翌年、公望は外務大臣臨時代理に就任。日清戦争では外務大臣の陸奥宗光を助けて戦後処理にあたり、遼東半島還付条約で報奨金三千万両を確保した。当時の閣僚で公望が評価していたのは陸奥だけで、ほかは「愚物ばかりだった」と回想している。

明治最後の総理大臣

 同三十三年、伊藤は安定した国会運営を行うため、公望や原敬らと立憲政友会を結成。同年、第四次伊藤内閣が発足したが、伊藤は療養中だったため、公望が内閣総理大臣臨時代理を務めた。三年後、伊藤に代わって立憲政友会総裁となり、日露戦争終結後の同三十九年、桂太郎の後をうけて総理大臣に就任する。明治に藤原氏がふたたび政界の頂点に立ったのである。

 しかし、第一次西園寺内閣は政友会の閣僚が少なく権力基盤は脆弱で、社会主義者の取り締まりの失敗や公望自身の健康上の問題もあり、二年で第二次桂太郎内閣に政権を譲った。公望と桂が交互に政権を担当した十年ほどの期間を「桂園時代」と呼ぶ。

 同四十四年、桂太郎の推薦により組閣した第二次西園寺内閣は、第一次に比べ政友会員が増えたが、閣僚との関係は円滑ではなかった。翌年、上原勇作陸軍大臣が二個師団の増設を提議していれられず辞任したのが引き金となり、第二次西園寺内閣は総辞職した。折しも明治天皇が崩御した直後であり、公望は明治時代最後の総理大臣となった。

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国政の最高顧問”元老”に就任