浮沈を繰り返しながらも、千三百年以上にわたってしたたかに生き抜いてきた藤原氏。平安時代、摂関政治全盛期の栄光を取り戻すかのように、明治時代に藤原氏がふたたび政界の頂点に立った。明治最後の総理大臣である西園寺公望を取り上げる。『藤原氏の1300年 超名門一族で読み解く日本史』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
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公使として国際経験をつむ
西園寺家は鎌倉時代に関東申次を世襲した清華家の名門である。公望は徳大寺公純(鷹司輔煕の子)の次男で、幼少時に西園寺師季の養子となった。公望は皇別摂家である鷹司家の血を引いており、三歳年下の明治天皇と同じ閑院宮家の流れをくむ貴公子であった。
王政復古で参与となり、戊辰戦争では山陰道鎮撫総督として佐幕派の多い山陰の諸藩の鎮定にあたる。薩長が幕府軍に敗れた場合に備え、天皇の退路を確保するのが目的であった。山陰平定後は会津・北越戦線に向かい、自ら鉄砲を携えて河井継之助率いる長岡藩と戦った。公望はこの頃から洋服を着ており、出兵前、洋装で参内して大原重徳に叱られた。公望は「今後一年で朝廷でも洋服を着るようになる」と断言し、五十歳年長の大原を撃退したという。