大正五年(一九一六)、公望は山縣有朋の推薦により元老に列せられる。元老は後継首相の推薦、外交問題への参画などを行う国政の最高顧問で、公望は薩長藩閥以外で初の就任となった。同八年にはパリ講和会議の首席全権委員として渡欧。同十三年、松方正義の死によって元老は公望一人となり、以後「最後の元老」として後継首相の指名権を握った。公望の別邸である興津の坐漁荘には、彼の意向を聞くために政府要人が足しげく訪れたという。
元老としての公望はリベラルな姿勢を貫き、政党内閣の全盛期を支えた。しかし、公望が推薦した犬養毅首相が五・一五事件で暗殺された後、軍部の突出をおさえられず、元老としての影響力は低下。そして、神武天皇即位から二千六百年にあたる年、国体思想が高揚していく中、日本の行くすえを案じながら満九十歳で世を去った。