、危険思想として禁じられていた『孟子』からとったものであったため、新政府に警戒され一年足らずで廃止された。立命館大学の前身京都法政学校が創立されるのは、これより約三十年後のことである。
明治四年(一八七一)、フランスに留学した公望は、以後十年間、パリで法律や西欧文化を学び、クレマンソーやガンベッタなどの政治家とも交流した。帰国後、留学中に知り合った中江兆民と『東洋自由新聞』を創刊し社長となったが、まもなく「華族にふさわしくない」という理由で、右大臣岩倉具視や実兄の徳大寺実則らの圧力を受けて辞職させられる。
同十四年、公望は法律の制定・審査にかかわる参事院の議官補となり、議長の伊藤博文とともに憲法調査のためにヨーロッパに派遣された。この視察旅行が、公望と伊藤を接近させるきっかけとなった。その後、オーストリア・ドイツ・ベルギー公使、貴族院副議長・枢密顧問官をへて、同二十七年、第二次伊藤内閣の文部大臣に任じられた。公望は大和魂を唱えて世界の大勢を見ない日本の教育の現状を批判した。そのため、教育勅語の示す国家主義と相いれないと批判を浴びたが、公望はひるまずに教育改革や英語の普及を説いたという。