
人間の人格ができるのは14歳くらいと言われていて、14歳の唯円は人間の原型でもある。では対する親鸞はどうか。唯円とは違って、先生として振る舞っています。でもそれは成長じゃなくて、役割を演じているんじゃないのかな。14歳の弟子を前にして、親鸞は先生の役を演じる。でも、親鸞も法然の前では14歳の少年だったんじゃないか。一人の無垢な少年が全力で何かを求める。そしてそれに応える。人と人とのそういう、根源的な関係を描いたのが『歎異抄』だったと思います」
『歎異抄』が書かれた700年以上も前の日本の宗教者たちの内紛を思うと、パレスチナを筆頭として、いまも世界中で起こっている宗教間の争いが思い浮かぶ。
「宗教的熱情で暴走することはどの時代にもありました。いまも変わらない。『歎異抄』の時代は、戦乱と飢餓と天災という大変な世の中でしたが、いまだって戦争と災害の時代です」

歎異抄を読む意味は
再びめぐってきた混沌の時代。改めていまの時代に『歎異抄』を読むことの意味とは。
「どの時代でも、その時代の人間は目の前のことしか見ていない。それだけではなく、その先を見通すような深い思考が必要です。いまの作家は書くそばから消費される運命にある。その瞬間に面白いと思ってもらえることを求められています。だが、それだけでは、その先を見通すような思考は生まれない。では、どうすればいいのか。『歎異抄』には、そのための知恵が書かれていると思います」
最後に、14歳の普通の少年・唯円という語り手以外にもある本書の特長を挙げたい。「親鸞」「唯円」「浄土」といった漢字をあえて「シンラン」「ユイエン」「ジョウド」とカタカナで表記しているのだ。
「いままで読んできたたくさんの『親鸞』と区別するためにぼくが読んだぼくの『親鸞』という意味で『シンラン』にしました。でも、そもそも字が難しすぎますよね(笑)。まるで記号。字面だけでイヤになる人もいるかもしれないのでね」
こうして、これまで誰も読んだことがない『歎異抄』は誕生した。
「これはあくまで、ぼくがこう読んだという本です。でもそういうあり方自体が、実は極めて親鸞的なんだと思います。親鸞は突き詰めたあげく、宗教に必要な要素をほとんど全部捨ててしまいました。そして、もっと自由になれと言ったんです」
(編集部・三島恵美子)
※AERA 2023年11月27日号より抜粋